第5回勉強会

2008年3月15日(土)

第5回勉強会「国際開発とわたし-失敗の連続から学んでいること」

■講師: 中山 嘉人 氏

(バーミンガム大学博士課程:PhD in Education, School of Education, University of Birmingham)

■講師略歴:

1970年鹿児島県生まれ。日本の授業料免除や奨学金制度のおかげで高校、大学進学の機会を得たことが、国際開発分野に関わるようになった原点となる。大学ではアジアの国家開発における教育の役割について関心を持つ。卒業後、青年海外協力隊に参加。民間企業勤務、NGO、アジア経済研究所開発スクール研修生、大学院では、特にアフリカにおける遠隔教育の歴史と運営モデルについて学んだ後、JICAジュニア専門員、技術協力専門家の機会を与えられる。2005年10月よりバーミンガム大学在籍。有限会社メファ・マネジメント取締役、医療法人理事、「ゆめげんクリニック」事務局担当。

参考URL:http://mefa.jp/staff/nakayama-yoshihito

■講演概要:

国際協力の仕事に興味があるが、実際はどうなんだろう。こんなことを思ったことはありませんか。今回の勉強会は、国際協力の世界でのキャリア形成がテーマです。前半の講演では、NGOやJICA専門家などでの実体験を語っていただきます。後半のワークショップでは、自分のしたいこと、自分にできること、そして社会が求めていることの三つの視点から各人の方向性を考えます。

国際開発にかかわるきっかけは人それぞれです。自分なりのキャリアは自分自身で試行錯誤しながら見つけるしかありません。講師の中山さんは言います。「頭でいろいろ考える前に自分の感覚、感性を信じ、磨いていくこと。目の前の困っている人たちと向き合うこと。そこで何が必要か感じ、行動し、自分の役割(ミッション)に確信を持つことが大切です。そのためにはもちろん、希望する業界や社会の動向など外部環境を冷静に判断することも忘れてはいけません」。

勉強会では、講師の個人的な体験、失敗談などを通して国際協力を身近に感じていただくとともに、「ODA厳冬の時代」と言われる今だからこそ考えたい国際協力分野における自分の役割とポジションの見出し方のヒントを探ります。

■講演資料:

■関連リンク:

JICA国際協力総合研修所調査研究『国際的に通用する援助人材育成に係る計画策定』

http://www.jica.go.jp/kokusouken/enterprise/chosakenkyu/etc/200201.html

■議事録

今日は、私自身のこれまでのいきさつを中心にお話しさせていただき、その中から皆さんにとっての進路のヒントとなるものを提供できればと思う。国際協力の現場は、実際に行ってみないと分からないことも多々あるが、できるだけ具体的なイメージをお伝え出来ればと考えている。

国際開発・援助の世界は変化が激しくかつ競争が厳しい。その中で生き残ることは大変だ。しかし、それ以上にやりがいのある仕事でもある。これからの話で、国際協力について否定的なイメージを招く話題もあるかもしれないが、それをもって国際協力はダメだ、ということではなく、自分たちで将来、改めるべきは改めていかなければならないこともあると理解していただきたいと思う。

前半に私がこれまで何をやって来たのか、それがどのようにつながっているのかを時代を遡ってお話しする。後半でキャリアというものをマネージメントする、どのように自分で作り上げていくか、自分自身で学んできたことをお話しする。そしてワークショップ、まとめをしたい。

PhDを2005年よりやっている。教育、保健、人道援助などで使われている『キャパシティ・ディベロップメント』の概念と実際の運用上の利点と課題を扱っている。その先にある関心は、楽しく働くこと、能力がある人が能力を発揮できる、途上国の人が喜んで自分の生活をよくしていくために参画出来るような「場」を如何に作るかということである。

研究の対象国はマラウィで、同国の公的セクター、特に教育省の行政官に対するキャパシティ・ディベロップメントについて研究をしている。また、家族が医療法人を経営しているので、数年前からそれを手伝うようになった。インターネットを通して新規クリニックの開業の準備などの業務に携わっている。イギリスに来る前に家族で会社を始め、人材育成のコンサルタント、医療経営のコンサルタント、調査研究をやっている。また、通信教育のMBAを受講し始めて今年で4年目になる。来年修了予定である。

