執筆者:上山卓真(CTO兼CAIO)
KDDI×アクセンチュアのDX専門ベンチャー「株式会社ARISE analytics」に約7年間在籍。データサイエンティストとして、約200名の副事業部門長を担い、データ・AIの専門家として活躍
bloom株式会社にてCTO兼CAIOとして、データ・AIを含むテクノロジー全般の活用を推進
不動産管理の現場では、修繕見積もりの妥当性判断がベテランマネージャーに属人化しており、担当者との間に大きな情報格差が生まれていました。担当者は判断基準を持てないまま些細な案件でもマネージャーへの確認が必要となり、組織全体の生産性が低下していたのです。
本記事では、この課題を解決するために過去の修繕実績をデータベース化し、AIを活用して見積もりの妥当性を判断できる仕組みを構築した事例をご紹介します。約1週間のPoCで実用性を確認し、導入後は担当者が自ら相場感を学べる環境が整い、マネージャーへの相談品質も向上しました。マネージャーの判断基準をデータとして整備し、AIを介して担当者に届けることで、情報格差の解消と業務品質の向上を両立した取り組みです。
不動産管理の現場では、修繕に関する情報がマネージャーに集約される構造になっています。長年の経験を通じて、マネージャーは「この工事ならこのくらいの金額が妥当」「この業者は品質が良い」「この物件タイプならこの仕様で十分」といった判断基準を蓄積しています。
一方で、営業担当者や現場の担当者には、こうした過去の状況や背景に関する情報がほとんど共有されていません。見積もりを受け取っても、それが高いのか安いのか、妥当なのかどうかを判断する材料がないのです。
この情報格差は、日々の業務品質に直接影響を与えます。担当者は判断に自信が持てないため、些細な案件でもマネージャーに確認を求めることになります。マネージャーは本来注力すべき業務に時間を割けなくなり、組織全体の生産性が低下していきます。
また、担当者の成長という観点でも課題がありました。判断基準がブラックボックス化しているため、担当者は「なぜその金額が妥当なのか」「どのような観点で見積もりを評価すべきか」を学ぶ機会がありません。結果として、いつまでもマネージャーに頼らざるを得ない状況が続いてしまいます。
この情報格差を解消し、担当者がマネージャーと同じ目線で判断できる環境を整えることが、今回の取り組みの出発点でした。
不動産管理会社では、物件のリフォームや修繕に関する見積もりを日常的に受け取ります。入居者の退去に伴う原状回復工事、設備の経年劣化に伴う修繕、外壁や共用部のメンテナンスなど、その内容は多岐にわたります。
これらの見積もりが適正価格かどうかを判断することは、コスト管理において非常に重要な業務です。同じ工事内容でも、業者によって価格が大きく異なることは珍しくありません。適切な判断ができなければ、割高な価格で発注してしまうリスクがあります。
しかし、見積もりの妥当性を正確に判断するには、過去の類似案件の相場感や、工事内容ごとの適正単価に関する知識が必要となります。クロス張替えの単価相場、床材ごとの施工費用、設備交換の標準的な価格帯など、判断に必要な情報は多岐にわたります。経験豊富な担当者やマネージャーであれば感覚的に判断できますが、新人や経験の浅い担当者にとっては難しい判断となります。
そのため、現場では以下のような問題が発生していました。
・新人担当者が見積もりを受け取るたびに、管理者への確認が必要となっていた。
・管理者は本来の業務に加えて、見積もり確認の対応に時間を取られていた。
・判断基準が明文化されておらず、担当者のスキルアップにつながりにくかった。
・過去の見積もり情報が各担当者のローカルに散在しており、組織として活用できていなかった。
結果として、割高な見積もりで発注してしまうリスクや、管理者の工数増加という課題を抱えていました。
この課題を解決するため、過去の修繕見積もりと実績を一元管理するデータベースを構築し、AIを活用して見積もりの妥当性を判断できる仕組みを開発しました。
