ケモ耳ペルソナスクランブル

 春夏秋

『拝啓、仲間の皆様、友人の皆様。

 この手紙をあなたが読んでいる時、私は死んでいるでしょう。どうか驚かないで欲しい。この世を生きる事は私には───』

 しっかりと内容が書いてある事を確認し、遺書を畳んで封筒に入れる。

 誰に読まれるかもわからない。友人も少ないし、立ち入り禁止の高校の屋上まで来る人物は中々いないだろう。でも、遺書さえ残さないというのはなにか違う気がして、それは生きていた証が欲しいというささやかな抵抗だったのかもしれない。

「さて」

 遺書を床に置き、そこら辺に広がっていた石を重しにしする。これで準備は万端だ。

 靴を履いたまま屋上の縁へ乗り上げる。

 死ぬ直前に考えるのはなぜみんな靴を脱ぐのかという事だった。脱ぐのならいっそ服ごと脱いでしまえばいいし、その気がないなら靴も脱がなければいい。変な悩みが脳裏を過ぎ去り、まあ死ぬのだからどうでもいいかと現実に戻った。

「たっけぇ──」

 屋上から地面までの高さ15M。

 人が死ぬのには充分だ。何もしなければ地面に着いた瞬間、閻魔の目の前への片道切符を手に入れる事が出来る。

「……ん~? なんだあれ」

  ぼーっと地面を見つめる事数十秒。

  この高校の屋上は割と土地の中でも端の方へ設置されていて、いま立っている方には体育館裏がある。

 つまり下を見るという事は体育館裏の薄暗がりを見つめるという事で、割と視力が良い方である彼はそこに違和感を見つけた。

 金色に輝く『なにか』。尖っているような、それでいて丸いようなそれ。

 人のように見えるし、毛玉のようにも見える。

「……」

 せっかく死ぬのだから好奇心のとおりに動いてみようか、という思考が働いた。自殺の際の靴の有無は文字通り『死ぬほど』どうでも良いが、特異な雰囲気のそれがなぜか気になった。

