どうすれば、私たちは理解しあえるのでしょうか?
私たちは理解しあえる。共に生きる社会を。そんなスローガンが掲げられてきました。多様性を受け入れる社会の推進は昨今の目標とされています。しかし、現実には私たちが互いに理解しあうことは困難です。
私たちが互いに理解し合うためには、例えば
・あなたや私の身体能力(耳は聞こえるか、足は速いか、手が器用か、などを含む)
・あなたや私の情報処理能力(いわゆる"学力"、"IQ"、"コミュ力"などを含む)
・あなたや私の行動決定基準(いわゆる"価値観"や今の"気分"や周囲の環境などを含む、大小さまざまな要素)
といった多くの要素を、時には瞬時に、伝達しあう必要があります。しかし、現実にはそれは容易ではありません。
それでも、私たちは互いに理解したいと願います。互いに理解し合い、互いの行動を予測するためには、それぞれの要素の根底に通じる行動と認知機能の原理を理解する必要があります。
私たちはどのようにして、 行動を決定するのでしょうか?
私たちは動物は様々な行動を行います。どんな動物でも、自身の生育する環境に適応して行動決定基準に応じた選択をする仕組み、すなわち「認知機能」を有しています。進化の過程で動物は認知機能を環境に合わせて洗練してきました。
では、動物に共通する認知機能はどのような特徴を有しているのでしょうか。私は小型の脳と身体を有する昆虫の認知機能の仕組みを明らかにして、ヒト・ほ乳類と認知機能の特徴と比較しています。昆虫の脳はヒト・ほ乳類の脳と進化的に古く分化した"遠い親戚"です。"遠い親戚"が有する認知機能の共通性・多様性とその限界を理解することを目指します。認知機能の共通性からはその原理の一端が見いだすこと、多様性とその限界からは個々の動物らしさを見出すことを期待しています。"遠い親戚"と理解しあう事ができれば、より近しい私たちヒト同士でも理解しあうためのヒントや希望に繋がるのではないでしょうか。
認知機能とその仕組みを行動と神経メカニズムのレベルで比較することで、認知機能の "意味" を明らかにします
動物は自身の過去の経験、現在の自身の状態と周囲の環境、そして自身とその環境の未来の予測を組み合わせて行動を決定すると考えられています。では、過去と現在そして未来をどのように重みづけして行動を決定するのでしょうか。自身と周囲の環境情報を行動決定の際にどのようにして織り込むのでしょうか。その行動決定はどのような未来が実際に来た際に、有利に働くのでしょうか。
認知機能の研究は古くから、主にヒト・ほ乳類を用いて行われてきました。記憶・学習についての研究は Pavlov の犬の連合学習に端を発し、多様な研究がおこなわれてきました (Pavlov, 1927)。一方で無脊椎動物もまた、認知機能の研究に大きく貢献してきました。例えば Kandel は学習の神経メカニズムを他の動物種に先駆けてアメフラシを用いて明らかにしました (Kandel, 2001)。
私はこれまでに、記憶形成のルールの共通性を見出してきました。予測誤差を用いた記憶ルールが、ほ乳類だけでなくコオロギという昆虫まで共通することを明らかにしました。すなわち動物が予測した未来と異なる現実に直面した際には、予測と現実のズレ(エラー、勘違い)を修正するかのように予測を書き換える仕組みをほ乳類もコオロギも同じように備えていたのです。記憶・学習はほ乳類のような脊椎動物から軟体動物・昆虫のような無脊椎動物まで、驚くほどたくさんの動物種で共通しています (Perry et al., 2013)。
認知機能を実現する仕組みは、動物種間で原理な部分が共通していることがほとんどです。一方で、その細部は異なる場合があります。学習の仕組みに目を向けると、ほ乳類ではドーパミンが報酬と忌避的な刺激の両方の情報を伝達して学習を制御します。一方で私たちは、コオロギではドーパミンが忌避的な刺激の情報を伝達するものの、報酬の学習にはオクトパミンという別の伝達物質が関与することを明らかにしてきました。異なる仕組みを用いている以上、出てくる答え(行動決定)も予測する未来の種類や質も異なっているのではないでしょうか。一般にほ乳類の大きな脳はコストをかけて正確な決定を実現する一方で、無脊椎動物の小さな脳は低コスト・素早い決定という戦略的な違いがあると指摘されています (Mizunami et al., 1999)。
私たちは周囲との比較を通じて、自らの特徴を知る傾向があります。つまり他者あるいは他種の理解を通じて、初めて私たちヒトの特徴とその意味もまた理解し得るのではないでしょうか。進化的にもメカニズム的にもほ乳類とは異なっている昆虫の認知機能とその神経メカニズムを解析し、私たちヒトとの共通する点・異なる点を比較することで、それぞれの動物種の持つ認知機能の”意味”、そして動物の"心"の理解に取り組みます。
以上の考えに基づき、私は
→認知機能の特徴や影響を与えるパラメータを明らかにする
→認知機能を生み出す脳や神経のメカニズムについて明らかにし、生物それぞれの独自性と多様性を比較することで、その機能的な意義を推測する
という2つの目標の下で研究を続けています。
Reference.