それでは、まず、なぜ研究を始めたのか。

途上国ではよく人材育成が課題であると議論される。しかし、実際は途上国に優秀な人材は沢山いる。問題は、人材が組織や社会の中で生かされていないこと。現場で仕事をしていて、その優秀な人材が埋もれてしまう、周囲の影響を受けて悪い方向にいってしまうという状況を目の当たりにしてきた。

次に、なぜ医療法人と会社の経営に関わるようになったのか。

国際開発の分野で、自分の専門の仕事を目指そうと考え、組織やプロジェクトを渡り歩いてきた。自分の名前を看板に掲げた個人商店のようなもの。しかし、それがいつまで続くかというのがこの業界の現実でもある。2,3年の期間でプロジェクトや職場を移動する生活の中で、家族もでき、自分自身の「拠点づくり」の必要を感じたので、先述のような事業経営へ携わり始めた。

では、今までどのようなことをやって来たか。開発の専門家をなぜ目指したか。

大学卒業後すぐ青年海外協力隊(JOCV)で数学の教師としてザンビアに派遣された。23、4歳の頃。任地に赴き、早速学校に行ったら子供が教室外にあふれていた。しかも先生はいるはずなのに、教室には来ていない。寮制の学校だったが夜の自習時間や学校生活におけるしつけなど教師がしっかりと学校運営できていない。そういう学校に赴任した。任地は首都から350kmくらいで、鹿児島から福岡くらいの距離。通常、車で6、7時間程のところが、劣悪な道をメンテナンスの行き届いていないバスで移動すると早くて10時間、時には一泊がかりで移動していた。そんな場所にある学校だから首都の教育省や地方教育事務所から行政機関の担当者もほとんど来ない。ある意味、孤立したところ。先生にとっても遊べるところがない。田舎なのでお酒を飲むしかない現場で、国が何を目指しているのか分からない。JOCVで組織する教師会議関連で教育省と話をする機会はあったが、教育省の人は現場でどうなっているのか知らない、少なくとも関心がないように感じた。また、教育政策と現場の両方を知っている人がいない、と思った。学校現場での要求が政策に反映されていない。政策が現場で実践されていない。そこで自分は、政策と現場を結ぶ中間者になりたいと思った。

JOCVの任務終了後、地元の民間企業に勤務。その後、NGO、イギリスへ留学、ジュニア専門家としてJICAに勤務し、JICAの教育プロジェクトの長期専門家として、国際協力の現場に身を置いた。長期専門家従事期間中は、政策立案のサポート、教育計画を立てる時のサポート、ドナー間の調整の専門家として教育省にオフィスをもらってアドバイザーとして働いた。

現場の把握(学校数、生徒数、教材、教員数、配置など)、目標、何が必要か。それを見極め、ハード面、ソフト面両面において適切な助言を局長や次官にアドバイスをするのが教育行政アドバイザーとしての仕事だった。主な業務の一番目は、JICA専門家としての立場もあって、JICAと教育省の橋渡しをすること。二番目は、地方教育事務所や学校現場などを回り、必要な措置を教育省に具申したり、JICA支援のプロジェクトとして計画立案、運営したりすること。全国のすべての州・県の教育事務所を自分で車を運転して現場を見て、直接話を聞いて回った。三番目には、他ドナーとの連携、協力であった。協力隊の仕事を終えるときに、目標とした「政策と現場を結ぶ中間者」として当に理想的なポジションであり、思う存分仕事ができた。

それでは、長期専門家になる前に、なぜジュニア専門員を選んだのか。

当時、政府機関より民間企業を希望していた。民間で自分を鍛えたかった。しかし、当時、開発コンサルタントへ就職するためには、履歴書5枚は必要(2枚は自分の経歴、3枚はプロジェクト関与の経歴)、それを用意できないと採用されるのは難しい、と先輩から助言された。特に、20代半ばから30代半ばはまだ業務経験を積み始める時で希望の就職は厳しいとアドバイスされた。そこで、国際開発業界における実務経験を積ませてくれるジュニア専門員としての道を選んだ。

