PDFファイルは こちら からご覧いただけます


お雇い外国人と旧会津藩士

1

故郷の余市駅前を走る国道5号線から山田村に抜ける道が交差するあたりに会津藩ゆかりの石碑が2つ建っています。ニッカウイスキーの駐車場入り口の少し手前です。この一帯は明治4年会津藩士185戸、約600名が最初に入植した場所であり、余市川の下流を背にしたこの辺りはアイヌ語で<シュプントー> 「ウグイの多くいる沼」と呼ばれていました。この時入植した人々は、明治元年の東北戊辰戦争で会津若松の鶴ヶ城に立て籠もり敗戦によって「賊軍」の汚名を着せられ囚われの身となっていた武士とその家族が中心でした。 彼らは余市に辿り着くまでに筆舌に尽くしがたい屈辱を味わっていましたが、大半の人達は会津藩校日新館で高度な教育を受け文武両道に優れていたこともあり、余市に入って早々子弟の教育の為の寺子屋「日進館」を開設しています。 礼節を重んじ、辛抱強くて向学心に富んだ会津出身の人達は、その後の余市の開拓と発展に多大なる貢献をしていきました。

この会津藩士が余市に入植するに至った経緯には、かつて敵として対峙した薩摩藩士黒田清隆が重要な役割を演じています。当時樺太開拓使の次官としてロシアの南進を防ぐ上からも北海道の開拓は急務と考えていた黒田清隆は、懲罰的な北海道送りを余儀なくされていた会津の一団に開拓使への編入を促し余市への入植を説いたといわれています。これに応え、会津出身の人達は余市入植を承諾した証として「血判書」に名を連ねると共に、入植したその地を、黒田の一字を取って黒川村、下の田を取って山田村と命名しました。


その黒田は、明治4年1月、北海道開拓の指導を仰ぐべく渡米しアメリカ政府に人材の派遣を懇請しますが、交渉の相手になった現職の農務長官ホーレス・ケプロンが職を辞して自ら開拓使顧問に就任する事を承諾しました。この時黒田清隆31歳、ホーレス・ケプロン67歳。北海道開拓を熱く語る黒田の若き情熱にケプロンの眠りかけていた開拓者魂が揺り動かされたのかもしれません。

ところで、この黒田が帰国の際土産として持ち帰ったリンゴやサクランボの苗木、馬鈴薯などが余市にも分け与えられ、それが余市の農業発展に貢献した、という巷説を信ずる人は今も多い様ですが、これには少し飛躍がありそうです。 封建制を維持する幕府を倒した明治政府は、国内の混乱を沈めながら諸列強と対抗していくにはあらゆる面での近代化を急がなければならないことを痛感し、アメリカやイギリス、フランスなどから多くの官吏や教育者、技術者を雇い入れます。


こうして日本政府に雇われた外国人は「お雇い外国人」と呼ばれていました。中でも北海道という未開の地の開拓には、広大な新天地を切り開き文明国家として発展著しいアメリカに助けを求めるのが最適と判断した黒田清隆は、ヨーロッパ視察を早々に切り上げてアメリカに渡った様ですが、その黒田の強い思いは、現職農務長官ケプロンの招請という幸運をもたらしました。開拓史顧問に就任したケプロンは、日本側から提示を受けた地質調査、鉱山、測量、道路・鉄道建設、牧畜、園芸、漁猟など多方面にわたるブレーンの人選に取り掛かります。結局黒田は78名のブレーンを集めたといわれています。その中の一人ルイス・ベーマーは、ケプロンと交流のあったニューヨークの園芸商ピーター・ヘンダーソンから推薦を受けて草木培養方として雇われました。このルイス・ベーマーが、余市はもとより道内各地、そして青森、信州にリンゴ産業を発展させる先端を切り開いた人です。


