クラスメートと歩く

秋の古都太宰府・筑紫野散策

光明禅寺の紅葉

筑紫野市    大塚桂介

目次

秋の古都太宰府・筑紫野散策

                                                                                                   大塚桂介

小春日和の秋の昼さがり、同窓会の一行24名が筑紫野市の二日市温泉「大観荘」に三々五々集まってきた。2年ぶりの再会である。ロビーでは出発予定の時間まで旧交を暖める歓談が続いている。

由緒ある二日市温泉

この温泉地はかつては博多の奥座敷として繁栄していた。現在ではすぐ西側に鳥栖筑紫野道路と九州自動車道が走っている。その更に西側には、菅原道真ゆかりの天拝山がある。それは、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の重要な舞台になっていることでも知られている。標高は258m。麓には九州最古の禅寺である武蔵寺がある。そして、この寺には見事な藤棚があって、季節になると多くの人々を集めている。今では、この武蔵寺から天拝山に至る道は、中高年者の絶好のウォーキングコースになっている。

この温泉は極めて古い温泉地である。古くは次田(すいた)の湯と呼ばれていた。その後、武蔵温泉と呼ばれるようになっていたが、戦後、二日市温泉と名前を変えて現在に至っている。

天平2年(西暦730年)、妻・大伴郎女に先立たれた大宰帥・大伴旅人は脚にできた腫れ物の治療のためこの温泉に通ったといわれる。その時に詠んだ歌が万葉集にでている。

“湯の原に鳴く葦田鶴は吾がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く”

大伴旅人の歌碑

旅人の嘆き悲しみが眼に浮かんで読む人々の心を打つ。この時、旅人は死をも覚悟していたらしく、幼い家持、書持兄弟のために願い出て、実妹の大伴坂上郎女を呼び寄せている。彼女はまた、万葉集に女性の歌人としては最も多くの歌を遺している。

更に、時代は少し下って平安時代末期、後白河法皇(西暦1129~1192年)が当時の流行り歌・今様を集め編纂させたといわれる「梁塵秘抄」にも、この温泉の湯女が歌っていた歌が載せられている。都に帰って行った大宰府の役人が流行らせたものであろう。

“次田の御湯の次第は 一官 二丁 三安楽寺 四には四王寺 五に侍

六膳夫 七九 八丈 九けむ仗 十には国分の武蔵寺 夜は過去の諸衆生”

<次 田のお湯に入る順番は、一に高位の官人、二に在庁の官人、三に安楽寺の僧侶たち、四には四王寺の僧侶たち、五に政庁の侍、六に大宰府の料理人、七九、八 丈、九は長官の護衛人、十は武蔵寺の僧侶たち、最後の夜間は亡くなった人々>と解釈されている。七と八の職名は今でもはっきりしていない。

今様には物を列挙する歌が数多くあるが、そうした際には最後にあげた物でオチとして笑いをとるのが通例である。調子よくお湯に入る順番をあげていって、最 後に「夜は過去の諸衆生」と落としたもので、これは次田の御湯に遊びにきた大宰府の役人を前にして、湯女が謡うのにふさわしい歌となっている。

そして、近現代では黒田の歴代藩主、また、幕末動乱のさなか、京を追われて太宰府天満宮・延寿王院に匿われた尊皇攘夷派の五人の公家たち、そして、明治以降では、夏目漱石夫妻、高濱虚子、野口雨情らも訪れ、多くの歌を残している。それほどの由緒のある温泉なのである。

現在の二日市湯町の温泉街

古都太宰府めぐりの予定時間になり、ホテルのバスで大宰府政庁址に向かう。

「大 宰府」は和訓では「オオミコトモチノツカサ」とよむ。「ミコトモチ」は「命持ち」、オオミコトとは天皇の命令、府は役所。つまり、「天皇の命令を奉じて政 治をする役所」という意味である。大宰府は律令制という古代の政治体制の中で地方の役所としては最大のものであった。

大宰府政庁の模型

大宰府政庁址

ここに立つといつも、私は四つの物語に思いを馳せる。一つは、古くから九州九カ国と壱岐、対馬二島の行政、および外交、軍事の役割を担っていた「大宰府政 庁(中国風には都督府)」の歴史。二つ目は、後世の人たちが「筑紫万葉歌壇」と呼んでいる優れた歌人たちの物語。三つ目は、太宰府といえば天満宮、天満宮 といえば、「菅原道真」の物語は欠かせないところ。そして、四つ目は意外に知られていない「壮烈な岩屋城落城悲話」である。

バスが大宰府政庁址に着くと、予めお願いしておいたボランティア史跡解説員の貞刈惣一郎先生が待っておられた。先生は我々のために「語りかけるまほろばの 里・太宰府」と題する手作りの小冊子を用意されていた。説明を聞きながら、朱塗りの柱に白壁、青い瓦を葺いた南門や回廊、そして300mほど南側にあったという朱雀門の華麗な姿が脳裏をよぎる。この政庁から南に向かって右郭11坊、左郭11坊、そして南北22条の条坊制の都市が作られていたという。その規模は平城京の三分の一の大きさであったそうだ。