JICA本部に約1年半勤務した。当初、社会開発調査部など、教育開発調査を実施する部門に携わりたかったが、派遣されたのは無償資金協力部だった。主に技術協力(ソフト面)を担当するJICAとしては施設建設や機材供与(ハード面)のための調査を担当するユニークなところである。そこで、無償資金協力プロジェクトの計画管理、実施促進を担当。(建設工事や資機材の配送を請け負う企業が先方政府とプロジェクト実施契約するのを認証する。JICAはプロジェクトの進捗がスムーズにいくように外務省と連携しながら支援。それが実施促進。)それまで無償資金協力としてはなかった教科書配布の小規模案件(ソフト無償など)も2001年頃担当した。無償資金協力事業は、外務省が資金管理をし、設計を含めた事前の調査、実際に建設工事をする業者選定を行うのは開発コンサルタント、両者の調整を行うのがJICAである。実際に従事して、これもまた「中間者的な役割」であることが分かった。

そこで、現場で技術支援に取り組む場を獲得するためのチャレンジをした。学校案件といえば、それまでは第一にハコモノ(校舎)を作ることが求められていた。しかし、日本の支援は他ドナーの建設費に比べてコストが高いと批判を受けはじめている時期でもあった。そのような高まる批判に対する説明資料として、適切に支援が行われていることを示すため、案件に関連するソフト分野(学校運営等)のマニュアルを作り、導入していた。案件形成においてハードとソフトをどのように結び付けるかがそれまで以上に求められていた。一方、各国の支援状況を調べて、現地に行っている人たちの中でもうすぐ帰国する人たちなどの状況を確認し、プロジェクトの担当部署(地域部など)に自分が関心のある国やプロジェクトがあることを積極的に伝えていた。

無償資金協力のプロジェクト管理業務経験から何を学んだか。

もし民間に行っていたらプロジェクトに携わっていても、20代とか30代では業務調整(プロジェクトの会計、雇用調整、会議の設定、プロジェクトチーム全体の旅行手配)を任される。JICAでは、プロジェクト管理をする立場から、全体を見ることが求められる。また、調査を実施するコンサルタントの人にも外務省の担当官に対しても、プロジェクトについて聞かれて担当者の自分が知らない、ということは許されない。自分が知らないことがあっても、事前事後にしっかりと調べ、交渉・調整し、現場にとって望ましい方向へ如何にコンセンサス作りをしていくことを学んだ。また、組織の中で書類がどのようにまわっているのか、意志決定がどのようにされるのか、を知ることも大切。自分がいいプロジェクトだと思っていても、人に良いプロジェクトだと共感してもらわない限り実現していかない。さらに、組織の中でどのように意志決定がなされるかを知らないと、回ってくる書類が沢山あるので自分の書いた報告書やプロジェクト・プロポーザルが埋もれてしまう。人の目に留まる文書はどういうものか、を常に意識して上司や先輩、同僚の文書から学ぶ姿勢が大切。

次にイギリス留学について。まず、その背景を話そうと思う。

ザンビアでのJOCVで目の当たりにしたのは、機能していない学校、授業をしない先生、小銭稼ぎのために放課後に補修をする先生、アローワンス(手当)・シンドロームに侵された先生(ドナーが支援するものには手当てが出る。出席者にお昼を用意したり、参加費をあげたりする→これが先生たちの給与の補填になったりする)、子供たちが教室で待っているのに授業に来ない先生。そんな状況だったので、家計を助けるため学校をやめていく生徒に、学校にとどまれ、とは言えなかった。教師として悔しかった。

