当研究室のキーワードの1つが,キラリティー(鏡像関係)です。キラルな構造は,医薬などの低分子からDNA・タンパク質などの天然高分子,さらに巻き貝に至るまで様々な階層で見られます。また,キラル構造には右手・左手型が存在しますが,天然に存在するアミノ酸のほとんどはd-アミノ酸であり,DNAは右巻きらせんです。すなわち,自然界は単一のキラリティーから成り立っています。(実は,最近になって鏡像異性体であるd-アミノ酸の役割が徐々に明らかにされつつあります)。現代社会における薬・香料・食品の開発では,鏡像関係にある分子の一方(エナンチオマー)のみが利用される場合が多く,最近ではその光学活性をデバイスへ応用する検討も積極的に行われています。エナンチオマーを得る主な方法としては,天然物の利用・合成的手法(不斉合成)・ラセミ体の光学分割などが挙げられます。特に光学分割は,パスツールによる酒石酸塩の光学分割以来,もっとも検討されてきた方法の1つと言えます。
さらに近年では,単一のエナンチオマーを得るだけでなく,単一のエナンチオマーの集合体が形成するマクロ構造(らせん構造など),やキラルな光特性(キロプティカル特性)に関する注目も高まっています。一方,当研究室では,光学分割の逆のプロセスに注目してきました(Fig. 1-1)。
Fig. 1-1 キラリティーに対する我々の着眼点。
熱力学的にみれば,光学活性体は一般にラセミ体に比べて不安定であることが知られています(Wallach則, Fig. 1)。筆者はWallach則に基づけば,エナンチオマー対の混合,すなわちラセミ化が,超分子形成の駆動力として働くのではないかと考え, これまでラセミ化を利用した超分子構造の構築を行ってきました。超分子化学とは,分子間の弱い相互作用を利用して,熱力学的に最も安定な構造を得ることを目指す学問分野です。エナンチオマー対間の弱い相互作用が,超分子化学的だと考えたわけです。
通常,エナンチオマーを得るためには多大な労力を要します。当研究室では,エナンチオマーをキラルHPLCを用いた光学分割や,ジアステレオマー塩法によって得ることが多いです。そのため傍から見れば,苦労して得た(分けた)光学活性体を,再度混合して光学不活性にする,という極めてエネルギー的にロスの多い作業を行っているように見えると思います。一方で,エナンチオマー対を混合してラセミ体の形成機構を調査することは,逆のプロセスである光学分割手法の根源的な理解に繋がるのではないかと考えています。
上記のように述べたものの,せっかく生じた光学活性を,混ぜることで失うのは悲しい作業です。そこで,最近行っているのが,「擬ラセミ体」形成を利用して,熱力学的に安定な光学活性体を構築する方法です。ここでは,擬エナンチオマー(擬鏡像体)の関係にある分子を「分子外形は鏡の関係にあるが,一部の元素が異なる分子」と定義します。そして,擬鏡像体から構成されるものを,擬ラセミ体と呼びます。
もしラセミ化が,分子外形に基づく立体的な相互作用で主に進むのであれば,擬ラセミ体もラセミ体と同様に,熱力学的に安定となるはずです。また,あくまで擬ラセミ体ですから,光学活性は維持されるはずです。このような考えのもとに,擬鏡像関係にある光学活性な金属錯体をまぜたところ,得られた擬ラセミ体では,分子が規則配列して,液晶状態にありました。また,擬ラセミ体は,エナンチオマーとも異なる光学活性を示すことがわかり,調査を進めています(Fig. 1-2)。
Fig. 1-2 擬ラセミ体形成を利用した,光学活性体の構築
分子が棒や円盤などの異方的な形状をもつ場合には、時にその分子集合体が、固体と液体の間に液晶相を発現する場合がある。また、液晶と一口に言っても、じつは様々な液晶相が存在する (Fig. 2-1)。液晶相の中で、最も単純で(秩序が低く)、最も応用されているのがネマチック(N)液晶である(いわゆる液晶ディスプレイのほとんどはN液晶を利用している)。N液晶相が示す様々な機能や特徴の中でも、特に興味深いのが、N液晶に光学活性な物質を添加すると、らせん構造をもつキラルネマチック(N*)相(コレステリック相とも呼ばれる)へ構造変化することである (Fig. 2-2)。N*相はらせんを持つと言っても、そのらせんピッチ(1周期の長さ)は、短くて数百nm, 長い場合には数百μmにおよぶ緩やかな「らせん」であるため、分子サイズから見ると非常に長くて、実際には絵に描くのが難しい(多くの場合には、ピッチを実際より大幅に短くした模式的な絵が描かれる)。実は、世の中で初めて発見された液晶はN*液晶である(生物学者のFriedrich Reinitzerが、コレステロール誘導体を研究する中で発見)。
