河北新報プリズム

2012年5月2日より河北新報朝刊に毎週水曜日、20回に渡って掲載された耐震工学にまつわるエッセイです。

【第1話】 耐震設計のあけぼの/一枚の写真

大学で建築を学んでいたときに初めて目にし、今では私自身が大学の講義で用いている1枚の写真がある。国指定の特別天然記念物にもなっている断層崖の写真であり、わが国の耐震設計の歴史においても意義深いものだ。この断層崖は、1891(明治24)年10月28日の早朝、岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方を襲った濃尾地震において突如として現れた根尾谷断層である。

活断層というものが地震発生の原因になるということは、阪神・淡路大震災の時に一般に広く知れ渡ったが、1891年当時は、断層が地震の結果として形成されるのか、断層の運動が地震の発生原因になるのか、はっきりとしていなかった。断層の急激な運動が地震の発生原因になるという考え方が有力になるのも濃尾地震がきっかけとなっている。

この地震の規模はマグニチュード(M)8・0で、内陸型地震として知られているものの中では世界的に見ても最大級の規模である。東北地方太平洋沖で発生した海溝型地震である東日本大震災のM9・0には及ばないものの、内陸部で発生する地震が与える被害の大きさは、同じ内陸型地震の阪神・淡路大震災(M7・2)の例を見ても想像に難くない。

濃尾地震では、死者7273人、全壊・焼失家屋14万棟余りという大被害が生じた。1891年という日本の近代化が急激に進む中での大震災は、地震研究や建築物耐震化の契機となった。(東北大学・五十子 幸樹)

【第2話】 地震動の尻尾をつかまえろ/地震動の正体を求めて

世界最古の地震計は、中国後漢の天文学者張衡が発明した候風地動儀であるとされている。これは、地震計というより地震検知器と呼ぶべきもので、形はつぼのようであり、8方向に取り付けられた竜がくわえる球が落下した方向で震源の方向を検知する仕掛けであったようだ。

現在わが国では地震観測網が広く張り巡らされており、昨年3月11日に発生した東日本大震災においても多数の強震動記録が得られている。しかしながら歴史的に見た時、強震動が実際にちゃんと記録され、その正体が明らかになったのはそれほど古いことではない。20世紀に入ってからである。

強い地震が発生しても針が振り切れることなくちゃんと記録できるような強震計が、アメリカで主としてカリフォルニア州の各地に1930年代初頭から設置されるようになり、40年に発生したインペリアル・バレイ地震(マグニチュード7・1)を記録した。

この記録が採られたメキシコ国境にほど近い町の名前から、この地震動波形はエル・セントロ波と呼ばれる。それまでも、地震動の正体を捉えようとする努力はなされていたが、針が振り切れるなどして成功していない。まさにこれが、人類が強震動の尻尾を捕まえた瞬間であったと言ってよいかもしれない。

その後、52年のカーン郡地震(アーヴィン・タハチャッピ地震)において同じくカリフォルニア州タフトで記録されたタフト波と並んで、これらの地震動記録は歴史的地震動記録として地震工学研究に用いられることとなった。わが国においても今日に至るまで、超高層建物や免震建物の設計において検討用地震動として用いられている。

【第3話】 地震の破壊力とエネルギー/若き日の挑戦

物理現象をエネルギーの観点から考察することは、非常に有益な場合が多い。地震を受ける建物の場合も、建物に入ってくる地震エネルギーを何らかの形で上手に消費すれば建物を壊さなくて済むが、うまく消費仕切れなかったエネルギーは建物の破壊エネルギーとして消費せざるを得ない。すなわち、建物が破壊されるということである。

このように考えれば、建物の破壊という複雑な現象の本質に迫れるかもしれない。また、エネルギー保存の考え方をさらに発展させた理論に、エネルギー変分原理というものがある。難しそうに聞こえるが、複雑な現象の解を得るのに有効な方法である。

