はじめに
2017年8月の投句より
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より①(2017年11月6日)
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より②(2017年11月8日)
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より③(2017年11月10日)
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より④(2017年11月11日)
未来図香川支部会報『直線』平成29年12月号より (2017年12月3日)
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より⑤(2018年元旦)
『未来図』11月号の「同人秀句抄」より (2018年正月3日)
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より⑥(2020年7月18日)
<以下、新しいものから逆に掲載しています>
<無断引用はしないでください>
==================================
9. 草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より⑥(2018年元旦)
2020年7月18日、由斉
草田男の句集「長子」の中に収められている「帰郷28句」の句評第六弾は、「松山中学校にて」と題された以下の三句である。この句評も久しぶりである。漢字表記は全て現代の表記にしている。
焼跡のこゝが真中の春日差
啓蟄の運動場と焦土のみ
焼跡や雀雲雀の声遠し
愛媛県松山中学校の創立年は明治11年(1878)である。草田男がこの中学校に入学したのは大正3年(1914)とされている。この中学校は大正5年(1916)に移転しており,その移転先のことであろう。校舎は何度も火災や戦災にあっている。句集が昭和11年(1936)に出されているので,昭和9年(1934)の火災の焼跡のことになるようである。学校の記録によれば,本館その他が焼失したとされている。まさに「ここが真中」ということであろう。春の日差しがもどかしい。さらに運動場では季節は啓蟄とはいえ,焦土が目立つ。大変な火災であったのであろう。周辺の木々にも影響を及ぼしていたのかもしれない。スズメもヒバリの鳴き声も遠くからのみで,その火災の虚しさが伝わってくる。
==================================
『未来図』11月号の「同人秀句抄」より
「朝顔の一つ一つにある夜明 」 村山正恵
2018年正月三日、由斉
「夜明」という言葉で、島崎藤村の『夜明け前』を思い出す人も多いであろう。「木曽路はすべて山の中である」という書き出しで始まる歴史小説である。馬籠の本陣・問屋・庄屋をかねる家に生まれ、国学に心を傾ける青山半蔵は、森林の使用制限をしていた尾張藩を批判し、さらに、山林の伐採を一切禁止する国有林化への抗議運動を展開した。その一生が描かれている。
『夜明け前』は、島崎藤村の父親がモデルとなり、明治維新が描かれた作品である。人の一生は様々である。明治維新のような激動の時代に生きた人々もあれば、比較的穏やかな時代に一生を過ごすことのできた幸せな人々もいるかもしれないし、戦争や災害に翻弄された人々も多くいる。葛藤のない一生を過ごすことのできた人々はどれだけいるだろうか。「夜明」とは何だろうか。
「朝顔」は不思議な花である。もともとは貴重な薬の原料であり、広く育てられていた。文字通り、朝に咲くように思われるが、朝に咲いているのを確かに確認できるが、実際は、夜明け前の薄暗い頃に咲く。また、朝顔と言えば、夏を思い出すが、俳句としては夏の季語ではなく、秋の季語である。
朝顔だけでなく、花は蕾が大きくなって咲くまでの準備期間が長い。さらに、牡丹のように朝陽が出てくると大きく開花する花もあり、日の出と同時に咲き始めるように思われるかもしれないが、どうも違うようである。前日の日没時刻が咲く時間の要となるらしい。
十分に成長した花の蕾は、日没後、8時間から10時間をかけて、咲く準備をするので、日没時間によって朝の咲く時間が変わると言われる。日没は、7月はじめであれば、19時頃であり、9月初めには17時過ぎとなる。そのため、次の日の朝に咲く時間も朝5時頃から4時前までと次第に早くなっていく。
