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和田諏訪神社は、その勧請年月・縁起・由緒は詳らかではありません。
古来、日本人は日々の生活の中で目に見えない大きな力を感じてきました。それらは岩や木、山や海、火や水、風や大地などさまざまな自然の中に見出され、さまざまなものには神さまが宿るとして祀られるようになりました。
そのような土地々々の「神」の御霊の依代・神座として、また血縁的なつながりを持つ氏人(うじびと)が祖先神や守護神としての「神」を信仰して社(やしろ)や宮(みや)や祠(ほこら)を建てたことが神社の始まりです。
やがて神社神道は古事記日本書紀に登場する神々を御祭神として明示するようになりますが、その中で諏訪社は早くから朝廷と結び、武家が台頭すると鎌倉殿の篤い信仰から、それを背景として信濃一円に勢力を伸ばして各地に末社が造営され、土地々々の古い神が諏訪の祭神に変わっていくなかで、当地においても主祭神を諏訪大社から勧請したものとおもわれます。
中世においては、当地方は諏訪大社下社春宮の勢力下にあったようで、天正六年(1578)『下諏訪春宮御造宮帳』に「一 春宮御門屋造宮 (佐久郡)平原之庄耳執・森山・市村・前田原、右之從四郷建之處」とあり、造営帳には和田村の名は見えませんが、行政的に本村の指示を受ける付庸村のようなかたちで同様の賦役を課せられていたものとおもわれます。
そのようななか和田諏訪神社は、かつては現在の字西ノ宮地籍に建立されていましたが、江戸期に入り幕府の街道の整備に合わせて近隣の村落を街道筋に移転させる村寄せが行われるなかで、和田村も慶安三年(1650)字古屋敷から甲州街道沿いの字蓬莱(往来の佳字化か)に村寄せしたのに伴い、元禄三年(1690)字西宮の神社を街道沿いの字北原へ移転しようとしたところ、隣地の市村から所属について異論が起り、幕府に訴え出て、その裁定により和田村の所属に決し、元禄五年(1692)九月に現在地に建立されたものです。
(※)関連史料
『北佐久郡志』長野県北佐久郡編 大正4年(1915)p. 156: 「諏訪社 大字和田の北端に在る村社にして社地は民有に属す。東西二十五間、南北五十間、面積四反一畝二 十歩、健南方富命を祀る。創建年月不詳、往時は本区の西方に在りしも元禄三年現今の地へ移さんとするや、 隣地市村より地籍の論争起り、遂に幕府へ訴へ本区の地籍に決し、同五年九月建了す。祭日九月十三日古社 跡を今西の宮と称す。」、同 p. 253:「(社格)村社 (名称)諏訪社 (祭神)健御名方命 (創建年月) (敷数)一、二五〇 (所在地)南大井村和田 」
『長野県町村誌』第2巻 長野県編纂 昭和11年(1936)p. 2248:「諏訪社 村社 社地民有地、東西二十五間、南北五十間、面積四反一畝二十歩、村落の北に接す。祭神健南 方富命。創建年月不詳、祭日八月廿八日。往昔社地本村の西方にありしに、元禄三牛年十月今地へ移さんと 起礎す、然るに接地市村(今市田村と改称す)にて同村地籍の由を以て争論となり、幕府へ訴ひ、顛末吟味の 上、本村の地籍に決し、裁可となる。元禄五申年九月、社を今地へ移し再建す。社地中槻の古樹、周囲一丈五 尺あり。古社跡を今西ノ宮と称す。」
『北佐久郡志』 第4巻 研究調査篇 北佐久郡志編纂会 編 昭和32年(1957)p. 443:「(字名)和田 (社寺名)諏訪神社 (建造物)本殿 (形式)流造 (棟札) (建築年代)文化文政頃 (特徴) 工匠雛形の特徴を最もよく表わしている。 (備考)大工荻原彦左衛門」
『北佐久郡志資料集』本編 北佐久郡志資料集編纂委員会 編 昭和42年(1967)p.377:「南大井村 和田 諏訪社 村社 健御名方命 (境内坪数)一、二五〇 (氏子の戸数) 」
