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本殿 一間社流造 文化文政頃建立。 流造(ながれづくり)は、破風を側面にした切妻屋根を 持ち、正面入口側が庇(ひさし)のように曲線状に反りながら長く延び、この長く延びた部分を向 拝(こうはい)と呼び、桁行(正面)の柱間が一間(柱が二本)のものを一間社といいます。
拝殿及覆屋 本殿の前に設けられ祭祀を行うための建物である拝殿(はいでん)は妻入の切妻 造で、背後に本殿を保護するため本殿を覆うように建てられた覆屋(おおいや)が繋がって建てられており、覆屋部分は床がなく土間となっていましたが、近年腰板と共に床が張られました。
大神宮
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
由緒 元禄五年(1692)五月九日村社脇宮として来社す。
現社殿は昭和22年1月6日南大井村より買受けた同小学校の奉安殿を移転遷宮した。
石祠
不詳
稲荷社
祭神 宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)
稲荷神社の主祭神で、総本宮は京都の伏見稲荷大社です。「ウカ」は「貴い食物」を意味し、五穀豊穣をはじめ商売繁盛、家内安全など「食」と「富」に関する広範なご利益をもたらすとされています。
社口社
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
「天孫降臨」(てんそんこうりん)の際に登場する道案内の神様で、物事を良い方向へ導く「道啓」(みちひらき)の神で、妻神である天鈿女命とともに夫婦円満の神としても崇敬されています。
天満宮
祭神 菅原道真朝臣命(すがわらみちざねあそみのみこと)
菅原道真は、平安時代の学者・政治家で、無実の罪で大宰府に左遷され亡くなりましたが、後に怨霊を鎮めるため天神様として祀られました。現在では、優れた学識にあやかり、学問の神様として広く信仰されています。
津島社
祭神 進雄命(すさのおのみこと)
日本神話における荒ぶる神であり、記紀神話では、高天原での乱暴な振る舞いの後に追放されますが、出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、稲田姫命を救う英雄譚がから、厄除けや武運長久、縁結びの神として信仰されています。
愛宕社
祭神 迦具土神(かぐつちのかみ)は火の神であることから火伏せ・防火の男神です。
市杵島社
祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)は元は玄界灘の海の安全を守る神でしたが、後に弁才天(弁財天)と習合し、財運、芸能などの神として信仰されています。
山ノ神
祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)
山を司る日本の国津神で、あらゆる山の神の祖神とされ、 山野を司り、農漁業、鉱業の守護神として信仰されています。
由緒 昭和35年4月6日和田区青年団より高砂開墾地に鎮座の山の神を移転安置した。
加茂大社
祭神 別雷紳(わけいかづちのかみ)は雷を「別ける」ほどの強大な力を持つ「若々しい雷(神鳴り)」の神という意味を持ち、厄除け・災難除け、必勝の神として信仰されています。
由緒 「文政元寅 十一月 當所氏子中」 の紀あり。
石祠
不詳
「筆冡 無邉樂事 歸吟筆」
「六十八翁 甘利珍義書 甘利八左衛門珍義其先曰左衛門晴吉 仕武田氏爲二十四将之一其勇武人之所能知也武田氏亡後子孫住於信州佐久郡和田村世 爲其伍長至珍義好文雅入於岩田村柏原凰丸之門學上田之書風既極其妙有門人百餘人而 又旁喜謡從而和亦百餘人而書特其所長也頃者門人相謀欲納其廢筆以報其恩求塚記於余 余聞上田書風艶麗可喜然以其勇武之後則余決知其筆勢自不可掩猶夫左衛門鋒刄之鋭不 可當也珍義今茲六十有八農隙則莞然與子孫樂此二事而不倦嗚呼亦太平之至樂哉 安政二年歳次乙卯晩夏下浣 拙齊加藤景高撰 栗園今枝師聖書 世話人 中沢重五郎 甘利太次郎 同民吉 黒岩清太郎 甘利定次郎 柳沢藤次郎 大井東光□ 甘利紋蔵 同八 郎左エ門 同龍吉 同弥久 同賢介 同百治 同宰吉 同近蔵」
筆塚(ふでづか)とは、筆子塚(ふでこづか)とも呼ばれ、江戸時代後期から爆発的に全国に広がった「寺子屋」の師匠を称え、追悼するために、その教え子であった「筆子」たちが立てた塚のことで、「もの」を供養する塚という意味も兼ね、塚建立の際に、使い古しの筆を埋める場合もあったといいます。