花が咲き、昼前に花としての一生を終え、種を残す。夏から秋にかけて毎日、あちこちで蕾が大きくなり、そして花を咲かせ、暑さと乾燥で花びらは昼前に萎んでしまう。夜の暗く長い時間に花を咲かせる準備をする朝顔は、暑い陽射しを好む植物ではあっても、秋の方が日差しが弱くなるため、より長く咲くことができる。
こうして、夏から秋にかけて、次々に花を咲かせるのが朝顔であり、秋の方が咲いた花を長く楽しめる。だから、秋の季語なのだろう。
さて、再びこの句に目を向けよう。驚くべきことは上記のような冗長な解説をこの17文字ですべて言い尽くしていることにある。
普通では見過ごしてしまう「夜明け前」の「朝顔」が目に浮かび、秋の夜明け前の朝顔を無性に見たくなる。実際に見ていないと気づけない繋がりがあるからである。そして、「一つ一つ」という表現が実に生きている。すべての生命体の個性ある一生への優しい眼差しが巧みに込められているからである。江戸時代に特に愛好されたという朝顔は、まさに「夜明け前」というその時代を象徴する花だったのかもしれない。江戸から明治にかけての朝顔を詳しく調べてみたくなる。
なお、この句は、『未来図』11月号の「同人秀句抄」に選ばれている。
==================================
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より⑤
2018年元旦、由斉
草田男の句集「長子」の中に収められている「帰郷28句」の句評第五弾は、「東野にて」と題された以下の五句である。
春山にかの襞は斯くありしかな
そら豆の花の黒き目數知れず
麥の道今も坂なす駈け下りる
春の日はササの葉なりに藪に降る
竹幹の隙(ひま)に落ちけり鶯一聲
「東野」は松山市の東それも山なみが続くようになる東の端に位置している。
草田男が生きていた当時の東野には、ソラマメ、麦、笹、そして竹がある。どのような景観を生み出されていたのだろうか。この五句からなら抒情詩がその景観を蘇らせてくれる。
山の襞 (襞) 、ソラマメの花の目、黒き目が一面に広がり、麦畑の道が連なり、山から降りてくると麦畑の間を駈け下りることができる。
そして水辺に近づけば、笹の葉の群集は藪となり、そこに春の日が笹の葉の一つ一つを明らかにする。「ササの葉なりに」「藪に降る」。春の太陽の光がまさに目の前を通るかのようだ。
そして最後の句では、鴬の声は、竹林の幹が並び立つ隙間に落ちていく。鶯の声が落ちていく。春の息吹はまさに土の中にある。
最初の句に戻ろう。
山は春を迎え、冬山では気づけなかった山の襞が、木々や花が迎える春によって、「こうだったのだ」と実感する。俳句が織りなすこの抒情詩はまさに「タペストリー」を具現している。
==================================
中村草田男全集第1巻 (みすず書房、1989年) 「帰郷28句」より⑤
2018年元旦、由斉
草田男の句集「長子」の中に収められている「帰郷28句」の句評第五弾は、「東野にて」と題された以下の五句である。
春山にかの襞は斯くありしかな
そら豆の花の黒き目數知れず
麥の道今も坂なす駈け下りる
春の日はササの葉なりに藪に降る
竹幹の隙(ひま)に落ちけり鶯一聲
「東野」は松山市の東それも山なみが続くようになる東の端に位置している。
草田男が生きていた当時の東野には、ソラマメ、麦、笹、そして竹がある。どのような景観を生み出されていたのだろうか。この五句からなら抒情詩がその景観を蘇らせてくれる。
山の襞 (襞) 、ソラマメの花の目、黒き目が一面に広がり、麦畑の道が連なり、山から降りてくると麦畑の間を駈け下りることができる。
そして水辺に近づけば、笹の葉の群集は藪となり、そこに春の日が笹の葉の一つ一つを明らかにする。「ササの葉なりに」「藪に降る」。春の太陽の光がまさに目の前を通るかのようだ。
そして最後の句では、鴬の声は、竹林の幹が並び立つ隙間に落ちていく。鶯の声が落ちていく。春の息吹はまさに土の中にある。
最初の句に戻ろう。
山は春を迎え、冬山では気づけなかった山の襞が、木々や花が迎える春によって、「こうだったのだ」と実感する。俳句が織りなすこの抒情詩はまさに「タペストリー」を具現している。
==================================
「霊と露」(未来図香川支部会報『直線』平成29年12月号より)
