※本企画の続きは、中期目標策定ワークショップ で実施しております。
「日本の科学の○○問題」を再募集いたします。以下のフォームより投稿ください。
【締切2024年5月27日】募集フォーム
https://forms.gle/828zpE1yggVGtPpK8
今回の再募集は、JAASの中期目標策定のためです。
2024年1月あたりから30名強の会員とJAASの現状と今後について意見交換しました。おおよそ意見が一致したのは、JAAS内部の衝突・分断を解消しなければいけないということです。ただし、これは短期的な課題、早々に解決しなければいけない課題と言えます。
2年前にビジョンタスクチーム(小野悠、大西知子、諏訪智巳、下平剛司、林愛子、原山優子、馬場基彰、吉野宏志)が主導して、ビジョン1.0を策定しました。ただし、これはやや抽象的なものであり、長期的なビジョンと言えます。
以上の背景から、科学の振興というJAASの活動を推進していくために、具体的な中期目標(3年~10年での達成を目指す)を策定していきます。
中期目標策定ワークショップに先立って、どのような課題があるのかをリストアップするために「日本の科学の〇〇問題」を改めて募集します。
これまでに集まった43個の○○問題は以下にリストアップされています。説明会の動画もご覧になれます。
自分の考える○○問題がまだ入ってないと感じられたら、ぜひ応募ください。
ビジョンタスクチーム 馬場基彰
再募集の趣旨説明の後、これまでのリストの編集にご尽力いただいた武田さんからこれまでの経緯の説明、その後、再募集の意義について議論が行われました。
前回同様の趣旨説明の後、趣旨についての質疑応答、中期目標を策定していくことを見越して、試しに、これまでに集まった○○問題のいくつかを見て、参加者各々が意見を述べていきました。
前回同様の趣旨説明の後、中期目標を策定していくことを見越して、試しに、これまでに集まった○○問題のいくつかを見て、参加者各々が意見を述べていきました。第2回よりも文系の意見が多かったでしょうか。
いろいろあるのですが、一つは、みなさんが科学に興味がなくなっているのが課題だと思っています。昔は家電の開発とかいろいろありましたが、最近はほとんどがアプリ化され、いわゆる理系の科学が、プログラム機器になりつつあるので、何かを作るという感覚がなくなりつつあるのかなと。
研究職や理系が特別なものになっていると思います。いちど文系を選んだら理系には行けません。社会人がもう一度大学に入って学び直すのが困難なこれらの学校制度が「科学」を遠ざける理由になっていると見受けられます。
研究者がアカデミアというコミュニティで主に過ごしてきているためか、社会が抱える非常に複雑な問題(科学技術政策もそれに含まれます)に当事者の研究者が取り組んだり、意見する際、いわゆる世間とは異なる感覚を持ち(それ自体は必ずしも問題ではありません)、一部の研究者は世間の考えを理解することに努めず、自らの考えを変えようとしないことが、日本の科学の問題だと思います。
博士課程に進めば進むほど就職可能性が狭まるというのは、社会感覚があって自分の将来をちゃんと設計できるという意味での優秀な学生が、博士課程に行かない要因になっていると思います。高齢化かつ人口減少社会で、若く高学歴な人材の行き場がないというのは、いろいろな意味でムダが多いと思います。博士号を取得するような優秀人材を活かすための議論や実践ができればいいと思います。
日本の科学・技術は「役にたつもの」という意識が強く、文学・音楽・絵画などの文化に比べ「楽しむもの、自分を豊かにするもの」という意識が社会的に少ないと感じます。もちろん「役に立つ」ことも大事ですが、何かを好きになるということは、必ずしも「役に立つから」ではないはずですよね?政策をみても、第6期科学技術・イノベーション基本計画では「文化」という文言は、一回も登場せず、他方、文化庁「我が国の文化政策」のほうでも。国立科学博物館の予算に言及するくらいで、科学が文化庁のいう「一人一人が心豊かに生きる」ものにはまだまだなっていないのが現状だと思います。逆に言えば、科学と文化をもっと交わらせることができれば、広い意味で、科学が日本をもっと豊かにすると思うのです。
ハラスメントは増殖しやすいと思います。たとえば職場でパワハラが当然のように行われていると、それを「社風」とか言い出すウマやシカが増えるわけです。科学研究の分野でもこれがあると思っていて、閉じた環境のなかでボスの権力が強すぎると、たとえボスが間違った判断をしても、良心的な若い人たちが何も言えなかったり、追従するウマやシカだけが繁殖するということになります。そういう動物ばかりが研究の資源を食い荒らすと長期的には生態系にとってもよくないと思うのですが、なにかいい対策はないものでしょうか。
