論文やレポートの特徴について

 大学や大学院における授業の成績評価方法の1つに、「レポート課題」があります。私も学位論文やレポート課題を指導し、採点する立場ですので、多くの学生さんの執筆した玉稿を拝読させて頂いています。その中には若々しいフレッシュな発想で想像以上のレポートを書いてくれる方々もいるのですが、少し厳しいなあと感じるレポートや論文も存在します。気になる部分を片っ端からコメントしていくと、すごい数になってしまうことも少なくありません。(そして、コメントした後しばらくしてから、ちょっとやりすぎたかもしれないなあ、と悶々とします。)

 ただ、これは仕方ない部分もあると思います。思い返せば、今偉そうに文章を書いている私も、これまで一度も論文やレポートの書き方それ自体は指導されたことがありません教わったことがないのに書けるわけがない、と考える学生さんの気持ちも十分にわかります。その一方で、大学で研究活動を行うなら、これくらいできてほしいという大学の先生方の気持ちも最もだと思います。

 おそらくはほとんどの大学で論文やレポートの書き方、いわゆるアカデミック・ライティングについては説明不足だと思いますので論文やレポートの特徴について、私の理解している範囲で整理しようと思います。特徴さえわかれば、論文もレポートも書きやすくなるでしょうし、一次資料を確認すべき理由、「パラグラフ・ライティング」という技術を身につけることが望ましい理由、こうした論文やレポートが大学の授業で求められる理由など、様々な学術上求められる内容を理解しやすくなるからです。

 さて、前置きが長くなりましたが、論文やレポートの特徴を私の理解に基づいて一言で言えば、「論理があり、かつ客観性の高い文章」です。論理とは、論拠に基づいて主張を展開することです。私はよく論文指導において、「論拠と主張はワンセット」という表現を使います。論拠だけでもだめ、主張だけでもだめ、ということです。次に、客観性とは、自分だけなく自分以外の人も賛成する性質す。もちろん、100人いたら100人がうなずく客観的な文章なかなか難しいですし、論文でもレポートでも、パートによってはある程度の主観は入っても許される部分はあります(今後の研究の展望など)。しかし、分析した結論が主観的な感想になっている文章(面白かった、興味深い等)や、論拠をきちんと提示しない文章をレポートや論文として採点する場合、低い評価を受けてもおかしくないと思います。

 以上の特徴について、高校生までに学んだ他の文章と比較することでその特徴の理解を深めていこうと思います。まずは、論理はあるものの客観性はない文章の代表例として、「読書感想文」を取り上げます。読書感想文の基本的な書き方は、読んだ本の印象に残った部分を要約した後、自分がどのように感じたかを理由とともに書くものです。こうした書き方をすれば、本の内容という根拠に基づいて自身の主張を展開しているという点で、論理を確保できます。その一方で、読書感想文はあくまで自分の思ったところや、感じたところを書く「感想」文です。当然ながら同じ本を読んだとしても、人によって感じ方は異なります。例えば、日本昔ばなしの「ももたろう」を読んだとしても、「将来、育ての親に恩返しできる大人になりたい」と感じる人もいるでしょうし、「鬼さん、痛そう」と感じる人もいるでしょうし、「きびだんご1つは、命がけの仕事の対価としては安すぎる」と感じる人もいるでしょう。このように、読書感想文はあくまで自分の思うところを書く文章ですので、基本的に客観性はありません。

 次に、客観性はあるものの論理はない文章として、「図鑑」や「辞書」に注目します。植物図鑑でも動物図鑑でも、図鑑は非常に客観性の高い文献です。誰が見ても人間は霊長類ですし、ニシローランドゴリラの学名は「ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」です。しかし、図鑑も辞書も、根拠に基づく主張は行っていません。あくまで事実を語るのみです。ここに論理はありません。

 論理も客観性もない文章は「小説」や「随筆」、場合によっては「日記」も含まれます。小説は主人公の一人称視点で語られる場合もありますし、必ずしもストーリーは論理に基づいているわけではありません。随筆は定義上、筆の赴くまま書いた文章なので、論理も客観性も存在しなくても構いません。日記は基本的に自分が確認できれば良いので、論理も客観性も不要です。ちなみに、この文章はパラグラフ・ライティングに基づく段落構成は意識していますが、私が好き勝手に書いている随筆であり、論文でもレポートでもありません。もちろん、今回書いている内容には、ある程度の客観性があると考えていますが、私が論文やレポートとして文章を書く場合、データを用いたり、他の文献を論拠として引用したりして、自説の客観的な論拠を示しながら記述します。そもそも、「思う」、「考える」といった主観を表す文末を使わず、客観的に「考えられる」ことだけを記述します。

