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和田の人々が毎日眺めている雄大な浅間山は、日本を代表する活火山ですが、およそ10万年前から現在の黒斑山として、噴火を繰り返しながら成長していき、今の富士山のような姿をしていました。
佐久の八風山遺跡群からは約3万6千年前、香坂山遺跡からは約3万7千年前の石器と石器製作跡等が発掘されているところから、当時のこの地の人々は富士山のような浅間山を毎日眺めていたことになります。(※)
その黒斑山が、およそ2万1千年前に水蒸気爆発によって山体崩壊をおこし、大きなカルデラができました。そのカルデラの内で噴火を繰り返すことで現在の浅間山の姿になっています。
その浅間山の活動が絶頂を迎えた1万3千年ほど前、凄まじい規模の噴火が起こります。この噴火は、周辺の地形を劇的に変貌させました。
最後の氷河期が終わりを迎えつつある縄文時代(新石器時代)の草創期にあたります。
この噴火で発生した膨大な火砕流は浅間第一軽石流と呼ばれ、北側では吾妻渓谷を厚く埋め立て、南側では小諸・御代田・佐久にまたがる広大な裾野を覆い尽くしました。当時は一帯が火砕流に飲み込まれ、不毛の台地になったと考えられます。
大爆発により発生した火山灰や軽石などが数十メートルに達するほど厚く堆積してできた台地上の末端に小諸城址が位置しているほか、和田の地もこの台地の上に広がっています。
台地は、火砕流の流出に沿って北東から南西に緩く傾斜していますが、この堆積層は粒子が細かく固まっている一方で固結度がゆるく脆いため浸食作用を受けやすく、豪雨時の激流や河川が、この地層を深く垂直に近い角度で削り取ることで凹(おう)の字型をした切り立った深い谷が作り出されるという地域特有の「田切(たぎり)地形」が発達しています。
特に台地末端の佐久市北部から小諸市南東部にかけての地域は幾つかの小河川による田切谷(たぎりだに)が樹の枝のように入り細長い台地を形成し、その南側には濁川の氾濫により形成された扇状地が広がっています。
そのなかで和田は、南は佐久市との境になる湧玉川によりつくられた比高差15m以上の深い田切谷と、北は同様に比高差15m以上の深い田切谷が新幹線のトンネル掘削残土で埋め立てられ道路となった千曲ビューラインに挟まれた細長い田切台地の末端部の上に広がってます。
旧石器時代の遺跡は、佐久平周縁部の関東山地や蓼科山麓、八風山や香坂山などで確認されていますが、和田を含む佐久平中央部においては存在が確認されていません。
縄文時代も、佐久平の中央部には遺跡が少なく、周縁部の浅間山麓などに大規模遺跡が多く認められますが、これは浅間山から流れ出る豊富な伏流水(湧水)など安定した水源を確保でき、狩猟・採集に適した多様な動植物資源(クリ、クルミ、ドングリ、シカ、イノシシなど)が豊富だったため、大規模集落が形成されやすかったと考えられ、佐久市寄山遺跡(中期)のように、周縁部には70軒以上の住居跡が出土する大規模集落も見つかっており、これは安定した環境下での人口集中を物語っています。
和田周辺においては、縄文時代早期や中期後半から後期前半の土器が出土し、台地の縁(へり)に当たる場所などで陥し穴の遺構が多数検出されています。
中部横断自動車道建設 に伴う発掘などで、和田の古屋敷と湧玉川を挟んだ対岸の田切台地上に、縄文時代中期から後期の集落が確認されていますから、こうした集落の人びとが、集落からやや離れた田切地形の谷底の水を求めて集まる動物を狩猟するために陥し穴を作ったと考えられます。
和田においては、縄文時代早期の遺物(土器片)は出土しているものの、住居跡などの具体的な遺構は確認されていませんが、同様に狩猟採集の人々が生活の場としていたことは想像に難くありません。
佐久平の中央部が本格的に人々の生活の場として利用されるようになるのは、佐久平で稲作が始まったとされる弥生時代中期になってからとされ、濁川の氾濫低地を囲むように台地上に集落が営まれるようになります。
『漢書』地理志下に「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云 」[夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に倭人(わじん)有(あ)り、分(わか)れて百余国(ひゃくよこく)と為(な)る。歳時(さいじ)を以(も)って来(きた)りて献見(けんけん)すと云(い)ふ。]と書かれている時代です。
日本でも先進地ではすでに100以上のクニ(国)が出来ていて、中国漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮北部に設置した楽浪郡に貢物を献上していました。
現在のところ佐久平では明確な弥生時代の水田跡は確認されていないようですが、佐久平中央部に広がる低地部において集団による開発が行われたと考えられています。
弥生時代後期になるとさらに集落は増加し、中期同様に濁川の氾濫低地を囲むように田切台地上に、超大形の竪穴住居跡をはじめ数十軒以上からなる大規模な集落(ムラ)が数多く営まれ、現在の佐久平駅周辺の台地上は弥生時代後期の集落が連綿と広がっている状況です。
弥生遺跡が少ない小諸の中では、和田とその周辺の平原・御影新田・市村・森山などは比較的遺跡の分布が多い地域ですが、弥生時代後期の集落跡はほとんどが台地の末端部の標高720m程度までに止まり、標高がより高い小諸市内の田切台地には弥生時代後期の集落はみられず、水田耕作の限界によるものではないかと考えられています。
和田の周辺部では、現在まで水田遺構は検出されていないものの、濁川は古くは数十年に一度程度の割合で氾濫を起こしていたといい、度重なる氾濫により新たな堆積が行われ、肥沃な生産域として利用され、多くの人口を支えてきたものと思われます。
このような田切台地末端付近の大きな弥生時代後期の集落は、古墳時代に入ると、弥生時代後期の集落とは異なる場所に集落がつくられるようになり、その規模も10軒弱程度の小規模のものへと変化していきます。
立地も弥生時代後期の広い台地上ではなく、今までほとんど利用されてこなかった田切台地の縁辺や、河川の低い段丘面に新たな集落が点在するようになります。
和田においても、古墳時代前期には数軒程度の集落を形成していたようです。和田周辺には、湧玉川の南側台地の縁に鎌田原遺跡、近津遺跡群が並び、その対岸が和田における集落遺跡がみられた和田原遺跡群となり、湧玉川の田切谷に沿って小さな集落が隣接するようになっていきます。
弥生時代になって稲作が人々の生活に豊かさをもたらしました。
それは人口の増加をもたらし、人口の増加はより多くの耕作地の拡大を必要とするため、稲作に適した土地の確保を巡って集団での対立が生じるようになり、同時に富を多く持つ者とそうではない者との社会格差が生まれ、生活を支える以上の大きな富の蓄積がなく大集団同士の争いのなかった縄文時代と異なり、蓄えられた富を巡る争いや、稲の生産に欠くことのできない土地や水をめぐる集団と集団の争いがおこります。