高等教育機関の職業研究者自身が、学会運営とか学閥的な人脈とか、そうした封権的な人間関係に縛られていることが問題だと思います。その結果、研究内容ではなく、特殊な組織への貢献や研究に関係のない活動が評価され、業界固有の権威・権力主義とタコつぼ化を招いていると感じます。これは、アカデミック・ハラスメントが起きた際、大学側が被害者でなく加害者(研究のボス)の側を擁護しがちであることとも関係すると思います。
「ここが問題だ」と欠点を取り上げる視点もいいんですが、「もっとこうなりたい」「そのためにはこうしたらいい」という前向きな思考が、もっと広がればいいなと思います。ダメな点をあげるより、具体的な理想像を描いて話し合える社会になりたいなと。科学振興の分野では、特に最近「日本のダメな点」の議論が多くて、なんだか疲れちゃうなと感じることがあります。
理数系の学問を「いわゆる文系」の学生が学ぶ機会が極めて限られること、また、あってもその内容が「旧態依然とした、ある程度の知識・スキルを要求するもの」になっていて「なかなかついていけない(だから敬遠する)」ことは、結構重要な問題だと思っています。近年、社会問題と(狭い意味での)科学技術が深くかかわるもの(いうまでもなく地球温暖化問題、遺伝子組み換え食品問題など、いっぱいある)が増えてきていますが、高等教育を受けていると推察される方にあっても「驚くほど知らない・理解していない」ことを感じるケースが増えています(ニュースサイトのコメント、など)。
平成27(2015)年の文部科学省通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」で、国立大学に対し科学技術の革新などを求める一方、人文社会科学系の分野については「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう」求めたことが社会的にも議論になりました。その後、令和3(2021)年の通知でも「文理を越えた基盤的なリテラシーとなる数理・データサイエンス・AI教育」という文言がみられ、理系重視の姿勢がわかります。加えて、2023年は文科省が政府基金3000億円を活用し、既存学部を理工農系学部に転換・新設する上での助成金制度を発表しています。この背景には、人文社会科学の重要性が社会に広く認識されていないことがあると思います。お金(予算配分)の問題から、ともすれば人社系 vs 理工農系という対立・分断も生まれやすいと思うのですが、そうならない形で、人文社会科学の重要性を伝えていくことはできないでしょうか。
近代化の中で研究者は職業化を果たし、また研究者に因る科学技術の発展は社会の発展や豊かさに繋がるという信念が語られました。しかし、公害問題などが表出し始めたころから幻想は褪せはじめ、研究者の専門性や職業性と社会の関係性は現代において見直されなければならない段階にあります。その中で、Public Understanding of Science(PUS:科学の市民理解)や「欠如モデル」(市民が知的に振舞えないのは知識が欠けているからで、知識を補えば知的に振舞うだろうという考えかた)をベースとしたコミュニケーションは歴史的に上手くいっていませんが、未だその研究者観を捨てきれない研究者は少なくなく、研究者の権威的な態度が問題となる場面が少なくないと感じます。
科学者が一般市民に向けて、わかりやすい言葉で研究内容や成果を伝える活動を「アウトリーチ」といい、出張授業やサイエンス・カフェなど様々な形態がありますが、このようなアウトリーチが海外に比べて評価されなさすぎるように思います。海外では、大学などにアウトリーチ活動が期待されることは珍しくありません。その結果、日本では「科学者」に対する尊敬はありますが、一般の人々が「科学」に対する面白さや好奇心を肥やすための活動に科学者があまり関わらないという構造ができてしまっていると思います。「アウトリーチ活動を積極的に評価するために何ができるか」を考えることが、日本の科学を元気にすることにも繋がるのではないでしょうか。
「科学と科学技術の違いが理解されていない」という指摘があります。「科学」と「技術」が明治の翻訳語であるのに対し「科学技術」は戦時下の1940年頃から使われるようになった新しい言葉です。「科学」は自然の摂理を明らかにしようとする知的営為であり、一方「技術」は生活を便利にする実際的営為であって、本来はまったく別物ですが、20世紀に「科学技術」という新語が生まれたことから察せられるように、日本では科学と技術を一体として捉え、科学を「実用に資するもの」だけと捉えがちです。「技術的・実用的なものだけが科学だ」とするのはそもそも誤解なのですが、実はそれが「科学」をめぐる問題にも、言語レベル(認識レベル)で影響を与えているのでないでしょうか。
