農業発展に貢献した人々
※べーマー会会長であり東京余市会会員でもある加我稔様のご承諾を頂き、作品を掲載させていただきました。PDF版はこちら
ページ最下部には「透明リンゴ」の写真もございますので是非ご覧ください。
ルイス・べーマー
近代化を急ぐ明治政府は外国から多くの官吏や教育者、技術者を雇い入れた。べーマーが余市の代表産物となるリンゴの栽培に果たした役割は非常に大きい。
金子安蔵
明治12年、結実させたりんごを「国光」と命名。赤羽源八さんが実らせたリンゴは松平容保が孝明天皇から貰った陣羽織に因んで「緋の衣」と名付けられました。
べーマーとダンを囲む現術生徒達
東京官園に全国から集められた若者は、全員武士として文武両道に励み、それぞれの藩を担う約割を期待された武士たちだった。明治5年青山官園に配属された第一期生20名の中には、余市からただ一人選ばれた中田常太郎がいた。金子安蔵は他2名と共に明治7年に現術生徒となった。
東京官園での農耕実習
当時の開墾法は鬱蒼と茂った木々を伐採し人手で掘り起こし、大勢で片づけた後に鍬を入れるという気の遠くなるほど労力を必要とするものであったが、アメリカから持ち込まれた飼いならされた牛や馬は巨木の根っこを引っこ抜いたり、プラウという農耕具を引いて次々と荒れ地を耕して行きました。
2. 余市リンゴ誕生の歴史(お雇い外国人と旧会津藩士)
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・明治4年 旧会津藩士の一団が余市に入植
第一陣は、宗川熊四郎茂友はじめ、185戸・約600名(御受書から)
北海道開拓使次官黒田清隆(薩摩藩士)が余市への入植を取り計らった
・明治4年 ホーレス・ケプロン(1804~1885)来日し、開拓使顧問となる
北海道開拓史のお雇い外国人 明治4年~明治14年までの間、ケプロン以下78名。
・ケプロンが招請した主なお雇い外国人
ワーフィールド(測量・土木)、アンチセル(地質・鉱物)、エルドリッジ(医学)
ベーマー(果樹・園芸)、シェルトン(農業)、チロル(牧畜)、ダン(酪農)、
ウエルプ(革なめ師)、ホルト(機械・工作)、ライマン(地質・鉱物)、
アスキン(船長)、トリート(缶詰)
・ケプロン帰国(明治8年)後の主なお雇い外国人
クラーク、ホイラー、ベンハロー、ブルックス・・・・・・・(札幌農学校教師)
クロフォード(鉄道敷設)、ゴージャー(炭鉱採掘)
・明治5年 東京の御用地(後の東京官園)に開拓地から選ばれた者たちが集められ、外国人指導者(ベーマー等お雇外国人)から西洋農業の指導を受ける。彼等は当初「農業成育方」と呼ばれたが、明治6年以降は「農業現術生徒」と呼称が確定した。
・余市(会津)出身の農業現術生徒・・中田常太郎、鈴木恭、金子安蔵、岩田友八、東轟
・明治8年 リンゴの苗(アメリカから輸入したもの)を全道に一斉配布。
多忙を極める農業現術生徒を補佐するものとして農業修業人制度が出来る。
・余市(会津)出身の農業修業人・・・・・東蔵太、川俣友次郎、横山留三、木村猪和男
杉本虎之助、小原真津三、石川清次郎
・ 明治12年 余市でリンゴの初なり(緋の衣、国光)・・・金子安蔵、赤羽源八
※主な参考文献
あるお雇い外国人・園芸家の足跡 (中尾眞弓著)
ケプロンの教えと現術生徒 (富士田金輔著)
ルイス・ベーマー北海道植物調査報告 (上野昌美訳)
ケプロン日誌蝦夷と江戸 (西島照男訳)
開拓使お雇いエドウイン・ダン (田辺安一編)
さっぽろ文庫 第15巻「豊平館・清華亭」、第19巻「お雇い外国人」、第50巻「開拓使時代」