大学院の修士課程に進むことになり張り切っていた私は、当時の恩師から提示された研究テーマの中でとびきり難しそうな「逆問題型地震時エネルギー変分原理」に挑戦してみたくなった。テーマを提示した恩師も、その研究がどのような成果を生むのかはっきりとしたビジョンを持っていたわけではない。それが本物の研究というものだ。

何にも知らない能天気さと、何でもやればできるのではないかという若さ故の無謀な挑戦だった。2年間の挑戦の末、自分では何かをつかんだ気がした。卒業後、建築設計事務所に就職することになったが、この成果について少し時間をかけて対外的に発表できるように整理しようということになった。

しかし、それから20年が経過し、大学で研究する身になった今でも、恩師とのこの約束を果たせないでいる。これに関する新しい宿題もあり、このテーマは私のライフワークになってしまったようだ。

【第4話】 柔か剛か/柔剛論争

1923(大正12)年に関東大震災が発生する直前、日本興業銀行本店ビルが完成した。構造設計を担当したのは、東京タワーの構造設計などでも知られる内藤多仲博士だった。本店ビルは震災に見舞われたものの無事だった。内藤博士は建築物の壁を地震力に抵抗する耐震壁として利用することを提案し、この建物で実践したのだった。

これは、当時建築行政に強い影響力を持っていた東大教授の佐野利器博士が提唱する剛構造の考え方に基づくものであり、本店ビルが震災に耐えたことで、剛構造理論の正しさが実証されたと考えられた。

しかしながら、地震国であるわが国で古来建築されてきた五重塔を含む木造寺院建築は柔構造である。これらが長きにわたり地震に耐えてきた事実は大きい。当時の海軍省建築局長だった真島健三郎博士は、震災の経験と振動理論に立脚し、鉄骨架構のような柔構造は地震力を軽減できると主張した。

これに対し、佐野博士が建築学会講習会の講演で真島博士の柔構造理論を批判することで応じたのが、大正末期から昭和初期にかけて展開された「柔剛論争」の始まりだった。この論争は35年ごろまで断続的に続いたが、曖昧なまま終息する。当時は強震計による正確な地震動の記録が得られておらず、地震動の正体もはっきりと分からないまま議論がなされていたので、どちらも相手を論破する決め手がなかったのであろう。

地震動の正確な記録が得られるようになった今も、比較的低層の建物では剛構造が良いと考えられているが、超高層建築や免震建築のような柔構造の可能性を示した点で、この論争の意義は大きかった。

【第5話】 速度ポテンシャル説/粘り強さと耐震性

京都大で建築を学んだ身として、わが国の耐震工学の発展に貢献した棚橋諒博士(1907~74年)に触れておきたい。大正末期から昭和初期にかけて、建築物は柔構造とすべきか、剛構造とすべきかに関する論争(柔剛論争)があった。当時京大助教授だった棚橋博士の速度―ポテンシャルエネルギー説は、この論争末期の35(昭和10)年に発表された。

当時は震度法による耐震設計法が用いられていた。震度法は、地震力の大きさが、建物の重さにある係数を掛けることで得られるとするものである。強震動の正確な記録がない時代の話で、振動理論に基づいて設計法を議論することは困難であったと思われる。そのような中でも、耐震設計法について何らかの方向性を示さなければならない状況があり、地震の加速度と関係の深い震度という単純な考え方を用いたのである。

一方で棚橋博士は、地震の破壊力は加速度ではなくて最大速度の2乗に比例すると指摘した。建物に入力する地震エネルギーの大きさは速度の2乗に比例するので、速度に着目したことはエネルギーに着目したことと同じである。同時に、建物の耐震性能は構造物が破壊までに蓄え得るエネルギーの量で評価できると述べている。それまで重要視されていた強度に加えて、地震から入力するエネルギーを安全に蓄える「粘り強さ」の重要性を指摘したのである。

大地震時において、建物が全く損傷しないことが理想であるが、経済的な観点から実現は難しい。現行の耐震設計法では、大地震時において建物が損傷することはあっても、粘り強さによって倒壊を免れることとしている。

