代表者から

<湘南翡翠(カワセミ)合気道クラブ>

湘南翡翠(カワセミ)合気道クラブという名称は、総合公園のサンクチュアリ「野鳥の森」に住む、清流の宝石と称えられる野鳥“カワセミ”(*翡翠の画像)に因み、「美しくさわやかに」をモットーに名づけられたものです。

鳥が常に美しいのには理由があります。鳥は毎日毛づくろいをし、自らの身体を綺麗に整えます。それは、汚れたりみすぼらしくしていることが即ち、体が弱っている証拠として捕食者の標的になるからです。あの小さな鳥達は、生きていくためには何が重要か、そしてその優先順位も含め生活の術を心得ています。

<武道としての合気道>

合気道ももともとは武道ですから、生死をもかけた”生き方”を学ぶべきものです。しかし、武術の実践の場は今や戦場ではなく、日々の営みや仕事の場となっています。武術の稽古を通して学ぶものは、武術だけではなく、生きる術なのです。武術が礼儀を重んじるのは、むやみに敵を作らない、むやみに争わないためにも、礼こそが自らの命を支えるのに一番重要なものだったからです。礼を尽くして、相手を尊重し、礼を尽くすことにより相手の協力を得て自らの目的も達成するのです。武道は礼から始まると言われる理由はここにあり、技の上からもむやみに争うことは決してプラスにならないことを合気道は教えてくれます。

<自らを律することの重要性>

そして次に重要になるのが、己を律する心である克己です。実社会やビジネスの現場では、能力や技術が優れているにも関わらず、自己の心をコントロールできないためにうまく成功に結びつかない例を多く目にします。非常に残念なことですが、こんなに優秀であっても、自らをコントロールすることはかくも難しいものかと、その様な事例を見る度に考えさせられます。

そのような中で、古い伝統や価値感があたかもすべて間違いであるかのごとく言われる昨今、それに替わる新たな規範を見出せず、我々は自らを正すための規律を失いがちです。しかし、この様な時代だからこそ、自らの心と体を律する何かを持つことがとても重要になってくるのです。そして、古い伝統や価値感の中にも現代社会に通じる優れたものが多々含まれており、そこから我々は自らを正す規律となり得る貴重なものを、今なお学び取れると思っています。

<合気道の稽古とその魅力>

合気道の稽古は、相手とのコンタクト(つながり)を重視し、相手の感情や意図を常に感じて行うものです。自分自身で気づかない自分の感情や身体の変化が、その日の技に現れます。稽古の相手も強引さを感じれば、それに反応した抵抗を示します。当然ですが、まずその自分自身の変化に気づかなければ、その日の稽古で得るものは少ないでしょう。互いに無意識にこのような状況になることは、私が合気道の稽古を通して学んだことです。自らを律することができてこそ、常に同じ稽古を同じペースで続けることができるのです。

日々の稽古は非常に地味ですが、地味な稽古を続けることで己を律する心が育ち、物事が見えるようになってくると信じています。現代に於ける戦いとは、日々自分自身を律して、自らに負けることがないよう、心と体を鍛えることです。

合気道にはどんな状況でも対応できる秘技が存在するわけではありません。稽古を重ねることで体が覚える相手に抵抗しない動きなどはあるでしょうが、これは秘技ではなく合気道の基本術理です。それは実際の人生も同じで、人生にも特効薬があるわけではありません。人生には順調な時もあれば、不遇な時や、さらには自己を否定されそうになる様な時もあります。そのような時でも挫けることなく、自らを無にして淡々と日々を頑張らなければ立ち上がれなくなるでしょう。日々の積み重ねのみが偶然でない結果を生むのです。同様に、日々の地道な稽古の積み重ねのみが、新しい視点を開かせてくれるのです。

全ては己の心との戦いなのです。その意味で自己との戦いを支えることにに寄与する稽古を提供するのが、現代の武道のあり方であると考えています。そのような哲理は試合のない、常に相手との調和した動きを求められる合気道の稽古をしていると自ずと学ばなくてはなりません。小さく弱いものが弱いなりに、強いものにも負けずに、逞しく生きていくための方法でもあります。

私にとってその様な哲理を基本にしている合気道には、長年にわたって稽古を続ける魅力があるのです。

何時までも、日々の毛づくろいを忘れず、翡翠(カワセミ)のような美しい”鳥”であり続けるために・・・。