「日本では、病的な『専門家信仰』が目につきます。『この道一筋何十年』というような人が専門家として幅をきかせ、若手や非専門家の提案を「素人の戯言」と一蹴する。」そんな指摘がありますが、科学を語るときにも、似たことをする方がまだいると思います。科学を語ると言っても結局究極的には持論であって、まだわからない問題については「誰も分からない」わけです。そういう問題をあたかも「俺はわかってる」というふうに語られるのは、科学に関心をもつ層を増やそうという点からは逆効果だと思います。もっと、わからない楽しみを伝えてもらいたいと思うのですが、皆さんどう思われますか。
科学的知見、なかでもいわゆる自然科学に類する知見は、実験等に基づいた経験的事実の積み重ねとして形成されるものです。しかし、政治的関心の高い話題については、その前提であるファクトが崩れがちになり、ある政党を支持することと、ある意思決定とが容易に結びつき、科学的な知見が無視されたり、偏った情報が取捨選択される傾向があるのではないでしょうか。党派性は思想信条の中でもかなり強固なものであり、科学的な対話をしようとしても、前提さえも共有されないような状況がSNS等では繰り広げられているように感じます。
「科学の営み」についての知識が、一般のみならず科学者の間でも十分に理解されていないことが問題だと思います。「科学の営み」とは「定説」とされる科学理論を正確に理解したうえで、それを批判し、修正していく一連の試みです。そこでは「定説」は暫定的な説明でしかなく、時事刻々と知見が蓄積され理論が更新されていくのです。いわば科学とは常に「動いていく」営みであり、常に「作動中」のものです。しかし、市民やマスコミが専門家から「科学的助言」を求める段になると「これが正しいから、こうすべき」という単純な答えを求めがちです。これは「科学の営み」についての理解がきちんとされていないからだと思うのですが、どうすればその理解をバージョンアップできるでしょうか。
教育は、人間の大きな力を生み出すことが出来ます…。可能性の一方で、教え子の興味関心が生むような指導がなされていない現状があります。放送大学によると「教師の学生に対する期待が学生の学習到達度に多大な影響を及ぼしていること」がわかっています。本を読んで知的好奇心を拡げること効果的ですが、ちょっとしたきっかけで知的好奇心をくすぐるために、対面でコミュニケーションをとり生徒の視野を広げていく取組みが必要とされています。(親子一緒の保護者会での講演)、展示物・掲示物、高校・公民館での出前講座など、あなたが「わくわく先生」に変身できる瞬間は日常に溢れています。子供どもの可能性を開き、科学の未来を照らすわくわく先生に、あなたもなりませんか?
研究者の待遇や環境については他の方がしっかり書かれると思うので、ちょっと別方面から…。
学校教育の中での「科学」は、わりといいイメージで捉えられると思いますが、新しい科学による技術(マイナカードとか、原子力関係とか、遺伝子改変作物とか、とか…)は、忌避イメージが拡がるのが早くて、リスクコミュニケーションやサイエンスコミュニケーションがどこまで届いているのか心もとない感じがします。
「難しすぎてわかんない」を、「よくわかんないけど、なんかおもしろそう!」に変えられないかなぁと思います。「科学は特別な頭のいい人のもの」という垣根を取り払いたい、そして研究者自らが発信するというよりも、マスコミや既存のメディア(例えば女子高生が読む雑誌とか、TikTokやYoutubeといった媒体)が自然に扱うコンテンツになったらいいなと。あと、井上ひさしの言葉にも「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」というものがありますね。
科学に関するステークホルダーを繋ぐ役割・職業としてサイエンスコミュニケーターがありますが、科学に関するトピックは時として社会的・政治的な側面を帯びているものです。そのときに、サイエンスコミュニケーターがどのような役割を果たすべきか、という点については大きく意見が分かれ、論争になっています。そのため、サイエンスコミュニケーターの役割が定まらず、ある事例に対してサイエンスコミュニケーションを試みた場合(原発問題など)であっても、サイエンスコミュニケーター同士で批判し合い、ステークホルダーを繋ぐ役割を上手く果たせない場合があると感じています。