人々が集まり大きな集落を作ったのは、集団での作業の必要性と同時に集団で身を守るためという側面もあったといえます。
それが古墳時代に入り、弥生時代の集落間抗争を経て成立した 広域的な権力者が生まれてくると、武力による衝突が減少し、防御のための集住が不要になったことで、人々はより生活や耕作に便利な場所へと分散していったと考えられています。
古墳時代中期の佐久平では、古墳時代前期に比べ集落は大きく、台地を広く利用するようになり、集落と共に古墳群も発見されています。
古墳時代後期になると、今まであまり利用されてこなか った台地上にも大規模な集落が登場して、平安時代前半まで続く100軒 を超えるような大規模な集落跡が出現しています。
和田の古屋敷の湧玉川を挟んだ対岸でも、古墳時代から平安時代にかけての多くの 竪穴住居跡や掘立柱建物跡などと共に、銅印や円面硯などの他、刻書・墨書土器など多彩な遺物が出土しています。
和田においても古墳時代後期になると、後から作られた遺構が、先にあった遺構の一部を掘りながら作られている切り合いも見られ、中長期的に集落の運営がおこなわれていたようです。
古墳時代(3世紀後半〜7世紀頃)は、古墳の発生からみて3世紀後半に大和地方を中心に発展した勢力が大王を首長とする「ヤマト王権」としてまとまり、それまでに勢力圏にあった北九州から瀬戸内沿岸、近畿周辺の「クニ」に加えて、4世紀前半から中頃にかけて、東国に本格的に進出し、各地の「クニ」を勢力下におさめ、4世紀末から5世紀前半にかけては、朝鮮半島にも軍事的進出をはかります。
さらに、5世紀後半の雄略(ワカタケル大王)のころには九州中部から関東および東北地方南部にいたる地域に支配権を確立しています。
ヤマト王権は、服属した各地の有力首長(「クニヌシ」)を、国造(くにのみやつこ)に任じます。それにより在地での地位や支配が保証されるかわりに、ヤマト王権に稲などの穀物を納める「タチカラ」、穀物以外の物品を納める「ミツキ」、労力を提供する「エダチ」などを貢進する義務を負っていました。
この時代、大陸からは、鉄器や須恵器、漢字、さらには仏教といった技術や文化が次々と伝来します。
ヤマト王権は中国や朝鮮半島との外交をほぼ独占していたため、中国や朝鮮の先進的な文化・文物を積極的に導入し、 それらを地方の豪族たちに分け与えることで、政権の支配力を強めていきます。
とくに、朝鮮半島からもたらされた鉄からつくられた農具が、ヤマト王権から国造を通じて地方にも普及すると、生産力が高まり、各地の地方中小豪族のなかには小規模ながらも古墳を築くものが出現します。
しかし当時の日本では、まだ自分たちの力で鉄を安定して作り出すことができませんでした。
そのため、鉄の農具で耕作地を増やしたり、武器を作って国内を統一したりするためには、朝鮮半島から鉄資源を輸入し続ける必要がありました。
さらに、当時の朝鮮半島では北の高句麗(こうくり)が勢力を強めて南下しており、ヤマト王権は権益確保のため、朝鮮半島南部の任那を進出拠点にして、現地の国々に出兵して臣従させたり通好したりしながら半島の勢力争いに関わっています。(※1)
5世紀には、河内平野に世界最大級の墳墓が造られるほどヤマト王権の権威が高まりますが、 6世紀末になると、仏教の受容とともに寺院建築が権威の象徴へと代わり、大規模な古墳の造営は次第に終焉を迎え、飛鳥時代(592~710 )へと移行し、同時に大陸の政治制度も導入していくことになります。(※2)
大陸では、6世紀末に隋が約300年続いた動乱の中国を再統一します。隋は、百済や新羅からの働きかけもあり、朝貢しながらも裏で突厥(とっけつ)と通じたり、王の召喚を拒否した高句麗を服従させようと、4回にわたり遠征しますが成果を得られず、それに伴う過度な負担が引き金となり滅亡します。
7世紀の初め、隋が自壊した混乱の中で成立した唐は、建国当初、内政の安定を優先しました。
朝鮮半島では、百済と新羅は高句麗の南進に対抗するため433年以来同盟関係にありました。6世紀半ばに百済は、新羅・伽耶との連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻しますが、翌々年に新羅が百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れます。
その後、新羅がさらに勢力を広げて加耶諸国を併合し朝鮮半島の主導権を握り始めると、北の高句麗と南の百済にとって新羅は共通の脅威となり、高句麗と百済が同盟を結び、南北から挟み撃ちにする形で新羅を攻撃するようになります。
追い詰められた新羅は、しばしば唐に救援を求め7世紀半ばに同盟が結ばれます。この構図が、最終的に唐と新羅が協力して百済(660年)と高句麗(668年)を次々と滅ぼす決定的な要因となりました。
唐と結んだ新羅が百済を攻め、660年にこれを滅亡させますが、百済の遺臣たちは、百済第三十一代王扶余義慈の王子で日本で質となっていた豊璋と善光の二人のうち豊璋を擁立して百済復興を目指し、日本へ援軍を要請しました。善光(扶余勇)は日本に残り(※3)、のち百済王(くだらのこにきし)の氏姓を与えられ帝臣となります。
天智天皇2年(663)日本は朝鮮半島における権益保護のため朝鮮半島へ出兵します。餘豊を擁立し日本からの大規模な援軍を得た百済復興軍は、唐・新羅の連合軍と激しく戦いましたが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗します。
この敗北は日本に深刻な危機感をもたらしました。唐・新羅軍による本土侵攻を恐れた朝廷は、対馬や九州に防人(さきもり)を配置し、大宰府の防衛として水城(みずき)や各地に朝鮮式山城築き、都も防衛しやすい近江大津宮に移すなど、急速な国防強化を余儀なくされました。
また、この敗戦をきっかけに、日本は国内の統治体制をさらに強固なものにする必要性を痛感し、天皇中心の中央集権的な統治機構を作るために唐の制度を模範とした律令国家への道を加速させていくこととなります。
和田の湧玉川を挟んだ対岸の佐久平北部西側の台地上には、中部横断自動車道建設に伴う発掘調査により、弥生時代から中世・鎌倉時代にいたる大規模な遺跡が発見されています。
弥生時代では方形や円形の周溝墓の他、竪穴住居跡110軒が確認されましたが、特に注目されているのが、弥生時代後期の国内最大規模といわれる大型竪穴住居跡や、礎石をもつ掘立柱建物跡や川原寺式 軒丸瓦の瓦当の出土などがあります。