今思うと、JOCVの2年間は感情の起伏、喜怒哀楽の幅が大きかった。水が出たり、夜、電気がきたり、村のマーケットに普段置いていないピーマンやニンジンを見つけたりした、そんな些細な事だけでこれ以上ない幸せを感じた。逆に同僚やかわいがっていた子どもたちがマラリアなどの病気で亡くなると、「なぜ、そんな不条理なことが起こるのか」と、しばらく何も手につかなくなったりした。大学院では、そのような現実に直面しても、感情に流されずに強くなれるように、そして途上国の現実をより深く理解するために、理論武装したいと思った。

大学院の勉強では“Distance Education (DE)”に注目した。ザンビアの現場では、端的にやる気のない先生は必要ないと思った。教員が少ないので、教員になる素質と責任感がない人がなったりする。教員でもなろうか、教員しかないといった考えで先生になる「でもしか先生」が多かった。少数でもやる気のある先生だけを残し、彼らの授業を遠隔教育技術によって地方に発信した方がいいのではないか?と考えるようになったからだ。自分自身、田舎出身でもあったしNHKのラジオ放送が好きで、英語はラジオで学んだ。もちろん、途上国におけるDEの運営にも様々な課題があることは勉強した後に理解した。

イギリスに留学できたのは、アジア経済研究所開発スクール(IDEAS)海外派遣支援制度のおかげ。その前にNGOに半年くらい所属していた。本当はJOCVが終わってすぐに大学院に行きたかったが、家族・親族の都合があって地元に帰る必要があり、その時に国際協力を一旦諦めた。しかし、そこでの仕事がひと段落するとザンビア、途上国への想いを忘れられていない自分に気づいた。その時に、カトリック系の国際協力NGOに出会い、カンボジア、東ティモールなどに行く準備をし、国内研修をしていた。

このNGOの研修はとてもユニークで、日本の農業訓練(無農薬の)をしたり、神奈川県川崎市で活動している神奈川シティ・ユニオン(日本企業が外国人労働者を労災保険も適用されない劣悪な条件で雇っていたり不当解雇していることに対して労働者への支援している)の活動を見学したりした。その時、カンボジアに行く前にしっかりと国際開発や援助の理論について勉強しておきたいと思い、IDEASを受験した。

IDEASは各分野から一人ずつ採用すると言われている。保健、教育、金融、インフラ、環境分野に関心のある人を一人ずつ、という感じだ。合格してから聞いた話では、IDEASでは「一芸」が必要とのこと。自分は、履歴書の特技欄に「キング牧師のスピーチ“I have a dream”の暗唱」と書いていたら、面接時に「やってみろ」と言われ、それを披露して合格したのだと思う。JOCVの時、夜、停電ばかりで、する事がなくローソクの灯りの下、暗唱でもして時間をつぶしていたのが役に立ったのかもしれない。

IDEASでは、社会分析ツールとしての経済学や統計学の基礎を勉強する機会を与えられ、そして留学させてもらえたことに感謝している。また、アジア各国からの経済産業省や財務省などの援助の窓口で働いている研修生と共に机をならべ援助を受ける側の本音を聞けたことも勉強になった。

自分の所属していたNGOが大切にしている行動理念は『専門性の前に人間性。目の前に困っている人がいたら、まずそばに寄り添ってあげること。そして、一緒に泣くこと、励ますこと』だった。その点に共感して参加した。しかし、将来の生活もあるので、それだけではずっとやり続けることはできないのではないかと感じたこともあった。一方、勉強のため場所を移したIDEASはどちらかというとキャリア志向の人々が集まってくる(自分もそうだったのだろう)。みんな、留学の話やその後のキャリアの話題をよくしていた。しかし、「キャリア」だけが国際協力分野に進む目的ではないだろう、とNGOからの派遣を断ったことが正しい選択だったのかしばらく悩んだことも事実。

では、NGO、IDEASの前、協力隊終了後何をしていたか。

地元の民間企業に勤めていた。日本の民間で経験を積むのは、その後、国際協力分野を進みたいと思っている方にとっても大いに役に立つと思う。ビジネスの基本、コスト意識、営業(モノやサービスを提供する際、人に頭を下げられないと駄目)を学んだ。