本殿に向って鳥居の手前右側の板状の角柱です。
「廿日待供養塔 信州佐久郡 和田邑講中 明和五戊子年 七月吉日」
旧暦二十日に行われた月待の記念に建てられたもので、月待とは特定の月齢の日に講中が集まり、飲食を共にしながら月の出を待ち、経を唱えて月を拝むという、江戸の中期から後期に流行した行事です。
本殿に向って鳥居の手前右側の欅の木の下にある山状の角柱です。
なお、子安講とも呼ばれる女性の集まりである「十九夜講」は令和七年(2025)で閉講されるまで続いていたということです。(和田分館報第99号)
「馬頭観世音 日課一億百萬遍供養 享和二壬戌歳十月日 和田村 願主」
浄土宗で、一日に称える念仏の遍数(回数)を誓約し、日課として称えることを日課念仏といい、その数が1億100万回に達したことを記念して建てられたもので、その数からして講中が唱えた念仏の総数を記念したもののようです。
本殿に向って鳥居の手前右側にある自然石です。
「廻國供養□ 天保四年巳五月□」(下部埋設)
廻国とは法華経を六十六部書写し、これを国ごとに一部ずつ納経して回ることをいい、廻国供養塔は廻国成就の記念、俗に六部(ろくぶ)と呼ばれた廻国行者が勧進したもの、行者に結縁したことを記念するためのなど様々あります。
本殿に向って鳥居の手前右側の欅の木の下にある自然石です。
「西國 四國 奉順禮秩父納經供養墖 坂東 當郡 當邑善女人願主於曾濃敬立 寛政元已酉年十月十二日」
和田村に住む女人於曾濃(おその)が、各地の神社・仏閣に巡拝し、納経・供養できたことを記念し建てられたもので、巡拝供養塔の造立は寛政(1789~1801)以降から増えるため、このころから経済的余裕のある農民層の間で、巡拝が流行したと考えられています。
本殿に向って鳥居の右脇に二基並んでいるうち右側のものです。
「宝暦九已卯天 佐久郡和田村 庚申供養塔 十月吉祥日 施主□敬白 消除三垢冥 廣済衆厄難 神力演大光 普照無際土」
庚申供養塔(こうしんくようとう)は、中国道教由来の民間信仰で人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて、いつもその人の悪事を監視していて、庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(閻魔大王とも)に報告するため、三尸の虫が天に登れないよう、庚申の夜は村中の人達が集まって神仏を祀り、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かすことを庚申待(こうしんまち)といい、庚申待を三年十八回続けた記念に建てられたものです。
本殿に向って鳥居の右脇に二基並んでいるうち左側のものです。
「四國西國 奉納百八十八所為二世安樂也 秩父坂東 東和田村施主 中沢源左衛門 同名八之丞 干時宝永四丁亥天卯月中旬」
碑文上部に梵字(ぼんじ)で、中央に主尊「キリーク」(阿弥陀)、左に脇侍「サ」(観音)、右に「サク」(勢至)の三尊種子が刻まれています。
百八十八所は、『法華経普門品』に観音菩薩が法華経を説く方便として三十三身に変じるとあるのに因んで三十三観音霊場を巡拝すると現世で犯した罪が消え極楽往生できるとされ、なかでも代表的な西国三十三霊場・坂東三十三霊場・秩父三十四霊場の百観音霊場を巡拝することが庶民に流行し、江戸後期には観光を兼ねた巡礼者が数万人も訪れといい、さらに加えて弘法大師(空海)の霊場である四国八十八箇所の遍路を行ったものをいいます。
本殿に向って拝殿の右側の少し離れたところにある笠付きの角柱です。
「大乗妙典石經 奉読誦法華六十六部供養 享保九辰七月 天利八郎右衛門義績」
大乗妙典石経は、大乗妙典(法華経)の文字を一字ずつ小石に墨書して埋めたもので、一字一石経とも呼ばれ、室町から江戸に流行した写経の一種で、写経された小石は地面に埋められて供養塔が建てられます。天利八郎右衛門が法華六十六部の読誦をなし遂げた記念に建てられたものです。
本殿の真裏にある山状角柱です。
燈籠一対 (鳥居前面)
「献燈 明治二十年八月 甘利寛治 甘利啓助 甘利幸助 甘利市治 甘利善藏 中澤濱吉 甘利滝蔵 中澤金蔵 遠山茂平太 中澤義助 甘利文作 甘利三五郎 星野伊右エ門 甘利弥曾松 中澤幾太郎 黒岩銀蔵 甘利清助 甘利紋太郎 濱島今朝吉 濱島利忠 猿久保村 桜井和太郎 新子田村 神津善平 市村 高地左之吉 岩村田町 石工大塚吾八郎 補幹 星野利助 遠山源助 周旋方 中澤重五郎 中澤龍作 甘利亀吉 甘利定次郎 甘利 源三郎 甘利由助 星野種作」