日本は大化の改新(646年)で国郡制をとることとなりましたが、「佐久郡」(さくぐん)という名称が文献に登場するのは、平安時代の『日本三代実録』(866年条)や、平安時代の『延喜式』(927年完成)、あるいはそれ以前の平城京(710~784)跡から出土した木簡や、中野市で出土した「佐玖郡」と書かれた奈良時代前期の須恵器が出土しています、(※1)
国名表記については、持統三年(688)の浄御原令(きよみはらりょう)で「科野」に確定 し、大宝四年(704)に「信濃」に改められたとされますが、郡名表記については、神亀三年(725)ごろから天平四年(732)までの間に 改定され、郷名表記については、おおむね神亀二年(725)ごろから天平期ごろにかけて改定されたのではないかとされています。 いずれにせよ奈良時代(710~794)以前からこの地域が行政区分として存在していたことがうかがえます。
平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』には「佐久郡 美理 大村 大井 餘部 刑部 青沼 茂理 小沼」とあり、佐久郡には八つの郷が置かれていました。
このうち大井郷は、古代遺跡が密集し「大井」と記された墨書土器の出 土が圧倒的に多い佐久平北部に比定されています。
まだ、奈良・平安時代の佐久郡の郡司が政務を執った役所である郡衙(ぐんが) はまだ発見されていませんが、こうした集落の様相からすれば、和田の湧玉川を挟んだ対岸の佐久平北部西側の台地上に郡衙が存在した可能性が高いと考えられています。
しかし、佐久平北部東側の台地縁部では古墳時代後期以降、奈良時代から平安時代前半の遺構は存在せず、再び遺構が残されるのは平安時代後期になってからといいます。
和田でも、字古屋敷で古墳時代から平安時代にいたる竪穴住居が21軒・掘立柱建物が4軒発掘されています。
字権現堂からは奈良時代の住居跡が1軒発掘され、その北の字蓬莱にかけて住居が存在した可能性も考えられ、また字和田原やそれに接続する御影新田地籍の釜田原から奈良時代の住居跡が複数発見されていて、和田の周辺では小さな集落が点在している風景が想像されます。
この時代の日本は、中国の制度を模範とした「律令」を制定し、天皇を中心とする中央集権国家の確立を目指した時代でした。
奈良時代(710~794)のはじめ大宝元年(701)の大宝律令によって、国内は国・郡・里という三段階の行政単位に整備されます。
国家は農民を正確に把握するため、家族や親族を「戸」という単位でまとめ、これを基礎に50戸で1里(のちに郷)を構成しました。
さらに、土地分配のための「戸籍」を6年ごとに、税徴収のための「計帳」を毎年作成します。農民は、この戸籍に基づいて国から「口分田」を与えられる一方で、租・庸・調や雑徭といった納税の義務を課せられました。
税の種類を見ていくと、「租」(そ)は田地の収穫から一定率を納めるもので、各々の国の財源となりました。「庸」(よう)は本来なら都で年間10日間働く労役の代わりとして布などを納めるものであり、「調」(ちょう)は各地の特産物を納めるもので、これらは中央政府の財源となりました。
これらの庸や調を都へ運ぶのは農民自身(運脚)の役割であり、重い荷物を担いで徒歩で向かう道中は過酷を極めました。食料も自弁であったため、途中で行き倒れたり、耐えかねて逃亡したりする者も少なくなかったといいます。
さらに農民には、国司の命令で年間60日を限度に土木作業や官庁の建設に従事する「雑徭」(ぞうよう)という役務もありました。地方官である国司の中には、私的な利益のために農民を酷使したり、救済用の備蓄米である「義倉」を無理やり利息付きで貸し付けたりして暴利を貪る者も現れました。
これらに加え、成年男子三人に一人の割合で兵士として徴発されます。兵士は本貫地(戸籍に登録されている地)に近い軍団に配属され、庸と雑徭を免除されましたが、各種の武器や食糧は自弁とされていました。(※2)
また兵士のうち一部は、都を警備する「衛士」(えいし)や、九州の防衛にあたる「防人」(さきもり)に選抜され、故郷を離れての兵役を課せられました。
防人は、国別に集団で護送担当の地方官である部領使(ことりづかい )に難波津(大阪湾)まで引率され、そこから乗船して大宰府に送られました。各種の武器や食糧はもちろん自弁とされていました。帰任も部領使に引率されていました。
信濃国の防人歌が『万葉集』二十巻に三首採録 されています。(※3)
和田からも九州大宰府まで防人として送られた農民がいたのでしょうか。
このような多岐にわたる過酷な負担は農民の生活を激しく追い詰め、律令制の理想とは裏腹に、地方社会を疲弊させていくことになっていきます。
奈良時代も半ば近くになると、班給すべき口分田の不足などが目立つようになり、私的な開墾を奨励せざるを得なくなり、養老7年(723)に「開墾した土地を三代先まで私有してよい」という三世一身法(さんぜいっしんのほう)を作ります。
ところが、期限が近づくと「どうせ国のものになるなら」と農民が耕作を放棄してしまい、思うように公田が増えませんでした。
そこで、さらに開墾を促すために天平15年(743) 「新しく開墾した土地を永久に私有してよい 」という墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう) が発布されます。(※4)
奈良時代末期、重い税負担や兵役に耐えかねた農民たちは、戸籍の性別を偽る「偽籍」や、土地を離れる「浮浪・逃亡」を繰り返しました。
これにより、国家が人民を直接支配し土地を分配する「公地公民」や「班田収授」の原則が崩れ始めます。
さらに、延暦11年(792)農民を兵士として徴発していた諸国の軍団を辺要の地を除いて廃止し、代わって郡司の子弟を選抜して諸国の兵庫、鈴蔵、国府などを守衛する健児(こんでい)の制を布きます。(※5)
これにより、一般の農民が負担していた兵役の任務はほぼ解消されることとなりましたが、軍団の廃止により事実上朝廷は国家的な軍事力を失い、その結果として各地で治安が悪化、有力な農民は自衛のために武装していくことになります。
平安時代(794~1185 )は、奈良時代から続く律令体制が限界を迎え、社会の仕組みが根本から変質していった時代でした。
佐久平の田切台地上に繁栄をみせた平安時代前半の集落も、10世紀以降は急激に集落規模が縮小していき、各地に小規模な集落が 散在する様相に変わっていきます。
和田でも、平安時代の遺構が少なく、集落の景観は住居が間隔をあけて点在する状 況であったと考えられています。
この10世紀(平安時代中期)の日本は、急激な気候変動が、古代から中世へと移行する社会変革の引き金となった時代でもあります 。
8世紀の奈良時代から9世紀半ばまでは比較的安定した気候でしたが、9世紀後半から10世紀にかけて降水量が急増し、非常に湿潤な時代へと突入しました。10世紀は単に雨が多いだけでなく、極端な豪雨による洪水と、一転して続く旱魃が交互に発生する異常気象の時期でした。
