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春祭は、稲の播種の時に当たり豊作を祈る祭祀です。
当社では毎年4月の上中旬の土曜日に宵祭、日曜日に本祭が執り行われ、神職に代わり氏子総代が神事(修祓)(※1)をします。宵祭当日早朝に氏子役員と当番隣組とで、境内・拝殿覆屋内清掃、提灯・灯籠・幟旗立、模擬店用テント設営など準備をし、触太鼓をし、夜に宵祭祭祀を行い、翌日曜日朝に本祭祭祀と直会(※2)を行い、同日昼に片付をしています。
春祭(春乃御祭・祈年乃御祭)は、『神祇令』に「仲春祈年祭」、『令義解』(833)に「謂祈猶禱也欲令歳灾不作時令順度即於神祇官祭之故曰祈年也」(謂う、祈なお祷 のごときなり。歳災を作ず、時令をし度に順しむることを欲するなり。すなわち神祇官においてこれを祭る。ゆえに祈年という)とあり、凶作が起こらずに天候が順調であることを願い神祇官で祭るゆえに祈年祭というとして、年穀を祈願する祭祀とされ、唐制に倣った律令のなかに旧暦二月(新暦2月下旬から4月上旬頃)に祈年祭(としごいのまつり)として組み込まれ、『延喜式』(927)では「凡祈年祭二月四日」「祈年祭爲中祀」と祭日が定められ、明治になり宮中祭祀としては2月17日となり、国家神道による皇室祭祀を基準とした神社祭式の統一化のなかで、例祭・新嘗祭などと共に大祭として位置付けられましたが、GHQの昭和20年「神社指令」により国家の関与が禁止されると春祭と名を変えて存続したものです。
(※1)修祓(しゅばつ): (※2)直会(なおらい):
(※1)修祓(しゅばつ):
祭祀を執り行うのに先立ち、参列者及び献供物を清める祭儀です。神道において神様は清浄を極めて尊ばれる存在であり、不浄や罪、過ちといった「穢れ」を忌み嫌われます。そのため、神様をお迎えして願いを届ける前には、目に見えない心身の不浄を取り除き、本来の清らかな姿に戻る工程が不可欠とされています。この儀式は、「大幣」(おおぬさ)と呼ばれる道具を用いて行います。大幣は、榊の枝や木製の棒に、紙垂(しで)や浄化の象徴である麻などを取り付けたものを、所作として「左・右・左」の順に大きく振ることで、その場に集まった人々や神様へ捧げるお供え物を清めます。この三度の振りには、天・地・人の調和を整えるという意味も込められています。修祓を受ける側は、大幣を振る間、深く頭を下げてその霊力を受け、自らの内なる穢れを追い出します。このように修祓は、神様と向き合うための最も基本的な祭儀であり、神事全体の厳粛さを形作る土台となっています。
(※2)直会(なおらい):
神事の最後に、神前に捧げた供物(神饌や御神酒)を下げ、参列者が共に分かち合って頂く儀式のことを指します。これは単なる神事後の宴会や打ち上げではなく、祭典を締めくくる極めて重要な神事とされています。直会の核心にあるのは「神人共食」(しんじんきょうしょく)という日本古来の思想です。神様が召し上がったものと同じ供物を頂くことで、神様の霊威を身体に取り込み、神霊との結びつきを強め、そのご加護を授かることができると信じられてきました。同時に、同じ食事を分かち合うことで、神様を介して参列者同士の連帯感を深めるという、共同体における重要な社会的意義も持っています。祭礼において「神に供え、共に食べる」ことは不可欠な要素であり、古くは祭典の現場で供物を調理して食す形が一般的でした。現代では、場所や時間の制約から御神酒を一口頂く程度の略式で行われたり、お弁当や撤下品の配布に代わったりすることも増えていますが、神徳を身体に取り込み、日常へと清々しく戻るというその本質的な精神は、今も大切に受け継がれています。 当社では、コロナ禍以降は御神酒を頂いた後に弁当配付の形式で執り行っています。