1. Pavlov, I.P, Conditioned reflexes; an investigation of the physiological activity of the cerebral cortex (London: Oxford University Press: Humphrey Milford, 1927).
2. Kandel, E. R. The molecular biology of memory storage: A dialogue between gene and synapses. Science, 294, 1030–1038 (2001).
3. Perry, C. J., Barron, A. B. & Cheng, K. Invertebrate learning and cognition: Relating phenomena to neural substrate. Wiley Interdiscip. Rev. Cogn. Sci. 4, 561–582 (2013).
4. Mizunami, M., Yokohari, F., & Takahata, M. Exploration into the adaptive design of the arthropod “microbrain”. Zoological science, 16(5), 703-709. (1999).
論文の前の番号は、Publication list の文献種別-文献番号 に対応しています。
1-11)
Aversive social learning with a dead conspecific is achieved by Pavlovian conditioning in crickets
Hashimoto, K., Terao, K., Mizunami M.
Neurobiology of Learning and Memory, Elsevier, 217, 108019, 2025(査読有り)
https://doi.org/10.1016/j.nlm.2024.108019
これまでに報酬の社会学習が主に二次条件づけによって成立することが報告されていた一方で、本研究ではコオロギの忌避社会学習はその傾向が見られないことを報告した。コオロギの死体を強化子とした際のドーパミン受容体阻害剤投与による忌避記憶形成・読み出し阻害、死体の価値の再評価学習および二次条件づけ実験を通じて、同種他個体の死体が強化子として働くことを示す証拠を積み上げた。
1-10)
Independent operations of appetitive and aversive conditioning systems lead to simultaneous production of conflicting memories in an insect
Sadniman Rahman, Kanta Terao, Kohei Hashimoto and Makoto Mizunami
Proceedings of the Royal Society B, 291(2031), 20241273, 2024(査読有り)
https://doi.org/10.1098/rspb.2024.1273
報酬や忌避的な刺激を記憶する学習能力は動物種に普遍的である。本論文では報酬と忌避に関する両方が記憶された条件で、どのような統合が行われて行動決定に至るかの検証を行った。フタホシコオロギを用いて、報酬記憶を司るオクトパミン系と忌避記憶を司るドーパミン系の薬理的な制御と、報酬-忌避の両方の記憶に対する二次条件づけ実験を組み合わせることで、報酬と記憶の系が独立に形成されて競合することを明らかにした。
1-9)
oskar acts with the transcription factor Creb to regulate long-term memory in crickets.
Kulkarni A., Ewen-Campen BS., Terao K., Matsumoto Y., Li Y., Watanabe T., Kao, JA, Parhad SS., Yll G., Extavour CG.
Proceedings of the National Academy of Sciences, National Academy of Sciences, 120(21), e2218506120., 2023(査読有り)
https://doi.org/10.1073/pnas.2218506120
新しい遺伝子が進化する際に、以前はその遺伝子を生存に必要としなかったにも関わらず、排除されずにゲノムに組み込まれるのは何故か、という問いに挑んだ。昆虫で特異的に獲得された因子 oskar が 脳の記憶中枢キノコ体において神経幹細胞に発現し、長期記憶の形成に必要なことと、古くから存在する因子CREBと相互作用することを明らかにした。この結果は、新しい遺伝子が進化する際は、適応に重要な既存の遺伝子と進化的に相互作用することで排除を回避し、ゲノムに組み込まれるとの仮説を支持する。
1-8)
Spontaneous recovery from overexpectation in an insect
Terao K., Matsumoto Y., Alvarez B., Mizunami M.
