北里柴三郎 物語 オペラ
『 ドンネルの夢 』
Dream of ''Donner''
Dream of ''Donner''
世界のどんな優秀な研究者も成し得なかった「破傷風菌の培養」。留学先のベルリンでそれを成し遂げた北里柴三郎を、世界の研究者達は 「第1回ノーベル賞は彼に違いない」と話していました。オペラは、第1回ノーベル賞を受賞したベーリングの、北里へ宛てたメッ セージから始まります。彼は「この受賞はDr.Kitasatoと二人の栄誉だと思っている」という言葉を公表しています。
場面変わって、時は1858年の熊本県小国郷北里村。コロリ(コレラを当時の人はこう呼んでいた)で次々と死んでいく村人達・・・ そのコレラで弟妹を亡くした幼い柴三郎は「人の命を助けられない医者なんて役立たずだ!」と医師への不信感を募らせたのでした。
父親の惟信は新しい時代の来ることを予感し、柴三郎にこれからの生き方を教えます。柴三郎は生涯、父と母の「成功に近道など無い」「ひ たむきに努力する者に人は手を差し伸べる。それが“運”なのだ」という教えを胸に生きていくのでした。
日本は文明開化へと変化していきました。柴三郎は父の勧めで、嫌々ながら熊本医学校へ進学し、そこでマンスフェルトに出会います。顕微鏡を覗くように言われた柴三郎は、生まれて初めて見る「細胞」ミクロの世界に驚き、医学を目指すことを決意。「東京へ行き、そしてベルリンで勉強します!」とマンスフェルトと約束します。
東京医学校の校長・長与専斎は勢い余る一人の学生(柴三郎)に手を焼いていることを、福澤諭吉に相談します。そんな柴三郎は正論を遠慮なく言い、自分の医学に対する思いを「医道論」として発表。「まずは国民に健康法を教え、病気を未然に防ぐことこそ、医学の基本だ」・・・ これは生涯に渡る柴三郎の生き方を表しています。
同じ熊本出身の緒方正規がドイツ留学を終え帰国。九州男児3人で 「これからの日本の医学を変えていこう!」と喜びます。
1885年、長崎でまたコレラが大流行し、内務省へ就職した柴三郎は その調査に長崎へ行きます。若妻の乕は心配で眠れぬ夜を過ごしていましたが、柴三郎の長崎土産・金色のカステラに嬉し涙しながら、多忙を極 める夫の身体を思うのでした。そしてその長崎の調査書が認められ、柴三郎のドイツ・ベルリン留学が決定します!
ドイツのコッホ博士のもとには世界中から優秀な研究者が集まっていま した。ある日コッホ博士から「日本の緒方の書いた脚気菌説の論文をどう思うか?」と聞かれた柴三郎は「内容には賛同できない」旨を伝え、コッホ博士の勧めで反論文を発表。これを知った東京大学の青山胤道や森林太郎、加藤弘之は激怒し「先輩に対してなんて無礼な奴だ!許さん!今後、研究できないようにしてやる!」と、柴三郎に対して恨みを持つようになります。
世界中で何万人もの人々が命を落としている「破傷風」・・・誰一人成功しないその純粋培養(治療法発見)でしたが、コッホ博士は柴三郎に期待していました。そして柴三郎は自分で作った実験器具で、見事にそれを成功!世界中の医師・研究者を驚かせました。
ところが帰国した柴三郎は内務省を免官・・・これに驚いた長与は福澤に相談します。福澤は北里に対する政府のやり方に激怒。そして自身の土地を提供し、柴三郎のために伝染研究所を建て、結核療養所 「養生園」も設立。そして北里の研究所は世間にも認められ、優秀な研究者を次々に輩出していきました。それを見た政府は「北里の研究所を内務省の所管にする」ことを決め、柴三郎もこれを受諾。ところが北里に恨みを持っていた東京大学の教授陣は「内務省ではなく、文部省の傘下に移し、彼らの功績を我々東京大学のものにする」という策略を練り、日本政府に働きかけていたのです。
そんな中、柴三郎の大きな支えとなっていた福澤諭吉が他界・・・ そして福澤諭吉の言葉「慶應義塾に医学部を。その時には学長になって欲しい」を実現させることを柴三郎は心に誓うのです。
ある朝、経理事務の総括をしている田端重晟が新聞を抱えて北里の部屋に飛び込んできました。その新聞には・・・・・
そして北里は福澤の遺言通り、慶應義塾の初代医学部長としてその生涯を終えるまで「無償で」慶應医学部の発展に尽くしました。
■ Dream of “Donner” ■