本システムの狙いは、マネージャーが持っている判断基準や過去の知見を、データとして整備し、AIを介して担当者に提供することです。
これまでマネージャーの頭の中にしかなかった情報を、誰でもアクセスできる形にすることで、情報格差を解消します。担当者はAIに質問することで、マネージャーと同じ情報をもとに判断できるようになります。これにより、担当者の判断品質が向上し、マネージャーへの確認頻度も減少することが期待できます。
また、担当者が自ら過去事例を調べ、相場感を学べる環境を整えることで、スキルアップの機会も提供します。単に業務を効率化するだけでなく、担当者の成長を促す仕組みとして設計しました。
本システムは大きく3つの要素で構成されています。
1つ目は、過去の見積もりと修繕実績を蓄積するデータベースです。これまで各担当者が個別に保管していた見積もり書や発注履歴を一箇所に集約し、検索・参照できる状態にしました。物件名、業者名、工事内容、金額、実施日などの情報を構造化して保存しています。
2つ目は、蓄積したデータをAIが読み取りやすい形式に整備する仕組みです。PDFや紙の見積もり書から必要な情報を抽出し、構造化されたデータとして保存しています。工事項目ごとの単価や数量が明確になるよう、データの粒度を統一しています。
3つ目は、担当者が利用するフロントエンドアプリケーションです。見積もりPDFをアップロードすると、AIが過去の類似案件と比較しながら妥当性を判断してくれます。また、チャット形式でAIに質問することもでき、相場感や過去事例について気軽に確認できます。
担当者がこのシステムを使う流れは非常にシンプルです。
まず、業者から受け取った見積もりPDFをアプリケーションにアップロードします。すると、AIが見積もり内容を読み取り、過去の類似案件を自動で検索します。そして、過去実績との比較結果とともに、価格の妥当性に関する判断材料を提示してくれます。
担当者は、AIから提示された情報をもとに自分で判断することもできますし、判断に迷う場合は過去事例とAIの分析結果をセットで管理者に相談することもできます。「この見積もり、妥当でしょうか」という漠然とした相談ではなく、「過去の類似案件と比較するとやや高めですが、この点についてどう思われますか」という具体的な相談ができるようになります。
実際に開発したアプリケーションの主要な機能をご紹介します。
アップロードされた見積もりは、工事内容ごとに整理された形式で表示されます。たとえば、ある物件の内装リフォーム見積もりでは、以下のような項目が一覧で確認できます。
・天井クロス撤去:69.1㎡ × 100円/㎡ = 6,910円
・天井クロス貼り:79.5㎡ × 1,100円/㎡ = 87,450円
・壁クロス撤去:181㎡ × 100円/㎡ = 18,100円
・壁クロス貼り:208.2㎡ × 1,100円/㎡ = 229,020円
・床塩ビタイル貼り:63㎡ × 4,800円/㎡ = 302,400円
・クッションフロア貼り:1式 × 13,000円 = 13,000円
・各所リペア:1式 × 35,000円 = 35,000円
・トイレ棚交換:1式 × 9,000円 = 9,000円
・ハウスクリーニング:1式 × 60,000円 = 60,000円
このように、項目・数量・単価・金額が構造化されて表示されるため、どの工事にいくらかかっているのかが一目で把握できます。見積もり書がPDFや紙で届いた場合でも、AIがデータを抽出して統一フォーマットに変換するため、比較検討がしやすくなります。
また、工事カテゴリ(内装工事、水道工事、電気工事など)ごとに小計が表示されるため、どの工事にコストがかかっているのかを把握しやすい設計になっています。
本システムの特徴的な機能として、AIに対して相場を質問できるチャット機能があります。担当者は自然な言葉で質問するだけで、蓄積されたデータに基づいた回答を得ることができます。
たとえば「クロス張替えの相場を教えて」と質問すると、AIは蓄積された過去データをもとに以下のような回答を返します。