では、元々、何が開発分野へ進ませることになったのか。

中学2年の時、エチオピア大飢饉があった。テレビで子供たちのことを見た。自分は3世代家族の中、鹿児島の田舎で育った。そして祖父母と父母を一時期に病気で失った。しかし、家族を失っても学校には行けた。日本の奨学金のおかげで大学院まで授業料を払ったことがない。それは日本がそういう制度を持っていたから。新聞奨学生を大学1年の時にやっていたが、そのおかげで鹿児島から東京で学生生活を送ることができた。アフリカの子供たちと自分の境遇では親がいないという点では類似しているのに、その後、受けられる教育機会の違いに疑問と一種の後ろめたさを感じていた。

アマルティア・センが言うように、ケイパビリティをどのように広げるかが開発だ。自ら選択していくことができる範囲が日本のような先進国と比較して狭いのが途上国。また、大学生4年の時に見た新聞記事。湾岸戦争でお金しか出さない日本人に批判、カンボジアでの平和維持活動に日本人が派遣された時期。新聞で見た記事の中の中田厚仁さんの言葉(「苦しんでいる人たちのために、だれかが手を差しのべねばならない。自分はその『だれか』になりたい」)が心に残っていてこの道に進もうと思った。

そしてこれから将来のこと。

クリニックを立てたい。援助以外のアプローチを模索。奨学金制度、アフリカに企業向けのプロジェクトをやりたいと考えている。

質疑応答

質問:アフリカの開発を勉強しているが、子供たちは労働力として考えられていると思うが、プロジェクトがあっても両親が初等教育を子供に受けさせる意味を見出せていない場合があることを学んだ。親の教育に対する意識への変化はあるか?

回答:知っている限りでは親の教育への期待は大きい。しかし教育の機会が広がり、通わせてみたものの、得られる教育の質に対して親の間で次第に失望感が出ている。

例えば、赴任していたアフリカの国々で教育の質について語る時によく使われる比喩に、「昔は小学校を出たら、しっかりとした英語が話せていた」というのがある。英語を話せる=安定賃金職業就職の武器、だが、最近、親が嘆くのが、中学を出ても就職できない、出ても英語を使えない、ということ。子供の属性によって教育格差が広がっている。ケニアでは、中学校が無償化された。だが、無償化のレベルを上げ、教育の機会を一般に広げるほど(教育の大衆化)、社会における同学歴の相対的価値は下がる。夏目漱石がイギリスに来た時、帰れば東大の教授になれたが、今はなれない(留学の希少価値の低下)。教育の飽和の問題がある。

質問:現在、学部で開発を勉強しているが、教育は開発でどれだけの比重を占めているか。アマルティア・センは民主化促進で開発促進と捉えているが。教育はどうか?

回答:元々、国家開発において教育に対してプライオリティをつけていくものなのか?おそらくご質問の趣旨は、限られた資源下における国家開発の中で他のインフラ開発や医療保険分野などと教育をどうバランスしていくかというものだと理解している。しかし、なぜ国家が自分で自らの国民に対して教育を出来ないのか。近代国家において国民国家を作るために教育は大切だった。自分自身、90年代初め教育が開発において重視されていくのはうれしかったが、一方、主権国家として介入されたくなかったのが教育ではなかったのか、そこに止めどもなく外国からの援助を受け入れるとはどういうことなのか、と疑問に思ったこともある。教育開発の援助は、誰が誰のために、何をあるべき姿として実施しているのか分からなくなる時がある。

質問:キャリアが思うように行ってないとお話の中でおっしゃっていたが、どのようなマインドで仕事に取り組んでいたかを聞かせて頂きたい。

回答:うまくいってない中でどのように取り組んでいたか。できるだけ他の人に迷惑にならないように、足を引っ張らないようにやりながら、自分のできること、実現したいことを前向きにチャレンジする。ジュニア専門家の時に勉強会をやっていた。新宿のマインズタワーにJICAはある。JBIC、コンサルタント、大学院生など来てくれていたが、実は他の部署の人に来て欲しかった。そうすることによって組織の中でどれくらい許されるのかを試したのは事実。今までやったことがないから、前例がないから、普通やらないからなどの理由で実行に移されないことが多かった。今の案件と昔の案件を比べて何が出来るかをその当時、考えていた。過去はどこまで進んでいて、今、前進するために何が課題になっているかを把握し、一歩でも仕事のフロンティアを広げていくために自分に何ができるのかを考えていた。