『長野県史』民 族編 第1巻(2)東信地方 仕事と行事 長野県 編 昭和61年(1986)p.539:「小諸市和田 諏訪神社。祭神、天照皇大神ほか。春祭り、四月三日、四日。秋祭り、十月十日、十一日。境内 社、諏訪大明神、産土様、天照皇大神。大神宮。祭神、天照皇大神。天神様。祭神、菅原道真。」
『小諸市誌』歴史編3近世史 小諸市誌編纂委員会 編纂 平成3年(1991) p.828:「和田 諏訪神社 流造 文化文政頃 工匠雛形をよく表わす。」、同 p.956「諏訪社(和田) 村の北端にある村社である。祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)。創建年月不詳、往時は 本区の西方に在りしも、元禄三年(1690)現在地へ移さんとするや、隣地市村より地籍の論争起こり、遂に幕府へ 訴え本区の地籍に決し、元禄五年(1692)九月建する。祭日九月十三日、古社跡を今西宮と称す。」
和田諏訪神社の御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)です。
記紀神話(古事記・日本書紀)においては、出雲の国譲りの際に活躍され、最終的に信濃国の諏訪の地に鎮座されたとされる神様です。
建御名方命は、妃神である八坂刀売命(やさかとめのみこと)と共に信濃国を開拓されたと伝わることから、そのご神徳は広範にわたります。
古来より朝廷よりの御崇敬が極めて厚く、持統天皇五年(691)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代朝廷の御崇敬を拝戴しています。
また、諏訪大神は武勇の神、勝負の神として崇められ、古くは神功皇后の三韓出兵の折に諏訪大神の神助ありと伝え、平安初期には桓武天皇の勅命を受けた征夷大将軍 坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)を平定する際、諏訪大明神に深く祈願し、その加護によって武運を長らえ、数々の勝利を得たとされています。
平安時代の後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄』においても、「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」(せきよりひむがしのいくさがみ、かしま、かとり、すわのみや)とあり、諏訪社は東国屈指の軍神として歌われています。
鎌倉時代には、源頼朝が源氏再興の守護神として厚く崇敬して社領を寄進し、また大社の祭典である御射山御狩神事には年々諸国の武将を率いて参列しました。
甲斐国の武田信玄も、諏訪社を武家の守り神と崇め、社殿の造営や社領等を寄進し、各地への戦いにはその都度参詣して武運長久の祈願を込め、諏方南宮法性大明神の旗印を先頭に出陣しています。
建御名方命の主なご神徳は以下の通りです。
武運長久・勝負の神
古くは朝廷や多くの武将(源頼朝、藤原秀郷、武田信玄、徳川家康など)から「日本第一大軍神」として崇敬されてきました。現代でも受験や試合などにおける勝利、成功を願う信仰を集めています。
五穀豊穣・殖産振興の神
建御名方命が祀られるより遠く古来より、風や水を司る農耕の守護神として信仰されており、国土開発や産業の発展にご利益があるとされています。
開拓・生活全般の守護神
信濃の国の開拓神であることから、生活の源を守る国土開発、生活全般の守護神としての信仰も厚いのが特徴です。
縁結び・夫婦円満の神
妃神である八坂刀売命と夫婦二柱で祀られていることから、縁結びや夫婦和合、家庭円満のご利益があるとされています。