時は西暦661年、 唐と新羅の連合軍に圧迫され続けていた百済は日本に救援を求めていた。斉明天皇と長男の中大兄皇子、次男の大海人皇子らは筑紫に軍を進めていた。船舶の建 造、兵馬の徴用、食料・武器の調達を推めていた矢先に、斉明天皇は筑紫の行宮「朝倉橘広庭宮」で崩御された。母帝の死を嘆き悲しむ暇はなく、百済からは頻 繁に出兵要請がくる。とうとう、西暦663年兵馬を朝鮮半島に進めた。これが有名な白村江の戦いである。そして散々な敗北を喫することになる。そして直ちに、百済の王や高官と共に逃げ帰った兵をまとめ、唐・新羅連合軍の侵攻に備える準備に取り掛からなければならなかった。

政庁の西北方に土塁を築き、水堀を穿ち「水城」をこしらえた。また、政庁の後背部の山塊・大野山(現四王寺山)に石垣を築き山城となし、兵器や食料の備蓄を推めた。

水城堤

中大兄皇子は防衛線の完成を見る前に帰京した。そして、斉明天皇の菩提を弔うため、観世音寺の建立を命じていた。その後、近江に都を移し天智天皇となる。壮大な堂塔伽藍を誇る観世音寺が完成するのは、それから85年後の天平18年(西暦746年)のことであった。今は、講堂、金堂、鐘楼が残るのみである。

大宰府政庁址

現在、大宰府政庁前には天満宮に通じる東西に延びる道路が走っている。そして、南北には朱雀通りがある。その三叉路の北側の民芸家具店の片隅に人の背丈ほどの歌碑が建てられている。高濱虚子の句碑である。句碑には次のような俳句が刻まれている。

“天の川の下に 天智天皇と臣虚子と”

ある夏の夜、この政庁址に立った高濱虚子は天の川を仰ぎながら、天智天皇の膝下にいるような、身震いするような想いに駆られて詠んだものと思われる。

高濱虚子の句碑

太宰府文化の象徴・梅花の宴

史跡解説員の貞刈先生は政庁の裏、北側にある坂本八幡宮を指して、大宰帥・大伴旅人の邸宅跡と言われる。私は、この説に現在は否定的な見方が多いことを知っている。大宰の帥(長官)である大伴邸が政庁の裏にあるはずはないというのが大方の見解になっている。

博多人形で作った梅花の宴

天平2年(西暦730年)1月13日、この大伴旅人邸の庭園で“梅花の宴”が催された。山上憶良など大宰府の官人を始め、僧侶の沙弥満誓などを含め32名の人々が集い、梅の花を愛でながら歌を詠んだ。この宴は中国の故事に倣って執り行われたという。

主人・大伴旅人は詠む。

“わが苑(その)に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも”

大伴旅人の長男・大伴家持が編纂した万葉集にはおよそ4500首の和歌が掲載されているが、このうち、梅花の宴で詠まれた32名の歌も含め、大宰府周辺で詠まれた歌は250首あまりにものぼる。そして、このような宴はこれ一回きりしか行われていない。この年の12月に、大伴旅人が大納言に栄進して都に旅立ったことと無関係ではないかも知れない。しかも、万葉歌人のなかでもひときわ光彩を放つ大伴旅人、山上憶良の歌の多くがこの太宰府の地で詠まれたものであり、この梅花の宴が大宰府文化の象徴といわれるのも当然のことであろう。

蒙古襲来と少弐氏

坂本八幡宮から大宰府政庁址の裏(北側)を東に向かう道は“歴史の散歩道”と名づけられている。ジョギングや散歩の人たちも多い鄙びた田舎道が続く。

貞刈先生に伴われて、その道を東方に進むとテニスコートがあり、数名の男女がテニスを楽しんでいた。そのテニスコートの北側の荒地の中を歩いていくとコン クリートをうった坂道がある。坂を上りつめると小さな広場になっている。駐車場らしい。そこを横切っていくと間伐材でつくった階段が下に向かっている。降 りていったところに小さな墓地があった。掃除が行き届いているのは地元の人たちの世話によるものか。中央の小さな三輪の石塔が目に入る。ここが少弐資頼、 資能の墓である。

少弐資頼・資能の墓

少弐とは大宰府政庁の官名である。政庁のトップは大宰帥で、以下、大弐、少弐、大監、少監、大典、少典と続き、大宰主厨まで24の職名があった。それらの定員は計50名である。少弐はトップから数えて三番目の役職で長官の補佐が主な任務である。鎌倉幕府より筑紫の守護として派遣された武藤氏は少弐の官名を授けられ、以後少弐氏を名乗るようになったが、およそ310年後の永禄2年(西暦1559年)、肥前佐賀の龍造寺隆信に攻められて滅亡してしまった。

少弐資頼、資能父子の活躍の舞台はいわゆる元寇の役である。文永の役(西暦1274年)、弘安の役(西暦1281年)における鎌倉幕府の最前線司令官として、蒙古軍(元・高麗連合軍)に対して大いに働いた。彼らの墓には今でも線香の煙が絶えないという。

