essay005 エスノグラフィーとヒストリオグラフィー

「文化を書く」ということはどういうことだろうか? それは一言で言えば、エスノグラフィーである。では、エスノグラフィーとは何だろうか?

ジョン・ヴァン=マーネンは、「エスノグラフィーとは、ある一つの文化の(あるいは、ある一つの文化の中から選択された諸相の)記述による再現である」と述べている。エスノグラファーは、フィールドワークでの経験を意識的に選択した言葉で書いて報告する。エスノグラフィーはフィールドワークの結果であり、書かれた報告は文化を再現し表現する責任を負っている。ヴァン=マーネンが「エスノグラフィーを書く作業はオフィスワークないしはデスクワーク」であると述べていることからわかるように、「書くこと」によって文化が創造される。すなわち、文化は言葉に移されることによって存在しており、そのためには文化を物語にして示さなければならない。

このことを早くから指摘してきたのは、クリフォード・ギアツだった。ギアツによれば、人類学は科学的言説よりは文学的言説の側に属しており、エスノグラフィーは実験報告に似ているのと同程度にロマンス(文学)に似ている。ジェームズ・クリフォードらはこのことに関するセミナーを開催し、『文化を書く』という論文集にまとめた。ここでクリフォードらが述べているように、記述された異文化のイメージはほとんどの場合中立的なものではない。文化的な真実は故意に整理され、個人的な環境はエスノグラファーが無関係であるとみなしたら削除される。エスノグラフィーにおいては意味の追加や取捨選択が行われ、修辞と排除によって真実が構築される。エスノグラフィーの真実とは、本質的には部分的に真実なのである。

では、「歴史を書く」ということはどういうことだろうか? 同じように一言で言えば、ヒストリオグラフィーである。では、ヒストリオグラフィーとは何だろうか?

ヘイドン・ホワイトによると、歴史は詩人や小説家が了解しようと試みる方法と全く同じ方法で了解される。すなわち、おぼろげで神秘的な外観を呈しているものに対して、身近で見覚えのある形式を付与している。歴史上の出来事を描写する試みは、想像された生活のもろもろのイメージによって提示された物語に依拠している。歴史家は資料に報告されている出来事を正確かつ精密に再構築することによって過去に起こったことを説明するものとされているが、架空の物語なしには誰も歴史を書くことなどはできない。言い換えれば、歴史的な物語のなかには虚構的な要素が存在するのである。

ヒストリオグラフィーは単に現実の出来事を扱うというだけではなく、また、現実の出来事を時間を追って書き表すというだけでもない。出来事はもともとの起きた順という時間的な枠組みに従って記録されるばかりでなく、同様に物語られなければならない。すなわち、歴史とは単に連続して起きた出来事ではなく、意味上の秩序をも備えていなくてはならない。真実は物語の性質を持っており、現実に起きた出来事の様子を述べようとすれば物語の形式をとらざるをえない。ホワイトが述べているように、「現実に対して話の形式を与えないならば、記述されたものは厳密な意味での歴史にはなりえない」。

ヒストリオグラフィーについては、まだ十分に研究がなされているとは言いがたい。ヘイドン・ホワイトやドミニク・ラカプラの著作の紹介を手始めに、今後の研究の進展が望まれるところである。

≪参照文献≫

ジョン・ヴァン=マーネン(森川渉訳)『フィールドワークの物語―エスノグラフィーの文章作法―』現代書館(1999)

クリフォード・ギアーツ(森泉弘次訳)『文化の読み方/書き方』岩波書店(1996)

ジェイムズ・クリフォード+ジョージ・マーカス編(春日直樹+足羽與志子+橋本和也+多和田裕司+西川麦子+和迩悦子共訳)『文化を書く』紀伊國屋書店(1996)

リン・ハント編(筒井清忠訳)『文化の新しい歴史学』岩波書店(2000)

ヘイドン・ホワイト(海老根宏+原田大介共訳)『物語と歴史』「リキエスタ」の会(2002)

ドミニク・ラカプラ(前川裕訳)『歴史と批評』平凡社(1989)