諏訪大社の御神体は、上社は御山(宮山)を御神体とし、下社は 秋宮は櫟 (イチイ)、春宮には杉(ズギ)が御神木として祀られています。
各地の諏訪神社では、諏訪大社から分霊がなされる際に、御霊代として各神社に「薙鎌」(なぎかま)が分与され、これが御神体として祀られていることが多いといいます。そして、現在この鎌の銘を確認することによって、上社からの分社なのか、下社からの分社なのかがある程度わかるといいます。
佐久市では「薙鎌」を文化財ととらえて、佐久市内の神社が所蔵する薙鎌の調査が実施されていますが、諏訪社のみならず他の神社でも薙鎌が祀られているようです。
和田諏訪神社でも「薙鎌」が御神体と思われますが、御神体は神職ですら神社庁の許可なく見 ることを許されないため確認はされておりません。(※)
また本殿内にある鏡は、内陣の神前に置く神鏡で、参拝者が鏡を通して神様と向き合い、また自分の心を映しだし、自身の心と向き合うためのものとのことです。
式年薙鎌打神事 長野県小谷村
「薙鎌」(なぎかま)は、諏訪大社の「神器」とされ、蛇や鳥に似た形状をしています。
諏訪大社御柱祭りの前年、大社の神威が及ぶ範囲を確認し、信濃国の無事を祈るとされる国境見(くにさかいみ)の神事がおこなわれます。大社宮司が薙鎌2体を携え、1体を県境にある大宮諏訪神社に奉納し、もう1体を小倉明神(丑年)と境の宮(未年)の神木に7年交替で薙鎌を打ち込むものです。
また、諏訪大社の御柱祭で「おんばしら」となる大木を正式に決める本見立ては、上社は御柱年の前年、下社は二年前に行われます。上社の本見立てでは、神霊が宿るとされる神聖な薙鎌を打ち込むことで、「おんばしら」となる御神木となります。
諏訪大社祭事の神幸行列にも、旗や矛に混り棒の先に薙鎌を取り付けたものが同行します。
各地の諏訪神社でも、祭りに使用される祭具や神社のご神体として、薙鎌が利用されることがあり、中世の御射山祭りの跡地である霧ヶ峰の旧御射山遺跡をはじめ各地の遺跡からも出土がみられます。また南相木村と川上村の両村界に聳え立つ御陵山(おみはかやま)山頂の祠の中から大量の薙鎌が発見されています。
本殿 一間社流造 文化文政頃建立
一間社流造(いっけんしゃながれづくり) は、日本の神社において最も一般的かつ代表的な形式である「流造」の一種であり、建物の規模を示す「一間社」という形式と、屋根の形状を指す「流造」という様式が組み合わさったものです。
「一間社」とは、正面の柱の間(柱間)が一つであることを指します。正面から見ると2本の柱が立っており、その間に一つ扉が設けられている比較的小規模な造りです。
「流造」は、「平入」(ひらいり)と呼ばれ、屋根の棟(頂上の線)と平行な面に正面入り口が配置され、神体を安置する場所 である「身舎(母屋)」(もや)(※1)の屋根がそのまま延長されて前方の柱を覆う形をとっており、横から見ると、屋根が優美な曲線を描いて前方に長く流れているように見えることからその名がつきました。正面中央に板扉を設け、他の柱間を横羽目板張りとし、周りに勾欄付きの縁をめぐらして階段及び「浜床」(はまゆか)(※2)を設けます。
文化文政年間(1804~1830)は、江戸時代後期、徳川十一代将軍家斉(いえなり) 治世で、江戸を中心に町人文化が栄え、全国的に商品経済が展開し、自給自足を主としてきた農民が商品作物を栽培することで、農村にも貨幣経済が浸透し、豊かになるとともに階層分化が進んだ時代です。
一間社流造(いっけんしゃながれづくり)
「壱間社流造四拾分壱」 神社本殿(流造一間社)立面図(正面・側面1/40)・木割 東京都立中央図書館流造の原型は、奈良時代の「法隆寺聖霊院」などにみられる、身舎に差し掛けの屋根(庇)をつけた構造にまで遡ることができます。