激しい降水変動により、それまでの律令国家が整備してきた小規模な灌漑施設では対応できなくなり、多くの水田が洪水で埋没したり、逆に干ばつで枯れたりして荒廃しました。
旱魃・洪水によって耕作地が荒廃し農作物が実らなくなる荒廃した土地を抱えた農民は各地へ逃亡し、戸籍に基づき人民一人ひとりから徴税する律令制が維持できなくなりました。
朝廷は、個々の人民を把握して、人を基準に課税する方式を諦め、土地を基準に課税する方式を採用し、「受領」(ずりょう)と呼ばれる、四位、五位どまりの下級貴族の地方官である国司に地方行政の権限を大幅に委ね、一定額の官物(租税)を朝廷に納めれば、それ以上国内支配に介入しなくなります。
受領はそのために一族・郎等(ろうとう)や有官散位(うかんさんに)とよばれた都の下級官人を引き連れて任国に下り、かれらを目代(もくだい)や国使に任命し国内行政にあたらせた るという支配へと転換しました。
これにより、徴税権を背景にした受領による租税(田租)の徴収が厳しくなり、土地を奪われることもありました。
同時に、墾田永年私財法により土地の私有化が進み、自力で土地を切り開く力がある有力な貴族や大きな寺院が、周辺の農民や逃亡した農民を労働力として受け入れ大規模な開墾を進め、広大な私有地である「荘園」(しょうえん)を拡大させていきました。
これにより国家の税収は激減し、従来の徴税システムは機能不全に陥り、班田収授は10世紀にはいると途絶えました。
班田収授が行われなくなって以降、それ以前に班給された「公地」は、実質上農民の私有地となっていきます。
また、力をつけた有力農民は土地を開墾し、開発領主となりましたが、彼らは受領の収奪を避けるため自らの土地を、国司よりも強い力を持つ貴族や寺社に寄進し、引き換えに寄進先から荘官(荘園の現地の管理人。預所・下司・公文など)に任命され、実質的な支配権(開発領主権)を維持しました。寄進された土地は国への税(田租)が免除される「不輸の権」や、官吏の立ち入りが禁止される「不入の権」を獲得しました。
さらに、飢饉や災害が頻発し、治安が悪化した地方(※2)では、地方の豪族や有力農民、都から下って土着した中下級貴族が、自らの土地を守るために武装し始めます。さらに血縁や地縁による武士団を形成して、自らの実力で権利を守るようになっていきます。
こうした社会構造の変化は、中央政治にも影響を及ぼしました。
10世紀中頃からは、天皇との親戚関係を背景に藤原氏が実権を握る「摂関政治」が全盛期を迎え、律令に基づく天皇親政は形骸化します。
その後11世紀末には、天皇が上皇となって政治を行うことで、藤原氏の影響力を排除し、天皇家の権力を取り戻そうする「院政」が始まると、上皇は自分の身辺警護や寺社勢力の暴動を抑えるために、直属の軍事組織である「北面の武士」(ほくめんのぶし)を作りました。
それまでは殺生を業とする卑しい者として貴族から低く見られていた武士が、院の側近として抜擢され、「公的な武力」として中央政治で認められるようになったのです。
院政期には、天皇と上皇、あるいは貴族同士の間で、権力をめぐり激しい争いが繰り返されます。
これらの争いにおいて、上皇や天皇は武士団を動員して、武力で解決しようとしましたが、結果として最終的に物事を決めるのは武力であることが明らかになり、武士の存在感が圧倒的に高まり、戦乱で手柄を立てた武士たちは、恩賞として高い位や重要な役職を与えられました。
このように中央や地方での紛争を通じて武士が台頭し、時代は中世(鎌倉時代)へと向かっていくことになります。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての佐久地方は、東山道の要衝として、また強力な武士団「滋野氏」(しげのし)とその一族が割拠する地として、日本の歴史が大きく動く舞台の一つとなりました。
滋野氏は、『日本三代実録』貞観十年(868)に「從五位下行大外記滋野朝臣恒蔭爲信濃介 」、同貞観十二年(870)に「從四位下行侍從興基王爲信濃權守。從五位上行大藏少輔滋野朝臣善根爲守。」とあり、滋野恒蔭が信濃介、滋野善根が信濃守に任ぜられ、寛弘六年(1009)には滋野善言が信濃からの貢馬のことを司る(※1)など、信濃の御牧と関わりを持っていたようです。
史料では確認できませんが、滋野姓を称する系譜などによると、信濃介恒蔭の子の正六位下因幡介恒成が清和天皇の貞保親王家令となり、その子の正六位上左馬權助幸俊が天曆四年(950)二月信濃國望月牧監となり下向し、その子の信濃權介幸經が天延元年(973)九月海野莊の下司となり、その長子從五位下幸明が海野の祖、次子の小二郞直家が根津の祖、末子の三郞重俊が望月の祖となったとあります。(※2)
牧監(もくげん) は、御牧(天皇の命によって設置された勅旨牧)の管理・運営の責任者として 中央から派遣される官人のことで、位階は国司に準じ任期は六年、下司(げし)は御牧における現地の実務責任者のことで す。
御牧は、『延喜式』 で全国32ヶ所定められ、そのうち信濃国には16ヶ所あり、貞観十八年(876)の太政官符(※3)には2,274頭の馬がいたことが記されています 。ちなみに信濃国の人口が10万人ほど、佐久郡の人口が1~2万人ほどと推計されている時代のことです。
佐久郡には、信濃国最大の望月牧の他、塩野牧、長倉牧が置かれ日本有数の馬産地として、律令国家の軍事・儀礼を支える重要な役割を果たしていました。(※4)
望月牧(もちづきのまき)は、北東を千曲川、西を鹿曲川に囲まれた、小諸・佐久・東御(旧北御牧村) にまたがる台地全域で、南は瓜生坂・入布施・矢島原に及び、その面積は一千町歩(約10㎢)を超える広大な地域でした 。
塩野牧(しおののまき)は、その入口は古くは柵口(ま せぐち)と称した御代田町馬瀬口と推定され、西は蛇堀川、東は濁川を自然の境界とした御代田・小諸にまたがる範囲で、西は菱野牧に接すると考えられています。 菱野牧(ひしののまき)は、『延喜式』には見えませんが、『吾妻鏡』文治二年(1186)後白河法皇が源頼朝に対し関東知行の国々の年貢未済の催促を依頼した中の左馬寮領 信濃国28牧の内に「望月牧・新張牧・塩河牧・菱野・長倉・塩野」とあり、この地の豪族の小室氏ゆかりの牧で、 西は深沢川で小県郡新治牧と境し、東は蛇堀川で塩野牧に接する地域と考えられています。
長倉牧(ながくらのまき)は、古くは軽井沢発地周辺とされてきましたが 、近年は小田井周辺の御代田・佐久・小諸にまたがる田切台地上の地域と比定する説(※5)が有力となっています。和田も古くは大井庄長倉郷あるいは長倉里と呼ばれていました。
こ れらの御牧は、『延喜式』に「凡甲斐信濃兩國牧監左寮」とあり、中央の左馬寮(さめりょう)が管轄しており、現地には牧監などの官人が派遣されました。