【第6話】 超高層のあけぼの/あくなき挑戦

霞が関ビル(東京都千代田区)は日本で初めて建設された超高層ビルで、完成は1968年である。私はその前年の67年生まれだから、霞が関ビルとほぼ同い年だ。このビルの設計や建設にまつわるドラマは「超高層のあけぼの」というタイトルで映画化され、69年に公開された。超高層建築の技術に憧れを抱いていた学生時代に、この映画の存在は聞いていたものの、当時は見る機会がなかった。

大学院の修士課程を修了後、超高層ビルの設計を多数手掛けている建築設計事務所に就職した。入社して間もなく超高層ビルの構造設計を手伝わせてもらい、経験を積ませてもらうことになる。霞が関ビルの建設から30年、私も三十路(みそじ)になるころから、憧れだった超高層ビルの構造設計を任せてもらえるようになった。学生時代からの夢がかなってとてもうれしかったことを覚えている。当時の経験は大学で研究する身となった今も貴重なものだ。

超高層ビルの設計における新しい試みや技術開発は現在も継続しているが、その基礎は黎明(れいめい)期に苦労して技術を開発した諸先輩方が築いたものだ。未知の新しい技術に挑戦し、さまざまな問題点を見いだして考え抜き、解決策を模索しながら設計した偉大な先輩方を超えることは難しいだろう。いや、超えることはできないのではないかとさえ思う。

確かに、私たちは超高層ビル建築に関して多くの経験を積んできた。だが、本当の意味で技術を向上させているだろうか。技術者としての謙虚さを忘れていないだろうか。霞が関ビルの建設40周年を記念してDVD化された「超高層のあけぼの」を見て、自らにそう問うた。

【第7話】 鶏が先か卵が先か/構造設計のジレンマ

まだ駆け出しの構造設計者時代、スタジアムの大屋根の構造設計をしていたころのことだ。先輩技術者から屋根の部材に生じる力の大きさを計算するよう依頼された。コンピューターにデータを入力するのには屋根部材の断面寸法が必要だったため、先輩に「仮定断面をください」と頼んだ。すると先輩は「それを決めたいから(応力計算を)頼んでいる」と、いら立ちを隠さずに言った。

作用する力の算定が先か、それともそれに耐える断面の設計が先か。「鶏が先か、卵が先か」というジレンマを解決していくことこそが「設計」なのだと痛感した。

新耐震設計法は1978年の宮城県沖地震を機にそれまでの設計基準を見直す形で81年に導入された。地震力が高さ方向にどのように分布するかを実にうまく決めている。

ビルなどの定型的な建築物であれば、柱や梁(はり)の断面設計が未定でも地震力を合理的に算定できる。これで設計のジレンマが全て解消するわけではないが、耐震設計は地震力を計算してから、それに耐えるよう柱・梁などの断面や耐震要素を設計していく一本道となる。

またそれまでは、建築物は地震により損傷を受けても、倒壊に至るまでにある程度の余裕を持っているので、中小地震で損傷しないように設計しておけば大地震にも耐えられるという考え方だった。

だが新耐震設計法では一歩踏み込んでいる。大地震時に建物が倒壊しないことを計算で直接的に確かめるよう規定したのだ。建物が倒壊に至る極限状態までを考え、それを避けるべく設計するようになったことは大きな前進だった。

【第8話】 阪神大震災/新たなる決意

1995年1月17日、設計を担当していたプロジェクトの締め切りが近づいていたため早朝から出社しようと、大阪市内の自宅で5時すぎに起床して準備をしていた時、立っていられないほどの激しい揺れに襲われた。阪神大震災だった。発生直後は震源がどこなのか、どんな地震が起こったのか、事の重大さも分からなかった。

勤務先まではそう遠くなかった。同僚の安否確認や、勤めていた設計事務所が設計を担当した建物の被害状況の確認など、やるべきことがあるはずだと思い会社へ向かった。自分が設計した建物の被害状況も気になっていた。

京阪本線の最寄り駅でしばらく待っていると、電車の運行が再開された。しかし、目的の駅までは行けず、二駅手前の駅で降りなければならなかった。やむを得えず、会社まで歩いた。