 地上へ降りて近づき、声をかければ、そのもぞもぞと動いていた『何か』は驚いて飛び上がる。

「ねえ」

「ひゃぁぁぁっ!?」

 ──宝石を溶かしたような綺麗な金髪が、それに合わせて靡く。

 腰まで届く金髪に、まるで外国人のような碧眼。

 身長は彼の肩口に届くほど──大体160cmぐらいだろうか──で、ややちんまりとしている。制服を着ているという事は同じ高校の生徒のはずだ。

「な、何故ここに!?」

「なぜって……えっと、たまたま屋上にいたら下で動く君が見えて、なんだろうと思っ……て……」

 徐々に言葉が尻窄みになっていく。

 ただの髪なら屋上から見た時にわかる。彼女自身なら尚更だ。でも、わからなかった。見てもわからなかったそれの正体がいま、わかった。

 ケモ耳だ。

 金髪の上に綺麗な耳が生えていて、腰の辺りには尻尾もある。

 ──気がつけば目を奪われていた。

「えっと、えっと、これは違くてっ」

 目線がケモ耳に向いているのを見ると、彼女は頭を隠すようにして縮こまる。

 けれど激しく振られている尻尾はそのままで、隠せているとは言えないだろう。

「……ねえ、しっぽ」

「はわっ!」

「……」

「……んーっ!!」

 動く尻尾を何とか動かさないようにとするが、今度は震えからか微妙にプルプルと動いている。

 頭隠して尻隠さず、という言葉があるが、頭も尻も隠せていなかった。

「───」

 何か、胸にざわめきを感じる。

 ケモ耳、尻尾、同級生。

 目の前にいるのは明らかに人間ではなくて、でもそんなのはどうでもよくて。

 ただ、薄暗がりに輝く金色の耳が、目を焦がして離さない。

「ひんっ~~~~!」

「ねえ」

「ふぁっ!? はいっ!」

「もし良かったら、仲良くしない? 友達になろうよ」

~~~~~~~~~~~~~

「私は、如月(きさらぎ)命(みこと)───獣人です」

 慌てていた彼女が落ち着いた後、そう名乗った。

 彼女───命曰く、獣人とは、数千年前から日本に存在する『種族』らしい。人間の肉体を持つが、異なる点として怪力、特殊な力、そしてケモ耳としっぽを持つ。

 獣人とはいうが、別に人間の肉は食わないし世界征服も企んでいない。数も少なく大人しい者が多い──『人狼』という例外を除けば──らしい。しかし、いま現在社会に獣人という存在が浸透していないように、人間は異物を排除しようとする傾向がある。

 捕まれば人体実験などもされるだろう。そしてそれを危惧した獣人は、自らを偽る術を身に着けたのだ。

 彼女はそのうちの一人で、正体を隠しつつこの高校に通っているそうだ。

「獣人は耳と尻尾を世界から『隠す』術を持っていて、普段はそれを使う事でバレないようにしているんです」

「でも僕は見えてたよ?」

「えっと、私も普段は術を使って隠してるんですけど、まだ未熟で……時々休憩しないと力が尽きて術が解けてしまうので、こうやって体育館裏で開放してるんです」

 現在、命は耳と尻尾を見せたままだ。もう既に力は回復しているが、どちらかといえば出したままのほうが楽らしい。

「それで偶々僕が見ちゃった訳だね」

 命は首を振る。

「いえ、一応『人払い』の術も使っておいたんですけど。やっぱり未熟なのでしょうかぁ……」

(わかりやすい……)

 肩を落とすと同時に、耳と尻尾が下がる。

 さっき尻尾の揺れを隠せていなかったのを考えると、二つは感情と比例して動くのだろう。非常にわかりやすい。

「でも、ハンターの方じゃないのは幸いでした……」

「ねえ。何か言った?」

「い、いえ! なんでもないです!」

 小声だからか聞こえず、聞き返したがはぐらかされてしまった。彼は少し不満げに肩を竦めるが、それを誤魔化すようにして、命は手を合わせる。

「そ、そうだ! 先ほど言っていた『仲良くしよう』って、どういう意味なんですか?」

「あぁそれ? 簡単な事だよ。まず、君は獣人ってやつなんだろう? そしてそれをほかの人間に知られたくない」

 命は頷き、続きを待つように黙っている。

「僕も別にばらしたい訳じゃない。けどこのままだとメリットがないから、取引をしよう」

「取引、ですか? ……か、体は嫌ですよ!?」

「違うってば」

 自らの体を抱えて後ずさりする命に、彼は苦笑いをする。

 そこら辺の盛っている男子高校生とは違うのだ。まあ命をかわいいとは思うが、イコールで直結するとは思ってほしくないものである。

「僕は君の秘密を誰にも話さないしバラさない。代わりに、君と僕は友達になる。君と仲良くしたいんだ」

「……それでいいんですか?」

 命は首を傾げた。

「それだと、私に利が多すぎる気が」

「ねえ」

「はい?」

「僕が君と友達になりたいんだ。獣人の事を黙っているだけでこんな可愛い子と友達になれるんだから、むしろ安すぎるぐらいだよ」

「……ふふ、ありがとうございますっ」

 鈴が響いているような笑い声だった。

 頬は少しだけ朱色に染まっていて、尻尾を見れば強く振られている。そうやって喜んでくれるのなら褒めた甲斐があるというものだ。

「友達になろうよ、如月さん」

「命、で大丈夫です」

「じゃあよろしくね、命さん」

「呼び捨てでもいいんですが……まぁいいです」

 そこまで言って、彼女は前に踏み出した。

 校舎の影から出る瞬間、その耳と尻尾が面白いほど綺麗に消えていく。まだ高い西日に彼女が照らされる頃には、普通の女子高生に戻っていた。

 命はくるりと振り返る。

「私、今日は新作スイーツを食べる予定だったんです。『友達』なら、付き合ってくれますよね?」

「……そうだね、良いよ」

「やったっ。それじゃあ行きましょ!」

 獣人全てかは分からないが、少なくとも彼女の味覚は人間と同じらしい。むしろ新作スイーツを食べに行くなんて、人間らしいというか、女子高生らしすぎる。

 歩き出した彼女に付いて行こうと駆け足になり、少し近づいたところで急に彼女が立ち止まった。

「おっと」

「そういえば、貴方の名前を聞いてませんでした!」

「あ、そっか」

「はい。教えてくれますか?」

「……あぁ」

 少し間を置き、彼は喉から絞り出したように声を出した。

「俺の名前は──」

「はい!」

 名前。

 それは人を表す個体名。

 親から贈られる二つ目の大切なもの。

「──俺の名前は、蘭(らん)だ」

 彼──蘭は、そう言って自己紹介をした。

「蘭くん……あれ、苗字はどうしたんですか?」

「あ~~~……苗字が嫌いって事で」

「綺麗な名前だから苗字も綺麗なんだって勝手に想像してます」

「そうだと僕も嬉しいや」

「教えてはくれないんですか?」

「そのうちね」

~~~~~~~~~~~~~

 そこから、慌ただしい日々が始まった。放課後はショッピングモールやカフェといった色々な場所へ行って、くだらない話をして時間を過ごす。

 時には隣の県まで遊びに行く事もあって、それは遊びというより旅行や探検だった。

 普通の学生ならば、そうやって振り回されるのは嫌がるかもしれない。何より疲れるし家に帰りたいだろう。

 だが、彼は普通の学生ではなかった。

 そうやって振り回される事を好ましいと感じるタイプだったし、あまり趣味がない事から金も有り余っていたので、それを使える機会は……なにより、使う方法を教えてくれた事は彼にとっても良かった。

 蘭は基本的に受動的だ。命が提案した事について色々と意見を言うが、最終的には命の意志を尊重する。それは優しいというよりも、意志に欠けているようにも映ったのだろう。

 だから彼女は、事あるごとにこう言ってくれる。

「蘭くんはどうしたいんですか?」

 それがきっかけで、蘭も少しずつ物を言うようになってきた。

 遊ぶだけではなく、日常生活においても彼は役立った。

 命が耳と尻尾を開放しなくてはいけない──人払いの術を使っているとはいえ、蘭のような例外が訪れる可能性は零とはいえない──ので、その時の見張りをしたり。

 家の事情で学校行事などに参加できない時、蘭がそれを代わったりもした。

 どうやら彼女の家はそれなりに名家らしく、そういう家特有の『しがらみ』があるのだという。詳しい事情は分からないにせよ、蘭にできるのは言われた事を手伝うぐらいだ。

 どうやら彼女は友人が少ない──いない訳ではないが、獣人ゆえに警戒心が強く、中々人に心を許せないらしい──ので、必然的に蘭と遊ぶ事が多くなった。

「そ、それもしかして! あのEスポーツプロチームの特集が組まれた雑誌ではないですか!?」

「えっ、命さんこれ知ってるの? 僕チームが組まれた当初から追ってて、特にリーダーの大ファンなんだけど」

「えーーーー! 私もですっ! この前の世界大会第二戦見ましたか!? あの場面での詰めのタイミングがすごくて──」

 蘭にとっての数少ない趣味が一致したのも、遊ぶ機会が増えた事の原因でもあるだろう。

 正直最初は『獣人』と聞いてどこまで人間と違うのかと少し不安だったが、むしろ俗っぽすぎるぐらいで、でもそれは彼にとって好ましい要素だった。よく考えてみれば、違いが大きければ人間社会に適応できないのだから、人間『っぽい』のは当然ともいえる。