『厩牧令』(※6)によると、御牧には責任者の 牧長が1人、事務・書記を担当する牧帳が1人、 牧馬1群100疋ごとに牧子が2人、良馬1疋・中馬2疋・下馬3疋ごとに世話をする飼丁1人、各馬ごとに飼料となる草を刈る穫丁1人が置かれることになっています。他にも馬医・医生・占部・足工・騎士などの名が見えます。(※7)
牧長と牧帳は、官人として春秋の録を与えられ、成績により位階が上がり、庶人のうち清幹で検校がつとまる人 が選ばれる事になっていましたが、実際には郡司などの在地豪族が任用され、牧は彼らの運営に委ねられていました。
御牧では、牧馬の飼養と繁殖・調教の他に、牧田・馬寮田の耕作などの多様な業務があり、飼料用の牧草の刈込み、 検印などの作業は、周辺の農民も動員して行われ、牧柵の修理には牧内に住み着いた浪人が動員されたようです。 ここから各地の牧に戸籍地から逃亡した農民が住み着いていたことがうかがわれます。
『延書式』に「每年四月十一日始飼青草。十月十一日以後飼乾草」、『厩牧令』に「皆起十一月上旬飼乾。四月上旬給青」「凡牧地。恒以正月以後從一面以次漸燒」とあり、冬は干草を飼料として与え、旧暦正月から牧の枯草を一面づつ焼いてゆく野焼きがおこなわれ、牧草が生えた旧暦四月からは放牧され、牝馬が発情する初夏に繁殖がおこなわれ、牧馬のうち二歳になった馬は、旧暦九月に国司の立ち会いのもと焼印を左後脚に押され、毛色や年齢・性別などを登録する作業がおこなわれ、それらは繁殖結果とともに中央に報告されました。(※8)(なお、櫪飼や諸国繋飼馬の語が見えるところから、御牧には冬の繋飼のための厩舎や交尾場が設けられていたと記したものも多くありますが、現在の蒙古馬や木曽馬、江戸時代の南部藩でも雪の少ないところは冬も放牧(※9)で、交尾も自然交尾で繁殖しており、当時も給餌の容易な冬用の牧地に追い込んだと考える方が違和感がありません。)(※櫪飼(いたがい)は馬を板囲いの厩の中で飼うこと )
優秀な馬は調教をへたのち、翌年の八月に牧監に率いられて都に牽進貢上されました。その他の馬は、当初は軍団馬のちには駅馬・伝馬となり、余剰は売却されました。
信濃国の貢馬数は『延書式』に 「信濃國八十疋。諸牧六十疋。望月牧廿疋。」と定められていますが、源高明(914~982)撰述の有職故実書『西宮記』八月駒牽次に「十五日、信濃諸收六十疋(元八十左)」「廿三日信濃望月廿疋(元卅左)」(※10)(左は左馬寮のこと)とあり、平安時代中期にかけて貢馬数が削減・調整されていたようで、また貞観十八年(876)太政官符と貢馬数から見て飼育されていた馬の数は、望月牧がおよそ620疋前後、他の諸牧の平均は110疋前後と推定でき、そのための職員数は望月牧で1000人前後、諸牧でも200人弱、その家族を合せると数倍の規模になると思われます。
御牧の維持管理の費用は、主にその国が徴収した税である正税(しょうぜい)から支出されていましたが、 信濃国のみ広大な庄田(しょうでん;馬の飼料や役所の運営費をまかなうための田地)や佃(つくだ;官司が直接経営し収穫のすべてを収入とする田地)が定められていました。
これは、 信濃国が馬の主要産地として恒常的かつ大規模な経営が求められたた めに自律的な経済基盤を与えられたと思われます。
平安時代後期の10世紀後半から11世紀にかけて、律令制の崩壊とともに国家による牧の直接管理は困難になります。
武蔵や甲斐などの他国の御牧は、経済的基盤が乏しかったために11世紀には姿を消していきます。
一方、信濃の牧には飼料や経費を賄うための土地が豊富に付随していたため、牧は存続しましたが、国家が管理する「公的な牧」としての性格は薄れ、現地の管理者が貢馬の義務を請け負う代わりに実質的な所有権を握る私牧化が進行し、天皇を本家、馬寮を領家とする左馬寮領(さまりょうりょう)などの荘園へと変質していきました。
平安時代以降、騎乗して弓を射る戦闘形態が主流となったなかで、牧の管理権を掌握した在地官人たちは、騎馬による馬の育成や騎馬技術という卓越した軍事力を背景に、強力な武士団へと変貌していきます。
なかでも、望月牧を拠点とした望月氏、海野氏、禰津氏からなる「滋野三氏」は、牧の利権を経済的基盤として東信濃を代表する有力武士団となりました。
佐久では、望月氏から出て小諸に拠った小室太郎、根々井に拠った根井行親、矢嶋に拠った八島四郎行綱、南佐久海瀬に拠った楯六郎親忠 、千曲川左岸の野沢平に拠った野沢氏、桜井に拠った桜井氏、小宮山に拠った小宮山氏、根岸五本木に拠った石突氏、布施に拠った本沢氏らがいます。これら滋野諸氏は、それぞれ牧場適地を求めて各地に進出して私牧の経営をしていたと考えられます。
信濃の国に於ては御牧と多数の私牧が混在(※11)していたようで、これは律令において山林原野河川湖沼などは占有を許さず皆が自由に用益できると定められ度々占有禁止や収公の通達が出ていますが、墓と牧はその例外(※12)とされたことと関わっているか。いずれにしても私牧経営は軍事・経済両面で資するものが大きかったと思われます。
清和源氏源義家の弟新羅三郎義光四男盛義が佐久平賀に拠った平賀氏、系譜は詳らかではありませんが志賀に拠った志賀氏なども私牧の経営を背景に勢力を持っていたと考えられます。
和田の鎌倉時代は、平安末期から続く滋野氏一族の支配から、新興勢力である大井氏へと地域の主導権が移り変わっていく激動の時代でした。
保元元年(1156)鳥羽上皇の崩御を契機にした崇徳上皇と後白河天皇の権力抗争で、双方が武士団を動員した合戦で勝敗が決したため、後の武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった保元の乱(1156年)において、 海野氏をはじめ、望月氏や根津氏といった滋野一族や平賀義信など佐久の武士達は天皇方の源義朝に従っています。(※1)
地方の武士にとって合戦は、恩賞としての栄達や所領拡張の好機で、中央の源氏や平氏の動員に応じて参加する武士がとくに東国には少なくなかったといいます。
保元の乱から三年後の平治元年(1159) 後白河上皇の側近同士および源平の権力抗争では、 源義朝が、平清盛の熊野参詣中に挙兵し、後白河上皇を幽閉し、その寵臣信西を殺しましたが,急いで帰京した清盛に敗れ,信頼は斬罪、義朝も東国へのがれる途中尾張で家来に殺され、義朝の子の源頼朝は伊豆に流されます。この乱に於て義朝に従った佐久の武士には、平賀義信(諱 義宣 )の名が見えますが、その他の武士の動向は全く分かりません。(※2)
平治の乱後、平清盛は正三位参議に任じられ武士として初めて公卿に列し、後には太政大臣にまで昇りつめ、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し 「平家にあらずんば人にあらず」とまでいわれるようになります。従来源氏の勢力圏であった東国の国々においても平氏が受領となるなど、佐久の武士たちも否応なく平氏の支配下に服さざるを得なくなっていたでしょう。