途中、一部の建物で窓ガラスが割れていたり、コンクリート壁にひび割れが入っていたりする状況を目の当たりにした。設計が古いため、地震時の建物変形に追従できなかったのだろう。設計が比較的新しい建物では、外観上の被害は見当たらなかった。会社まで行く途中にも余震は続いた。

何とか会社にたどり着くと、自社設計の建物に損傷はないようだった。だが、室内は本棚から本が落下して散乱していた。

今振り返ると恥ずかしいことなのだが、建築物の耐震設計に関わっていながら、それまで私の中で、地震というものは計算上の仮定にすぎないものだった。私もまだ若く、未熟だった。この震災を機に、猛省の末考えを改めた。私たち技術者の使命は、このような災害から人命を守ることなのだと、あらためて肝に銘じた。

【第9話】 地震から免れる/免震構造の普及期へ

1994年、米カリフォルニア州で発生したノースリッジ地震で、ロサンゼルス市内のオリーブ・ビュー病院は倒壊から免れたものの、内部の医療機器が転倒し、病院としての機能を喪失した。対照的に、免震構造を採用していた南カリフォルニア大学病院は地震発生直後も手術室の機能が維持されていた。翌95年に発生した阪神大震災においても、免震構造の効果が確認された。この二つの地震を契機に、免震が注目されることとなる。

建築物とその基礎の間に、地震動から建物を絶縁する何らかの仕掛けを設けることで、建物を地震被害から守ろうとする免震の考え方は古くからあった。わが国で、免震建築物第1号が建設されたのは83年だが、免震が注目され、普及に至るまでにはそれから10年以上の歳月を要した。

私が免震構造の設計や技術開発に関わるようになったのも、免震構造が普及期に入る初期の95年のことだ。とあるゴムメーカーが製造する免震ゴムを使って、その本社ビルを設計するプロジェクトだった。これから免震が普及しようという時だ、世の中に良い免震建物を送り出さなければならないと、責任の重さを感じた。

当時は免震構造の設計ができる構造技術者は少なく、技術を教えてくれる人は周囲にほとんどいなかった。また、解析プログラムなど、設計の道具が完全に整備されているわけではなかったので、自らそれを作るところから仕事を始めた。

構造技術者として、新しい技術の発展を目の当たりにする機会というものはめったにあるものではない。苦労も多かったが、その分、得るものも多かった。

【第10話】 地震の揺れを制する/損傷制御設計

建築構造設計者の重要な仕事の一つは、地震で建物がどのように壊れるか、あるいは、どのように壊したら良いかを考えることだ、と言ったら奇異に感じるだろうか。

建物を地震や強風などで壊れないように設計することが理想だが、絶対に壊れない建物を造ることは不可能だ。また、わが国の耐震基準では、大地震において建物の一部が損傷しても倒壊しなければ良いという考え方を採っているため、建物が壊れる時に危険な壊れ方をしないよう考えておくことが重要になってくる。

大地震時に建物が損傷することを許容しているのは、骨組みなど建物の主要構造体が損傷することによって、振動が減衰することを期待している部分もある。一方で、大地震後の建物の補修を最小限に抑えたいという要求に応えるべく、特に1990年代以降、振動に対する減衰要素(ダンパー)を付加することで、大地震による建物の主要構造体の損傷を軽減しようとする試みがなされてきた。

建物の主要構造体の損傷によらない減衰要素としては、金属の塑性化に伴うエネルギー消費を利用したものや、ゴムのような高分子材料からなる粘弾性体、車両のショックアブソーバとして用いられているオイルダンパーなどが用いられるようになる。これらは、必要に応じて地震後に取り換えることもできる。

それまでは、地震動に耐え、危険な壊れ方をしないように設計していたのだが、それを一歩進めて、取り換えやすい部分が先に壊れるように工夫をしたり、ダンパーで振動を減衰させたりすることで建物の損傷を制御するようになったのである。