1871年(明治4年)8月ケプロンは東京に着いて早々天皇陛下に謁見を許され北海道開拓への助力を天皇より直に要請されました。ケプロンは着任早々「北海道の開拓には優れた試験農場と農学校が必要」と訴えていたこともあり、明治政府は東京青山に10万坪を超える広大な「御用畑地」を用意し、その運営をケプロンに任せました。それが明治 6年以降東京官園とよばれるもので、ここでは輸入した植物や果樹を一旦仮植えした後に札幌や七重にあった北海道開拓使の官園に移送する事を主な役割としていましたが、同時に日本側の近代農業技術者の養成機関としての役割を担っていました。

2

全国から選ばれここに集められた若者は全員つい最近まで武士として文武両道に励み、それぞれの藩を担う役割を期待された武士たちでした。

20名ほどの第一期生は明治5年に青山官園に配属され、ケプロンからも直接指導を受けましたが、その中に余市からただ一人選ばれた中田常太郎が加わっていました。 当時30歳の中田は、これらの若者の中でも最年長でした。中田は明治4年、黒川村に入植した旧会津藩士の一員であり、黒川村 17 番地で妻帯していました。 余市で荒れ果てた山野の開墾に明け暮れていた中田が東京の官園で目にしたものは、広く耕された平坦な畑と、リンゴや葡萄、桃や梨といった果物の苗木、農耕用の牛馬やプラウなどの近代的な農機具の数々でした。加えて、それを指導するのが外国人ということもあり、見るもの聞くもの全てに驚きを禁じえなかった事が想像されます。中田の様な農業修業生はその後農業現術生徒と呼ばれ、研修終了後は各地に派遣され指導者として活躍した農業エリートでした。道内から派遣された第一期 生は、有珠、当別、幌別などからも複数選ばれていました。中田に続き余市からは明治6年に鈴木恭が上京しこれに加わっています。


余市に残された郷土史研究会の資料には「当時東京で外国人から農業指導を受けた者は余市にはいなかった」と記されていますが、中田常太郎、鈴木恭の二人は確かに東京青山の官園に派遣されており、そこの最高顧問として実践指導もおこなっていたケプロンから直接学んだ事は間違いありません。そのケプロンは明治6年に2回目の北海道視察の旅を行っていますが、途中同年8月21 日には余市に足を伸ばし、蕎麦や、麻、ササゲやきゅうり、油をとる菜種などの栽培指導を行い、その日は余市に宿泊しました。

ケプロンはその事を日記に記していますが、東京に戻ってから中田や鈴木に故郷余市の印象を語ってきかせたことも考えられます。ところで明治5年3月には第一・第二官園の主任をつとめるルイス・ベーマーが来日し、翌年にはエドウィン・ダンが第三官園の主任として着任していますが、この二人の優れた指導者から西洋農業を最初に学んだ青山官園の生徒の中に余市出身者がいたことはその後の余市農業の発展に大きな影響を与える事になります。


明治7年同じく余市から現術生徒となった金子安蔵、岩田友人、東轟の3名も旧会津藩出身者ですが、彼らの赴任地は前年に開設された札幌官園でした。当時札幌官園では、明治8年から始まるリンゴや、洋梨、洋桃などの苗木の大量配布に備える作業に大忙しでしたが、ちょうどこの時期に北海道の植物生育調査や採集で来道していたルイス・ベーマーは特にリンゴの生育法を現術生徒に根気良く指導しています。

なお、この年の7月26日に古平を経由して余市に上陸したルイス・ベーマーは一泊した後に小樽を経て札幌に入っています。前年のケプロンに続くルイス・ベーマーの余市訪問は、荒地の開墾に明け暮れていた旧会津藩の入植者達に近代農業への取り組みの必要性を説くには十分な出来事であったと思われます。

3

ところで当時の開墾法というのは、鬱蒼と茂った木々を伐採し人手で掘り起こした木の根っこを大勢して片付けた後に鍬を入れるというもので、畑にするには気の遠くなる程の労力を必要としました。そこにケプロンがアメリカから持ち込んだ飼い慣らされた馬や牛は、巨木の根を引っこ抜いたり、プラウという農工具を引いて次々と荒地を耕していきました。