僧・玄昉の墓

少弐氏の墓から元の「歴史の散歩道」に降りて、戒壇院の裏手に出てくると民家の南側に一基の古びた石塔がある。これが僧・玄昉の墓である。玄昉は、阿倍仲麻呂、吉備真備と並び称せられる奈良時代の秀才であった。天平7年(西暦735年) 遣唐使に随行して入唐し、玄宗皇帝の寵愛を受けるところとなった。吉備真備とともに帰朝するや、たちまち聖武天皇の信任を得て政治の中枢に躍り出る。とこ ろが、玄昉は僧正に栄進したばかりか政治にますます深く関るようになったため、世の批判が噴出してきた。とうとう、天平12年(西暦740年)大宰少弐・藤原広嗣が大宰府において兵を挙げるに至った。やがて、乱は平定され、広嗣は敗死する。しかし、玄昉もまた完成間近の観世音寺の別当として、大宰府に左遷されてしまった。

天平18年(西暦746年)、観世音寺の落慶法要の日のことである。別当としての法要のお勤めの最中に天空は俄かにかき曇り、強風に見舞われた。そして、一瞬の強い竜巻が玄昉を空高く舞い上げてしまった。強風が去った後に天空より、ばらばらになった玄昉の五体が落ちてきたという。

貞刈先生の説明では、ただ単に暗殺されたということであったが、私はこの竜巻説を信じたい。その玄昉も1260年もの長い眠りの中にある。

戒壇院と鑑真和上

玄 昉の墓から観世音寺の林を左手に見ながら南に進んでいくと戒壇院の小さな裏門が右手にある。門をくぐるとすぐ左手に菩提樹の木がある。春には小さな黄色い 花が咲く。菩提樹といえば、お釈迦様がこの木の下で悟りを開いたという話が有名である。戒壇院のこの菩提樹は創設者である鑑真和上が請来したものだとい う。

聖武天皇の御世、中大兄皇子による律令国家としての第一歩を踏み出してからまだ90年、仏教が伝来してから180年、 政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、何もかもまだ混沌として、やっと外枠ができただけの状態であった。百姓は税や課役を免れるために争って出家 し、流亡していた。問題は百姓ばかりでなく、僧尼の行儀の堕落もまた為政者の悩みになっていた。こういった社会現象を食い止めるため幾十もの法律がだされ ていたが、効果は一向に上っていなかった。もはや、正しい戒儀を整えるしかない。このことが一番必要であることが誰の眼にも明らかになっていた。そこで、 鑑真和上の登場に結びついてくる。この物語は井上靖の「天平の甍」に詳しく述べられている。

鑑真和上は、足掛け12年の間に5回も渡航に失敗したあげく6回 目の渡航でようやく来日に成功した。その時、視力を完全に失っていた。ようやく薩摩の坊津港にたどり着いた。そして、大宰府の観世音寺に立ち寄ったあと奈 良に向かって行った。その後、東大寺、下野の薬師寺、大宰府の観世音寺に戒壇院が設置され、正式の僧になるための具足戒を授ける環境が整った。これらは 「天下の三戒壇」と呼ばれている。

戒壇院

大宰府の戒壇院は観世音寺の西南の一角に建てられている。本尊の盧舎那仏は国の重要文化財に指定されている。本堂内の戒壇には天竺、唐、大和、三ヵ国の土 が納められているという。本尊の盧舎那仏の右側には木像の鑑真和上坐像が安置されているというが、日中でも薄暗いため、今まで一度もお目にかかったことは ない。

 

観世音寺の鐘

戒壇院の裏門からもと来た道を少し戻って右に進んでいくと観世音寺がある。

前にも述べたように、中大兄皇子が母帝である斉明天皇の菩提を弔うために発願して建立されたものである。壮大な堂塔伽藍を誇る観世音寺が完成したのは、天平18年(西暦746年) のことであった。今は、講堂、金堂、鐘楼が残るのみである。今回見学の時間がとれなかったが、宝蔵には数々の仏像が保存されている。創建当時の仏像は全て 焼失してしまっているものの、平安、鎌倉期の仏像はほとんどが重要文化財に指定されている。そして、機会があったら是非見て頂きたい仏像がある。それは 「不空羂索観音立像」という。クスノキの一木造りで、高さは5m17cmもある見事な仏像である。

斉明天皇の菩提寺・観世音寺

また、観世音寺には重要な国宝がある。講堂に向かって右側(東方)に鐘楼があり、そこに大きな梵鐘がある。これこそ、日本で最も古い梵鐘として知られてい るもので、京都・妙心寺の梵鐘と兄弟関係にあるといわれている。いずれも、大宰府の北方、糟屋郡に住んでいた渡来系の鋳物工によって鋳造されたものらし い。現在、鐘楼には金網が張り巡らされて触れることができないが、大晦日には、除夜の鐘を突くために集まった善男善女の長い行列ができる。

観世音寺の鐘楼と国宝の梵鐘

昔 はこの金網もなかったらしく、誰でも自由に鐘楼に登って触れることができたようだ。正岡子規門下を代表する歌人、長塚節がそういう一人であった。長塚節は 子規門下にあって伊藤左千夫や岡麓らとともに、そのみずみずしい自然観察につらぬかれた歌は高く評価されていた。その長塚節は咽頭結核を患い、九州大学病 院に入院している。彼は観世音寺が殊のほか気に入っていたようで、死の影を振り払うように、たびたび脚を運んでいたらしい。

“手を当てて鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴く其のかそけきを”