【第11話】 耐震偽装事件/失われた信頼

2005年11月のことだった。ある1級建築士が構造計算書を改ざんしていたことが報道されていた。朝、事務所に出勤するとその話題で持ち切りだった。耐震性の低い設計が、必要な耐震性を有するかのように偽装されていたというのだ。なぜこんなことが起こったのか。いや、なぜこんなことをしなければならなかったのか。同僚たちの表情は皆硬かった。

それまで、建築構造技術者は信頼される専門家とみなされており、設計の内容や計算内容に関して逐一細かい説明を求められることはほとんどなかった。技術者たちにも、自分たちは専門家として世の中の安全と安心のために日々努力しているのだから、設計や計算の内容について他者から干渉を受ける必要はないし、また受けたくないという意識があった。

設計行為は、構造計算を包含するより広い意味を持つ行為であって、設計と計算は別ものである。計算書は公文書であるから、誤りや改ざんがあってはならないが、計算書が良い設計を保証するものではない。計算書は、後に設計を振り返る時のための備忘録であり、他者が、設計意図を図面から読み取る手掛かりだ。しかし、それ以上のものではない。

この日を境に、構造技術者が信頼を失うとともに、計算書が過度に重要視されることになる。計算書が法の定めに適合しているかどうかが厳格にチェックされるようになり、構造設計者は、設計行為の一部分でしかなかった構造計算の適合性を確保するために多くの時間を割かなくてはならなくなった。本末転倒である。今後、この制度が本当の意味で良い設計を確実なものとするよう改善されることを願ってやまない。

【第12話】 限界耐力計算法/木造文化の継承にむけて

10年ほど前、建築学会で木構造の伝統構法や木造文化を守ろうという趣旨で、特別委員会が設けられた。その委員会の委員の一人としてお手伝いをすることになった。

建築基準法においては、木材同士の接合部分や上部建物と基礎の接続部分において、ボルトや補強金物を用いて接続しなければならないことが定められている。仕様規定と呼ばれるものだ。仕様規定の縛りがある限り、材の接合部にボルトや補強金物を用いない伝統木造構法による新築は不可能だ。

木質材料は特性のばらつきが大きく、伝統木造建築が地震に耐えるメカニズムも非常に複雑で、構造計算に基づいて耐震性を評価することに困難を伴う。現在の建築技術レベルでも、木構造が力学的に解明されているとは言い難い。

勢い、最も不確定性の高い接合部分をボルトや金物で固めることで木構造の安全性を担保しようということになり、伝統構法が排除されてしまう結果となった。何とか、木構造の耐震安全性を確保しながら、わが国の豊かな木造文化を継承していくことはできないものだろうか。

2000年に限界耐力計算法という新しい計算法が耐震規定の中に導入された。この計算法に基づいて木構造の安全性と必要性能が満足されることが確認できれば、仕様規定に縛られない構法が認められることになった。伝統木造構法復活への端緒が開かれたと思われた。

私はこの委員会で、限界耐力計算法に基づく木構造性能評価法の整備に関わることができた。その後、この仕事から離れてしまい、10年の歳月が流れた。現状を見るに、いまだ道のりは険しいようだ。

【第13話】 研究者への道程/学位を目指して

大学卒業後、大学院に進んだ。2年間の修士課程では、研究のイロハをしっかりとたたき込まれ、研究の面白さも知ることができた。教授が、博士課程に進んで研究を続け、将来は研究者を目指してはどうかと勧めてくれた。迷ったものの、既に就職の内定をもらっていたし、博士課程修了後の見通しもなかったので、設計実務者の道を歩む決心をした。

就職してから10年ほどたって、大学の先生方から博士の学位を取らないかと誘いを受けるようになった。会社員の身分のまま博士課程に編入学できる特別選抜枠があるというのだ。

古巣の研究室に受け入れを頼みに行くと、昔、私を誘ってくれた教授は退官しており、後任の教授の返事はあまり良いものではなかった。他からも誘いを受けていたので、そちらに行こうかと思っていた時に、呼び出しを受けた。