「んあっー」

「おぉ、確かに八重歯が長い」

「んががーっ」

「別に奥歯が長いとかはないんだねぇ」

「あーーーっ!」

 妙に鼻が効いたり、八重歯が長かったり。

 そういうちょっとしたところは人間らしくなく、獣人らしいところだ。

「ぷはっ。い、いつまで口を触ってるんですかっ!」

「ごめんごめん」

「まったく……」

「指が涎まみれだ」

「デリカシーーーーーっ!!」

 蘭はあまり命を怒らせないようにしようと思った。

 クラスは違ったが、大体の場合は命の方が蘭のクラスまで足を運んでくれる。

「蘭~、今日どうする? カラオケいくべ」

「先約が──」

「蘭くーん!」

「金髪ちゃんか~。じゃあ仕方ねえな。まっ、楽しんでこいよ?」

「なにニヤニヤしてるんだよ……わるいな」

「いいって事だ。よっ、金髪ちゃん」

「あっ、お友達さん。こんにちは~」

 クラスに足を運ぶという事は、蘭の友人とも関わる機会が増えるという事でもある。

 友人からは『金髪ちゃん』、命からは『お友達さん』。奇妙な呼び方だが、二人が楽しいのならそれでいいと思う。

「仕方ねえ。俺は大人しくバイトに行くわ」

「バイトかよ」

「ちゃんと行きましょうね……この前もサボってらっしゃったじゃないですか」

 この友人を交えて遊ぶ事も多い。

 命と蘭はあまり活発な方ではないし、そういう時にこの友人を頼ると普段はいけない様な場所へ連れてかれる。ライブやちょっとディープなスポットなどだ。

 気がつけば、毎日が楽しくなっていた。

「あっ」

「蘭くん? どうしたんですか?」

「いや、えっと」

 中身の入った封筒。

 

 それは蘭が命と出会っていた時に持っていた封筒だ。

 あの時は咄嗟にバッグの中へ突っ込んでいたが、荷物を整理していたら再び発見した。でもそれを見せる訳にはいかなくて隠してしまう。

「おーい!」

「あっ、今行きまーす! ほら、蘭くんもっ」

「あぁ──」

 死にたい。

 今でも時々、死にたくなる時がある。

 それは変わらない。変われない。

(……でも)

 目を閉じる。

『蘭くんっ!』

 地獄だった瞼の裏が、こんなにも華やかならば。

 少しだけ、生きてみようと思った。

「──いま行くよ!」

 