新選北海道史 (北海道)
余市農業発達史
余市生活文化発展史
旧会津藩士金子安蔵の生涯 (音更郷土史研究会)
旧会津藩士の足跡 (余市郷土研究会)
日本ユリ根貿易の歴史 (鈴木一郎著)
横浜植木株式会社100年史
※雑記
酒の席で「リンゴの故郷は余市!」と言い張る小生に対し、両親が青森出身の友人・上野昌美君が異を唱え、それではルーツを調べてみようじゃないかとなったのが4年ほど前のことでした。それまで、リンゴの苗木はケプロンがアメリカから持ち込んだと理解していましたが、具体的に誰がどの様な方法で余市に持ち込んだのかを調べていくうちに、お雇い外国人ルイス・ベーマーに繋がりました。そしてルイス・ベーマーが残した報告書を上野君が翻訳していく中で、明治7年7月26日に余市を訪れ、宿泊している事を発見しました。
ところで、余市では旧会津藩士がリンゴの生育に励み明治12年に初なりさせたという史実は確認されていましたが、彼等とルイス・ベーマーとの具体的な関わりを裏付ける資料にはお目にかかっていませんでした。「絶対接点はあった筈だ」と確信しつつ資料を探す傍ら、リンゴの初なりを実現させた赤羽源八と金子安蔵の2人の旧会津藩士に関する調査を進めておりました。
特に注目したのは金子安蔵でした。彼は、東北戊辰戦争の際朱雀寄合四番隊の隊士として官軍と戦い、最後は会津若松城で囚われの身となり東京に護送された後に樺太行きの一団に加えられ、小樽を経て余市に入植した事が分かりました。また、開拓使時代の西洋農業に詳しい富士田金輔先生の著書の中に、ルイス・ベーマーとエドウイン・ダンを囲んだ現術生徒の写真が掲載され、その中に写る一人が余市出身の金子安蔵その人であることを発見しました。お雇い外国人と余市の旧会津藩士との関わりを表わす決定的な証拠です。
明治7年にルイス・ベーマーは余市に宿泊していますが、彼を派遣したホーレス・ケプロン自身も明治6年8月21日に余市を視察し、宿泊し、入植者に直接指導をしていますが、果たして彼等は誰と会い何処に泊まったのでしょうか。まだまだ興味は尽きません。
こうしてお雇外国人が余市の近代農業発展に多大な貢献をしたことは明らかですが、その彼等に学び、試行錯誤を繰り返しながら今日の一大産業の礎を築いた先人達の苦労は並大抵のものではなかったと思います。
故郷余市のリンゴの歴史がそれを如実に物語っています。
平成21年5月16日
ベーマー会会長 加我 稔
3.余市の「 透明リンゴ 」(ルイス・べーマー顕彰モニュメント)
記念撮影第一号
(タイからの観光客)
2017.10.24
余市紅志高校同窓会札幌市支部主催「ふるさと訪問」
<同窓生とその仲間たち>2018.9.30
2017年に余市に設置されたこの“透明リンゴ”は、2009(平成21)年からお雇い外国人ルイス・べーマーの研究を続けて来られたべーマー会の皆様が、彼の功績が長く語り継がれることを願って企画・建立されたものです。
候補地選定、デザイン、資金集めなどに苦労しながらもその熱心な姿勢に賛同した多くの方々の協力を得て2017(平成29)年10月24日、漸く除幕式が行われ、そこには余市町長はじめ多くの来賓が出席されました。
「透明リンゴ」という愛称は、べーマー会の上野昌美様が宮沢賢治の「青森挽歌」という詩の中の「きしゃは銀河系の玲瓏(れいろう)レンズ 巨(おおき)な水素のりんごのなかをかけてゐる」という一節のイメージから考えられたとのことです。
(出典:べーマー会会報第6号 ルイス・ベーマー顕彰モニュメント建立のご報告 )