長塚節は1915年2月8日、九州大学病院で亡くなった。37歳の若さであった。

この歌を刻んだ小さな歌碑は金堂の南側の庭の中にある。私は数年前、藤沢周平著「白き瓶…小説・長塚節」を読んで始めてこの歌碑の存在を知った。そして、観世音寺を訪れるたびに、この小さな歌碑の前にたたずんでいる。

長塚節の歌碑

大宰府政庁址の南門跡から朱雀通りに目をやると、1kmほど先にこんもりした森が見える。ここが道真の配所跡に建てられている榎社である。昌泰4年(西暦901年)、 左大臣・藤原時平の讒言により、右大臣兼右近衛大将であった菅原道真に左遷の詔が下った。時の政府の高官であるだけに、大宰権帥という名前だけの肩書きが 贈られていた。配所はあばら屋同然の住まいで、幼い熊麿、紅姫とともに暮らすことになった。ここで詠まれた七言律詩がある。

不出門

“ひとたび謫落(たくらく)し柴荊(さいけい)に就きてより

萬死兢々(ばんしきょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情

都府楼はわずかに瓦色を看(み)

観音寺はただ鐘声を聴く

中懐は好し 孤雲を逐うて去り

外物相逢うに 満月迎う

此の地 身に検繋なしといえども

何すれぞ 寸歩も門を出でて行かん”

道真は配所の門を一歩も出ることなく、日夜、観世音寺の鐘の音を聴き、時々都府楼の屋根瓦を見て過ごしていたことがうかがえる。今我々も聞いているあの観世音寺の鐘と同じ音を、1100年前の道真も聴いていたのである。

道真の配所跡・榎社

また、この配所跡の榎社の一角には道真が詠んだ「九月十日」という詩を刻んだ石碑が建てられている。(後日、写真を撮りに行ったところ、石碑は何処かに移されたらしく無くなっていた。)

“去年の今夜清涼に侍す

秋思の詩篇独り断腸

恩賜の御衣今ここに在り

捧持して毎日余香を拝す”

<前年の9月10日、清涼殿に侍り、天皇より頂いた「秋思」の御題に詩を献じたところ、お褒めの言葉を頂いた上に御衣まで頂戴しました。その恩賜の御衣は今ここにあります。毎日、捧げ持って天皇の余香を拝し奉っております。>意訳すればこのようになろうか。

この詩は道真の誠実な人柄を決定づけるものとなった。それから2年後の延喜3年(西暦903年)2月25日、菅原道真は配所で59年の生涯を閉じた。道真 は死後、「天満大自在天神」となって、日本人で始めて神として祀られるが、この「9月10日」の詩篇が大きな影響を与えたことは間違いない。

もう一つ観世音寺には大切な物語がある。紫式部の源氏物語にこの観世音寺 が登場してくる。「玉鬘の巻」である。玉鬘は夕顔の娘であるが、この時代の高 貴な姫がそうであったように、乳母に育てられていた。この乳母の夫が大宰府 の役人となって筑紫に下ることになったため、玉鬘も一緒に大宰府にやってき たわけである。そこで、観世音寺が舞台として登場してくる。やがて、玉鬘の 美しさが評判になり、多くの男たちから言い寄られることになる。身の危険を 感じた乳母と玉鬘はほうほうの体で逃げ帰ってしまう。紫式部は大宰府に住ん だことのある人物から話しを聞いていたものと思われるが、いつの時代も作家 は、見たこともない土地のことを上手に書くことができる者のようだ。

貞刈先生と別れて、迎えのバスで大観荘に戻る。それぞれ部屋で寛いだり、6時からはフグ料理のフルコースが待っている。

同窓会プログラムどおりの手順で宴会になった。久しぶりの再会に話もはずむ。 フグ料理も存分に堪能した。そして、それぞれの近況報告。また、2年後の同窓 会は大分県在住の皆さんにお願いすることが決まり、Mさんの挨拶も頂いた。最後はFさんが自作のCDを紹介し、そのCDに収められた「武夫原頭に草萌えて」、「逍遥歌」を全員で歌って一次会を終了。

二次会は別室で、用意しておいた学生時代の写真をテレビで供覧した。前もっ て、Aさん、Hさんに借りていた写真をデジカメのメモリーカードに取り込ん だものである。およそ45年前の写真との落差は大きい。大いに盛り上がった。

 

宝満山と阿志岐の駅(あしきのうまや)

翌日朝食もすませ、ホテルのバスで九州国立博物館に向かう。天気が怪しい。予報では晴れだったが少し道が濡れている。新しく出来た県道を走ると正面に宝満 山が美しい姿を見せるはずだが、薄い雨雲に霞んでぼんやりとしか見えない。この山は三つの名前を持っている。古くは御笠山、次いで竃門山、近世に至って宝 満山と呼ばれてきた。ちなみに御笠山、竃門山ともども、古くから歌詠みの必携書である「歌枕名寄」にも掲載されている。この山の標高は869m 近年では福岡近郊の登山愛好者の列が絶えることがない。

宝満山

天智天皇の御世、西暦664年、大宰府政庁が設置された折りに、その鬼門にあたる御笠山山頂に八百万の神々を祀ったという記録が残っている。これが歴史上最初の登場である。それは丁度、京都における比叡山との関係に似ている。