 蘭は封筒をバラバラに千切り、下らない考え事ゴミ箱に捨てた。

 ──輝く金色の耳は、未だ目を焦がして離さない。

~~~~~~~~~~~~~

 そうして、一年が経過し、二人は進級してクラス替えが行われた。

「同じクラスです。同じクラスです! 蘭くん!」

「そうだね。僕も嬉しい」

 二人は同じクラスになっていた。

 しかもちょうど隣の席であり、正に運が良いとしか言えないだろう。

「おいおい、俺を忘れんなよ?」

「あっ、お友達さん!」

「おっす! まあ、同じクラスなのは良いとして──なんで俺だけ斜め前なんだよ!」

「ねえ。日頃の行いじゃないかな」

 命が窓際で、蘭がその隣。

 そして友人は蘭の左斜め右前であり、一人だけ絶妙に接しにくい位置にいる。

「二人の事を邪魔するからだろ~?」

「そうだぞ蓮司! 間に入るな!」

「お前らなァーっ!!」

「こら! 煩いぞ東雲!」

「うがーーっ!!」

「ふふっ」

 友人が少なかった命にも、蘭や友人を通じて話せる相手が増えた。

 その容姿から男子人気が、愛くるしさから女子人気も獲得していて、こうして友人と共に弄られキャラの様な扱いになっている。

 随分と、和やかな日常が流れていた。前からは考えられない程楽しくて、楽しくて。楽しくて──

「さて、今日の放課後はどうしますか? 蘭くんはどうしたいですか?」

「そうだな……アイツも誘ってカラオケとかは?」

「いいですねっ。私もこの前のリベンジを──」

「ちょっといいか」

 ──教室のドアの前に、赤髪の男子生徒が立っていた。

 彼の雰囲気だろうか。その圧のような何かを無意識に感じ取っているのか、クラスの注目が彼に注がれている。

「あっ、はい。なんでしょう?」

「お前に用がない事もないが……そうじゃない。──お前だ、お前」

 赤髪が指したのは蘭だった。

 ゆっくりと席を立ちあがり、赤髪の方へ歩いて行く。そして振り返らず、命へ言葉を投げた。

「ごめん、先帰っててくれるかな。ちょっと時間がかかりそうだ」

「あっ、はい……えっと、大丈夫、ですよね?」

 命は人一倍、雰囲気に敏感で嗅覚が鋭い。クラスメイトよりも赤髪の『何か』を感じ取っているのかもしれない。

「大丈夫だよ。また明日ね、命さん」

「はい──蘭くん」

「いくぞ」

 赤髪はドアから離れ、顎で廊下の方を示し、歩き出す。

 蘭もそれに無言で付いて行った。

「……」

「……」

 会話はない。

 ただリノリウムの床を叩く音がするだけだ。

 

 二人が向かった先は屋上だった。

 あの日のように、赤髪は立ち入り禁止の札を軽々と超え、ピッキングの要領でドアを開ける。

「こいよ」

「……うん」

 動きをなぞるようにしてドアをくぐれば、錆びた金属音がして閉まった。

 屋上は完全に二人っきりだ。校舎の中でも端に位置する事もあり、大声を出したところで誰も来ないだろう。

「それで、なんの用──!?」

 

 それを言い終える前に、赤髪が突然肉薄し、蘭の首根っこを掴むとそのまま鉄柵に押し付けた。

 

「ッ……う……」

「──あれは俺が目を付けていた女だ。手を引きな」

「ぐっ……」

 

 血管が浮き出るほど強く押し付けられている。心なしか鉄柵が歪む様な音まで響いてきた。

 耳元で聞こえてくる低音は恐ろしいまでに冷えている。きっとこのまま首を折る事もできるだろうし、多分それを赤髪は躊躇しないだろう。

「いや、だね……ッ」

「アァ? ていうかお前、自殺はどうしたンだよ。あんなに死ねると喜んでたじゃなねエか」

「……人は、ね。時々決心した事でも、変なきっかけでやめる時だってあるんだよ……それが今回だっただけさ……ッ」

「へェ! お前が人を説くのか!」

 赤髪は狂暴な笑みを浮かべた。

「とにかく、だ。お前が自殺しようとしまいとどうでもいい。だが、アイツからは手を引け。アイツは俺らの|獲物(・・)なんだよ」

「……ッ、嫌だッ……」

「…………ふゥ~~~~~」

 深い、深いため息だった。

 たっぷり十数秒息を吐き続け、赤髪はやがて首を離すと、人間離れした力で後ろに跳び退いた。

「OK──後悔すんぞ」

「かはっ……ッ」

「分かったら行けよ」

「はぁ……はぁ……あぁ……」

 首を離された事で急激に入ってきた酸素に脳がクラクラする。

 何回か喉を鳴らして息を吐けば、蘭は踵を返して入り口の方へ向かい、ドアを掴んだ。

「──今日の夜」

「……?」

「死にたくなければ俺たちに協力しろ。今日の夜、海辺の第三倉庫へ来い」

「……誰が」

 そう吐き捨て、蘭は振り返る事なく階段を下っていく。

『──今は前と違う生への執着を感じる。お前は絶対来るぜ。』

「くそっ……」

 ドア越しに投げられた言葉に悪態をついた。

 絞められていた首が痛い。

 まだ力をかけられているような錯覚がして、少しだけ気持ち悪い程だ。

 散々な目に遭った。

 カラオケの予定はなくなったし、命はもう残っていないだろう。だが、カバンを置いてきてしまったので、結局教室には戻ってきた。

 ──今日は真っすぐ家に帰ってゲームでもしようか。

 そんな事を考えて扉を開け、蘭は瞠目した。

「あれ……命さん」

「あっ、蘭くん」

 帰ったはずの命が、そこにはいた。

 いつも通り金色の髪は同じ色の夕陽に照らされていて、窓から入ってくる風に靡いている。

 命は静かに振り返った。

「ねえ。先帰っていいって言ったはずだけど、残ってくれてたの?」

「蘭くん」

 微妙を浮かべていつも通り軽い口を叩いたのだが、それは命の真剣な声色にかき消された。

 思わず『んっ』と口を閉ざしてしまい、妙に背筋が伸びる。

「蘭くん。あの赤髪の方に何を聞かれましたか?

「えっと、命さんの事かな……手を引けとか、なんとか、うん。色々」

「……お話があります──明日、お時間貰えますか?」

「え、あ、うん……明日?」

「はい。少し準備があるので、明日です......大切な話です。今日の赤髪の方とも関係あります」

「彼とは知り合いなの?」

 そう尋ねると、命は分かりやすく眉を顰めた。

「知り合いというか、知り合いにならざる負えないというか……それも含めて、です」

「そっか」

「でも決めるのは蘭くんです。蘭くんはどうしたいですか?」

「……うん、聞かせてほしい」

「ありがとうございます。どこか、静かな場所があると良いのですが……」

「──」

 ───小さい頃から、瞼を閉じれば、そこには地獄があった。

 歩いてきた、そしていずれ歩く事になる地獄。

 この瞼にそれ以外が映る事はありえない。そう、思っていた。

 でも今は───

「……」

「蘭くん?」

 閉じた瞼が熱い。

 あの日、あの時感じた熱はまだ消えていない。

 特別な事が起きた訳ではない。最初は気まぐれだった。

 気まぐれに気まぐれが重なって、いつしかそれは心に変わった。

 偶然が必然に変わり、気まぐれが自我に変わっていく。

 そんな一縷の儚い『少し』から始まる何かを、人は『運命』と呼ぶのだろう。

 

「それなら、学校でいいんじゃないかな。明日は授業が終わったら部活とかもない完全下校日だし、ちょっとズルだけど残っちゃおうよ」

 ──茜色に輝く金色の耳は、未だ目を焦がして離さない。

~~~~~~~~~~~~~

 翌日。

 クラス替えの翌日であるこの日は土曜日であり、さっそく授業が行われていた。授業、とはいっても軽い自己紹介程度で、それが終われば全員が下校していく。部活もなく、教員も全員が帰宅させられる日だ。当然教室へ見回りもくるし、見つかれば下校を促される。

 だが、そんなもの回避する方法はいくらでもある。

 屋上へ逃げる、トイレでやり過ごす、校舎裏で待機する。だが二人が選択したのは───

「いい感じです。いい感じですよぉー!」

「ねえ。耳触っていい?」

「ダメです。獣人の耳と尻尾を触ったら人によっては死にます」

「獣人が?」

「触った人が、です」

 耳と尻尾を開放して宙に手を漂わせている命に蘭は手を伸ばすが、普通に拒否されてしまう。

 

 彼女はいつも耳と尻尾を『見えなくしている』ではなく、世界から『隠している』のだ。

 誰も───世界すらも、命以外は対象を認識できていない。認識できていないという事は、『存在しない』のと同義である。

 今行っているのもそれと同じで、二人を教師の目から隠しているのだ。耳と尻尾に使われている術と同じようで、例えば二人が座っている椅子は教師からすれば仕舞われているように見えるし、机をたたいたとしてもそれは聞こえないだろう。