平安時代に入ると、神仏習合の進展に伴い、神社においてもより複雑で装飾的な建築が求められるようになりました。
流造が現れたのは平安時代初期と考えられており、当初は伊勢神宮に代表される「神明造」のように直線的な構造が主流でしたが、平安貴族の美意識が反映されるにつれ、屋根に優美な反りを持たせる流造が好まれるようになったと思われます。
流造がこれほどまでに普及した理由は、その機能性と視覚的な優雅さの共存にあります。向拝が長く伸びていることで、雨の多い日本において参拝者が雨露を凌ぎながら拝礼できるという実用的な利点もありました。
一間社流造は、小規模な末社や摂社に最適な形式として、この時期に全国へ急速に普及しました。
時代が下るにつれ、本来は簡素であった一間社流造にも、精巧な彫刻が施されるようになりました。
一間という限られたスペースの中に、神の住まいとしての威厳と、周囲の自然に溶け込むような柔らかな曲線美を両立させた点は、日本独自の美意識の結実と言えます。
本殿正面の二本の「向拝柱」(ごはいはしら)(※3)を繋ぐ「虹梁」(こうりょう)(※4)は、中央部に下端を刳った「眉」(まゆ)(※5)があり、その両端には 菊浪文様が彫刻されています。
「中備」(なかぞなえ)(※6)には、波に玉取龍(たまとりりゅう)の彫刻があります。
「前虹梁」(まえこうりょう)(※7)の「木鼻」(きばな)(※8)は獏(ばく)、「海老虹梁」(えびこうりょう)(※9)の「木鼻」は、「阿吽」(あうん)(※10)の獅子です。
本殿正面の身舎の「透蟇股」(すかしがえるまた)(※11)は、左は波の上を飛ぶ嘴の短い海雀(うみすずめ)のような 鳥、右手は水に飛び込んで 鯉の如き魚を掴んだ鶚(みさご)のような鳥が彫られています。
「身舎柱」(もやばしら)(※12)と「向拝柱」をつなぐ「海老虹梁」は身舎から向拝に向う飛龍(ひりゅう)の彫刻になっています。
「向拝柱」には、猪目(いのめ)と花菱繋ぎの文様が彫られています。
「向拝柱」と「垂木」(たるき)(※13)の間に取り付けられた「手挟」(たばさみ)(※14)には牡丹が彫刻されています。
本殿左面の「胴羽目」(どうはめ)(※15)は、松竹に波と大小二匹の「神龜」(しんき)。
「小脇板」(こわきいた)(※16) は、左脇は鯉が滝を登り、右脇は鯉が滝を下っていく姿が彫刻されています。いわゆる登鯉と降鯉です。
左の海老虹梁が昇り龍、前虹梁の上には玉取龍、右の海老虹梁が降り龍ということで物語性を持っているようです。
『老子』に「功遂身退天之道」(功遂げて身退くは天の道なり)とありますが、鯉が滝を登って龍となって天に昇って宝珠を取った後、再び鯉となって下界へ戻る姿を現し、功成り遂げた者が故郷に戻るに、驕らず田夫の如き風格を表しているのでしょうか。
「脇障子」(わきしょうじ)(※17)は、松に鷹です。
本殿左面上「頭貫」(かしらぬき)(※18) の左右の「木鼻」は同じく阿吽の獅子です。
その上の二手先斗栱(ふたてさきときょう)(※19)の「中備蟇股」(なかぞなえかえるまた )(※20)は、左は角のようなものが見えるので木菟 (みみずく)と松か、右は長い尾から山鳥と菊のようです。
その上が二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)(※21) となっており、 下段に長い「大虹梁」(だいこうりょう)を渡し、その上の「透蟇股」は鶴か鷺(さぎ)のようです。
さらに上段へ短い「小虹梁」(しょうこうりょう)を重ね「束」(つか)を立てています。
本殿背面の胴羽目は波と松竹に鷹。
本殿背面上 頭貫の左右の木鼻は、同じく阿吽の獅子。