その後、後白河法皇と平清盛は次第に対立を深めていき、治承三年(1179)清盛の嫡男である平重盛が死ぬと、その遺領を平氏に無断で没収して自らの近臣に与えたことをきっかけに、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、関白をはじめとする反平氏派の公卿を一斉に解任追放し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を完全に停止させ、国家権力を完全に掌握し、諸国の受領の大幅な交替を行い、平氏の知行国は17ヶ国から32ヶ国になります。
治承四年(1180)後白河法皇の第三皇子で、領地を没収された以仁王は、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵を促します。
以仁王の令旨を受けた木曾義仲は木曽の地で旗揚げし、父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かいますが、上野はすでに頼朝の勢力が及んでいたため、丸子の依田城を本拠としていた源氏の依田次郎実信に招かれ東信濃にやってきました。実信は依田城と麓の館を義仲に明け渡し、義仲はここに腰を据えて平氏討伐の兵を募ると、滋野氏の海野幸広ら地元 の武士団に加え、同じ源氏の根井行親・楯親忠親子をはじめ佐久の武士団はいち早くこれに呼応します。
義仲のもとに馳せ参じた佐久を本貫とする武士は、『源平盛衰記』『平家物語』に名が載る者だけでも、根井小太郎、盾親忠、根津貞行・根津信貞、小室太郎、望月太郎・望月二郎・三郎、志賀七郎・八郎、桜井太郎・次郎、野沢太郎、本沢次郎、落合兼行、八島四郎行忠、平原景能がいます。(※3)
義仲は、都から逃れた以仁王の遺児を北陸宮として奉じ、俱利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破り、その勢いのまま無血入京し、平家を都落ちさせます。このとき義仲は後白河上皇から上野国・信濃国を与えられています。(※4)
義仲は、飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されましたが、 兵糧や馬糧不足から兵たちの略奪や乱暴狼藉が止まず、さらに都落ちした安徳天皇に代わる天皇に北陸宮を即位させよと介入したことで後白河法皇らに見限られ、最終的には源頼朝が派遣した源範頼・源義経の軍に攻められ、寿永三年(1184) 近江国の粟津ヶ原で敗死します。 義仲に従った佐久の武士も多くが討ち死にします。(※5)
源範頼・源義経の軍は、その後平氏軍を追い、およそ1年後の文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅亡させます。
平氏滅亡後、文治元年(1185)頼朝は、新羅三郎義光三男源義清の四男で甲斐加賀美庄に拠った加賀美遠光を信濃守に、頼朝の子頼家の乳母父となった比企能員を信濃目代に任じ、佐久では加賀美遠光の次男で甲斐小笠原郷に拠った小笠原長清に野沢を中心とした伴野庄の地頭職を与えています。(※6)同時に岩村田を中心とした大井庄も与えられたようで、佐久にいた滋野系諸氏の香坂・小田切・春日・落合などは平家没官領が多かった善光寺西山中へ移っていきます。
『吾妻鑑』に「信州者如木曾分國」(※7)とあるように、鎌倉から見た信濃は木曽義仲の勢力下の国で、これに対し頼朝は処断と懐柔を使い分けて掌握していったようです。
佐久で鎌倉殿の御家人として最初に見えるのは小諸太郎光兼です。小諸(小室)は、依田城で挙兵した木曾義仲の元に参陣し、義仲と源頼朝が対立すると、義仲の嫡男を人質として差し出すことを献言し、義仲の倶利伽羅峠の戦いでは一軍の大将として現れます。(※8)どの段階で頼朝に従ったのかはわかりませんが、武勇の士で最長老でもあり、義仲の佐久党であった者らの旗頭とし、その抑えとしたのでしょうか。(※9)
文治五年(1189)頼朝は、全国から兵を動員して奥州遠征を行います。平家亡き後の最大勢力である奥州藤原氏の殲滅と、平家や義仲・義経に従った武士たちの向背を窺う目的があったと考えられます。(※10)
建久元年(1190)奥州藤原氏滅亡後 、頼朝は上洛 しますが、このときの供奉随兵に小諸太郎光兼の子の小諸太郎忠兼・小諸小太郎真光、春日小次郎貞親、志賀七郎、平賀三郎朝信 などの佐久の武士の名が見えます。(※11)
その後建久三年(1192)七月源頼朝は征夷大將軍に任じられますが、建久十年(1199)正月源頼朝が享年五十三歳で急死すると、嫡男の頼家が十八歳で家督を継ぎ鎌倉殿となります。頼家は当初自ら訴訟を聴断(親裁)して御家人の反発を招いたため、北条政子や北条時政らは「十三人の合議制」を導入して親裁を停止します。(※12)
頼家は、自身の側近や妻の実家である比企氏を重用して対抗しようとします(※13)が、これが北条氏に強い危機感を抱かせ、建仁三年(1203)頼家が重病に陥いると、北条氏は比企能員を謀殺し、比企一族は滅ぼされ所領はすべて没収されます。将軍頼家は、廃位・暗殺され、北条氏が幕府の実権を握ります。佐久の地頭小笠原長清の嫡男の太郎長経は、頼家の近習であった事から拘禁されます。(※14)
承久元年(1219)頼家の跡を継いだ三代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏の正統な血筋が途絶えます。
鎌倉幕府は、将軍と御家人の主従関係で成り立っていたため、主君を失うことで御家人たちを統制する大義名分が失われれる事態となり、北条氏は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとしましたが拒絶されたため、摂関家で源頼朝の妹を祖母に持つ九条道家の三男で外祖父の西園寺公経に養われていた二歳の三寅(頼経)を将軍に迎えますが、 実権を握る北条氏が自らに都合の良い傀儡将軍を立てようとしているのではないかという疑念や反発が一部の有力御家人の間に広がりました 。かねて皇権の復活を目論んでいた後鳥羽上皇は倒幕の絶好の機会と捉え、承久三年(1221)北条義時追討の追討の宣旨を発します。
これに対し幕府はただちに反撃を決意し、北条政子の演説により御家人を結束させ(※15)、遠江以東十五ヶ国の兵を集め、東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍とした 19万の大軍で京都へ攻め上って短期間で朝廷軍を破ります。
この乱に佐久の武士も多数参戦していたと思われ、小笠原長清・大井太郎が首級を挙げ、布施左衛門三郎 は負傷、布施右衛門次郎・春日刑部二郎太郎・同小三郎・小田切奥太 が戦死しています。(※16)、