 それを利用して、いま二人は高校の大講堂にいる。

 『せっかくなら広いところが良い』と蘭が提案した結果だ。

「……」

 命の耳が何度も震える。

 それは彼女が遠くの音まで拾っている事を表していて、現在校舎に人がいるかどうかを聞き取ってるのだ。

「ふむ……もう大丈夫です。術を解除しますね」

「ありがとう」

 頷き、命が手を二回たたくと、鈴の音がどこからともなく鳴り響く。

 それと同時に二人を包んでいた謎の『圧』のようなものが消えた。詳しくは知らないが、それが術を解除した事を表しているのだという。

「何度かけられても思うけど、不思議な感覚だね……」

「私たちは生まれた頃から体験してますけど、蘭くんには馴染みがないですよね」

「貴重な体験だと思っとくよ」

「はいっ。……あんまりもう、機会はないかもしれませんが」

 静かに零された言葉を気に留めず、蘭は背もたれに預けていた体を少し起こし、命の方へ顔を向ける。

「───それで、話ってなにかな?」

「っ……」

 先ほどから命の顔に陰りが見えるのは分かっていた。だからこそ、という訳ではないが、ずっと気になっている。暗い顔をする原因が例の『話』なのだとすれば、早めに解決した方が良いというものだ。

 命は一瞬、口を開き、再び閉じる。

 そして立ち上がると、耳と尻尾を開放した。

「命さん?」

「……少し、話を聞いてくれますか?」

「うん……」

「ありがとうございます」

 ゆっくりと、彼女は歩き出す。

 二人以外に誰もいない大講堂に革靴の音が響く。

 不思議と、命から目が離せなかった。

「───私は、獣人です。生まれつき人間とは違っていて、努力しなければ普通の生活も送れません。こんな異端な姿、世間の目に晒されればひどい目に遭う事は分かり切っていますから」

「……」

「小さい頃は苦労しました。才能もなく未熟な私は、耳や尻尾を隠すのにも大変で……バレそうになった事は何度もありました。それを誤魔化すために嘘をつく事もあったし、転校する事は何度も」

「……」

「逆に信頼できる誰かに知っておいて貰えばいいと思って、正体を明かした事も何度かあります……でも、みんな誰かに話してしまったり、気味悪がったり……その度に術を使ってどうにかして……そんな事を繰り返していたら、気が付けば人の本性がある程度わかる力が身に付きました」

 命はまだ、歩き続ける。

「その頃には耳と尻尾を隠す力も育っていて、これで普通の人生が送れるぞっ、なんて思っていたんですけど……もう人とかかわるのが怖くなっていて……浅く広くの人間関係があればそれでいい、なんて考えていました」

「……だから、友達が少なかったんだ」

 今思えば、少し違和感があった。

 彼女は見ての通り人気者だし、関わってみればわかるが社交的だ。冗談をいう愛嬌も備わっていて、端的に言えば人に好かれる要素がとても多い。

 つまり彼女は、あえて人とかかわらない事を選んでいたのだ。

 それこそ、蘭と出会うまでは───

「でも、僕とはすぐに仲良くなったよね? そう考えていたのなら、なんで……」

「そう。それです、蘭くん」

 そこまで言うと彼女は立ち止まって、こちらへ振り返った。

 

「───貴方からは、悪いものを感じなかった」

 彼女は泣いていた。

「何にも、感じませんでした。人の本性を見抜く力があるはずなのに、貴方からは何も。むしろ、悪いところ以外も感じられなくて……初めてでした。だから。試す事にしたんです」

「試すって……僕を?」

「はい。実際に関わってみて、色々話して……本性を暴いてやるっ、なんて思って、ました」

 声に段々と、嗚咽が混じり始める。

「でも、貴方は誠実で、優しくて、楽しくて、嬉しくて……っ。こんな人もいるんだって、思って。それで、試しに、っ、蘭くんのお友達さんをもう一回ちゃんと、見て、みたんっです。───悪いところもあったけど、良いところもありました」

 大粒の雫が何度も零れ落ちて行って、それを拭おうと彼女の袖が濡れていく。

「───私は、人の悪いところば、ばかり見ようとしていた。悪い一面を見て、それをその人の全てと決めつけて、人を遠ざけてっ……! 全部、私のせいだったんですッ……!」

 感情が爆発した。

 あふれ出る涙は止められなくて、床に零れ落ちていく。

 蘭は動く事が出来なかった。涙をぬぐう事も、上着をかぶせる事もできただろう。でも、それをする資格はまだないと思った。

「───すいません。自業自得なのに何泣いてるんだって思いますよね……」

「そんなことっ」

「いいんです。本当に、私のせいなんですから」

 悪くない、というのは簡単だった。

 実際、獣人である彼女を受け入れられなかった彼ら彼女らにも問題はある。

 ……でも、偶々蘭になんの抵抗もなかっただけで、もし違う立場なら。例えば命が女の子ではなく怪物だったら、受け入れられただろうか───そう考えると、安易に否定はできなかった。

「昨日の赤髪の方……あの方は私たちを狙うハンターの一人です」

「───」

「獣人は人間より数が少なく、特殊な力を持っている。だからこそ、希少価値が高く、売り飛ばせば纏まったお金になります。私たちを狙うハンターは実は多いんです」

 蘭の様子を見ることなく、命は続ける。

「ただの獣人なら、逃げればいいでしょう。幸いにも力があるから、全力で逃げて、慎ましく暮らそうと思えば簡単には手出しできません。でも───」

 命は最後に残った涙を拭うと、自らの胸に手を当て───瞬間、彼女の制服は純白のドレスに変わっていた。

「えっ……?」

「───私は、獣人における王族なんです。ほかの獣人よりも血が濃く、力が強くて……だから、もっともっと、ハンターから狙われます。赤髪の方も、私の正体に気づいているんだと思います」