「博士課程に夢がない、謎が多い」と言われます。学費の安い国公立の大学院でさえ、入学金が約28万円、学費が年間約53万円、5年間で約300万円もかかります。また院卒時には27歳ですが、正規の研究員ポストが見つからず「ポスドク問題」といわれる不安的な身分のなかで将来の展望も描けないまま年をとってしまうことが社会問題化しています。また、博士課程在籍の人たちが普段なにに悩んでいるのかも、外部の人にとってはわからないことが多いです。この状況を打開するために、なにかできることはないでしょうか。
特に人文社会系の博士・研究者のキャリアの多様化が進んでいないこと。以下、周りを見た感じですが、就職(希望)先が、大学や一部の研究所等に集中しているように感じます。大学院を出た後、学校や学習塾等での非常勤講師以外に働いたことがない人も珍しくなく、年齢が高いわりに社会人経験が少ないことも関係するかもしれません(本人が企業等で働きたくても、受け入れ先を見つけることが難しいという現状もあります)。
日本の労働人口が減っているにも関わらず、他国の労働(=研究)環境を目指していることが問題だと思います。そもそも、一部の層に資本が集中し所得格差が拡大している国や、最低賃金以下で働く労働者に支えられている国と日本を比べていることが間違っていると思います。誰かの辛苦の上に立つ科学が、人類を幸せにするのでしょうか。科学は、資本があれば発展するというものではないと考えます。
国立大学等で基盤的経費が減少した結果として、専任教員が減っただけでなく、それ以上に事務職員・技術職員が減り、結果として教員・研究員がする事務作業等が増えて研究に使える時間が減っています。「研究」時間の中でも、実は研究費申請や報告・評価に割かれている部分が増えており、本当に研究らしい研究をしている時間の方が少ないくらいになっていると思います(一般的な教授だと仕事時間の1割もないのでは?)
福島第一原発の処理水の海洋放出が始まりましたが、国際的にも国内的にも物議のあるところだと思います。素人目にもかなり政治的案件になっていると思いますが、福島第一原発に関し、国内政治的にも国際政治的にも、どのような科学コミュニケーションが可能なのか、難しい問題とは思いますが、政治を忖度しすぎて科学的な議論さえ口にしなくなるというのは、社会の「息苦しさ」にもつながってしまうように思います。
「科学」というコトバ聞いただけで耳を閉じちゃうというか、「難しいことは分からないから」と距離をおく人が、世の中には少なくない。教育の機会とかを得るのが難しかった人たちがもつムズカシイキモチと、苦労はあっても科学を好きになる機会があった人たちのキモチには距離がある。そのことを意識しないと、科学の問題や課題を訴えても、支持を得にくい。
科学に関係したマスコミ等での報道・解説で、非常に良い記事や番組もある一方で、明らかな誤りや偏りを含む内容のものがあり、時に健康被害や経済的損失を引き起こしていると思います。単に関係者に知識がない場合と、政治的理由がある場合の両方があるように思われます。科学的には決着がついていて政治問題であることについてはそう報道すれば良いですが、逆に政治問題が絡むために、科学の方面から見れば明らかにおかしな主張をされることも頻繁に起こっていると思います。
特に若手時代において、研究者の社会的地位が低く、自己肯定感を育みにくいと思います。経験者以外には「学振」と「奨学金」の違いも極めて伝わりにくく、学位取得後もパーマネント(期限なし)の職を得るまではあらゆるプライベートよりもポスト獲得が優先されるため、企業のように職場との交渉も行われにくい構造があります。
科学者および科学コミュニティは、もっと自らの外の世界に目を向け「社会の中の科学」という議論の場で、積極的に立ち位置(ポジション)を築いていく必要があるのではないでしょうか。例えば、科学分野への財政的・社会的支援を求める際にその必要性をどう根拠づけすればよいのか、博士人材の価値を訴えるうえでどういう点を強調していくべきなのか、あるいは「政策決定には科学的知見をエビデンスとして用いるべき」という主張をどのように根拠づけるのかといったことを検討し、社会に向けてもっと意見を表明していくべきではないでしょうか。
「どんな時代でも変わらないスキルとは?」
どのような方法で目的達成できるのか?取り組む姿勢とモチベーションで対応できる能力を身につけられるスキル。 これが時代を超えたスキルなのかなと考えています。
専門分野に益々細分化されていって、学問の様々なつながりが見えにくくなります。
逆に、様々な学問の繋がりがわかってくると、思いがけない「発想とひらめき」が生まれてくる。これはAIには、出来なくて、人間にしかできないことだと考えています。
その繋がりの機会を作ってくれるハブ的存在が、必要と考えています。
つまり、JAASがその一躍を担っていければな〜などと思っています。