 さて、話を戻して上の図表の4分類に基づいて考えてみると、論文やレポートを書く場合、読書感想文や図鑑にならないように気をつければ良い、ということがわかります。例えば、色々調査した結果、結局自分がどう感じたかを結論として書いていた場合、それは上の分類における「読書感想文」です。様々な文献を引用しまくって、結局自分が何を主張するのかを書いていない場合、それは「図鑑」や「辞書」す。いずれも「論文」や「レポート」とは異なるものです。

 じゃあどうやって書けば良いのかについて、私が行う方法を説明しておきます。まずは、客観性を確保しつつ論理の土台がためを行うために、関連する一次資料を集めて事実を整理しま政府、企業、業界団体等の信頼できる主体が公表した資料や情報、手前味噌ながら我々研究者による論文の分析結果など、一次資料とされる情報を整理することで、まずは事実を整理するのです。一次資料がなかなか見つからない場合、次善の策として二次資料として書籍、雑誌の記述等を使います。ただし、二次資料を使う場合には情報の信頼性をチェックする方が望ましく、これをチェックするにはある程度の経験が必要なので、最初は一次資料に当たるのが望ましいです。あるいは、二次資料の参考文献や掲載されているデータの出典を確認して一次資料の索引として利用するのが良いでしょう。

 事実を整理すれば、そこから客観的に何が考えられるのか、という解釈を行います。例えば、ある企業Xの収益性を確かめるために、一次資料として企業の会計情報を確認して総資産営業利益率を計算し、同業他社の値と比較して高いことが判明したとします。この一次情報を整理した客観的な事実の解釈として、例えば「原価率が低い可能性がある」という客観的な解釈が可能です。もちろん、一つの事実から一つの解釈しか導けないわけではありません。多くの場合、複数の解釈が可能です。先程の企業Xの例であれば、利益率の高さの原因は原価率ではなく、販管費率かもしれません。そこで、考えられる解釈の可能性を挙げていった上で、どの解釈が最も正しいと考えられるのかについて、これまた一次情報を整理しながら考えていくのです。情報を集めれば集めるほど、挙げていった様々な解釈の可能性が潰されていきます。複数の可能性が残る場合もありますが、できる限りの考察や分析を通じて最も信頼できると考えられる結論に絞りこんでいきます。最終的に絞り込まれた解釈が、自分の研究の主張になります。

 このように一次情報を整理した後、解釈の可能性を列挙し、それを分析や考察を通じて絞り込むことで最も適切と考えられる解釈を導くのが研究活動であり、この活動を通じて最終的に絞り込まれた解釈を主張として提示するのが、論文やレポートです。

 私は主に「実証分析」と呼ばれるデータ分析に基づく研究手法を主に採用しており、学生にも基本的には実証分析に基づく学位論文を指導しています。この手法では、客観的なデータ分析の結果を論拠として、主張を展開します。先行研究や実態調査を通じて自分の研究対象に関する可能性を列挙した後、考えられる解釈の可能性に関する変数を説明変数に組み込んだ重回帰分析を行えば、可能性を一気に絞り込めます。こうした実証分析に基づく研究手法を体験してもらうことで「一次情報の整理→解釈の可能性の列挙→可能性の絞り込み」という研究活動の一連の流れをスムーズに理解してもらえると考えています。

 なお、こうした一連の研究活動が必要になるのは何もアカデミックの世界に限った話ではありません。例えば、学部ゼミで参加しているCFA Research Challengeというグループワークでは、プロの実務家の方からのアドバイスに基づいて対象企業の企業価値評価を行い、Buy推奨かSell推奨かを説得的に主張するアナリストレポートの執筆が求められます。うまくレポートを執筆するには、企業自身の公開情報や企業のIR担当者の方との質疑応答で得られた一次情報を整理し、客観的に考えられる解釈を導いた後、一次資料や分析、考察を通じて可能性を絞り込むことで結論となる主張(Buy推奨かSell推奨か)を提示する、という流れを取ります。具体的な活動内容や整理する情報が異なっていても、大きく考えればやっていることは同じです。

 こうして考えると、研究活動の方法論自体は仕事に役立ちますし、何より読書するときでも映画鑑賞をするときでも、興味を持ったことについて研究活動をすれば人生は楽しくなると思っています。ただ、この面白さを体験するには時間も労力もかかります。今は時間も労力もかけずに受動的に楽しめるエンタメコンテンツが溢れていますし、何より現代に生きる方々は仕事や学業など、時間に追われる毎日を過ごしていると思います。人は自分で経験した面白さしか理解できないものなので、時間が比較的とれる大学時代に一度は経験してほしいなあと思うのですが、どうも難しいですね。

 以上、てきとうな独り言でした。