「っ……」

「私と一緒にいたら、蘭くんは大変な目に遭います。だから───だから、もうお別れです」

 少しだけ首を傾けて、命は悲しそうに微笑んだ。

 正直、情報が多すぎて混乱している。だがその整理がつく前に、蘭は言わなければいけない事があった。

 命に秘密があったように、蘭にも秘密がある。

「命さんっ! 実は僕は───ッ」

「───かぁぁぁんどうだねェェェェェッ!!」

 瞬間、それを邪魔するように大講堂のドア全てが開かれた。

 驚いて四方八方に視線をやれば、黒い服に同色のコートと黒い帽子を纏った人間が大量になだれ込んでくる。

 彼らは駆け足で中へ入ってくると、蘭と命を囲むように整列し、その手に持つ各々の武器を構えた。あまりにもスムーズな動きであり、数十人は確実にいる。

「ハ、ハンター!? どうしてここに……っ!」

「───さて、ネタ晴らしの時間といこうかァ」

 大講堂の中央口。

 他と同じく開かれたそこから、一人の男が階段を下ってくる。周囲を囲んでいる黒服と同じ制服を着用しているが、所々に装飾があり、周囲にいる黒服の上司なのだろう。

 上司───赤髪は二人の前まで来ると、その凶悪な笑みを深めた。

「よう、久しぶりだなァ?」

「……」

「えっ……蘭、くん?」

 赤髪は驚く命を一瞥すると、俯いている蘭の顔を覗き込んだ。

「俺たちの仲だろォ? 挨拶ぐらい返せよ───な。バンダー?」

「……ッ!」

「ど、どういう事ですか!? 蘭くんが一体貴方たちと何の関係があるっていうんですか!」

「アァ?」

 後ろで手を組み、赤髪は首を鳴らし、不機嫌を隠さないまま命を睨んだ。

 凶悪すぎる眼つきと雰囲気だ。常人なら怯んでしまうだろうが、彼女はこらえていた。

「ハッ、まだわからねエのかよ。───こいつはな、ハンターなんだよ」

「───ぇっ?」

「裏切られた? いいや違うなァ……! こいつは最初からお前を騙していたッ! 鼻からお前を殺すつもりで近づいてんだよッ!!」

 まるで踊るように、乱れるように、赤髪は動き回る。

「『悪いものを感じない』ィ? ───バアアァァァッカじゃねえの!!!!!? 王族ッてんからどんな力を持ってんのかとおもえばこんなものかよッ! たかがこいつの虚偽すら見抜けねェでよォ!! なぁバンダー! その様子じゃ本名も伝えてねえみてえだなァ! 楽しかったか? 楽しかったか? ンンッ!? ───楽しかったよなァ! 世間知らずのお嬢様騙して友情ごっこは!」

「ぁ……ぁ……」

「でも結局お前は自分の命惜しさにお嬢様を売った訳だッ! 傑作傑作! これにてお前の物語は完結! 大団円すぎて涙が止まらねェよォ!」

 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ───!!!

 大講堂に赤髪の笑い声が響いて。

 ぴたりと止んだ。

「やれ」

「そんな……蘭くんがハンターなんて……じゃあ一体、何を信じれば───」

 赤髪の合図で黒服が命を拘束していく。

 彼女はうわ言のように友達の名前を呟くだけで、抵抗はしなかった。

「万が一があっても面倒だ。コイツは俺が抑えておく。───連れていけ」

「嫌……やだ、やめて……蘭くん……」

 命が黒服たちにによって手足を縛られ身動きが取れなくなったのと同時に、蘭は壁に叩きつけられた。

 

「か、っは……ッ」

「ククッ、俺の筋力の強さはよくわかってるよなァ? 逃げられるなんて思うなよ」

「……」

「お前が命令違反を起こしたときはどうなるかと思ったが、くだらねェ。やっぱりお前は『人形』だよ!」

「違う」

「……ア”ァ? テメエいまなんて───」

「俺は『蘭』───ただの人間だ」

 気が付けば赤髪は反対側の壁に背中から激突していて───大講堂に一陣の風が吹いた。

 それに黒服が気付き、蘭の方へ武器を構えるが、それを許すほど彼は悠長ではない。

 命を拘束していた黒服の手首を的確に狙い、拳で殴っていく。細身の肉体から繰り出されたと思えないほど鋭く重い一撃は、人体の骨を破壊するのには十分だった。

 そしてフリーになった命を抱きかかえ、近くの壁へ肉薄し───そのまま壁を走る。

「わっ、わわっ!?」

「舌噛むから気を付けて」

 驚く命にそう告げて加速すれば、放たれた弾丸は二人の残像を捉えるばかりだ。

「殺せ───ッ!」

 赤髪の声と共に、黒服は全員攻撃を開始する。近距離武器を持つ者は肉薄し、遠距離武器を持つ者は無我夢中で発砲していた。

 蘭は壁を強く蹴り、風を切るようにして大講堂のステージに着地する。

 間髪入れずに命を下すと、飛来する弾丸のうち、二人に命中する物のみを懐から取り出したナイフで打ち砕いた。

 入り口からステージまではそれなりに距離がある。

 蘭は近づいてくる黒服たちに向き直ると、大きく息を吸った。

「──来るな」

 ───!

 それは、底冷えするような声だった。今まで聞いた事もないような声に、黒服だけではなく命や赤髪までもが硬直してしまう。

「蘭くん……一体何が」

「今まで騙しててごめん」

 彼女が何かを言うより先に頭を下げた。

 

「い、いえ! 結局助けてくれたって事は……裏切ってなかった、って事でいいんですよね……?」

「うん。僕がハンターなのは紛れもない事実で、騙してしまった事には変わらないけどね。───命さんが王族って事を放してくれた後に、僕も言おうとしてたんだ。邪魔されてしまったけどね」

