essay001 フクシマの後で哲学するということ

フクシマの後で哲学するということはどういうことだろうか。ジャン=リュック・ナンシーは著書『フクシマの後で』においてこの問題について論じている。フクシマは、大地震や津波という自然現象、人口の増加という社会的要因、原子力エネルギーという科学技術、政府と企業による施設管理という政治的・経済的要因等の複合的な関係のあいだにある緊密かつ粗雑な連関をあらわにしたのである。

近代以後、世界の人口は劇的に増加し、それにともなって交通量・輸送量やエネルギーの生産量・消費量も飛躍的に増大している。それは必然的に自然の変化を引き起こす結果となり、人間は自然を変質させることによって自然現象の効果をかなりの程度増強させている。今日ではハリケーンや干ばつが100年前とは比較にならないくらい甚大な結果を引き起こしていることからわかるように、人間の技術は自然に対してもろもろの激変を引き起こしている。自然のもたらす力は技術や経済や政治と絡み合っており、そのため自然によって引き起こされる災害は技術的・経済的・政治的な帰結や影響から区別することができなくなっている。たとえ洪水や火山の噴火といった自然が引き起こす災害であっても社会的・経済的・政治的な諸要因と関わりをもっており、このことは地震についても同様のことがいえる。地震は地面や建物を揺らすだけでなく社会的・経済的・政治的な状況全体を揺るがし、地震によって生み出された津波は社会的・経済的・政治的な振動を引き起こす。自然と技術の区分は消え去り、自然と技術の区別は有効性を持たなくなっている。また、物質的な技術と社会的・経済的・政治的な技術とが絡み合い、技術的・社会的・経済的な相互依存の複雑さはかつてなく増大している。

それだけではなく、いまや人間は自分で自分自身を統治する力を失ってきており、人間の技術力が人間自身に対して自律的な力を行使するようになってきている。原子力エネルギーはその比類のない威力でもって、力という観点からでは論じることができないほどの破壊を可能にする。一瞬のうちでの破壊が可能になるばかりではなく、あらゆる生物、水や大気や土壌に対して非常に長い期間にわたって破壊ないし損害を及ぼすことが可能になる。技術的な面でも政治的な面でも人間が制御する能力を超過しており、その効果は空間的にも時間的にも尺度を超えている。だが、原子力エネルギーそのものがここで問題になっているわけではない。問題は人間が生み出した技術が、人間の制御できる範囲を超越したことにある。

フクシマの前に『ツナミの小形而上学』を著したジャン=ピエール・デュピュイは、地球温暖化や化石燃料の枯渇、エネルギー危機等の環境問題や、大量破壊兵器、核による抑止等の政治的問題を含めた人類の自己破壊について論じている。今日核戦争が起きたら、犠牲者は数千万から数億人に達するだろうといわれている。自然はこうした計算の足元にも及ばない。破壊に関しては、人類は自然よりもはるかに強大な力をもっている。人類は自らを滅ぼすために手持ちの手段を使って自己破壊をすることができてしまう。私たちの身に降りかかる事態の原因は、私たち自身にあるのである。

フクシマがこれまでの多くの災害と異なるところは、自然の力が引き起こした災害と人間の技術力が引き起こした災害が複合化し、より大きな影響を社会に及ぼしたところにある。人間の生活を向上させるためであったはずの技術が、ここでは人間の生活を破壊する方向に作用してしまっている。もちろんこのような破壊的な技術力を維持している政治的・経済的な事情も無視することはできないが、哲学は人間が生み出した技術について再度問い直しをする必要に迫られているといえるだろう。

≪参照文献≫

ジャン=ピエール・デュピュイ(嶋崎正樹訳)『ツナミの小形而上学』岩波書店(2011)

ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で―破局・技術・民主主義』以文社(2012)