理論物理学教程の概要

理論物理学教程は、全10巻からなり、 40年以上の年月をかけ1979年に最終巻の刊行を持って一応の完結を見ました。その後リフシッツの逝去の1985年まで改版が行われています。現在のところ、これ以上の改定が行われるかどうかは定かではありません。原書はもちろんロシア語ですが、英訳がもともとはPergamon Press から出版されていたのが、Butterworth Heinemannから再販されています。邦訳は、一部のものが岩波書店 から、残りの大部分は東京図書から出版されていますが、東京図書からでているものは多くが絶版になっています。また、仮に手に入れたとしても、一部の巻では底本が古い版を使っているので注意が必要です。なお、1980年代後半に、東京図書から「流体力学」と「電気力学」の新版への改定予定が伝えられたという未確認情報がありますが、その後出版されたという話は聞きません。以下では、各巻ごとに簡単な内容紹介を行います(基本的に、最新版の英訳または邦訳を元にしています)。

・第1巻 「力学(第3版)」

最小作用の原理の導入に始まる解析力学を扱う巻です。邦訳も手に入りやすいので、入門用として最適です。理論物理学教程が肌に合うかどうかの試金石でもあります。個人的に、もっとも感動した箇所はポワソン括弧の正準不変性の証明で、物理的直感に訴えるという意味では鳥肌が立つようでした。途中の振動の理論や、剛体の理論は応用に近いので、特に興味が無ければ読み飛ばしてハミルトン形式の章にさっさと読み進めることもできるでしょう。

・第2巻 「場の古典論(第6版)」

特殊相対論と一般相対論を扱います。すなわち、場の理論としての題材は、古典電磁場と重力場になります。電磁場の扱いは真空中のそれに限られますが放射理論の古典論を中心に扱われています。特殊相対論と一般相対論の導入はすばらしく名著の誉れも高いようです。一方、電磁場の取り扱いは初学者にはとっつきにくいのですが、少なくとも他の本または講義で一通り勉強した後に読むと、感銘深いものがあります。途中の計算には長く単調なものは大幅に省略されているのがある一方で、一部の計算ではあまり、他ではお目にかからないテクニックで計算量を減らしている部分もあるので、そこらへんも読んでて楽しめると思います。これも、まだ邦訳は売られているようです。

・第3巻 「量子力学(第3版)」

この巻は私が最も好きな教程ですが、基礎原理から原子、分子、原子核、散乱といった分野まで広く解説されています。問題の形式を取って一本の論文にさえなっているものを、簡潔に解説しているのも見逃せないポイントです(AB効果などすら)。特殊関数や群論といった量子力学の理解に欠かせない数学的手法も簡潔にまとめられており、重宝すると思います(最も初学者がこれだけで理解できるとは、あまり思えないので、思い出すためのレファレンス的なものとも考えられるが…)。Dirac記法も使われていますが、全面的に使われているわけではなく波動関数の表示を普通は使っているのでこの部分では意見が分かれるところでしょう(個人的には気になりませんが)。Sマトリックスの導入は非常に分かりづらい(と思う)ので「量子電気力学」の導入の方をお薦めします。日本語版はかなり手に入れ辛いと思います(特に下巻)。私は新古本を定価の2倍近くのプレミア価格で手にしました。

・第4巻 「量子電気力学(第2版)」

日本語版では「相対論的量子力学」となっていて、弱い相互作用や強い相互作用も一部扱われていましたが、いろいろあって(日本語訳はでてませんが)第2版からは姿を消してタイトルも変更になりました。この背景にランダウが強い相互作用における場の理論的理解に懐疑的であったことが関係しているかどうかは知りませんが(Hamiltonian is dead!という言葉もあるそうですし、本巻の題1章にランダウの量子場の理論に対する哲学が少々かかれています。)。その他の点では標準的といえるでしょうが、形式的な本に比べて実際に計算を遂行しているのも特徴と言えるかもしれません。ただし、その計算は恐ろしく大変で、計算量だけで言えば物理学教程中最難です。