Scientific Reports, Nature Publication Group, 12(1), 1-9, 2022 (査読有り)
https://doi.org/10.1038/s41598-022-13800-2
無脊椎動物において初めて過剰予期効果とその自発的回復を示した。予測誤差に基づく学習が当てはまるかどうかを判別する実験の一つとして過剰予期効果課題があるが、これまでにその報告はほ乳類および鳥類に限られていた。本研究では嗅覚および視覚の報酬学習を用いてコオロギで過剰予期効果を検証すると共に、その自発的回復を無脊椎動物で初めて、ほ乳類に次ぐ2例目といて報告した。
1-7)
Courtship behavior induced by appetitive olfactory memory
Onodera Y., Ichikawa R., Terao K., Tanimoto H., Yamagata N.
Journal of Neurogenetics, Taylor & Francis Group, 4, 2019 (査読有り)
https://doi.org/10.1080/01677063.2019.1593978
条件づけされた匂いへの接近に伴い、ハエの求愛行動、特に翅の伸展行動が増加することを見出し、この記憶により誘発される交尾行動は、従来の匂い報酬連合学習の記憶の座として知られるキノコ体の伝達を阻害しても誘発されることを示した。食物報酬や不快な罰などの強化シグナルは、多様な行動を変化させる。学習によって変化する行動は多岐にわたるにも関わらず、これまで、条件反応は主に匂い嗜好性の変化が測定されており、それ以外の行動はほとんど調べられていなかった。本研究では、ビデオ撮影と半自動処理パイプラインを用いて、ハエの報酬条件づけに対する匂い反応を詳細に解析した。この研究は、記憶による行動制御は複数の神経系が協調的に機能することで実現していることを示している。
1-6)
Development of behavioral automaticity by extended Pavlovian training in an insect
Mizunami M., Hirohata S., Sato A., Arai R., Terao K., Sato M., Matsumoto Y.
Proceedings of the Royal Society B, The Royal Society Publishing, 286(1894), 2019: 20182132.(査読有り)
https://doi.org/10.1098/rspb.2018.2132
本研究は古典的条件づけの繰り返し訓練によって、報酬の無価値化に影響されない習慣様記憶が生じることを明らかにした。特定の行為の後に報酬を提示するオペラント条件づけ訓練を行うと、動物は訓練した行為を自発的に行う。自発行為は報酬が無価値になると抑制される。しかし訓練を繰り返すと、得られる報酬を無価値化した場合も自発的な行為が繰り返される(習慣化)。同様の学習が古典的条件づけで生じるとの報告はこれまで存在しなかったが、本研究では匂いと水報酬刺激の古典的条件づけを繰り返すことで、水無価値化に耐性のある記憶形成を確認した。
2-1)
Application of a prediction error theory to Pavlovian conditioning in an insect
Mizunami M., Terao K., Alvarez B.,
Frontiers in Psychology, Frontiers, 9 (1272), 2018 (査読有り)
https://doi.org/10.3389/fpsyg.2018.01272
本総説では、ほ乳類における学習理論の歴史的・理論的な推移、および1), 2) より得られたブロッキング・オートブロッキング現象に基づく予測誤差理論の妥当性の検証についてまとめた。その過程で得られた報酬・忌避学習それぞれでオクトパミン・ドーパミン神経系が報酬・忌避の予測誤差を伝達するとの神経モデルについて解説し、ほ乳類ドーパミン系のモデルと比較した。
1-5)
Roles of dopamine neurons in mediating the prediction error in aversive learning in insects
Terao K., Mizunami M.
Scientific Reports, Nature Publication Group, 7, 2017 (査読有り)
https://doi.org/10.1038/s41598-017-14473-y
予測誤差理論が忌避学習でも報酬学習と同様に成立することを明らかにすると共に、忌避学習ではドーパミンが忌避予測誤差を伝達すると結論づけた。1-3)では、ブロッキングおよびオートブロッキング現象を用いて報酬学習における予測誤差理論の妥当性を検証した。本研究ではブロッキングおよびオートブロッキングが忌避学習でも同様に成立するかを検証すると共に、その神経生理学的基盤を探求した。
1-4)
Roles of OA1 octopamine receptor and Dop1 dopamine receptor in mediating appetitive and aversive reinforcement revealed by RNAi studies
Awata H., Wakuda R., Ishimaru Y., Matsuoka Y., Terao K., Katata S., Matsumoto Y., Hamanaka Y., Noji S., Mito T., Mizunami M.