「あの時言いかけたのはそういう……」

 その時、何かが砕けた音が聞こえた。

 蘭は振り返らずに裏拳を振るい───赤髪が飛ばしてきた椅子の残骸を叩き落した。

「──どういう事だァ。バンダァァァァァァッ!」

「うるさいな。簡単な事さ───僕は命さんを助けたい、それだけだ」

「そんな訳ねェだろ! だってお前は本当に───まさかお前、『|仮面(ペルソナ)使い』か?」

 赤髪は目を見開く。

 それに対し蘭は舌を出し───すべてを開放した。

「正解」

 雰囲気が一変する。

 優しく無害だった彼が内側から崩壊し、ドス黒い何かが滲み出てきているようだ。まるでそれは殺人鬼のようで、『人格』が変わったとしか───

「同じ人間とは思えないほどの『変化』……ッ! 世界を騙すほどの獣人すら欺くとされている、完全なる『表裏』の完成系! 納得だァ……そのお嬢様が節穴だったんじゃねェ。お前が騙してただけだったとはなァ!」

 仮面(ペルソナ)。

 蘭という人間は、幼い頃からその力を有していた。

 つまりそれは、完全なる表と裏の使い分けだ。人間は誰でも必ず、本音と建て前が存在する。それを駆使して人生を生きている訳だが、蘭はその使い分けが───それこそ獣人を騙せるほど───恐ろしく上手い。

「何が目的だバンダーッ!」

「バンダーじゃない。そんな組織から与えられた名前はいらない。───さっきも言っただろう? 俺は命さんを助けて……一緒にいたいだけだ」

「えっ!?」

 蘭の発言に、わかりやすく命は耳を揺らして驚く。

「命さん……君と出会った時、僕は自殺をしようとしていた。組織……ハンターの組織に命令されるままの日常が嫌でね。逆らう事はできたかもしれないけど、そんな意志もなかった。獣人を殺す事に抵抗はなかったし、ただそんな毎日が嫌で……」

「で、でもじゃあ、なんで私なんかに……」

「───君が純粋だったからだよ」

 彼は優しく微笑む。

「最初は綺麗な人だなって思っただけだった。それで気まぐれに話してみて、その後に自殺をしようと思っていた。でも関わるたびに命さんの心の美しさに触れていって……もっと触れていたいと思った。だから遺書も捨てたし、獣人殺しをやめて組織からも抜けようと思ったんだ」

「ンだそれ……ッ! そんなくだらねえ事があってたまるかよッ!」

 赤髪はその驚異的な身体能力で跳躍すると、弾丸のような速度で飛んでくる。

「お前は人形だッ! 自我もなく命令された事をこなし、裏切る意志も勇気もないただの愚かな駒だろうがァァァッ!」

「───勇気も、目的も、意志も……! 全部、全部命さんがくれたんだッ!!」

 蘭のナイフと赤髪のメリケンサックが空中で火を散らす。

「オラァッ!」

 力負けした蘭が殴り飛ばされ地面に転がれば、赤髪はそれを追撃するように肉薄し、ボールを蹴るように追撃を加えようとする。

 しかし蘭は既に受け身を取っており、両腕の力で体を起こし下がる事で回避する。

「どうしたどうしたァ! 裏切ったところでお前が俺に勝てねェ事実は変わらねェよなァ! 天地がひっくり返ってもお前の価値は万に一つも───」

「黙れ」

 猛攻の隙を見つけ顔に向かって突き出したナイフ。

 赤髪はそれに対し両腕の肘から手首までの部分を上下に重ね、刃ではなく腹の部分を押さえつける護身術の一つでそれを阻止。そのまま両腕を激しく動し蘭からそれを奪い取れば、そのまま空中へ打ち上げた。

「武器がなくなっち待ったなァ! こっからどうす───」

「───ねえ。それは幻だよ」

「は?」

 ───気が付けば、赤髪の両足のアキレス腱は切り裂かれていて、強制的に膝をつかされていた。それと同時に顔を血が零れていく。

 一体何が、と首を曲げればそこには両手を前に突き出した命の姿が。

 ナイフを防ぎ、取り上げたのは全て、命の術によって見せられた幻影だったのだ。

「───如月ィィィィィィィィィィッッ!!」

「私だって……役に、立てますっ!」

「テメエ、このクソ女ァ! 絶対に殺してやるッ!」

「黙れって言ったよね」

「ガッ───」

 頭ごと赤髪を座席のほうまで吹き飛ばせば、彼は二つ椅子を破壊したところで止まった。

「お前ら! アイツらを殺せ!」

 即座に腕の力だけで体勢を起こすと、周囲の黒服に指示を飛ばそうとし───

「は?」

 絶句した。

「なんだよあれ……勝てる訳ないだろ!」「指示を! 指示をォ!」「どけ! もう俺は逃げるぞ!」「アァァァァァァ! 俺の手がァァッァ!」「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」「いやだいやだいやだいやだ!」

 既に黒服たちは、ほぼ壊滅していた。

 

 赤髪は組織の中でも随一の実力者だ。それをいとも簡単に崩した蘭と命を見て、何人かが恐怖のあまり逃げだとする。それに激怒し錯乱した赤髪の狂信者が止めるために武器を抜き、それを見て更に大部分が───

 連鎖反応によって黒服はもう使い物にならなくなっていたのだ。

 赤髪が正気に還った頃にはもう遅かったのである。

「───ッ!!!!」

「もうお前は終わりだ、ジャルグ。大人しく組織に帰って伝えろ───俺たちに手を出したら容赦はしないと

「クソッ、たれがァァァァァァァァ!!!」

 赤髪───ジャルグはほぼ使い物にならない足を引きずり、大講堂を出て行った。

 あれほど強気だったのに大人しく帰っていったのは、結局命が惜しいという事だろう。

(───くだらない。結局お前も俺と同じだ)