この山はその後、修験道の道場として発展していく。

真っすぐに宝満山に向かっていた道が大きく北に曲がったあたりに宝満川がある。その辺りは古くから阿志岐(蘆城)と呼んでいる。ここから川に沿って宝満山 の南裾を通り北九州に抜ける道は、奈良時代から官道として使われていた。そして、この阿志岐には駅(うまや)があった。そして、阿志岐の駅では大宰府の官 人たちの月見の宴や送別会が度々行われていたらしい。近くの運動<場のそばに万葉の歌碑が建てられている。

“月夜よし河音さやけしいざここに行くもゆかぬも遊びてゆかむ”

この歌は大伴四綱が都へ帰る大伴旅人の送別の宴で詠んだものである。

 

九州国立博物館…岡倉天心の悲願…

やがて、バスは九州国立博物館に着いた。特徴のある波をうった青い屋根は山並みを模したといわれている。西北側にある玄関の側面は鳥か動物の姿をイメージして造られたもののようだ。広さは公式サッカー場がすっぽり入り、ジャンボジェット機が2機も納まる大きさであるという。設計は菊竹・久米設計共同体による。

九州国立博物館

この博物館の構想はおよそ100年前に岡倉天心が提唱したことに始まる。天心は東西文化の交差点としての九州の重要性を訴え、この地に博物館を設置することを各方面に働きかけていた。その後、多くの人たちの絶え間ない努力が実を結び、ようやく2005年10月の開館を迎えるに至った。

3階では特別展として「本願寺展・親鸞と仏教伝来の道」が開催中である。また、4階では「文化交流展」が平常展示されている。この博物館の設立の主旨からみても、メインはむしろこの文化交流展にあるといえる。

集合場所と集合時間を決めて、それぞれ展示室へ散っていった。

入館400万人達成セレモニー

集合場所に下りてくると何か館内の様子がおかしい。セレモニーらしきものの準備がしてあって、テレビカメラを構えた報道陣も詰めかけている。よく見ると舞台がしつらえてあり、その上に看板があった。そうか! これから400万人目の入場者を掴まえようとしているのか。

開館から2年と1ケ月で400万人の来場者があったということは、他の三つの国立博物館も達成し得なかった快挙かも知れない。この博物館が地域に根付いてきた証しとすれば、誠に喜ばしいことである。

曲水の宴

太宰府天満宮

雨は止んでいた。博物館を出ると立派なトンネルがある。歩く舗道を進むと天満宮の境内に出る。正面の梅林の中には曲折した小さな流れがこしらえてある。ここでは毎年3月 になると「曲水の宴」が執り行われている。衣冠束帯、僧衣、十二単など平安装束をまとった詠み人が、曲水の流れに浮かべられた盃が目の前にくるまでに詩歌 を詠み、盃を飲み干す禊祓いの神事である。雅楽が奏でられるなか、雅やかな平安の宴が再現されている。そもそも、この曲水の宴は天徳2年(西暦958年)に小野好古が始めたとされている。小野好古は小野道風の実兄にあたる人で、当時大宰大弐として政庁に勤めていた。

天満宮本殿の脇を抜けて裏の梅林の中を進んで行くと、左右に茶店が並んでいる。その中の一つである「松島茶店」に本日の昼食を予約しておいた。

昼食後、天満宮本殿に戻ってそれぞれに参拝した。歳はとってもまだまだ沢山のお願いごとがあるようだ。

太宰府天満宮の御神木「飛梅」と本殿

この本殿の床下には石囲いがあり、その中には道真の亡骸が安置されているという。延喜3年(西暦903年) 配所で亡くなったあと、都から従者として供をしてきていた味酒安行(うまさけのやすゆき)の引く牛車に乗せられ、この辺りまで来たとき、牛が倒れて動かな くなったらしい。そこには安楽寺というお寺があった。やむなく、安行はこのお寺に道真を葬ったと語り継がれている。その後、亡骸を安置した場所は安楽寺天 満宮と呼ばれるようになり、さらには、遺体を埋葬した場所に本殿が建てられ、現在の天満宮に至っている。ちなみに、天満宮の代々の宮司である西高辻氏は道 真の子孫であり、味酒氏とその子孫もまた神官として務めてこられた。1100年の時を超えて、今なお身内の人たちが温かく大切に見守っているのである。

本殿に向かって右側には御神木の飛梅がある。毎年、どの梅よりも早く白い花を咲かせて、馥郁たる香りを放つ。主人の道真を慕って都から飛んできて、根を降ろしたという伝説はあまりにも有名である。

“東風ふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ”

そんな話は非科学的だと言うなかれ。こういう時代だからこそ、ロマンが求められるのではないか。

延寿王院と尊攘派の公家たち

天満宮本殿を出て南に参詣路をたどると、心字池にかかる二つの朱塗りの太鼓橋がかかっている。その橋を渡りきると左側に大きな門構えの立派な屋敷がある。 ここは延寿王院と呼ばれている。もともと、宮司である西高辻家の屋敷であるが、この屋敷が幕末動乱のさなかに俄然脚光を浴びることになる。