「それで、何の研究をするつもりか」と尋ねられた。いくつか提示した研究計画の中の一つが採用された。免震建築物の最適設計に関する問題を、建設コストの観点から研究するというテーマだった。実務レベルのコスト評価手法を研究に取り入れることは研究室にとってもメリットがあるということになり、面接試験を経て古巣に戻ることになった。

学位研究では、詳細な研究の計画と方法を議論して決めるのに半年ほどの時間をかけた。根幹となる理論を意外に早く構築できたため、学位論文の内容は早期に決着がついたのだが、仕事を続けながら論文を書くことはとても苦しかった。3年の課程を2年半に短縮して、2005年9月に学位を授与された。

【第14話】 長周期地震動/長大構造物の新たな問題

2003年9月26日早朝、北海道十勝沖を震源とするマグニチュード(M)8・0の地震が発生した。その直後に、苫小牧市にある製油所で石油タンク火災があった。火災の原因は、地震動のゆっくりとした揺れが、タンク内の原油の揺れの周期と一致して起こる共振現象により油が漏れたことが原因だった。液体の揺れの周期は容器が大きいほど長くなり、共振すると液体は大きく揺れる。

石油タンクは液面にふたを浮かせる構造となっていて、このふたは浮き屋根と呼ばれている。この地震でナフサタンクの浮き屋根が沈んでしまい、地震の2日後にも別の火災が発生した。

翌04年10月に発生した新潟県中越地震(M6・8)では、東京都内の54階建ての超高層ビルで、ゆっくりとした地盤の揺れの影響によりエレベーターが損傷した。東京の都心は震源から約200キロ離れており、都内の揺れの強さは震度3だった。

このように大規模構造物を共振させ、悪影響を及ぼす地震動は長周期地震動と呼ばれており、それが大規模構造物に与えた影響に関しては他にも多数の報告がある。そのため、長周期地震動の問題は一般にも認識されるようになり、社会的な関心事となっている。

耐震基準は大地震で建築物が倒壊しないための最低限の基準を定めたもので、長周期地震動に対する超高層建物の対策については特別な規定を持たない。従って、既存の超高層ビルにおいては特別な対策が施されていないのが実情だ。既に一部では、長周期地震動が既存の超高層ビルに与える影響の検討と対策が始められているが、今後さらに対策を進めていくことが求められる。

【第15話】 構造設計とは/力学の魅力

建築構造力学は、建築学科で学ぶ科目の中でも一番厄介な科目の一つだ。それが理由で構造分野を避ける学生もいる。それでも学生時代の私は、力学の世界の緻密さや体系の美しさに魅了された。建築構造力学を専門的に学び、卒業後、構造設計の実務に携わるようになったのも自然なことだった。

構造設計という仕事は、数ある職業の中でも理想的なものの一つだと思う。夢があるからだ。自分が引いた線の通りに建築が出来上がっていく。そんな経験をした時に得られる感動や喜びは何物にも代えがたい。微力ではあるが、一つ一つの設計を通して良質な社会資本を世に送り出し、この世の中をより良い場所に変えていくのだと思うと、とても誇らしかった。

一方で、構造設計はとても責任の重い仕事だ。設計ミスが直ちに重大な事故につながる。災害時には設計の善しあしが人命に関わる。構造設計者は、さまざまな危険を予測し事前に対処することを求められるので、計算外のことにも注意を払う。計算する前に設計があり、その計算結果は予想がついている。だから、コンピューターへのデータ入力や計算のミスに伴う設計ミスは、経験と共に避けられるようになる。

しかし、科学技術がいくら進歩しても、地震など自然の脅威に人間の経験や知識は及ぶべくもない。仮に、遠い将来全てが解明される日が来るとしても、それを待っていることはできない。私たちは前に進んでいかなければならない。全てが分かっていないことを知りながら、限られた時間とコストの中で決断を迫られる。私の設計は最善だっただろうか。無事完成しても、それが試される日まで心配は尽きない。