当研究室では、キラル物質の添加によって、どのように“緩やかな”らせん構造を形成されるのか?という疑問をもち、その解明に取り組んできた。もちろん,この問題は古くより様々な研究者が取り組んできた問題であり、物理学的にはらせんを巻くことは自明なのかもしれない。しかし,分子構造から「らせん」構造(巻き方向やらせんピッチ)を予測することは今なお困難である。多くの場合には、らせん構造の右巻き・左巻きを予想することすら困難である。「らせん」形成のメカニズムを分子レベルで明らかにすることは,化学と物理学の両面から取り組むべき課題といえる。当研究室では、N相にドープして、N*相を発現するための、光学活性分子(キラルドーパント)の開発を行ってきた。キラルドーパントの骨格として用いてきたのは、ΔΛキラリティーをもつ金属錯体である (Fig. 2-3)。
キラルな金属錯体をキラルネマチック相の構造研究に適用する試みは、日本においては山岸晧彦先生および故宮島直美先生が約2000年頃に共同で始められた研究である(吉田も2005年に山岸研究室に入り、両先生の指導を受けた)。研究開始のきっかけは、metallomesogenを狙って苦労の末に合成したキラル錯体が液晶性を発現せず、仕方なしにネマチック液晶に対するドーパントとして利用したことと記憶している。Δ, Λ-錯体では、配位子が中心金属に対して、プロペラ型に配置しており、錯体自身が小さならせんと言える。
キラルドーパント1分子当たりのらせん誘起能力(helical twisting power, βM値, / μm-1)は,1/(x・p) (xはドーパントのモル分率、pはらせん一周期の長さ)で表される。βM値の大きなドーパントは強いねじれを、小さなドーパントは弱いねじれを誘起する。また,βM値には正負があり、正の値は右巻きらせんに、負の値は左巻きらせんに相当する。βM値の絶対値はGrandjean-Cano法やCano wedge法などのクサビ形セルを用いて偏光顕微鏡で直接観察する方法や、分光学的に選択反射波長を決定することで、求めることができる。また,正負については,すでに巻き方向が分かっているN*液晶との接触試験や、液晶のらせん配列に由来する誘起CD(円二色性)測定が有効である (J. Phys. Chem. 2018)。実は,Δ, Λ-錯体のキラルドーパントとしての評価はSpadaらによってすでに行われており、Δ-[Ru(acac)3]のMBBA中でのβM値値は-102と報告されている。その小さな構造に比べると、極めて大きな値と言える。
これまで我々が特に取り組んできた問題が、らせんの「右・左巻き問題」である (Fig. 2-4)。一般に,キラルネマチック相におけるらせんの向きを選択的に誘起することは極めて困難であり、ドーパント分子とらせん構造間の構造相関は多くの場合に経験的なものであった。一方錯体ドーパントの場合は、結果から述べると、非常にシンプルな分子構造の違いによって「左右らせん」を選択的に誘起できる。例えば図2に示す金属錯体ドーパントはすべてΔ体である。中心骨格のみから考えれば,これらはすべて同一のキラリティーをもつから、同じ巻き方向のらせん構造を誘起するはずである.しかし実際には、配位子の伸長方向によってらせん方向は異なる。これまでに、らせんの向きは錯体の骨格に強く影響を受けることが分かっている。例えば、1つの配位子が紙面に対して縦方向(錯体のC2軸に対して平行方向)に“伸びている”場合は右巻き「らせん」を,紙面に横方向(C2軸に対して垂直方向)に“伸びている”場合には右巻き「らせん」が誘起される(Δ体の場合。Λ体では逆になる)。以下,これらの2タイプの錯体ドーパントをそれぞれ「平行タイプ」、「垂直タイプ」と呼ぶ。
垂直タイプ・平行タイプが、液晶中で実際にどのような役割を果たしているかを明らかにするために、その後様々な試みを行った。Ferrariniらによって提案されたShapeモデルの適用、偏光UV-Vis測定による錯体の配向方向の決定、ラマン測定による濃度効果の検証、などである。現時点では、錯体の骨格と液晶分子の立体的効果(広い意味で排除体積効果とする)と、電気的な相互作用(主に双極子相互作用)の相乗効果によって説明できると考えている(J. Phys. Chem. B 2018参照)。
上記の(1)では、主役は液晶であり、金属錯体はわき役(ただし重要な)であった。一方で、金属錯体を骨格とする液晶(metallomesogen, 金属を意味するmetalと、液晶を意味するmesogenが合わさったことばです)は、金属イオン由来の物性と液晶由来の柔らかさを併せ持つ材料として、期待されてきた。当研究室でも、キラルなmetallomesogenを目指して、いくつかの取り組みを行い、失敗を重ねた結果、注目したのがカラムナー液晶である。主に円盤形状をもつ分子が1次元に積層してカラムを形成し、このカラムがさらに2次元的に集合することで形成される液晶相をカラムナー(Col)液晶という (Fig. 3-1)。ディスプレイ材料として用いられる液晶は主に棒状分子から構成されるのに対し、カラムナー液晶は1977年に初めて報告された比較的”若い”液晶相である。カラムナー相を構成する分子がキラルな場合には、分子がらせん状に積層したヘリカルカラムナー相の発現も報告されている。ヘリカルカラムナー液晶では強誘電性の発現が確認されるなど、液晶の新たな応用に向けた展開が期待されている一方で、ヘリカルカラムナー相そのもの報告例が少なく、その内部構造については不明点が多いのが実情である。ヘリカルカラムナー相では左図に示すような複数のらせんモデル(type I~III)が提案されているが、その構造が明確に確認されているのはtype Iのみと言える。