秋祭は、その年に収穫した新穀を供進し神人共食する祭祀です。
当社における例大祭で、現在は9月28に宵祭、同29日に本祭が執り行われ、宵祭当日早朝に氏子役員と 当番隣組とで、境内・拝殿覆屋内清掃、提灯・灯籠・幟旗立、模擬店用テント設営など準備をし、触太鼓をし、夜に宵祭祭祀を行い、翌日に本祭祭祀と直会を行い、同日昼に片付をしますが、宵祭祭祀は神職に代わり氏子総代が神事(修祓)をし、本祭祭祀は宮司が行い、常の神事に加え、神社境内拝殿前に四隅に斎竹(いみだけ)とよばれる葉付きの青竹を立て、注連縄を張り廻らせ紙垂(しで)を垂らした央に大釜を据え、湯を沸し、宮司が笹を湯に浸し、その笹でまわりに湯を振りかける湯立(ゆだて)神事が行われます。
秋祭(新嘗祭・新嘗乃御祭)は、『禮記』祭統に「凡祭有四時。 春祭曰礿。夏祭曰禘。秋祭曰嘗。冬祭曰烝。」とあり、『神祇令』に「季秋 神衣祭 神嘗祭」「仲冬 上卯相嘗祭 寅日鎮魂祭 下卯大嘗祭」、『令義解』仲冬条頭書に「貞観講書私記云。 問。義云。朝相嘗祭者。然則上下卯日相嘗。並无別哉。答。上卯所司所行也。下卯為以新穀 供至尊所祭也。又云。上卯先祭調庸荷前及當年新榖於諸神。下卯欲嘗新穀。以其前又祭諸 神。但上卯相嘗祭諸神義解只計庸。大略具式文也。」とあり、律令のなかに宮中祭祀として組み込まれ、季秋(陰暦九月)にその年に収穫した新穀を天照大神に奉げる「神嘗祭」(かんなめさい・かんにえのまつり)、仲冬(陰暦十一月)の初めての卯の日に大嘗祭(新嘗祭)に先立って 諸所の神々に新穀を奉る相嘗祭(あいなめのまつり・あいんべのまつり)、二番目の卯の日に大 嘗祭(おおなめのまつり・おおんべのまつり)を行いましたが、後花園天皇(在位1428~1464)のとき以後中絶したものの、東山天皇(在位1687~1709)のときに再興し、明治以後は新嘗祭(にいなめさい)として11月23日を定め、例祭・祈年祭などと共に大祭として位置付けられ、昭和 22年「皇室祭祀令」は廃止されましたが宮中祭祀として続けられ、昭和23年以降は勤労感謝の日として受け継がれています。
大祓は、日々の生活の中で知らず知らずの中に心身に付いた罪・穢・災などを払い清め、無病息災・平穏無事を祈願する祭典です。
当社では現在は12月第一日曜日あるいは11月最終日曜日の午後に執り行われ、当日昼に氏子役員で、清掃・準備をし、祭祀と直会を行い、祭祀は宮司が行います。
大祓は、六月と十二月の晦日(みそか)に行われ、6月の大祓を名越祓(なごしのはらえ)、十二月の大祓を年越祓(としこしのはらえ)と呼びならわしていますが、『神祗令』に「凡六月十二月晦日大祓者。中臣上御祓麻、東西文部上祓刀 讀祓詞、訖百官男女。聚集祓所中臣宣祓詞、ト部為解除。」(凡そ六月、十二月の晦日の大祓 には、中臣は御祓麻を上れ。東西の文部は祓の刀を上り、祓詞を読め、訖りなば百官男女、祓の所に聚り集れ。中臣は祓詞を宣え、ト部は解え除くことを為せ。)とあり、宮中祭祀として組み込まれますが、応仁の乱以降は,他の朝儀と同様廃絶し、その後元禄四年(1691)にいったん復興をみますが旧儀には復さず,明治四年(1871)になって正式に再興します。