延寿王院

文久3年(西暦1863年)、8月18日 の政変が起こった。尊皇攘夷派は公武合体派により京都を追われ、長州藩士らは尊攘派の七人の公家を擁して長州に逃れた(七卿落ちと呼ばれている)。翌年 (元治元年)、長州尊攘派は京都における勢力回復を狙って蛤御門の変を起こすも敗北を喫する。同年、第一次長州征伐にも持ちこたえることができず再び敗北 した。その後、長州藩内では高杉晋作らによるクーデターが起こったため、七卿らは太宰府に逃れることになる。詳細な話は省略するが、この時、太宰府延寿王 院に転座したのは、三条実美、東久世通禧、三条西季知、壬生基修、四条隆謌の五卿であった。警護にあたった人員も膨大な数にのぼり、京都を追われてからの 五卿随従者は中岡慎太郎などの勤皇の志士およそ50名と小者25名、それに加え、福岡藩、島津藩、など九州5藩から48名の武士が動員されていた。そして、各藩から集められた侍たちは近郊の19の社寺に宿舎が割り当てられていたのである。天満宮境内の一角にある延寿王院周辺に、武装した侍たちが物々しく警護にあたっている様子を想像するだけで、今でも緊迫感を覚えざるを得ない。

翌々年の慶応3年(西暦1867年)10月14日、将軍慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、12月9日には王政復古の大号令が発せられた。五卿らは直ちに帰京し、その年の暮、三条実美は新政府の議定(首相に相当)に、東久世通禧は参与に任命された。

始めに触れたように、五卿は延寿王院に滞在していた2年10ケ 月の間に、度々二日市温泉を訪れていたらしい。現在、二日市温泉は筑紫野市に属するため、太宰府市が発行する刊行物には、彼らが詠んだ歌が登場することは ない。しかし、筑紫野市が刊行しているパンフレットには、二日市温泉のある湯町や武蔵寺周辺に建てられている彼らの歌碑が写真入りで紹介されている。

“ゆのはらに あそふあしたつ こととはむ

なれこそしらめ ちよのいにしへ” 三条 実美

“しもかれの おはながそてに まねかれて

とひこしやとは わすれかねつも” 東久世通禧

“藤なみの はなになれつつ みやひとの

むかしのいろに そてをそめけり” 東久世通禧

“けふここに 湯あみをすれば むらきもの

こころのあかも のこらざりけり” 三条西季知

“ゆふまくれ しろきはゆきか それならて

つきのすみかの かきのうのはな” 壬生 基修

“青山白水映紅楓 楽夫天命復何疑”

四条 隆謌


嗚呼壮烈岩屋城

福岡市の東区に香椎宮という古い由緒あるお宮があり、その北方およそ3kmの所に立花山がある。標高367m。博多側から見るとラクダの瘤のような特徴のある山容を呈している。鎌倉・室町時代からこの立花山(立花城)は、博多港の貿易利権をめぐる重要な戦略拠点であった。立花城をめぐる周防山口の大内氏と豊後の大友氏との長期の攻防は、大内氏の衰退とともに天文20年(西暦1551年) 頃には大友氏に軍配が上っていた。大友宗麟は城督として、歴戦の猛将、戸次道雪(後に立花道雪)を送り込んでいる。この立花城を死守するためには、後方か ら支援する城が欠かせない。その城が太宰府にある岩屋城と宝満山(宝満山城)であった。これらの城には城督として道雪の盟友、高橋紹運が任命されていた。 高橋紹運には二人の息子がいた。長男は宗茂といい、次男を統増といった。立花城城督の道雪は、早くから宗茂の武将としての資質を見抜き、紹運に懇請して 娘・誾千代(ぎんちよ)の婿養子に迎えていた。

大宰府政庁の裏山、大野山(現四王寺山)の天満宮寄りの一角に南に大きく突き出た部分がある。その山裾は急峻である。岩屋城はそこにあった。この一番高いところが本丸、少し南に下ったところに二の丸があった。

大宰府政庁址から岩屋城址を望む

豊臣秀吉が織田信長亡きあとを受けて天下を掌握しようとしていた頃、九州では薩摩・島津の動きが慌ただしくなっていた。島津は日向側からと肥後、肥前側か らの両面作戦で九州制圧を目論んでいた。大友宗麟は日向の耳川まで大軍を進め、島津の北上を阻止しようとしたが、ここで致命的な、壊滅的打撃をこうむる。 一方、肥後、肥前を制圧した島津軍は岩屋城、宝満山城に迫ってきている。その数4万とも5万ともいわれた大軍である。大友宗麟は岩屋城救援の兵を出すこともできず、豊臣秀吉に再三の支援を求めていた。

いよいよ、島津の大軍が太宰府の盆地を埋め尽くす日がやってきた。そして、天正14年(西暦1586年)7月13日、島津軍の総攻撃が始まる。紹運は兵の大部分を落ち延びさせ、わずか精鋭760余名の手勢で奮戦した。しかし、14日後の7月27日、 ついに全員が城を枕に討ち死にしたのである。下克上の戦国の世に、落ち目の主家に忠誠を貫いた高橋紹運は、「戦国の花」と称えられて、戦前は郷土史を通じ た国民教育の中で大いに顕彰された。今、本丸跡に立つと、「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建てられている。また、二の丸には紹運の胴塚が築かれている。ちな みに、首塚は現在の西鉄二日市駅から太宰府方面に向かう高台の住宅地の中に築かれている。ここは島津軍の本陣が置かれていた場所で、島津の諸将は首実検の うえ、丁重に敬意をもって葬ったといわれている。