基礎研究が役に立った例が認識されておらず、長期的な投資がなされにくくなっている問題があると思います。研究者自身が「役に立たない研究」と言いつつも、実際は数十年後に応用されるケースは存在します。具体的な応用例(例えば今日の携帯電話はかなり高度な数学がないと成立しない)を知ってもらうことも必要ですが、より根本的な原因としては、科学に限らず、価値への投資が短期的なものになりすぎている問題もありそうだと思っています。
傍目から素人からでもわかる論理破綻があっても、なぜか専門家は専門家しか突っ込めない。正直に間違いを認めた研究者を褒めたり、論理破綻を指摘できる面白いしくみがあるといいのですが。
もっともっと先をみた「鳥の目、魚の目、虫の目」、分野ごとに長期的視点は違うと思うのですが、生活のなかで「長期・短期」を落とし込めるような場が無い問題。たとえば、高齢者サロン、その人たちの生活、自分が1週間後に死ぬかもしれない。その日1日を生きることの視点は研究室内ではシェアされない。孫の代のことを考えるとき、高齢者は200年スパンで物を考えられる。違う世代と対話することで、時間軸の幅を広げられる。理想でなく夢想でいい、それを寄せ集めていくとリアルなものができるのでないか。
「科学」を支える人に対する社会の関心が薄いと思います。「支える人」には、もちろん色々な人が含まれますが、その中核である40歳未満の若手研究者に絞って考えても、博士課程の入学者数の長期減少、40歳未満の国立大学教員における「任期付き」の増加、企業における博士号取得者の待遇の低さなど、博士号をとることに生計を立てる上でのメリットが見出せない状況が20年近くも続いています。科学を支える人、とりわけ未来を担う若い世代が安心して研究活動に取り組むために、自分たちに何かできることはないでしょうか。
文科省は「基礎科学力」について「人文学・社会科学から自然科学までの全ての分野において、個々の研究者の独創性に根差した研究によって、新たな知識・知見の発見、発明等の研究成果を集積し、かつ持続的に創出する総合力。」と定義していますが、定義の異同はあるにせよ、日本の科学力が国際比較で落ちていることは事実です。この原因として、よく任期の問題や、予算の選択と集中によって研究者の力が削がれているという話を耳にすると思いますが、国際比較で考えると、論文数自体は実は横ばいで、生産性は変わっていないとも言えます。つまり、日本の科学力が下がったというより、他の国の科学力が上がっているのではないかと思います。その際の重要な指標は資金注入量で、他国はGDPの推移に比例して大きく上がっています。要するに、任期や予算配分の問題を改善しても改善度はせいぜい1.2倍程度ということであり、むしろ資金注入量を2倍にする手段を本気で考えるべきではないでしょうか?
大学内で、一つの研究室が後の世代へ引き継がれていくスタイルの場合、師匠から継いだ分野を研究することが規定路線となっていますが、これだと時代に即した内容やアプローチへの思い切った転換が難しい例が少なくないです。この背景は、大学の中にまず「箱(=研究室)」があって、その上で研究内容が採用されるという大学運営上の制度とも関連しますが、まず「箱」ありきというハコモノ思考が、学問横断的な研究をはばむ「壁」にもなってしまうと思います。
研究する力のある研究者に対し、研究をしっかりと一般の方にも魅せる力のある研究者があまりいないのが問題だと思っています。もちろん両方の力がマストではないので、役割分担をしてもいいと思っているのですが、後者はなかなか業績として認められていないのも課題の一つだと思っております。魅せる力を持った研究者も一定以上育成できるようなカリキュラムができるといいなと思います。
選択と集中という観点からは、科学において高齢化問題が大きくとりざたされていると思います。しかし、本来国家戦略から考えると高齢化対応ではなく少子化解決に注力するべきであると考えています。単純な算数ですが、本質的に高齢化が解決したとしても人口減少には歯止めが効きません、100年後には人口が半分以下になることは確実であり、そもそも科学を振興する国家自体の存続の問題になります。ただし、その提案をMOONSHOT募集でしましたが、現在の国家戦略は適切な縮小戦略との指摘を受けました。本来の選択と集中は短期的な対応ではなく、100年レベルで重要な問題を考えるべきだと思います。
100年後・300年後の未来を夢想する科学が無いと思います。老朽化して冷暖房さえもまともに機能しない公立学校に通う子どもを横目に語られる科学に、現実味も感じられません。子どもを産み育てることがネガティブに受け止められ続ける現代の風潮をみると、100年後の、玄孫が存在するはずの世界を考えていないと感じられます。「国家百年の計」は、もとは教育・人材育成の重要性をいった言葉だそうですが、科学にも「百年の計」が必要ではないでしょうか。
