2018年8月1日掲載
昭和58年5月の勧交会ニュースの冒頭記事のタイトルは「町名問題急転し原点へ」でした。この頃は_丁目という住居表示はなく、上麻生または王禅寺__番地__という住所でした。
そこで、新たな町名を決め、1丁目、2丁目…と区割りすることとなり、関係する各町会で構成する住居表示検討委員会ができました。
委員会は意向とりまとめを行い、「麻生」という新町名で仮決定していたところに、地域在住の地主で郷土史研究家という某氏からの異論をきっかけに、川崎市川崎区にあった日本地名研究所(所長は民俗学者・谷川健一氏)など学者や文化人からも「麻生」という新町名への批判が展開されたのです。この研究所は、町村合併に伴う安易な地名変更に警鐘を鳴らす活動をしていたので、《すでに地名として上麻生、下麻生があるのに「麻生」ができるのは煩雑であり、もともとの麻生の中心は柿生周辺であった/万福寺や上麻生という古い地名は残すべきである》という主張でした。このように、当時の勧交会ニュースは伝えています。
それを受けて、再び協議を重ね、最終的に当時の地名、「上麻生」が残されることになりました。
<メモ>
・昭和59年3月19日に、上麻生2丁目の住居表示が実施されました。
・住居表示に関する法律および川崎市の取り組みについては、
「住居表示について(川崎市のホームページ)」を参照して下さい。
・参考:麻生区のプロフィール(麻生区のホームページ)
メモ:勧交会ニュースNo.474 2018年2月号より転載