二手先斗栱の中備蟇股は、左は三本の冠羽が彫られているので孔雀でしょうが、右は首に筋のようなものが見えるので山鳩でしょうか。
本殿背面と脇障子
本殿右面の胴羽目は、松竹に波と一匹の「神龜」(しんき)。
脇障子は、松に鷹の透かし彫り。
本殿右面の身舎柱と向拝柱をつなぐ海老虹梁は、向拝から身舎に向う飛龍の彫刻になっています。
本殿右面上 頭貫 の左右の木鼻は、同じく阿吽の獅子。
二手先斗栱の中備蟇股の左は、剣のような長い尾と頭から長く伸びたものがあるので錦雉(きんけい)でしょうか。右は、細長い嘴と足から鷸 (しぎ)でしょうか。
大虹梁の上の透蟇股は、鶴か鷺(さぎ)でしょう。
(※):
身舎・母屋(もや):屋根を支える柱(母屋柱)で囲われた建物の本体にあたる部分を指します。 寺社建築では、母屋には円柱(丸柱)、向拝には角柱が使われます。
浜床(はまゆか):本殿などの向拝の下にある低い縁。宮司伺候の場、「浜縁」ともいいます。
向拝柱(ごはいはしら・こうはいばしら):神社の建物の本体(母屋・身舎)の正面に突き出した屋根部分(向拝)を支える柱のことで、母屋(もや)の柱(主柱)との間は海老虹梁(えびこうりょう)という曲がりのある水平材で繋がれます。一般的に、母屋の円柱に対し、向拝柱は格を下げて角柱が使われます。
虹梁(こうりょう):柱と柱を繋ぐ湾曲した水平材で、その外見を虹に例えたものです。虹梁の名は中国から来たもので 『後漢書』班彪列傳 に「抗應龍之虹梁」(「応龍(おうりょう)の虹梁(こうりょう)を抗(あ)げ」)と見えますが、中国では宋代までに「月梁」(げつりょう) に変わったといいます。 柱に取り付く附近のカーブした部分を鯖尻(さばじり)、柱の外に出た部分を虹梁鼻(こうりょうばな)と呼び、虹梁の下端に平行線を抉る装飾を眉(まゆ)、虹梁の厚みを柱にあわせるため柱に近い部分を薄く欠いた部分を袖切(そできり)、面に彫った唐草模様を若葉(わかば)と呼びます。
眉(まゆ):虹梁の下端近くを一条ないし数条の平行線でえぐったもので、眉を欠くといいます。
中備(なかぞなえ):柱上の組物(斗栱など)の間にある部材の総称で、間斗束(けんとづか)、撥束(ばつづか)、蟇股などが含まれます。透かし彫りの板などの装飾材が取り付けられていることが多いです 。
前虹梁(まえこうりょう):向拝柱に設置される虹梁のことで、一般的な虹梁と同じですが、正面にある向拝に設置されるためこの名があります。
木鼻(きばな):頭貫や肘木、虹梁などの柱を貫通する水平材の端が柱の外側に突出した部分のことです。鼻とは端のことのことで木の端から木端になり「木鼻」と呼ばれるようになります。多くは 何らかの刳形や彫刻などの装飾が施されていますが、江戸時代以降、装飾目的が強くなるにつれ、頭貫や肘木、虹梁とは分けて、独立した部品とすることが主流となりました。これらは柱に引っかけて固定する事から、掛鼻(かけはな)とも呼ばれます。
海老虹梁(えびこうりょう):母屋の柱(主柱)から低い位置にある向拝柱を結ぶ虹梁で、高低差のあるところを結ぶためS字に湾曲している形から「海老」と名前が付けられています。
阿吽(あうん): インドのサンスクリット語の最初の音「阿」(あ)」と最後の音「吽」(うん)に由来します。これは「万物の始まりと終わり」を象徴しており、宇宙のすべてを内包するという宗教的意味を持っています。阿吽は宗教的な一対の像にも取り入れられ、木鼻に獅子を彫ったものは獅子木鼻(ししきばな) とも呼ばれます。阿形(あぎょう)は、向かって右側に配し、口を大きく開いており、物事の「始まり」を表します。 向かって右側に置かれ、口を大きく開けた像です。吽形(うんぎょう)は、向かって左側に配し、口を固く閉じており、物事の「終わり」を表します。