・第5巻 「統計物理学(第3版)」

岩波書店から最近再販されて、邦訳が手に入るようになりました。「量子電気力学」の知識は必要ではなく「量子力学」を理解していれば十分入門できます。統計力学の基礎と熱力学の導入から始まり、固体、気体、反応論、相転移などさまざまなトピックに応用しています。場の理論的手法(グリーン関数論など)は後の第2部や「物理的運動学」まで控えられているので久保公式や揺動散逸定理などの導出が今ひとつ泥臭く感じられるかもしれませんが、初等的な証明もおつなものではないでしょうか。結晶格子の分類や相平衡の部分が個人的には難しく感じられましたが、その他の部分はシリーズ他巻に比べて分かりやすいほうではないかと思います。

・第6巻 「流体力学(第3版)」

日本語版は第2版の訳です。リフシッツの遺作でもあり、英語版では彼についてのおまけの文章がついています。非線形ソリトンなどの最近のコンピュータの発展に伴った新しい流体力学の成果も新版では付け加わっているようですが、私が所有しているので唯一型落ちなのがこれであるので、英語最新版は持ってません。ところで、ランダウは30台を過ぎてから流体力学に取り掛かって、マスターし、遂には流体力学の大家にもなったわけですが、この本ははじめ彼が何も参照せずに自力で作ったそうで、出来上がった本を見ると、多くの結果は他の本にも書いてあったが(それを独力で発見したわけです。)中には、どの本にも書いていないことも書かれていたそうです。さらに、逸話として、乱流の理論と衝撃波の交差の理論は、彼が投獄された時に紙も鉛筆も持たずに頭の中だけで打ち立てた理論だと言われています。そう思って読むと、また感慨深いものがあるのではないでしょうか。

・第7巻 「弾性理論(第4版)」

日本語版は特殊な構成で、前訳者の死去により前半部はおそらく旧版の訳で、新しい章を付け加えた格好になっています。前訳者の補注があるため、原著者自身の修正はなされていないということになります(残念)。ランダウとリフシッツその他著者は弾性理論の専門家ではないと断っておきながら内容は多分に高度で、その方面の知識が十分にないと読みこなすのは難しいと思います。訳者の注がけっこうおせっかいで面白いといえば面白いです。

・第8巻 「媒質中の電気力学(第2版)」

ランダウ語録によれば、「狂気:媒質中の電気力学読了後に始まる。」とされており、通称「狂気の書」です。これまでの巻のほとんどの知識を総動員しないと読めないので、その意味で非常に難しいです。真空中の電気力学、量子電気力学、統計力学、熱力学、流体力学、弾性理論の予備知識が必須です。物質中のMaxwell方程式は、みなさんお気楽に書きますが、その物理的意味や使い方は非常に難しいということを痛感させられます。これも、英語版は最新ですが、日本語版は旧版になっているので注意しましょう。

・第9巻 「量子統計物理学(統計物理学第2部)」

副題は、「凝縮系の理論」となっており、主にフェルミ流体、超伝導、金属、磁性体などをテーマにグリーン関数や場の理論的方法を紹介しています。注意すべきことは、いわゆる「物性」の本ではなく、理論物理学教程の一巻として包括的な方法論を中心に述べられているので、実験値の詳細な比較が必要な理論や、経験則はほとんど書かれていません。しかしながら、私が現象論として最も尊敬してやまないランダウのフェルミ流体論が詳細に述べられています。惜しむらくは、ランダウの死後に書かれているために彼の生の解説が書かれているわけではないという点です。それでも、先生の遺志は立派に弟子たちに伝わっていると感じさせる一巻です。

・第10巻 「物理学的運動学」

図書館で、初めて実物を見るまでは何が書いてあるのかさっぱり予想できませんでした。内容としては基本的に輸送現象を扱い、気体分子運動論、ボルツマン方程式、オンサーガーの相反定理、プラズマ物理、非平衡統計力学などが書かれています。前書きによると、まだ書き落とされている部分として、高速荷電粒子の気体中での輸送現象などがあるとしていますが、残念ながら改定されることはありませんでした。なお、この現象では「ランダウ分布」と呼ばれる統計分布が現れることが知られています。ランダウは宇宙線の研究でもこのように歴史に残る仕事をしているわけですが、彼の仕事の中に理論物理学教程中で語りきることができなかったものもあるということは、改めてランダウの研究分野の幅広さを感じさせます。