essay003 エコフィロソフィーとエコソフィー ― ソーシャル・エコロジーと社会生態学

エコフィロソフィーとエコソフィーの違いは何だろうか。

エコフィロソフィーもエコソフィーもともに、エコノミー(経済)やエコロジー(生態学)という語の接頭辞「エコ」とフィロソフィー(哲学)の合成語である(厳密には、エコソフィーの方は「エコ」とフィロソフィーの接尾辞「ソフィー」の合成語である)。フィロソフィーという語においては、「フィロ」は友愛を、「ソフィー」は知恵を意味している。また、「エコ」は語源的には「オイコス」からきており、「オイコス」とは家族を意味している。ただし、ここでの「エコ」は通常の家族という意味よりも広い意味をもっており、アルネ・ネスによると「地球家族」がその目指す所に近いということになる。

ネスは、エコロジーと哲学(フィロソフィー)に共通した問題の研究をエコフィロソフィーと呼んでいる。これは、エコフィロソフィーがエコロジーと哲学という二つの学問分野に共通の領域における特定の問題を研究することを意味している。またネスは、人間と自然に関わる問題に哲学を適用するときの、その人の個人的な価値規準や世界観をエコソフィーと呼んでいる。つまり、エコフィロソフィーとは問題が自然との関係を中心にした場合の研究分野としての名称であり、エコソフィーとは問題が自然との関係を中心にした場合の姿勢・観点を指すときの名称である。私たちはエコフィロソフィーを研究するが、私たち自身に関わる現実の状況と取り組むために自分のエコソフィーを展開する。ネスにおいては、エコソフィーとは生態系における生命の状況に啓発された哲学的な世界観や体系のことをを指している。

一方、フェリックス・ガタリにおいては、エコソフィーは環境と社会的諸関係と人間的主観性の三つの領域を含み、それぞれが環境と社会体と精神現象の三つのエコロジーに対応している。一般的には環境の領域がエコロジーといわれているが、ガタリにおいては、エコロジーは実践的な運動を指し、エコソフィーは美的‐倫理的な主張を指している。社会的エコロジーは夫婦や恋人のあいだ、家族のなか、都市生活や労働の場といった社会体のさまざまな次元における人間関係の再構築のためにはたらきかけなければならないが、社会的エコソフィーはそのような場における人間の存在の仕方を変革したり再創造したりする特別の実践を発展させるところに成り立つ。また、精神的エコロジーは個人的・家庭的・夫婦的な日常生活、あるいは隣近所との関係とか個人的な創造や倫理にかかわる日常的実践の内部で立ちむかっていくことが求められるが、精神的エコソフィーは身体や幻想、過ぎゆく時間、生と死の神秘などに対する主体の関係を再創造する方向にむかわなければならない。

現在、環境や社会体や精神に対する人間の関係は悪化の傾向を深めており、ガタリは環境や社会体や精神に対する行動を別々に切り離すのは正しくないと考えている。環境の問題は単に環境の問題に帰着するのではなく、エコロジーの危機は社会的なものや精神的なものの危機に帰着している。エコロジー運動の最優先の課題は、社会的・精神的なエコロジーにも目を向けて取り組むことである。同時に、エコソフィーの目的は環境的なエコロジー、社会的なエコロジー、精神的なエコロジーを相互に結び合わせることにあり、このエコロジーの三つの領域の結合がエコソフィーの回復につながっている。エコロジーは実践という観点においては三つに区別されるけれども、エコソフィーという美的‐倫理的な次元においては一つにつながったものとして構想されなければならない。環境的エコロジー、社会的エコロジー、精神的エコロジーという三つの領域を結び合わせたエコソフィーという美的‐倫理的な主張のもとに社会的・個人的な実践を再構成することがこれからの課題となるだろう。

ところでマレイ・ブクチンは、ほとんどすべてのエコロジー問題は社会問題であり、ネスのようなディープ・エコロジーは社会理論の視点が著しく欠落していると考えた。ブクチンは社会的批判と社会の再構築の展望に根ざしたエコロジーによって人間と自然に有益なやり方で社会を再構成することができると考え、このエコロジーをソーシャル・エコロジーと呼んだ。ブクチンによれば、ソーシャル・エコロジーは社会と自然が歴史の中で相互に作用してきたさまざまな様式や両者の相互作用がもたらしたさまざまな問題を提起し、社会と自然の違いを無視せずに両者がどのように浸透しあっているかに注意しながら自然が社会にどのように移行するかを示そうとしている。ブクチンは、社会を自然に対立させる問題点は社会と自然のあいだにあるのではなく、このような社会と自然の分断は人間と人間の対立のなかに有しているとみなした。

P.F.ドラッカーもまたブクチンとは別にソーシャル・エコロジーという用語を用いているが、ドラッカーの場合は社会生態学と訳されることが多い。社会生態学では、自然というよりも人間によってつくられた人間の環境、つまり社会やコミュニティの変化が世の中に与える影響に焦点を合わせている。ドラッカーによれば、社会生態学は「すでに起こっている変化は何か」「その変化は何か結果をもたらしたか」「その変化をどのような機会をもたらすか」ということを確認する。社会やコミュニティが成り立つには、継続・維持と変革・創造のバランスが重要である。そのバランスを図るために私たちに何ができるかが問われなければならないだろう。

≪参照文献≫

フェリックス・ガタリ(杉村昌昭訳)『三つのエコロジー』平凡社(2008)

P.F.ドラッカー(上田惇生・佐々木実智男・林正・田代正美訳)『すでに起こった未来』ダイヤモンド社(1994)

アルネ・ネス(斎藤直輔・開龍美訳)『ディープ・エコロジーとは何か ―エコロジー・共同体・ライフスタイル―』文化書房博文社(1997)

マレイ・ブクチン(藤堂麻理子・戸田清・萩原なつ子訳)『エコロジーと社会』白水社(1996)