「あの……」

「んっ」

 それなりに長い付き合いであったジャルグについて思考に耽っていると、遠慮がちに命が話しかけてくる。

 蘭はナイフの血を綺麗にふき取り仕舞えば、そちらへ向き直った。

「蘭くん……あの、ありがとうございました」

「ううん、僕は君を騙していた」

「そんなっ……! 結局助けてくれましたし、もう気にしてません」

 首を大きく振り、命は蘭を肯定した。

 そんな一生懸命な様子に場違いかもしれないが、思わず和んでしまう。

「それにしても、驚きの連続でした。蘭くんがハンターだっただけじゃなくて、仮面? っていう、私たちさえ欺くものがあるなんて……」

「多分、出会った時に人払いの術が効かなかったのもそれだと思う。多分僕の仮面は、君たちの術よりも『上』だから」

 『騙す』事に関して、おそらくは獣人よりも蘭の方が上なのだ。

 騙せる、という事はそれまでの過程や構造を知っているという事であり、自分よりも下の技術なら、それを突破できるのも道理である。

「なんか、ズルいです。こういうのは私たちの専売特許だと思ってました……」

「世界は広いって事さ」

「ふふっ、そうですね」

「あはははっ!」

 二人して、子供みたいに笑い合う。

 緊張から解放された影響なのか、不思議な涙も止まらなかった。

 笑い、笑い、笑う。

 その一瞬だけいつも通りの日常が戻ってきたようで───でも、このままじゃいられない。

「命さん」

「あっ、はい。なんでしょう?」

「───取引をしよう」

 命の目がパチパチと開閉を繰り返す。

「取引、ですか? ……体は、ちょっとまだ」

「違うってば」

 自らの体を抱えて後ずさりする命に、彼は苦笑いをする。

 なんだかどこかで見たことがある光景に、不意に瞼が熱くなった。

「君は獣人の王族で、僕は獣人を狩るハンターだ。でも僕はもう組織にはいられないし、君も組織にバレた以上、たぶん今まで通りの生活は送れない」

「……はい」

 命は深くうなずく。

 互いに、もう戻れないところまできた。前の生活には戻れないし、これからどうするかも決まっていないのだ。

「僕は君を守る。だから代わりに───君の側にいさせてほしい。『護衛』にしてくれ」

「それで、いいんですか? それだと私に利が多すぎる気が……」

「ねえ」

「はい」

「それがいいんだ」

 

 蘭はゆっくりと手を差し出す。

 命はその手に勢いよく自分の手を重ねた。

 

「───はいっ。はいっ! よろしくお願いします!」

「取引成立だね」

「ふふっ」

 命は蘭の両手を掴むと、ブンブンと上下に振る。

 獣人の腕力でそれをされると少し痛くて、振られるたびにうめき声が出てしまった。

「すっ、すいません」

「ぐぷっ……いいんだよ。喜んでくれてるみたいだし……」

「あはは……」

 ダウンしてしまった蘭に、命は上品に手を口に当てて苦笑いを浮かべる。

 しかし「あっ」と声を出し、倒れている蘭と同じ目線までしゃがめば、目を合わせて、言った。

「そうだ、耳触りますか?」

「えっっ」

 思わず飛び上がって反応してしまった。

「な、なんでっ?」

「だって、蘭くん事ある毎に私の耳見てましたよね? 遊んでる時、見張ってもらってる時も───耳、好きなんでしょう?」

「あっ、いや、あっはは……」

 少し意地悪な笑みを浮かべて、わざとらしく耳を動かす命に、蘭は冷や汗をかきながら誤魔化すばかりだった。

「ふふっ、冗談です」

「冗談にしては質が悪いよ……」

「驚かされてばかりだったので、仕返しです。あっ、でも」

「……?」

「これはほんとですけど───そのうち、触らせてあげます」

 思わず期待するような視線を耳に送ってしまい、蘭は自分の浅はかさを悔いて顔を覆った。

「あっははは!」

「く、くそ……命さんの意地悪!」

「だってっ、反応が面白いからっ!」

 腹を抱えて笑われては、蘭は顔を赤くして黙る事しかできない。

 

 正直、ケモ耳は大好きだ。

 獣人との戦闘中に耳に目を奪われて油断した事もあるぐらいで、でも殺した死体の耳を触っても何も楽しくはない。

 大体の獣人は殺されてしまうし、奴隷の獣人を買う事は命令されるだけの人形だった蘭にはできなかった。

 そんな事情を察したのだろうか、今までにないぐらい笑っている命は、やがて強引に笑いを抑えた。

「ぷくく……っはは……あ~おかしい……っ!」

「もう勘弁してよ……」

「仕方ないですね……これぐらいで勘弁してあげます。ぷくく……」

「……」

 蘭が抗議の目線を送れば、「すいませんすいません」と手を振った。

「さて───蘭くん」

「んっ、なにかな」

「君の名前は……バンダーというんですか?」

「……」

 バンダー。

 それは赤髪が蘭を指して呼んでいた名前だ。蘭も同様に赤髪を名前で呼んでいた事から、組織では偽名が良く使われているのだろう。

「───違う。僕は『蘭』だ。バンダーなんて個体名じゃなくて、君と一年を過ごした僕。それが蘭だ」

「……そうですか、分かりました。では、変わらず蘭くん」

「うん」

 命は一歩下がり、そのドレスの端を持つと、端整な仕草でお辞儀をする。

「───これから私の命は貴方に預けます。私を守ってください。その代わりに、私は貴方の側にい続けましょう」

「うん、よろしく頼む」

 ───命

「えっ!?」

 その言葉に命の耳と尻尾が過敏に反応する。

「い、いま呼び捨てで!」

「ねえ、気のせいじゃないかな?」

「気のせいじゃないです! あっ、こらっ、どこ行くんですか~!」

「気のせいだよ気のせい!」

 

 照れ隠しか本当に気のせいなのか。

 それを誤魔化すように逃げ出した蘭を、命は獣人の身体能力を活かして追いかけていく。

 

 ───金色。

 それは蘭にとって、愛すべき出会いの色。

 あの日の輝く金色の耳は、未だ目を焦がして離さない。

 そしてこれからも、蘭を照らし続けるのだろう。