伊勢神宮が、毎年9月17日の神宮大麻頒布始祭によって大宮司から神社本庁の統理に委託し、各都道府県の神社庁から各支部を経て、地域の神社の神職・総代を通じ、年末までに御神札を各戸に頒布するのにあわせ、10月初旬に三種類の神宮の御神札の他に、氏神である諏訪神社、年神(としがみ)、竈神(かまどがみ)、屋敷神(やしきがみ)の七種類の御神札の申込書を各戸に回覧して申込みを受付け、12月の土日に研修センターで初穂料(はつほりょう)をお預かりして御神札をお渡ししています。初穂料はすべて宮司にお納めします。
伊勢神宮の御神札は神宮大麻(じんぐうたいま)と呼ばれ、大麻(おおぬさ)ともいい、古くは伊勢の神宮に奉仕する神職でもある御師(おんし)と呼ば れる祈祷師が、全国各地で祈祷を行い御祓大麻(おはらいたいま)が配布されてきましたが、神道を国家の祭祀とする国家神道化のなかで明治4年7月12日太政官達「師職並ニ諸国郡檀家卜唱ヘ御麻配分致シ候等之儀一切被停止候事」により廃止されますが、同年12月18日、伊勢神宮大宮司から神祇省に対し、大麻の神号名を「天照皇大神宮」、「皇大神宮御璽」の印を押し神宮司庁の責任で遍く頒布することを伺い出て、同年12月22日神祇省告論「皇大神宮大 麻之義者、今般従大宮司従来之振合ヲ以海内一般へ配布相成候」と裁可され、明治五年、皇大神宮拝礼のための大御璽である神宮大麻として、その頒布が神宮司庁から全国一律に実施 されるようになり、昭和21年からは神社本庁が委託を受けて頒布することになったもので、神宮大麻(縦24.5cm・横6.8cm・厚さ0.1cm)、神宮中大麻(縦25cm・横7.5cm・厚さ 0.5cm)、神宮大大麻(縦30.5cm・横10.5cm・厚さ0.9cm)の三種 類(初穂料は神社により異なる)があり、大麻と中大麻(ちゅうたいま)は白板紙(しろいたが み)、大大麻(だいたいま)は樅(もみ)を板状に製材した真板(まいた)に、大麻の中心である御 真(ぎょしん)と呼ばれる白い紙垂(しで)を巻いた麻串(ぬさぐし)を大和糊で貼り付け、銘紙(めいし)と呼ばれる宮号と御璽と大神宮司の印を押捺した和紙で包み小口を裏面に折り込み、上下の小口に神宮司庁の封印を押したもので、汚れを防ぐための薄い紙(上包紙)で包まれていますが神棚にお祀りする時はこの薄い紙を外してお祀りするとのことで、初穂料については全額が伊勢神宮に納められ、神宮は半分を収入とし、残りの半分は神社本庁に交付されるそうです。
年神(としがみ)は、歳徳神(としとくじん)・お正月さま「としこしさま」などとも呼ばれ、『説文』に 「年 本作稈。穀熟也。」、『爾雅』に「夏曰歳。商曰祀。周曰年。」、『穀梁傳』に「五穀皆孰爲有年。五穀皆大孰爲大有年。」とあるように、年神の「年」は「穀物の実り」のことをいい、後に時のことも表すようになったもので、年神は農耕の神であり「歳」を司る神ともされ、正月様ともよば れる毎年正月に各家に訪れる来方神で、正月も元々は年神迎えの行事とされ、門松は年神が来訪するための依代(よりしろ)、鏡餅は歳神への供物とされます。
竈神(かまどがみ)は、『古事記』に「大年神(中略)娶天知迦流美豆比賣生子奥津日子神次奥 津比賣命亦名大戸比賣神此者諸人以拜竈神者也」(大年神(おほとしのかみ)(中略)天知迦 流美豆比売(あめちかるみづひめ)を娶りて生みし子は、奥津日子神(おくつひこのかみ)、次に奥津比売命(おくつひめのみこと)、亦の名は大戸比売神(おほへひめのかみ)、此は諸人の以ち拝(おが)む竈神(かまのかみ)ぞとあり、正月に訪れる大年神の子である奥津姫、あるいは奥津姫とその兄の奥津彦の二柱が、竃神として祭られましたが、これに火産霊神(ほむすび のかみ)を加えて三柱の神を竃三柱神といいます。