「献燈 明治二十年八月 星野喜助 柳澤惣助 甘利義一郎 甘利多作 甘利竹三郎 黒岩重平 中澤孫市 星野元作 星野信作 甘利ハマ 中澤治作 甘利勝治 柳澤鹿之助 甘利與市 中澤峯三郎 甘利ヒヤク 甘利関蔵 柳沢六左エ門 甘利市作 星野彦平 大井玄海 外氏子中 新子田村 石工小林由之助 補幹 甘利賢助 周旋方 甘利善太郎 甘利市助 甘利泰助 柳澤富蔵 甘利三蔵 甘利源太郎 甘利作蔵」
鳥居(両部鳥居)
「諏訪神社 奉納 平成二十六年九月吉日 諏訪神社氏子中 建之」
以前の鳥居は木造の両部鳥居でしたが老朽化したため新たに建立され、旧鳥居柱(平成二十六年八月二十日解体)が拝殿左脇に立てられています。
両部鳥居(りょうぶとりい)は、両柱の前後に控柱をつけたもので、この控柱を稚児柱または袖柱ともいい、この控柱と本柱とを二本の控貫で繋いだもので、本地垂迹両部権現説による神仏 混合の神社に多くて建つことからこの名があり、ほかに四脚鳥居・権現鳥居・袖鳥居・枠指鳥居 などともいい、また笠木の上にさらに屋根をつけるのも特徴で、以前の木造鳥居にはこの雨覆屋根(あまおおいやね)がついていました。
幟立一対
「獨立記念 昭和二十八年四月建之氏子中」(参道左右)
昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が完全な主権を回復して 独立したことを記念して建てられたものです。
幟立三対 「御大典記念建之 昭和参年拾壱付氏子中」(参道左右)
昭和3年(1928)の昭和天皇即位の大礼を記念して建てられたものです。
幟立(のぼりたて)は、祭礼の際に立てる長い幟などの竿を立てるために使われる穴の開いた 石柱で、幟立石・幟立枠・幟枠・幟挟・挟石などとも呼ばれます。 現在は燈籠掛として使われています
石灯籠
「元禄十五年壬午年 和田村 奉寄進石燈爐 施主拾□ 十月日」
元禄十五年(1702)十月に寄進された石灯籠です。
本殿に向って拝殿前左側にあり、下 部が埋没しています。
石灯籠
「宝暦十二年壬午年 佐久郡和□ 奉寄進石燈爐 施主遠山□ 六月天□□日」
宝暦十二年(1762)六月に遠山氏によって寄進された石灯籠です。
本殿に向って拝殿前右側にあり、下部が埋没しています。
手水石
「奉祈進手水石 諸願成就 施主 遠山八右衛門 引施主惣氏子 正徳五乙未天十 月吉日」
正徳五年(1715)十月に、遠山八右衛門が主に費用を出し、氏子全員が協力して、諸々の願い事が叶いますようにと奉納した手水石です。
本殿に向って拝殿前左側にあります。
碑
「寄進金二十三万八千圓也 大森僖吉 昭和四十三年九月吉日」
昭和四十三年(1968)九月大森僖吉氏が金23万8千円を寄進したのを記念して建てられた碑です。昭和43年国家公務員上級大卒初任給が27,500円であったところから令和7年(2025)現在換算では200万円近くになるでしょうか。
本殿に向って拝殿前右側 にある角柱です。
「鎮守古社跡 産子社殿諏方社建御名方富命ヲ古代此地ニ鎮座シ祖先尊崇シ開祭シ本村往古佐久郡大井 庄又長倉郷ト曰フ和田村タリ人民此處ニ居住シ年歴ヲ経テ後チ慶安三庚申年今地ヘ村落ヲ 移轉シ從テ又元禄五壬申年九月現地字北原ヘ村社ト移シ再建ス故ニ旧村旧社地ノ付近ヲ字 西ノ宮字古屋敷人稱ス古跡ヲ永遠ニ維持セント之ヲ建設ス 建設者 甘利賢助 甘利源太郎 甘利義一郎 甘利源三郎 甘利木水太郎 甘利清紀 甘利伴左エ門 撰書者 甘利孝房 周 旋者 甘利晴幸 明治四十二年巳酉四月」
「この地に出まれた人々を守護する神社である建御名方富命を祀る諏訪社が古くはこの地に鎮座し、祖先が崇敬して祀っていた。この村は大昔は佐久郡大井庄あるいは長倉郷と呼ばれた和田村であり、人々はこの地に居住し、長い年月を過ごしてきたが、その後、慶安3年(1650)に現在の場所へ集落を移転し、これに従い元禄5年(1692)9月、神社も現在の字 北原へ村の神社として移し再建されたため、旧村や旧社地があった付近のことを人々は字 西ノ宮(にしのみや)や字 古屋敷(ふるやしき)と呼んでいる。その古跡を永く維持するためにこの碑を建てた。」という歴史と由来を記して、明治42年(1909)4月に建てられたものです。
和田工業流通団地 和田字西の宮474-1 株式会社スリーアール長野の南側裏手にあります。