「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑(後方の山が宝満山)

しかし、この14日間は無駄にはならなかった。立花城にあって、歯噛みをしながら岩屋城の攻防を見つめていた立花宗茂のもとに、やがて、秀吉の先鋒として小早川隆景が大軍を率いてやってくる。島津軍は退散し、宗茂は小早川隆景らとともに島津を追尾し追い返してしまった。

この立花宗茂は、秀吉に大層気に入られて、論功行賞により柳川藩の藩祖となる。また、関が原の戦いでは、秀吉に対する義を重んじ西軍についた。そのため徳 川の世になって改易されてしまう。しかし、家臣とともに浪々辛苦の末、再び柳川藩の藩主として戻ってくる。そして、立花藩は幕末まで続くことになるのであ る。このような事例は徳川時代を通じて一例もなく極めて稀有なケースである。

今、柳川に行くと舟下りの渡船場の北側に護国神社があり、その一角に「三柱神社」がある。そこには、立花道雪、立花宗茂と妻の誾千代の三柱が丁重に祀られ ている。そしてまた、太宰府の人たちはこの物語が大好きである。柳川にも強い親近感を持っている。宰府一丁目にある西正寺では、今でも子孫や有縁の人々が 集まって「岩屋忌」の法要が行われている。その時、紹運の念持物と伝えられる法蔵菩薩の像も御開帳になり、人々は420年昔の先祖の戦いぶりに想いを馳せるのである。

 

能・藍染川の舞台

西鉄太宰府駅の東側の裏道を進むときれいに整備された博物館通りに出る。その道を真っすぐ進んでいくと右側に小さなせせらぎがある。このせせらぎこそが藍染川である。そこに「梅壺侍従の碑」が建てられている。能の藍染川の物語はこうである。

梅壺侍従の碑

都の女、梅壺侍従は 成長したわが子・梅千代を伴い、梅千代の父である中務頼澄を訪ねてはるばると太宰府まで下ってきた。あいにく頼澄は不在で、正妻に夫の偽の手紙を渡された 梅壺は、悲嘆のあまり藍染川に身を投げた。母の亡骸にすがり泣く梅千代。そこに頼澄が通りかかり天神さまに一心に祈ったところ、梅壺は蘇生したという話の 舞台なのである。

また、藍染川は愛染川にも通じ、古来「歌枕名寄」にも載せられ、あまたの名歌を生みだしている。そして、この川は宝満山の北側に源を発する御笠川にそそぎ、博多湾に流れ込んでいる。

 

光明禅寺の紅葉

梅壺侍従蘇生の碑から、さらに博物館方向に進むと光明禅寺が右手にある。神護山光明禅寺は臨済宗東福寺派に属し、およそ700年前(鎌倉中期)、菅家出生の鉄牛圓心和尚が創建した天満宮結縁寺である。

静かなたたずまいを見せる光明禅寺は石庭、苔庭の美しさと秋の見事な紅葉で知られている。あいにく今回は、色づき始めといった状態であったが、赤く染まった紅葉と緑のコントラストもまた風情があっていい。

ところで、渡唐天神信仰を知っている人がどれほどいるだろうか。中国風の衣服をまとい、頭巾をかぶって頭陀袋を肩からかけ、手に梅の一枝を持った、独特の 天神像を…。そういう絵なら、見たことがあるという人はいるかも知れない。実はこの寺こそ渡唐天神信仰の発祥の寺なのである。それは、中世の学問、外交を リードした禅僧の間にまたたく間に広がっていった。ある日、天神さまは一夜のうちに中国に飛び、高僧の教えを受け、たちまちのうちに悟りを開いた。高僧は 教えを伝授した印に、梅花文の僧衣と偈を天神さまに授けたという。その後、この寺の鉄牛圓心は、夢枕にたった天神さまから僧衣の安置を依頼され、一塔を建 てて丁重に安置したという。

この伝承は、人気の高い天神さまの力を借りて、禅宗の復興を目論んだものと考えられている。いずれにしろ、その後の禅寺では渡唐天神の物語と絵が信仰の対象になっていった。

別の日に撮影した光明禅寺の紅葉

島津藩の常宿・松屋

西鉄太宰府駅から天満宮参道に入り、右側の手前から2軒目が「維新の宿・松屋」である。梅ケ枝餅や軽食もある喫茶店である。ここに入り皆でお茶を飲むことにする。店の中を抜けて奥の庭の方でくつろぐことにした。

この店は江戸時代には旅籠であった。特に、薩摩・島津藩の常宿として利用されていた。西郷吉之助も大久保一蔵も泊まっていたに違いない。この松屋は、 「僧・月照」のゆかりの宿でもあった。京都清水寺成就院の僧侶であった月照は勤皇の志が篤く、やがて、安政の大獄に際し幕府の追及を受けるところとなっ た。京都を脱出し、西郷を頼って薩摩に向かう途中、この松屋に逗留した。恐らく、西郷が松屋を指定したものと思われる。月照はこの宿の主人の親切がよほど 嬉しかったらしく、主人に歌を贈っている。庭のすみに歌碑が建てられていた。

“言の葉の花をあるじに旅ねするこの松かげを千代にわすれじ”