この乱の中心人物である後鳥羽上皇は隠岐に、第一皇子の土御門上皇は土佐に、第三皇子の順徳上皇は佐渡に流され、後鳥羽院の皇統を嫌った幕府により順徳院の皇子仲恭天皇は廃位され、その他後鳥羽院の皇統の親王も配流とし、後鳥羽上皇の兄である行助入道親王(守貞親王)の子のうち出家前の十歳の茂仁王(後堀河天皇)を即位させ、父親の行助入道親王に皇位を践んでいないまま太上天皇の尊号を奉り法皇(後高倉院)として院政を敷かせます。(※17)
院側に味方した御家人も厳罰に処され、後鳥羽上皇以下の所領三千余ヵ所は没収されて新補地頭が補任されます。この乱により朝廷に対する幕府の優位が確立し、武家勢力が全国に及ぶことになり、北条氏一門を中心とする執権政治が行われることとなります。
『尊卑文脈』に「左京太夫・信乃守・正四下・加賀美小二郎、(小笠原)長清、承久之亂之後賜卯阿波守護職、七ヶ國管領」とあり、確認はできませんが、どこかで小笠原長清は信濃守となっていたものか、その信濃守は嫡男の小笠原太郎長経の二男の小笠原源二長忠に、伴野庄地頭職は六男の時長が継ぎ伴野六郎を名乗り、大井庄地頭職は七男の朝光が継ぎ大井太郎を名乗ります。(※18)
大井庄地頭となった朝光は岩村田に大井城を築きます。『吾妻鏡』によると、朝光の子の又太郎光長は、嘉禎四年(1238)六月の四代将軍頼経の春日社参詣の「相列如雲霞」(相列び雲霞の如し )行列で、将軍を先導する御所随兵三十騎の内に見えます。『尊卑分脈』によると、光長には七人の男子がおり、彦太郎時光は大室、彌次郎光泰は長土呂、三郎行光は岩村田、又三郎行氏は耳取、又四郎宗光は森山、六郎光盛は平原と各々大井庄の各地を受け継ぎ、七男の光信は僧になり大井法華堂を開基したと伝えられます。(※19)
文永十一年(1274)弘安四年(1281)の元寇(蒙古襲来 )の後、 弘安七年(1284)の八代執権北条時宗が32歳で急逝し、時宗の一子貞時が14歳で第九代執権となります。このころ幕府では、頼朝以来の将軍との主従関係にある御家人は外様とよばれ、北条惣領家(得宗家)との主従関係にある御内方(御内人)が政務を担っていました。(※20)
時宗の死後、貞時の外祖父で御家人筆頭の安達泰盛 が御家人の救済と幕府権力の強化を目指し「新御式目」を制定するなど改革を進めようとしますが、内外の既得権益層の反発も強く後退したところで、弘安八年(1285)十一月(霜月)北条得宗家(惣領家)の家臣(御内人)で貞時の乳母父でもある執事(内管領 )の平頼綱が、安達泰盛の嫡男宗景が源氏を名乗り将軍になろうとしていると讒言して、武力をもって泰盛の屋敷を急襲し、安達泰盛とその一族郎党五百人余が鎌倉の市中で討ち取られます。(※21)
この騒動は地方にも波及し、各地で泰盛派の有力御家人が追討を受け、殺害されます。このとき佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏も、安達泰盛と姻戚にあったためか一族誅滅にあい、領地は没収され伴野荘の多くの郷村が北条一族に与えられます。この霜月騒動以後、有力御家人の勢力は失墜し、北条得宗家とその家臣である内管領が政治を独占する得宗専制体制が確立することとなり、佐久郡では大井一族が繁栄することになります。(※22)
承久三年(1221)の承久の乱後、幕府は後鳥羽院の皇統を廃し、十歳の後堀河天皇を擁立し、後高倉院が後見しますが、後高倉院は二年後に亡くなります。貞永元年(1232)後堀河天皇も、四代将軍頼経の父でもある関白九条道家の女竴子との間に生まれた、まだ二歳の秀仁親王(第87代四条天皇)に譲位し院政を敷きますが、二年後に亡くなります。仁治三年(1242)正月わずか十二歳の四条天皇も不慮の事故により急逝し、皇統が途絶えます。(※1)
このため次期天皇を土御門・順徳の両院の皇子から選ばざるをえなくなり、九条道家らは順徳院の皇子忠成王を推しますが、北条泰時は、承久の乱の首謀者で幕府に強い敵愾心を持つ順徳院の復権を恐れ、鶴岡八幡宮の神託と称し、承久の乱には直接関わらなかった土御門院の皇子邦仁王(第88代後嵯峨天皇)を即位させます。公家たちは、鎌倉に伺いを立てたこと、北条泰時の意向のままに帝位が決せられたことに悲憤慷慨し、還京の途を絶たれた順徳院は配流先の佐渡で急逝します。絶食死であったと伝えられています。(※2)この年、北条泰時もまた病死し、後鳥羽院の怨霊が現れたという風説が流れます。(※3)
即位した後嵯峨天皇は、宗尊親王を六代将軍とし、寛元四年(1246)生後すぐ立坊(立太子)した二歳の皇太子久仁親王(第89代後深草天皇)に譲位し、院政を敷きますが、後深草天皇は佝僂病であったようで(※4)、正嘉二年(1258)同母弟の恒仁親王(第90代亀山天皇)が十歳で立坊、翌正元元年(1259)後深草天皇の譲位を受けて十一歳で即位し、文永五年(1268)にはその皇子世仁親王(第91代後宇多天皇)が二歳で立坊します。
文永九年(1272)後嵯峨院が亡くなり、次の治天(国家統治者)を後深草上皇と亀山天皇のどちらにするかの裁定を鎌倉に求め、両君の生母である大宮院の意向によるとして亀山天皇と定まり(※5)、文永十一年(1274)亀山天皇は八歳の皇太子世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、院政を敷きますが、鎌倉の奏請により、建治元年(1275)後深草院の皇子熙仁王(第92代伏見天皇)が十歳で親王宣下を受け亀山院の猶子として立坊します。(※6)
弘安十年(1287)後宇多天皇は鎌倉の奏上により二十一歳で皇太子熈仁親王(伏見天皇)に譲位し(※7)、後深草院が院政を敷き、正応二年(1289)伏見天皇の第一皇子である胤仁親王(第93代後伏見天皇)が数え二歳で立坊すると、亀山院は突然出家してしまいます。後深草院は持明院を仙洞御所とし、亀山院は後年大覚寺門跡として大覚寺を仙洞御所としたため、その皇統を持明院統と大覚寺統といいます。
この持明院統と大覚寺統が、鎌倉を巻き込んで権力争いを繰り広げ、建武の中興を経て、室町時代の南北朝の争いに繋がっていき、佐久もその争いの渦に巻き込まれていきます。
文保二年(1318)持明院統の花園天皇の即位に伴い立坊した大覚寺統の後宇多院第二皇子尊治親王(第96代後醍醐天皇)が三十一歳で即位します。後醍醐天皇は、持明院統と大覚寺統の両統迭立を崩し自らの皇子を立坊させるべく鎌倉に働きかけますが、嘉暦元年(1326)持明院統の後伏見院第三皇子量仁親王(光厳天皇)が立坊します。こののち後醍醐天皇は倒幕の企てを進めます。元徳三年(1331)倒幕計画を密告された後醍醐天皇は、元弘と改元して京都を出奔し、尊良親王と尊雲法親王(護良親王)の二皇子と笠置山で挙兵し、楠木正成等もこれに呼応 して挙兵しますが、幕府は大軍を上洛させ、信濃守護で京都六波羅探題の北条仲時に率いられた信濃国軍勢、小笠原彦五郎(貞宗)や諏訪祝も参陣しています。後醍醐天皇と尊良親王は間もなく捕縛され、尊雲法親王(護良親王)は逃げ延びます。後醍醐天皇は退位させられ、光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流されます。(※1)