JAASや日本学術会議、その他各地の有志の集まりなど、国内だけでも複数の団体が日本や世界の科学および科学コミュニティの発展のために活動している状況があります。しかし、その意思決定の過程や活動の実態を見ていると、科学コミュニティとして一枚岩になることが出来ず、おたがいスタックしている状況が内外から見て取れます。各自の利害関係を越えて、日本や世界の科学を維持し、発展させていくための意思決定や協調が今後ますます必要になってくると感じています。
多くの国々が少子高齢化に悩まされるなか、これからはあらゆる分野で間違いなく人材不足になっていくのは、明らかです。誰でもいいと言う訳でなく、欲しい人材が不足するという意味の人材です。しかし、未来において求められる人材と、現在の教育から生み出されてくる人材とは必ずしも一致しません。
そこで、未来を予測した多様な人材育成を構築していく必要があります。経産省も「未来人材ビジョン」という考えを提唱しています。
さまざまな切り口で考えられるJAASのコミュニケーション力で、このような取り組みができればいいな〜などと考えています。
科学や研究活動の担い手は大学や企業の職業研究者だけでなく、在野での研究者もいます。しかし一方で、在野の市民研究者が獲得することのできる研究資金やそのためのエコシステムが日本においては成熟していません。これにより、市民が参加することによる研究や実践活動の発展が阻害されていると思います。
高齢化問題におけるもう一つの問題は、問題を解決するために本来はなにをするべきかという問題です。高齢化による問題は、一つの見方として健康保険料が増加し続けるのが本質的だと思います。日本の健康保険は素晴らしい制度ですが、高齢者の割合が増えること、さらに薬剤の開発をしてもそれは非常に高額になり、逆に健康保険を圧迫する状況になっています。重要なことは、国民生活の維持のために破綻しない手法を考えることであり、単純に薬剤の開発などは必ずしも高齢化問題を根本的に解決するものではないと思います。
[企画番号 J23B015]
2/29「あなたの考える 日本の科学の〇〇問題 とは?」
課題ラボ 最終ワークショップのご案内
寒の時期を過ぎたとはいえ、まだ寒い日が続く今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
年始の能登半島地震を受け、延期しておりました「課題ラボ」ワークショップを、改めて開催いたします。
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の皆様の安全と一日も早い復旧・復興をお祈りいたします。
また、復旧活動にあたられている皆様に心より感謝申し上げます。
「課題ラボ」は「NPOが日々向き合うリアルな課題を集めて、みんなで解く仕組みをつくれないか?」という思いのもとに開発された、課題共有・対話・方向性を探るためのスキームです。
日本NPOセンターの三本裕子さんのご協力をいただき、一昨年より教育対話促進プロジェクトの企画として、進めてまいりました。
わたしは、2022年の「課題ラボ」セッションに参加して以来「これは日本の科学について、お互いの立場を超えてコミュニケーションする方法としても、とても魅力的だ!」という思いを抱き続けていましたが、それは今でも変わっておりません。
最終企画では、JAAS正会員の皆様のみならず、外部からの参加者も募り「日本の科学を元気にするためには?」について対話するための場を、共につくっていきたいと考えております。
今年も日本の科学を盛り上げていくため、皆様どうぞ奮ってご参加ください。
JAASの中期目標策定のために「日本の科学の〇〇問題」を改めて募集していきます
企画番号:J23B015
JAASの短期的な課題は、JAAS内部の衝突・分断を解消することです。次の理事を5名~11名と少人数にするのも、この問題の緩和が1つの理由です。
ただし、科学の振興というJAASの活動を推進していくためには、このような内部問題の解消だけではなく、具体的な目標を立てて、それを会員みんなで共有して進めていく必要があります。
そのためにビジョンタスクチーム(小野悠、大西知子、諏訪智巳、下平剛司、林愛子、原山優子、馬場基彰、吉野宏志)に協力いただきながら、2年前に定めたビジョン1.0を踏まえて、具体的な中期目標(3年~10年での達成を目指す)の策定を試みることにしました。
中期目標策定のためのワークショップを今後開催していく予定ですが、その前に「あなたの考える 日本の科学の〇〇問題 とは?」を改めて募集していきます。以下3日程で、これまでに集まった「日本の科学の〇〇問題」の紹介や趣旨説明をします。ぜひご参加ください。