Scientific Reports, Nature Publication Group, 6, 2016(査読有り)
https://doi.org/10.1038/srep29696
本研究ではコオロギにRNA干渉法を用いることで、忌避学習ではDop1、報酬学習ではノルアドレナリンのアナログであるオクトパミン受容体OA1が重要であると明らかにした。ドーパミンの報酬・忌避学習における重要性はほ乳類およびショウジョウバエで共通し、特にハエではドーパミン受容体DopR1を介する。一方、コオロギではDopR1が忌避学習のみを制御すると示唆されていた。昆虫種間で異なる神経伝達物質と受容体が報酬学習を制御することを明らかにした。
1-3)
Critical evidence for the prediction error theory in associative learning
Terao K., Matsumoto Y., Mizunami M.
Scientific Reports, Nature Publication Group, 5, 2015(査読有り)
https://doi.org/10.1038/srep08929
予測誤差理論の妥当性を明確に検証した。連合学習は動物が予測した報酬と実際に得た報酬の差、つまり「予測誤差」に基づいて制御される、との仮説がほ乳類では有力である。しかし、この予測誤差理論の基礎となる「ブロッキング」現象は対立仮説でも説明可能であった。本研究ではコオロギの学習でブロッキング現象を再現した。さらに予測誤差理論で説明可能かつ対立仮説では説明が困難な新現象「オートブロッキング」を実現した。
※Scientific Reports注目の論文として紹介されました。
(http://www.natureasia.com/ja-jp/srep/abstracts/64028)
※優良論文推奨システムF1000 Primeで紹介されました。
(https://doi.org/10.3410/f.725384030.793515400)
1-2)
Roles of calcium/calmodulin-dependent kinase II in long-term memory formation in crickets
Mizunami M., Nemoto Y., Terao K., Hamanaka Y., Matsumoto Y.
PLOS ONE, Public Library of Science, 9(9) , 2014(査読有り)
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0107442
記憶・学習におけるCaMKIIの新しい役割を提唱した。 Ca2+/calmodulin (CaM) 依存性プロテインキナーゼ II (CaMKII) は、脊椎動物の記憶・学習に重要な分子であるが、無脊椎動物における役割の詳細は十分明らかでなかった。これまでに我々は、コオロギの嗅覚条件づけにおける長期記憶(LTM)形成の生化学的カスケードとして、NO/cGMPシグナル、環状ヌクレオチド依存性チャネル、Ca2+/CaM、cAMPシグナルの連続した活性が必要だと示してきた。今回、本カスケードのうちCaMKIIがcGMP生成およびCa2+流入の下流、cAMP生成の上流に位置していると示した。さらに、CaMKIIがACと相互作用して、LTM形成のためのcAMP産生を促進していることを示唆する結果を得た。つまりCaMKIIはLTM形成におけるCa2+シグナルとcAMPシグナルの相互作用の鍵となる分子であった。
1-1)
Roles of NO signaling in long-term memory formation in visual learning in an insect
Matsumoto Y., Hirashima D., Terao K., Mizunami M.
PLOS ONE, Public Library of Science, 8(7), 2013(査読有り)
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0068538
視覚学習と嗅覚学習は、LTM形成のための生化学的カスケードを共有していると結論づけた。多くの昆虫は優れた視覚学習能力を有しているが、その分子・神経機構は十分に解明されていない。昆虫の嗅覚学習では、cyclic AMP(cAMP)シグナルおよび一酸化窒素(NO)-cyclic GMP(cGMP)シグナルがタンパク質合成に依存した長期記憶(LTM)の形成に関与している。本研究では、コオロギの視覚パターン学習における、NO-cGMPシグナルとcAMPシグナルのLTM形成への寄与を検討した。コオロギの視覚学習のLTM形成には、NOシグナルの下流にcAMPシグナルが存在することを示した。