質疑応答終了

キャリアマネージメントのステップ:

現状分析、現在だけではなく未来も見据える必要がある。例えば、博報堂生活総合研究所(生活総研:http://seikatsusoken.jp/futuretimeline/)によって作成されている「未来年表」。2100年までの経済、医療、社会、通信などの各分野でどのようなことが起こっていくのか公表されている政策や調査を基に作られているのでそれを参考にして欲しい。2020年には途上国経済の貿易、投資の自由化が実現されるとの予測。2020年、インドの国内総生産が8%の実質成長率を達成。中国経済が2020年まで年率7%の成長を持続。2100年、医療や環境では、タバコにより亡くなる人が10億人。そして気温と関連するビジネス、例えば体温調整などが増えるだろう。

そして日本のODAの推移。右上がりの時は希望に満ちていた。その後90年代の不況。小泉内閣の時に、政府系金融機関の整理統合問題に端を発して、JICA・JBICの統合による「新JICA」が2008年に設立されることが決まった。また、2006年から今後5年間で財政圧縮(ODAを含め)をすると決めた。2011年には1兆円から6000億円になる。2000年前後においても無償資金協力のハード系の業界は予算を下げてくれと言われて苦しんでいた。撤退した会社も多い。最近ではソフト系も余裕がなくなって来た。

全体を見ることは大切。自分が出来ること、実力チェックシート、潜在能力、意志+実践能力を足しての能力が必要。そうはいっても本当の自分が何者か、その潜在能力はどれぐらいあるのかは実は本人自身も分からない。日々、常に変化・成長している。だから、「自分はこういう人間だ、専門はこれだ」と、あまり自分を固定しない、決め付けないこと。教育に関心があるからインフラをやらないとか決め付けないこと。自己分析をやり過ぎるのもよくない。自分自身も常に変化しているものだと、オープンに考えたほうがいい。

そして二番目にとりあえず目標を決める。戦略、キャリアステップを考える、能力を高める。キャリアステップ、何個あっても良い。やる気さえあればどこでもやれる。

落とし穴:

目標設定:国連や国際機関にあこがれ、「目指す」人がいる。UNHCRや世銀など。しかし、難民を助ける方法は他にもあるので必ずしもUNHCRに限定させる必要はない。世間体や親を満足させるために選択しないこと。そして、行きたい組織はどこかというよりは、自分が本当にやりたいことへのイメージが持てないとだめ。そのようなイメージを持つには、教科書にこだわることではないと思う。まず自分の感性を信じて、現場にいってそこの空気を吸い、何が求められているのかを実際に感じてきた方が良い。それを繰り返せば問題意識が生まれ、それを解決するために教科書に戻って理論を勉強するという順番が大切ではないか。

また問題の本質をつかむように努めないと駄目。行きたい会社や組織を目標にしているとその組織自体が無くなったら一体どうするのか。自分が実現したいことの本質は、必ずしも「組織の名前」ではないのではないと思う。

能力獲得における落とし穴:

仕事へのイメージが持てない。話を聞く、現場の人に聞く。まわりから見てどうかというのを考えてもよくないのでは。本質を見る力のほうが必要。

チャンス:

売り込み方を知らない。引っ込み思案でもいけないし、押し売りでもよくない。適度なタイミングとアプローチの方法。目上の方に関しては、覚えておかなければならないのは、時間給が違うということである。1時間でしなければならないこと、社会に対する責任の重さは自分と相手と違うので、相手に質問をしたり、何かを依頼してもいいと思うが、どのようにお願いするかは慎重に考えなければならない。悪い印象になるのが一番いけない。自分ができることを簡単に相手に投げない。「忙しいのに…」などと思わせないようにする必要がある。買い手側の事情を知らずして、チャンスを得るのは難しい。また、業界の労働市場を近視眼的に考えるのもよくない。