【第16話】 転機/研究者への転身

2008年に現職に就くまで、私は建築設計事務所で構造設計に従事する技術者だった。どうして、大学に移ったのかとよく聞かれる。

大学院修士課程を修了する時、研究者の道を選ぶか、実務者の道を選ぶか迷ったことがある。教授は研究者の道へ進み、将来大学教員になることを勧めてくれたが、大学の教職は狭き門だ。幸い設計事務所から就職の内定をもらい、直接的に社会のために役立つ仕事ができそうだと思ったので、実務の道を進むことにした。

就職してからも、いずれは博士の学位を取ろうと思っていた。だが、大学の門を再びたたくのは覚悟が必要だった。通常の仕事をこなすだけでも大変なのに、その上論文を書く時間をつくらないといけないからだ。

しかし、忙しい人間にも利点はある。最短で仕事を仕上げるために無駄を省き工夫することと、迷っている時間がないので決断が速いことだ。限られた時間の中で論文を仕上げていくために、学位論文の全体像を常に意識しながら、あらゆる検討資料、打ち合わせ資料を論文に流用できるよう工夫して作成していた。おかげで、寝不足の日々はそう長くは続かなかった。

学位を授与されて間もなく、教授から「それで、これからどうするつもりか」と尋ねられた。せっかく学位を取ったのだから、大学で教育・研究に携わっていく気はないのかという質問だった。私は、むしろ学位取得を機に研究活動に区切りをつけたつもりでいたので、「どうするつもりもありません」と答えた。

転機はそれから2年後に訪れた。建築構造学分野の教員公募があった。研究分野は私の専門分野だった。

【第17話】 変位制御設計/次世代の設計理念

物体に加わる力の大きさは、質量に加速度を掛けることで得られる。これは、ニュートンの運動の法則の一つであり、力と加速度の直接的な関係を示す。また、加速度を時間で積分すると速度が得られ、もう一回積分すると変位になる。耐震設計の歴史は、この積分のように発展していくことになる。

1981年に新耐震設計法が導入されるまでは、建物に作用する地震力の計算に震度法が用いられていた。建物の重量に震度を掛けると地震力が得られるから、震度は加速度と同等の意味を持っている。わが国の耐震設計の歴史においては長い間、力に基づく設計法が取られていた。これは、間接的に加速度に着目していたと言って良い。

一方で、地震の破壊力と建物の耐震性能を、力の大きさではなく、エネルギーの観点で捉える考え方が、昭和初期に国内で発表されていた。物体の運動エネルギーは、質量と速度の2乗に比例するから、エネルギーと速度は直接的な関係を持つ。しかし、エネルギーの考え方が設計に浸透し始めるのは90年代に制振構造や免震構造が普及し始めてからだ。

だが最近は、超高層ビルや免震建物の設計において、力(加速度)やエネルギー(速度)の観点だけでは設計できない場合が増えている。建物の最大変位が設計を決定づけるようになってきたのだ。超高層ビルや免震建物のような長周期建物が増え、長周期地震動という新たな問題が明らかになったことが背景にある。

このような状況の中で提唱された新しい耐震設計の考え方が変位制御設計である。今後、建物の変位に着目して、それを直接的に制御する設計法の重要性が増すことになるだろう。

【第18話】 東日本大震災/次に備えよ

昨年3月11日の午後、日本建築学会の東京本部では支部長会が開かれていた。私は東北支部長の代理で出席していた。中盤を過ぎたころだったろうか、激しい揺れに襲われた。会は中断し、いったん揺れが収まったかに思われたので続けようとした次の瞬間、再び激しい揺れに見舞われた。直ちに、支部長会とその後予定されていた理事会は中止となり、学会長の指示の下、学会本部に災害調査復興支援本部が設置されて情報収集が始まった。

震源は関東地方かと思っていたら、しばらくして東北地方太平洋沖が震源であることが分かった。東京での揺れの程度から東北地方の被害を想像したとき、強い不安感に襲われた。まず、仙台にいる研究室のメンバーの安否確認と情報収集のため夜通し電話をかけ続けたが、東北地方には全くつながらなかった。学会本部にいて、できることがほとんど無いことがもどかしかった。本部で一夜を明かすと、翌朝には研究室のメンバーの安否が確認できたが、仙台に戻る手段は無くなっていた。