ケプロンはこの耕作法を何度も現場で農業現術生徒に教え込んだといわれています。明治 7年に開拓使は数名の現術生徒を余市に派遣してこうしたプラウなどを駆使した西洋農法の実習を行っていますが、この時は 20 日間で15,000坪の土地が新たに耕され、余市の関係者を驚かせたといわれています。特に余市郡の副戸長の在竹四郎太という人は「これで、この器械が我ら旧会津藩士の着農を助ける有力な武器になる」と考え、早速開拓使に自費で出向いて自ら操作法を教わると共に、村の仲間と計りプラウなど西洋農具一式の購入を開拓使に申し出ました。この頃プラウなど画期的な西洋農具の貸し出しや払い下げの要請は道内各地からなされていましたが、農民が結束して購入したいという強い要望が余市から出された事で開拓使は早速に人を派遣してそれを受け入れました。


それに応える形で余市の農民は、単なる西洋農業の導入ばかりではなく、農業の自立のためには若い力の自覚的結集と相互扶助の取り組みを旨とした余市農社の結成に取り組みます。明治8年5月、余市農社の設立を支援する開拓使は、 地元出身の農業現術生徒の中田常太郎と金子安蔵を余市に派遣して地元で養成していた器械取扱人の指導などを行わせました。旧会津藩士の熱意に応えての計らいであったものと思われます。

この農社結成の動きは早々に有珠や幌別、静内、室蘭などに波及して行きますが、農業協同組合の礎ともいえる農民の自主的団体が余市でいち早く結成された意義は極めて大きいといえましょう。こうした積極的な農民の活動を技術的に支えたのは、ケプロンやルイス・ベー マー、エドウィン・ダン等から直接指導を受けた農業現術生徒ですが、僅か 50 名程度の数では手が足りず、開拓使は明治8年から「農業修業人」制度を新たに発足させます。この第一期修業人にも余市の旧会津団体から東蔵田や川俣友次郎といった後に地元で指導的な役割を果たす人達が参加していました。その後もこの農業修業人として余市から横山留三、木村猪和男、杉本虎之助、小原真津三、石川清次郎といったいずれも旧会津藩縁の人達が名を連ね、札幌の官園で近代農業の基礎を学んでいます。


明治 9 年には、ルイス・ベーマーとエドウィン・ダンが東京から札幌の官園に転任した事から、農業現術生徒のみならず農業修業人として余市から参加した人達もこの両氏から直接指導を受けた事は間違いありません。 特にその後余市の代表的産物となるリンゴの栽培法についてはその道の専門家である、ルイス・ベーマーが果たした役割は極めて大きいものでした。

ベーマーの指揮の下明治 8 年から各地にリンゴの苗木が配布されましたが、この年余市にもリンゴ・洋ナシ合わせて1500本あまりの苗木が農家に配られました。当初農民の多くはこれらの苗木が成長し多くの実を着けるなど半信半疑で気乗り薄すだったと伝えられています。しかし明治12年、山田村の2軒の農家で成長したリンゴの木に見事な実がなりました。 赤羽源八さんのところで実ったのが十九号で、金子安蔵さんのところのは四十九号です。これらの番号は東京官園に送られてきた苗木にベーマーが種類別につけた管理上の番号でした。

そこで赤羽さんは、旧会津藩の藩主であった松平容保が京都守護職についた際時の孝明天皇から貰った陣羽織の緋の衣に因んで、十九号を「緋の衣」と命名 しました。一方四十九号を結実させた金子安蔵さんはそれに「国光」という名をつけました。これは彼自身が当時の国家事業である北海道開拓使の農業現術生徒として、自らその期待に応えた事に由来するものと思われます。「緋の衣」と「国光」の 二つの名には、激動する時代の節目に国を追われながらも極寒の地でその意地を貫き通した旧会津藩士の熱い思いが込められていると思います。