・相場価格:1,100〜1,200円/㎡(中央値:1,175円/㎡)
・量産品クロス、SP相当で1,150円/㎡程度
さらに、AIは関連する過去の実績事例も併せて提示します。「エステコート北柏では内装改装工事でクロス張替えを実施し、総額170万5,000円の工事の一部として発注した」「ダイアパレス学芸大学では設備交換なしの内装リフォームで、総額99万円のうちクロス張替えがメイン工事だった」「浜町グランドハイツでは内装工事でクロス張替えを実施し、総額128万円の比較的小規模な改装だった」といった具体的な事例が表示されます。
単なる相場だけでなく、実際の発注実績と照らし合わせた判断が可能になるため、担当者は自信を持って判断できるようになります。
画面右側には、過去の見積もりを検索できる機能を設けています。物件名、業者名、工事内容などのキーワードで検索することで、関連する過去案件をすぐに呼び出せます。
検索結果には、物件名・施工業者・工事日・金額・工事カテゴリ(内装工事、水道工事、電気工事など)が一覧表示されます。たとえば「ダイアパレス」で検索すると、過去に同物件で実施した工事の履歴が表示されます。気になる案件をクリックすれば、その見積もりの詳細を確認でき、今回の見積もりと比較検討することができます。
AIによる自動分析を待たずとも、担当者自身が能動的に過去事例を調べられる設計としたことで、日常的な学習ツールとしても活用されています。新人担当者が空き時間に過去事例を眺めることで、相場感を養うといった使い方も想定しています。
見積もりをアップロードした際や、AIに質問した際には、関連する過去事例が自動的に提示されます。これにより、担当者は自分で検索しなくても、参考になる情報にアクセスできます。
たとえばクロス工事を含む見積もりをアップロードすると、過去にクロス工事を含む案件が自動的にリストアップされます。物件の規模や工事内容が近い案件を優先的に表示するため、比較検討の精度が向上します。
まず取り組んだのは、過去の見積もりデータの収集です。各担当者が保管していたファイルや、過去の発注履歴を洗い出し、一箇所に集約しました。紙で保管されていたものはスキャンしてデジタル化し、メールに添付されていたPDFも収集しました。
集めたデータはそのままではAIが読み取りにくい形式だったため、AIを活用してデータの整備を行いました。見積もり書から工事項目、単価、数量、合計金額などの情報を抽出し、統一されたフォーマットで保存しています。
データ整備の際には、以下の点に注意しました。
・工事項目の名称を統一する(「クロス貼替」「壁紙張替え」など表記ゆれを統一)
・単価の単位を明確にする(㎡単価なのか、一式なのかを区別)
・物件情報と紐づける(どの物件で実施した工事かを明確にする)
現時点では数十件程度のデータを蓄積していますが、今回の対象がレジデンス(住居)の修繕であるため、修繕の種類がある程度限定されています。クロス張替え、床材の貼り替え、ハウスクリーニングなど、頻出する工事項目については十分な比較データが揃っています。そのため、この件数でも類似案件の比較において十分な再現性が得られています。
本システムは、約1週間のPoC(概念実証)を経て、実用性を確認しました。短期間で検証できた理由として、既存のAI技術を活用したことと、対象業務を絞り込んだことが挙げられます。
PoCでは、実際の見積もりデータを使って、AIが適切な回答を返せるかを検証しました。相場の算出精度、関連事例の抽出精度、回答の分かりやすさなどを確認し、実務で使えるレベルであることを確認しました。
まずは小さく始めて効果を確認し、その後に対象範囲を広げていくアプローチを採用しました。最初から完璧なシステムを目指すのではなく、実用最小限の機能でスタートし、利用しながら改善していく方針です。
定量的な効果測定は実施していませんが、導入後に以下のような変化が見られています。