透蟇股(すかしがえるまた):蟇股(かえるまた)は、上下二本の梁(もしくは桁)の間にあって、上の梁の荷重を下の梁に伝えるための束のような働きをする逆V字型の部材です。下側が広がってカエルの股のような姿のためこの名があります。本来は支える部品として使われていましたが、時代を下るにしたがって、装飾材の一つとしての役割が重視されるようになり装飾過多になっていきます。「透蟇股」(すかしがえるまた)は、蟇股の内部を動物や草花で透かし彫りにしたもので、江戸時代に多く見られます。
母屋柱・身舎柱(もやばしら):御神体を安置する場所 である「身舎」(もや)は、神社建築において最も神聖な中心空間であり、身舎柱はこの四隅や周囲を支える柱で、通常は丸柱が用いられます。
垂木(たるき):屋根の頂部のことを「棟」と呼び、棟に取り付ける木材のことを「棟木」といい、屋根勾配に従って棟木から母屋・軒桁に向けて平行に並べてかけ渡す角材のことです 。
手挟(たばさみ):向拝の柱から斜めに伸びる海老虹梁(えびこうりょう)と屋根の裏側の間に生じる三角形の隙間を埋める板状の彫刻です。波や雲、菊などの意匠が細かく彫られます。
胴羽目(どうはめ):母屋の柱と柱の間に嵌め込まれたやや厚手の横板のことで、江戸時代以降この部分に精巧な彫刻(胴羽目彫刻)を施すことが一般的になりました。
小脇板(こわきいた):本殿の扉と母屋柱の間の細長い板のことです。
脇障子(わきしょうじ):本殿の両側面、縁側の末端に立てられる板状の部分です。中国の故事(三聖吸酸など)や神話、動植物などの大きな彫刻が施されることが多く、装飾の重点となります。
頭貫(かしらぬき): 貫 (ぬき)とは、柱を貫通して、柱と柱をつなぐ横木で、柱の上端をつなぐものを頭貫といいます。
二手先斗栱(ふたてさきときょう):「斗栱」(ときょう)は、梁や桁にかかっている荷重を柱に伝えるための組物で、「斗」(ます)という正方形の部材と「肘木」(ひじき)という短い横木で構成されています。「斗」は柱の上部で荷重を受け止め肘木を支え、「肘木」は斗の上や他の肘木の上に乗り、荷重を分散させながら前方へせり出します。肘木は「栱」とも呼ぶため、2つを合わせて「斗栱」と呼ばれています 。建築装飾の進化により、緻密かつ複雑な構造となり、部位単位では最も部品数の多い箇所となっています。斗組(ますぐみ)、枡形(ますがた)、組物(くみもの)、斗組(とぐみ)とも呼ばれます。「二手先斗栱」(ふたてさきときょう)は、屋根の軒を深く支えるために組物を外側へ二段階突き出した構造のことです。柱の真上にある「大斗」(だいと)から、一段目の肘木が出て、その先にさらにもう一段先へと継ぎ足して二段目の肘木が重なる構造をいい、屋根をより遠くまで張り出させることができます。これにより、雨から建物を守る実用的な機能と、見上げた際の重厚で華やかな美しさを両立させています。
中備蟇股(なかぞなえかえるまた ):中備(なかぞなえ)は、柱上の組物(斗栱など)の間にある部材の総称で、間斗束(けんとづか)、撥束(ばつづか)、蟇股などが含まれます。中備蟇股は、中備として使われる蟇股で、一材をくり抜いて透かし彫りにした「刳抜蟇股」や「透蟇股」(すかしかえるまた)が一般的に用いられています。
二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた) :妻飾(屋根の両端部分の装飾)に用いられる木組みの様式で、大きな梁である「大虹梁」(だいこうりょう)の上にさらに小さな梁である「小虹梁」(しょうこうりょう)を重ね、それらを「蟇股」で構成する形式で、下部にある「大虹梁」の上に二つの蟇股を並べて置き、その上に一回り短い「二重虹梁」(小虹梁)を載せ、その中央に蟇股を置いて、棟木(屋根の最上部の材)を支えます。