翌年札幌で開かれた農業仮博覧会で余市産のリンゴは大変高い評価を得たこともあり、これを切っ掛けに栽培する農家も増えその後の余市リンゴの隆盛に繋がっていきました。ホーレス・ケプロンやルイス・ベーマーの様に本国での優れた経験と実績を誇るお雇い外国人と国を追われ逆賊の汚名を背負って北海道に辿り着いた旧会津藩士との奇妙な組合せが余市リンゴ発祥の鍵と言えましょう。

4

ケプロンは明治8年にアメリカに帰りその後は悠々自適の晩年を過ごし、81歳 で亡くなりました。 ルイス・ベーマーは明治 15 年開拓使の閉鎖によって10年3ヶ月に及ぶお雇い外国人としての任務を終えて横浜に移り住み、輸出入造園業を始めます。アメリカやヨーロッパに百合根を輸出する貿易で大いに成功し横浜で12年間暮らした後に生まれ故郷のドイツに戻り 53歳で亡くなっています。この様にお雇い外国人の二人はいずれも「成功者」と称えられながら晩年を迎えていますが、彼等の薫陶を受け西洋農業の導入に果敢に取り組んだ余市の人達のその後が気になるところです。

明治 4 年旧会津藩士とその家族が始めて余市に入植した時、惣代に選ばれ、その後も高潔な人格によって村民の代表として慕われた宗川熊四郎茂友は、入植時の統率者としての役割を全うしたとして、明治10年一族とともに会津に帰郷し教師として再出発を果たしていますが、この宗川の川の一字は、黒川の川として今も立派に残っています。

ところで、当時のお雇い外国人と最も長く交流を重ねたと思われる金子安蔵は、余市の自宅の畑で「国光」を実らせた後も、農業現術生徒としてベーマーやダンの下で研鑽を積み札幌・手稲や静内の農場で指導者員として活躍し、明治 14 年開拓使官吏に任用されていますが、翌明治 15年に開拓使が閉鎖された後の足取りは定かではありませんでした。

それが少し明らかになったのは去年の夏の事でした。筆者はたまたま音更神社の創紀者が金子安蔵と同姓同名であることを知り、残されていた写真を見て、それが余市で最初にリンゴを結実させたあの金子安蔵その人に間違いないと確信し音更神社の宮司さんに協力を依頼しました。その結果、明治 31 年に音更の仁令農場という大きな農場の管理人に迎え入れられ地元の農業発展に貢献をすると共に、音更神社の創設者や音更郵便局初代局長として尽力し、惜しまれながら音更で72歳の生涯を閉じたという事がわかりました。残された戸籍によると余市から転出したのは明治32年になっています。50歳になったこの年官吏としての退職を機会に余市を後にしたものと思われますが、家族の状況は不明です。音更の記録によると66歳の時に他家から養子を迎え郵便局長を継がせていますが、当時金子安蔵が妻帯していたかどうかは分かっていません。余市で穏やかな晩年を過ごした形跡がなかったのは残念ですが、広々とした音更神社の境内に金子安蔵が建立した祠が今も風雪に耐えて残されているのを見た時、金子安蔵の功績と人徳はケプロンやルイス・ベーマーのそれに勝るとも劣らぬものであった事を確信しました。

この文章は主に、園芸家としてのルイス・ベーマーの功績を研究するうちに彼に共感し住みなれた横浜から札幌に移り住むこととなった中尾眞弓さんや、阿波のご出身ながら旅の途中で北海道に根を下ろし、開拓使時代の農業現術生徒の存在とその役割を残された希少な資料から正確に導き出された富士田金輔さん、そしてルイス・ベーマーに関する英文資料の発掘と現代語訳に今も奮闘中の上野昌美さんの研究の成果を元にして纏め上げたものです。この皆さんとは、「ベーマー会」という私的な会を作り、今も情報交換を行って おります。

ベーマー会 会長  加我 稔