屋敷神(やしきがみ)は、屋敷のある敷地の一角または接続した土地もしくは持地の山林など屋敷の付属地に祀られた石造や木造の小祠で、一般に屋敷と土地を守護する神とされます。
二年参りは、現在一般的には大晦日の深夜から元日未明にかけて神社に詣でることをさしています。
当社では毎年12月31日朝に氏子役員と当番隣組とで、境内・拝殿覆屋内清掃、提灯・灯籠・幟旗立(天候による)、振舞用テント設営など準備をし、夜になって境内で庭火(にわび)を焚き、夜中の零時を跨いで参拝者に護符と、甘酒・御神酒・蜜柑などの振舞をしています。
庭火(にわび):『倭名類聚抄』に「庭燎四聲字苑云、燎(力照反、和名邇波比、毛詩有庭燎篇)庭火也 」とあり、庭で焚いて明かりとする「かがり火」のことです。特に、宮中で神楽(かぐら)を奏する際などに焚かれたもので、「庭燎(ていりょう)」とも表記されます。神事や儀式において、場を清め、神を招き、夜間の照明として用いられた歴史を持ち、日本の伝統的な灯火の形です。
二年参りは、現在一般的には大晦日の深夜から元日未明にかけて初詣を行うことをさしていますが、古くは日暮と共に日が替わると考えられ、旧い年と新しい年が入れ替わる年越しの夜で ある除夜(じょや)は、家族揃って年神を迎えての年越(としこし)、年取(としとり)などと呼ばれる 新年の食膳を囲んだあと、火を絶やさず一晩中起きている習わしがあり、また年籠(としごもり)という大晦日に一家の戸長が寺社に籠ることも行われ、『後拾遺和歌集』(1086)春上に「大中臣能宣朝臣 年ごもりに山寺に侍りけるに今日いいかヾと人のとひて侍りければよめる 人しれず入りぬと思ひしかひもなく年も山路を越ゆるなりけり」とあるのが初出といわれ、近年でも京で は社頭で元日を迎えることを年籠りと称し、また二年参りともいうといい、他にも二年詣り・境参り・越年参拝・除夜詣などの語が見え、二年参りの語は信越地域に多く行われているようで、『吉田屋源兵衛覚日記』安政六年(1859)に「大晦日 一朝より晴 ○柚木村大神宮様へ二年参詣之人々三百人余有之候由近年稀成ル大勢之由」とあるように江戸末期からのこととみえ、 時計の普及と共にか夜中の零時に日付が替わると考えることが広まり、寺院が除夜の鐘を零時を目安に打つことも始まったことで、真夜中に初詣をすることが広がったと思われます。
新年拝賀式は、元旦の朝に神職や氏子などが神社に集まり、新年を祝うとともに一年の無事平穏を祈る儀式です。
当社では正月元日の朝に、神職に代わり氏子総代が神事(修祓)をします。
新年拝賀式は、 明治5年(1872)太政官布告「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とあり、太陰暦を廃し太陽暦した際に官公署において1月1日に拝賀が行われ、明治10年前後より新年拝賀式の語がみえるようになり、官公署に於て元旦 に御真影に拝賀する行事が行われ、明治24年(1891)の『小学校祝日大祭日儀式規程』に「第 三条 一月一日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第一款(御真影拝礼・万歳奉祝)及第四款(唱歌合唱)ノ儀式ヲ行フヘシ」により元旦に小学校へ登校することが始まり、新年拝賀式の名が定着していきますが、神社においては明治41年(1908)『皇室祭祀令』に「小祭及其ノ期日ハ左ノ如シ 歳旦祭 