元弘二年・元徳四年・正慶元年 (1332)楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し、さらに翌元弘三年・正慶二年 (1333)後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出すると伯耆船上山で挙兵し、倒幕を促す綸旨が全国に発せられます。幕府は鎮圧のため北条一門の名越高家・源氏一門の足利尊氏を大将として軍を発しますが、このとき北条高時に恨みを抱いた尊氏(※2)は、初戦で名越高家が討ち死にすると寝返って後醍醐天皇側に付いて六波羅探題を滅ぼします。このとき尊氏は各地の武将に参陣を求める書状を送り(※3)、小笠原一族も尊氏に従います。
さらに関東では、上州源氏の新田義貞が、成行きから切羽詰まって乾坤を賭して挙兵すると、これを聞き及んだ武士たちが各地から馳せ参じ(※4)、一気に鎌倉を攻め落とし、得宗の北条高時と内管領の長崎高資らは東勝寺に追い詰められて自害し、ここに鎌倉幕府は滅亡します。このとき北条高時の嫡男時行は、得宗家の御内人である諏訪盛高によって鎌倉から抜け出し、諏訪氏の本拠地である信州諏訪に渡り、諏訪大社を奉じる諏訪神党のもとにかくまわれます。
近世の和田(概要メモ)
安土桃山時代の佐久郡和田村は、武田氏の滅亡から徳川家康の支配確立に至る激動の渦中にありました。
織田・徳川による支配と混乱
1582年(天正10年)の武田氏滅亡後、佐久郡は一度織田信長の支配下に入りましたが、同年の「本能寺の変」による信長の急死により、旧武田領を巡る「天正壬午の乱」が勃発します。この混乱期、和田村を含む佐久・小県地域では、徳川家康の後援を受けた依田信蕃(よだ のぶしげ)が旧武田遺臣や在地勢力を糾合し、覇権を争いました。
依田信蕃は、家康の命を受けて佐久郡の平定を進め、小諸城や田中城などを拠点に活動しました。和田村周辺では、武田氏ゆかりの在地領主たちが勢力を維持していましたが、信蕃はこれらを次々と服従させていきました。当時の情勢を伝える史料として、依田氏の軍功を記した『依田記』などの軍記物や、徳川家康が信蕃の功績を認めた判物などの文書が存在します。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、家康が関東へ移封されると、佐久郡は仙石秀久らの支配下に置かれます。この時期、全国的に実施された「太閤検地」がこの地でも行われ、中世以来の複雑な土地所有関係が整理されました。これに伴い、「一反歩300歩制」や田畑の品位(上・中・下・下々)が定められ、年貢の徴収体制が確立されていきました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い前後には、軍事路であった道が中山道として整備され始めます。和田村を含む佐久郡の村々は、江戸幕府の成立に伴い、宿場町の後背地として、また農業生産の拠点として、安定した近世村落へと変貌を遂げていきました。
このように、安土桃山時代の佐久郡和田村は、戦国大名の勢力争いの場から、統一権力による組織的な検地と街道整備を経て、江戸時代の社会基盤が築かれる重要な転換期にありました。
信濃国佐久郡和田村(現在の長野県佐久市五加付近、または和田宿周辺)およびその周辺地域は、江戸時代を通じて複雑な支配体制や交通の要衝としての歴史を歩んできました。
領主の変遷と支配体制
江戸時代初期、佐久郡は多くの小藩や幕府領、旗本領が入り混じる「相給(あいきゅう)」の状態にありました。和田村周辺では、慶長年間から元和年間にかけて小諸藩の支配下にある時期がありましたが、藩主の移封や改易に伴い、幕府直轄領(天領)や岩村田藩、田野口藩(のちの竜岡藩)などの私領が複雑に展開しました。
特に幕府領の支配においては、御影陣屋が置かれ、代官が年貢の徴収や村政の監督を行いました。村政は「村請制(むらうけせい)」に基づき、名主、組頭、百姓代の村方三役が中心となって運営され、五人組を通じた連帯責任による統治が徹底されていました。
宿場運営を支えるため、周辺の村々は「助郷(すけごう)」と呼ばれる役務を課せられました。人馬の不足時に人手や馬を出す負担は重く、幕末の皇女和宮降嫁の際には膨大な人馬が動員されたことが各地の「村明細帳」や「御用留」に記録されています。
開発と民生
佐久郡特有の歴史的事象として、大規模な新田開発が挙げられます。例えば近隣の五郎兵衛新田では、市川五郎兵衛が寛永年間から用水路(五郎兵衛用水)を開削し、広大な原野を美田へと変えました。これに関する『信濃国佐久郡開発記』(1804年)などの史料は、当時の開発の苦労と、それを支えた小諸藩や幕府の認可体制を克明に伝えています。
また、この地域の農民生活については、長野県立歴史館所蔵の「佐久郡地方文書」や、各旧家に残る「井出家文書」などが貴重な史料となります。これらには、年貢の割付状や宗門改帳が含まれており、江戸時代後期の佐久郡における村々の階層分化や、災害時の救済(夫食貸など)の実態を詳細に知ることができます。
近世初頭の和田村領主
天正十年~同十八年松平、天正十八年~元和八年仙石、元和八年~寛永一年徳川忠長、寛永二年~正保四年松平憲長、慶安元年~寛文二年青山、寛文二年~延宝七年酒井、延宝七年~天和二年西尾、天和二年~元禄十五年徳川、以降天領 御影陣屋支配地九十村三万石の内
村の規模
和田村石高
正保石高 128石600
元禄石高 224石103
寛政石高 224石413
天保石高 256石339
水利
『信濃国佐久郡御影新田村柏木家文書』など:
街道と交通:北国街道の影響
和田は、北国街道の宿場町である「小諸宿」と「岩村田宿(中山道)」の間に位置する交通の要所でもありました。
公文書群において、日々の徴税や災害、村同士の境界紛争といった生々しい記録として現在も確認することができます。
参考文献:
小諸市-長野県 2025 『小諸市埋蔵文化財調査報告書47:市内遺跡』 星野 保彦 井出 勇介小諸市教育委員会 2024 『小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書45:市内遺跡2019』 髙橋 陽一 星野 保彦小諸市教育委員会 2023 『小諸市埋蔵文化財調査報告書41:市内遺跡』 髙橋 陽一 井出 勇介小諸市教育委員会 2022 『和田原遺跡群下原遺跡』 髙橋 陽一長野県埋蔵文化財センター 2013 『小諸市・佐久市 鎌田原遺跡 近津遺跡群 和田原遺跡群』廣瀬 昭弘 曳地 隆元 『小諸市誌 歴史編』『北佐久郡志資料集』『北佐久郡志』『長野県町村誌』 『北佐久郡誌』1915 『新編信濃史料叢書』『長野県史』