大変分かりやすい歌で、月照の感謝の気持ちがよく伝わってくる。その後、月照は薩摩に下り、西郷吉之助とともに錦江湾で入水自殺を図る。月照だけが助からず、不運な最後をとげた。

この松屋にある歌碑は太宰府にありながら、「まるごと博物館」を標榜する市の刊行物には載せられていない。この歌碑が霊山顕彰会福岡支部の支援により建て られたとはいえ、やはり個人的なものと見なされた結果だとすれば、地域に根ざした歴史や文化とはそういうものか、と情けなくなる。

 

松屋を出たところで、Tさんに声をかけられた。

「どうしたら、そんなに色んな歌を覚えられると?」

「え!う~ん。そうね、読むだけでなく、読みながら書くことかな。つまり、学生時代に、友達のノートを借りてきて必死に書き写したやろぅ。あの要領かな~」。

私 はこのように答えたが、後で、これだけでは答えになっていないことに気づいた。何といっても、始めに感動ありき、なのである。読んだり聞いたりした話に感 動したら、メモをとったり、小さな文章にまとめたり、年表を作ってみたりしてみる。今では、これらの作業はパソコンでやっているが、義務としてではなく楽 しんでやっている。また、若いころと違って記憶力も衰えてしまっているだけに、別のモチベーションも必要になってくる。誰かとこの場所に立ったとき、昔々 この場所で詠まれた歌を諳んじて聞かせてあげたい、そういう思いである。しかし、脳の老化には抗しきれず、時々、いや、しょっちゅう、復習を余儀なくされ ているのが実情なのである。

 

西鉄太宰府駅に着いた。それぞれ帰路につく。またの再会を約してそこで別れた。「じゃ、またね。お元気で…」。

あとがき

今回、この太宰府の地で熊薬昭和38年卒同窓会を開催させて頂いた。参加者は24名であった。2年前の熊本の時より12名 も少ない。幹事としての力量不足か、努力が足りなかったのか、内心忸怩たるものがあった。それぞれ歳も重ねて、止む得ない事情を抱えている人も増えてきた のかも知れないし、企画に魅力がなかったのかも知れない。また、今回始めて外部委託したため会費の設定に問題があったかも知れない。いろいろ考えているう ちに、もう一つのことに思い至った。それは、一般の人たちが持つ太宰府に対するイメージについてである。最近、太宰府の地に九州国立博物館ができて、大勢 の人たちを集めているとはいえ、太宰府といえば、菅原道真、菅原道真といえば、受験(学問)の神様、という固定されたイメージが、大方の人々が抱いている 太宰府像ではないだろうかと…。そこで、折角の機会だから、太宰府を一緒に散策したクラスメートにも、参加できなかった友人たちにも、もっと太宰府の歴 史、文化の奥深さを知ってもらおう、そう思い立ってこの拙文をものにした次第である。遣唐使船で中国に渡る前後に、観世音寺に滞在した最澄や空海のことに も触れたかったし、名物の梅ケ枝餅についても書きたかった。しかし、意外な長文になって自分自身が驚いている始末である。また、校正を始めると、ワープロ 上ではアラが見つけにくいし、印刷して見直すと気に入らないところばかりが目につく。あまり遅くなると同窓会の記憶が忘れ去られる心配もあり、いい加減な ところで筆を置くことにした。

諸兄姉にとって、この小文が太宰府の歴史、文化の再発見に結びつけば望外の幸せである。

【完】

参考資料:

森弘子著「太宰府発見…歴史と万葉の旅」(海鳥社)

森弘子著「宝満山歴史散歩」(葦書房)

高野澄著「太宰府天満宮の謎」(祥伝社黄金文庫)

前田淑著「大宰府万葉の世界」(弦書房)

財団法人・古都を守る会編・発行「太宰府伝説の旅」

太宰府市発行「太宰府万葉歌碑めぐり」

筑紫野市発行「歌碑・句碑をあるく」

財団法人・古都を守る会編・発行「都府楼13号…特集:筑紫万葉の世界」

貞刈惣一郎編「語りかけるまほろばの里・太宰府」

太宰府市教育委員会主催・太宰府発見塾「講義配布資料」

片瀬博子著「新・筑紫萬葉散歩」(西日本新聞刊)

吉永正春著「九州戦国合戦記」(海鳥社)

吉永正春著「九州の戦国武将たち」(海鳥社)

吉永正春著「九州の古戦場を歩く」(葦書房)

筑紫野市歴史博物館編「筑紫野の指定文化財」(筑紫野市教育委員会発行)

筑紫野市教育委員会発行「ちくしの散歩」

五味文彦著「梁塵秘抄のうたと絵」(文春新書)

藤沢周平著「白き瓶…小説長塚節」(文春文庫)

井上靖著「天平の甍」(新潮文庫)

井上靖著「額田女王」(新潮文庫)

井上靖著「後白河院」(新潮文庫)

河村哲夫著「立花宗茂」(西日本新聞社刊)

西津弘美著「立花宗茂…士魂の系譜」(葦書房)

八尋舜右著「立花宗茂」(PHP文庫)

童門冬二著「小説立花宗茂(上下)」(集英社文庫)

司馬遼太郎著「世に棲む日日(一~四)」(文春文庫)

原稿の目次

地図は,太宰府市役所のホームページを参考にしました.