過去の見積もり事例をいつでも参照できるようになったことで、担当者が自ら相場感を学べる環境が整いました。新人であっても、類似案件の実績を確認しながら判断できるため、知識の習得が加速しています。
以前は「なぜこの金額が妥当なのか」を学ぶ機会がありませんでしたが、過去事例と比較することで「この工事は相場より安い」「この項目は通常これくらいかかる」といった判断基準を自然と身につけられるようになりました。
以前は「この見積もり、妥当でしょうか」という漠然とした相談が多かったのに対し、現在は過去事例とAIの分析結果をセットで持ってくるようになりました。「過去の類似案件と比較すると単価がやや高めですが、この業者の品質を考慮するとどうでしょうか」といった具体的な相談ができるようになっています。
相談の品質が上がったことで、管理者も的確なアドバイスがしやすくなっています。また、担当者が自分である程度判断できるようになったため、管理者への相談頻度自体も減少傾向にあります。
本システムの最も大きな効果は、マネージャーと担当者が同じ情報をもとに議論できるようになったことです。以前は情報格差があったため、マネージャーの判断を担当者が理解できないこともありました。
現在は、担当者もAIを通じて過去の実績や相場情報にアクセスできるため、マネージャーと同じ土俵で議論ができます。これにより、判断の根拠が共有され、組織としての意思決定の質が向上しています。
これまで属人化していた相場感や判断基準が、データベースとして組織に蓄積されるようになりました。担当者が異動や退職をしても、過去の知見が失われにくい体制が構築されています。
また、新しい見積もりデータが蓄積されるたびに、AIの判断精度も向上していきます。組織として学習し続ける仕組みが構築されたことは、長期的な競争力につながると考えています。
現在はレジデンス(住居)の修繕を対象としていますが、今後はオフィスビルや商業施設など、より多様な修繕案件への適用を検討しています。
オフィスやビルの修繕は、住居と比較して工事の種類や規模が多岐にわたります。空調設備、エレベーター、防災設備、電気設備など、専門性の高い工事も含まれるため、見積もりの妥当性判断はより難易度が上がります。
こうした領域こそ、過去実績の蓄積とAIによる判断支援が効果を発揮すると考えています。専門性の高い工事は、担当者が相場感を持ちにくい分野でもあります。過去の実績データがあれば、専門知識がなくても一定の判断ができるようになります。
また、データが蓄積されるほどAIの判断精度も向上するため、継続的にデータを収集しながら対象範囲を広げていく方針です。将来的には、見積もりの妥当性判断だけでなく、最適な業者の選定や、修繕計画の立案支援など、より広範な業務支援への展開も視野に入れています。
本記事では、不動産管理における修繕見積もりの妥当性判断をAIで支援する仕組みについてご紹介しました。
ポイントを整理すると、以下のとおりです。
・マネージャーと担当者の間にある情報格差が、業務品質の低下を招いていた。
・過去の見積もり・修繕実績を一元管理するデータベースを構築し、情報格差の解消を図った。
・AIを活用してデータを整備し、チャット形式で相場や過去事例を確認できる仕組みを開発した。
・担当者が見積もりをアップロードすると、AIが過去事例と比較して妥当性を判断する。 ・約1週間のPoCで実用性を確認し、導入を進めた。
・導入後、担当者のスキルアップや相談品質の向上といった効果が見られている。
修繕見積もりの妥当性判断は、多くの不動産管理会社が抱える課題です。本事例のように、過去データの蓄積とAIの活用を組み合わせることで、属人化の解消と業務品質の向上を両立できる可能性があります。
重要なのは、単にAIを導入することではなく、組織に蓄積された知見をデータとして整備し、誰もがアクセスできる形にすることです。AIはそのデータを活用して、担当者の判断を支援する役割を担います。このアプローチは、修繕見積もりに限らず、経験や知識が属人化しやすい業務全般に応用できると考えています。