ワークショップ:

3ステップある。

1. 価値観や想いを整理し、考えよう。

2. そして未来のイメージをする。ここで大切なのはどういう状態で考えるということ。

例えば、家庭、子供の世話などを楽しんでやるとか、研究は、論文を週に20本は読むとか、具体的に書く。今年の目標のみならず、長期的にも書くこと。

3. 社会との視点で考える。

まとめ:

自分自身で失敗したことはもちろん、同僚・仲間、外務省の人たち、コンサルタントの人たちを見ていて感じてきたこと。

国際開発、援助において主役は誰?もちろん相手(支援対象となる人々)。若い時は頑張りたい、存在をアピールしたい。それはそれで大切だが、一番いい仕事をした時というのは「いい意味で負けた時」。相手に華を持たせる時。相手の立場を立ててあげる。

次は、スキルかモラルか。当然、モラルだと思うが、国際開発分野の修士コース、MBAではスキルに重きを置きすぎている感がある。スキルアップや就職のためのワークショップなどが沢山あるが、大切なのは仕事をする上でぶれないモラル、心の強さをつくること。援助の現場には権力とお金に絡む問題も多々ある。社会全体が貧しいがゆえに、お金に対しての執着が強いのも事実。社会のパイが小さい分、それをどう分配するかというパトロン=クライアント関係のピラミッドに如何に入るかが生き残るために必要なのだ。もちろんスキルは大切だが、現場の仲間がその関係から少しでもフリーになれるよう社会問題をモラルの側面から考えることはそれ以上に大切。モラルの訓練は日々することが大切で、1時間2時間でのスキルのワークショップで身につくものではない。

頭?心?どっちで理解?

感性の鈍い人は国際協力に向いていないと思う。人が困っている時にそのことを口に出して相談できない相手の気持ちをどうやって察知して手を差し伸べられるか、細やかな感性を持つこと大切。また、お金の感覚も大切。例えば、レストランで20ポンドを使う時、ある国では同じ金額で中学生が一学期、学校に行けるなどの感覚が持っているか。

自分がどういう状態でありたいか、それを基にそれを実現する方法としてどこで働くかという考え方の方がよい。

語学力が重要視されているが、「語学力」よりも相手のいいたいことを理解し、自分がどうふるまうか、心配り、気配りが大切ではないか。

交渉をブレークスルーするのは?

ユニークさ、気の利いたこと、機転、どうやって笑わせようかと考えている人の方が交渉を通す力があるのではないかと思う。「あいつがいるからいいかー、条件を呑もう」という雰囲気を形成できるのが「真のコミュニケーション力」ではないか?

開発をやりたければ他の分野をやっているほうがいいのではないかと思う。

そういう人を求めている気がする。経済学、社会学、政治学、色々知っているほうがよい。好奇心旺盛の方がいい。

自分のための「キャリア形成」というよりも、仕事を通じて他者との「信頼形成」を築いていくのだ、と考えること大切である。人を蹴落としていくのは違うと思う。

アマチュアとプロフェッショナルの違い。

プロフェッショナルは、高い目標を設定し、言ったことは守る=信頼につながる、成功するには準備をしている、代償を厭わない人のことを指していると思う。

正直、これまで自分の思うように行かない時、自分の境遇をうらみ、嘆くこともあった。弱い人間だったと思う。しかし、自分に与えられた環境の中で自分の役割は何なのか、何をすべきなのかを考え、感謝して日々を過ごすことが大切だと気づいた。

最後に:

このような時間を与えて頂きありがとうございました。これからのポスト・モダン社会では学校の成績だけでなく、自分の想像力、ネットワーク力が重要。周りの人たちといい社会を作れるように、競争の厳しい国際開発分野ですが、是非頑張って下さい。