筆者は、ヘリカルカラムナー相の合理的な発現を目指して、分子におけるキラリティーの位置に注目してきた。カラムナー相を発現する分子骨格としては、一般に剛直な多環芳香族が好まれる。そのため、キラリティーはほとんどの場合、分子末端に導入されてきた。この場合、分子はお互いのキラル部位が重ならないように積層するため、キラル部位間の相互作用は弱くなる。一方、トリスキレート型の八面体型金属錯体では、分子中心にΔ, Λキラリティーが存在する。そのため、もしΔ, Λ-錯体を集積できれば、キラリティー部位同士が強く相互作用することが期待される。
これまでに、いくつかの錯体を検討した結果、左図の錯体がそのエナンチオ体において、ヘリカルカラムナー相を発現することを見出してきた(Fig. 3-2, Chem. Commun. 2020)。筆者の知る限り、八面体型骨格をもつ金属錯体のエナンチオ体において液晶相の発現が報告された初の例である(ラセミ体はSwagerらが報告済。JACS, 1994, 1999)。
実際の研究の様子
らせん構造の決定では、共同研究の威力を知りました。自分たちの思いも知らないことが、どんどん明らかになっていく様はとても興奮するものでしたし、そして研究内容をディスカッションする醍醐味を改めて感じました)。エナンチオ体についてGrazing incidence (GI)-XRD測定を行ってくださったのは名古屋大学の原 光生先生です。前々から狙っていた先生で、思い切って声をかけると快諾して頂きました。次々に新なたデータを出して頂きました。ただし、初めは結果の理解・解釈が追いつきませんでした。XRDの回折パターンに対して、パワーポイント上で簡易的に逆格子を重ねて、うんうん学生と唸った末、ぴったり合った時はまさに「えっ!?」という瞬間でした。さらに解析を進め「1周期が5.2 nmのらせん構造」の形成が示唆されてきたときは、大変興奮しました。
さらにこの構造情報をもとに、北里大学の渡辺 豪先生に分子動力学計算を行ってもらい、見事にらせん構造が再現して頂きました。渡辺先生とはドーパント研究の時から一緒に研究させてもらいました。カラムナーもいけません?と尋ねた際も、快諾して頂きました。ただ、渡辺先生には原先生の結果が出る以前からお願いしており、無数の試行錯誤をして頂きました(させてしまいました)。何人もの学生さんも含めて1年近くに渡り奮闘して頂いた結果、”らせんの可視化”を実現して頂きました。
以上の結果は、ヘリカルカラムナー相の合理的な開発手法につながるだけでなく、より広くキラルな液晶相の物性理解や応用につながると考えています。さらに将来的には、金属錯体型液晶の強誘電材料としての利用を開拓したいと考えています。
「粘土」は子供のころから身近な材料である。一方で、「粘土鉱物」は層状構造をもつ結晶性の無機物質で、層と層の隙間に様々な物質を取り込んだり、一枚一枚の層に剥がれたり、といった様々な特徴をもつ優れた材料でもある。そのため、種々の化学製品(化粧品や車の塗装材など)に利用されている(高分子と粘土の混合物、ナノコンポジットは特に有名)。
粘土層間に取り込まれる物質として、古くから興味を持たれてきたのが「キラル」な物質である。粘土層間にキラル物質を吸着させたものは、高速液体クロマトグラフィー用のカラムなどに利用されている(参考 株式会社大阪ソーダのHP)。一方で、粘土層間に取り込まれたキラル物質がどのように並んでいるのか?そもそも規則的に並ぶのか?という点が、研究者にとっては大きな謎だった。我々は、キラルな分子がラセミ状態(右手型分子と左手型分子が1:1で混在する状態)にある場合、粘土層間で2分子層を形成し、かつこれらが六角形状に規則配列することをX線回折測定により明らかにした(Fig. 4-1)。2次元空間で分子がどう並ぶのか?という基礎科学的な興味に答える結果だと考えている。
粘土が様々な物質を取り込むこと、を利用してもう一つ試みているのが、酸化還元活性な金属錯体の安定化である。酸化還元活性な物質は、その酸化状態に応じて、性質を大きく変える。例えば、[Ru(acac)3]は中性状態では赤色を示すのに対し、酸化体では500 nmから1,000 nmの幅広い領域に光吸収を示し、青緑色を呈する。酸化還元は、分子の性質を簡便かつ迅速に変える有用な手段と言える。一方、酸化体あるいは還元体の多くは不安定であり、徐々にもとの錯体へと戻るため(あるいは分解)、実際に応用された例は極めて限定される。当グループでは、金属錯体の酸化体を安定に保持することを目指して、酸化錯体の層状構造をもつ粘土層間あるいは粘土表面への吸着を検討している (Fig. 4-2)。