10日ほど関西で待機して、ようやく東京から仙台への高速バスのチケットを手に入れた。仙台に戻ってから、学校の体育館等の被害状況の確認と復旧のための調査を行うことになった。津波被害については、海岸からの距離や標高のほんの少しの差が被害程度の明暗を分けていたことに、現地を訪れて初めて気付いた。

1995年の阪神大震災を契機に施行された耐震改修促進法に基づき、所要の耐震性能を満たしていない既存建築物の耐震化が進められている途上での震災だった。「次」に備えて、既存建築物の耐震化を早急に進めなければならない。

【第19話】 スマートストラクチャー/建物耐震性の高度化を目指して

スマートフォンがはやっているが、構造の世界にもスマートストラクチャーというものがある。スマートは「賢い」の意味であり、ストラクチャーは「構造」である。だから、スマートストラクチャーは「知的構造体」などと翻訳されている。人間の知覚、頭脳、筋肉に相当する要素を備えた構造体のことを言う。

建築構造物にもスマートストラクチャーと呼べるものが存在する。例えば、電車やバスに乗っていてブレーキがかかると、倒れないように自然と足を踏ん張ったり、体を後ろに反らせたりする。それに近いことを建築構造物にさせようというのだ。

地震動や強風が建物に作用した時、建物の揺れを人間の知覚に相当するセンサーで検知する。頭脳に当たるコンピューターでは対処方法を決め、筋肉に相当するモーターや動的油圧ジャッキで建物の頂部に設置した重りを動かす。こうして揺れを抑える方法が実現されている。

ただ、大地震時には、電源の供給が絶たれ、コンピューターや動力源が使えなくなることがある。大地震時においても信頼性の高いスマートストラクチャーを実現するためには、電力に頼らない方法を考えなければならない。

私たちの研究グループは、電力が不要で、建物の弱点となる固有振動にあらかじめ同調するように設計された減衰装置を開発した。「同調粘性マスダンパー」と呼んでいる。建物にどのような外乱が作用するかをあらかじめ知ることはできないが、建物の弱点となる固有振動は設計時に分かっている。この装置は、建物の弱点を突く外乱を検知し、効果的にそれに対処することができるのだ。

【第20話/最終回】 設計の力学/設計の科学へ向けて

20世紀は科学技術が急激に発展した時代だった。特に、物事を細分化して詳細に分析する技術が発展した時代と言える。構造工学分野では、20世紀半ばを過ぎたころ、有限要素法と呼ばれる解析方法が提案された。コンピューターの計算能力の劇的な向上も手伝い、複雑な構造物の振る舞いを計算によって明らかにすることが容易になった。

では、設計の技術は劇的に向上、発展したのかというと、あまり変わっていないのではないかと思う。細分化や分析は物事をバラバラにする行為だが、設計はそれとは逆の統合化の作業だ。さまざまな与条件や分析結果をつなぎ合わせて集約し、建築構造物にまとめ上げていく。だから、いくら分析科学が発展しても、統合化の技術である設計技術はそれに見合うほどは発展しない。

だが、設計の技術を発展させることに役立つ科学的方法論がないわけではない。数理計画法という数学的な方法が、設計のような意思決定の支援ツールとして用いられる。カーナビもそのようなツールの一つだと言ったら分かりやすいだろう。カーナビは目的地までの多様なルートから、合理的なルートを選んで提示することでドライバーを支援してくれる。

建築構造分野においても、建物の目標性能を入力すると、コンピューターがそれを満足する設計を提案するという構造設計支援システムの開発が進められている。これはもろ刃の剣であって、コンピューターに頼りすぎると設計技術が鈍ってしまう恐れがある。しかし、これまで設計者の個別の経験に頼っていた設計技術に科学のメスが入ることで、新しい統合化の科学発展の契機になることが期待されている。