一月一日」「歳旦祭ノ当日ニハ之ニ先タチ四方拝ノ式ヲ行ヒ」とあり、新暦1月1日(元日)早朝に天皇陛下が神嘉殿南庭で天地四方の神々を神 祇を拝する儀式である四方拝(しほうはい)の後に、掌典長が主宰し祝詞をあげる小祭として宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われる年始を祝う祭祀である歳旦祭(さいたんさい)が行われましたが、国家神道による祭祀統一化において皇室祭祀令にならい大正3年(1914)『官国幣 社以下神社祭祀令』において歳旦祭を中祭とし、全国の神社において元旦の祭祀として行われるようになりますが、GHQの昭和20年「神社指令」により国家の関与が禁止されますが、昭和21年(1946)神社本庁が設立され、その「神社本庁庁規」においても中祭とされたものです。
小正月に行われる、正月のしめ縄や松飾り、古神札などを焚き上げ、歳神様を見送り、無病息災や五穀豊穣、家内安全を祈願する火祭りの行事です。
当社においては小正月(1月15日)頃の土曜日に準備をし、日曜日の午前から正午にかけて奉焼祭として焚き上げを行っています。
どんど焼きの火で焼いた繭玉(米粉などで作った繭の形の団子)を食べると1年間無病息災で過ごせるという言い伝えがあり、区民の交流の場としても大切にされています。
奉焼祭(どんど焼き) 小正月に行われる、正月のしめ縄や松飾り、古神札などを焚き上げる火祭りの行事で、地域に よって呼び方が異なり、とんど(歳徳)、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、鬼火焚き、御弊焼(おんべやき)、さいのかみ、三九郎、左義長(さぎちょう)などとも呼ばれ、『弁内侍日記』建長三年(1251)正月条に「十六日にさぎちやう焼かれしに」、『徒然草』に「さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖を、真言院より神泉苑へ出して、焼き上ぐるなり」などとみえ、三毬杖・三毬打・三 鞠打・三木張・爆竹などとも書かれていますが、宮中行事として行われたのがはじめとされ、天明6年(1786)跋『禁中恒例年中行事』正月に「十五日 三毬打(サキツチヤウ 又爆竹(サキチヤウ)又左義長是は十五日の夜、清凉殿東向簾中出御にて、東庭にて御吉書を三毬打に 而燒るヽ御規式なり、長橋廊下に而公卿殿上人列座有、三毬打は竹と藁にて作り、紙をしめに附たるもの也、山科家御料御代官を勤られたる時よりの例にて、山科家より調進なり、出御の後、御吉書を硯蓋に載、簾中より出さる、藏人受取、殿上より修理職に渡す、修理職狩衣にて受取、三毬打の内へ入、次藏人御前の燭臺の蝋燭をとり、修理職に渡す、修理職受取、牛飼童にわたす、牛飼童兩人裝束に而詰居り受取、三毬打へ火をうつし、燭は修理職へ返し、修理職より藏人へ返し、藏人元の如く燭臺に指す、三毬打燃上れば、牛飼童とうどやとはやし、夫より仕丁大ぜい十徳を著、扇を手に持、三毬打をめぐりて、とうどやとはやす、其内新參の仕丁は、紅白粉を面にぬり出る也、三毬打燒る内、燒竹二本硯蓋にのせ、牛飼童、修理職へわたし、修理職階下より上げ、藏人受取、簾中へ入る、三毬打はて入御なり」とあります。
なお奉焼祭の語については、焼納祭の語は各地にみえるものの奉焼祭はあまり見あたらず、佐久鼻顔稲荷神社初午祭のダルマ焚上げくらいですが、鼻顔稲荷神社が当社の本務社とされた時期もあり、そこから来たものか或は終戦時に奉焼式と称して各地で御真影や軍旗を焼くことが行われたことが影響したものか不明です。