2017年12月3日、由斉
「霊薬のごとくぴかぴか菊の露 」吉岡御井子
「霊薬」は魂の薬である。病に苦しむ多くの人々の希望はこの不思議な力を持った「たま」つまり「霊」を手に入れることであろう。不治の病を持つ人々の苦しみに耐える顔を思い出す。
「菊の露」は菊の花にたまる露を飲めば長生きできるとされた季語である。「菊」は漢名で「最終」「究極」を意味し、一年の終わりに咲くことから名づけられたらしい。究極の花なのである。愛好家も多く、いったい幾つの種類があるのだろう。この句を聞いて、どのような菊を思い浮かべるだろうか。
しかしその菊の花の多様性とは違い、水滴であるその露は世界共通である。菊の花についた水滴は不思議な表面張力でプルプルしている。その「たま」は太陽の光が射せばピカピカ光るのである。
この句では、二つの不思議な世界を示す漢字の「たま (霊) 」と「たま (露) 」が、優しい平仮名の「ごとくぴかぴか」で、結びつけられた。一瞬にして生命力を感じさせるこの句は生きる原点を示唆してくれる実に特別な秀句である。
なお、この作品は平成29年度高松市玉藻文芸祭で香川県教育委員会教育長賞と高松市教育委員会教育長賞を同時受賞している。
==================================
中村草田男全集第1巻(みすず書房、1989年)「帰郷28句」より④
2017年11月11日、由斉
夕櫻あの家この家に琴鳴りて (ゆうざくら あのいえこのいえに ことなりて)
夕櫻城の石崖裾濃なる (ゆうざくら しろのいしがけ すそこなる)
春の月城の北には北斗星 (はるのつき しろのきたには ほくとせい)
この三句は先の二句と同じで、詠まれた場所は書かれていない。次の五句が「東野にて」となっていることもあり、この三句をまとめて考えてみよう。
これらの句は、昭和4年から11年つまり1929年から36年にかけて詠まれたものである。東京では1923年の関東大震災からどの程度復興していただろうか。1929年は世界の大恐慌の年でもある。
ところで、東京市内に電灯がほぼ完全普及するのは1912年、明治から大正に年号が移行する年であった。電力会社の多くは民営であり、例えば、香川県の電灯普及率は大正12年で四国一で全国8位の水準であったようで10社もの電力会社があったようである。松山はどうであったのか。今、手元にその情報はない。
この三句は夕方から夜にかけての記憶から詠まれたもののように思う。まだ電灯が普及していない頃の回想ではないだろうか。現在の街はあまりに明るく夕桜を楽しむ風情からはすっかり遠くなっているように思う。街の中の多くの家で琴が聞こえる。「あの家この家」である。ここでもあそこでも夕桜とともに奏でられている。琴の音と夕桜の姿、現在ではもはや味わえない情感に想像力が駆り立てられる。
二句目はその楽しさとは打って変わって、次第に暗くなる世界が見事に「裾濃なる」で表現されている。「すそこなる」と読んでいいのだろうか。濃いという漢字は名詞に付けば、濃紫 (こ・むらさき) と読むと大辞林では書かれている。始めに暗くなるのは足元である。空は太陽から星や月へと明るさを変えていくが、足元から暗くなっていくその情景が目に浮かぶ。なんとも素晴らしい着眼点である。
春の月は、早くは出てこない。遅く南の空に出てくる。まさに太陽と入れ替わりに出てくると言っても良いかもしれない。月明かりが城を照らすようになる夜の到来である。三句目は春の月という主題であるが、それは太陽の季節の到来の裏返しでもあり、夕方を過ぎて外に立っていてももはや寒さに凍えることはない。松山城の真南には県庁や市役所がある。松山城の南側に立てば、もしかすると春の満月と城の北に見える北斗星を同時に楽しめるのであろうか。一度、その季節に訪れたいものである。
しかし今では、街中の夜は明る過ぎ、夕刻の桜や星や月を楽しむことはできない。草田男の俳句だけが我々をその風情の回想に導いてくれるのかもしれない。
==================================
中村草田男全集第1巻(みすず書房、1989年)「帰郷28句」より③
2017年11月10日、由斉
土手の木の根元に遠き春の雲 (どてのきの ねもとにとおき はるのくも)
次第に大気が温まり、ふわふわとして淡い雲が見えるようになる季節を人はどのように感じるであろうか。春が好きな人もいれば、日々天候が変化する春の季節より、はっきり寒さを感じる冬の方が好きな人もいるであろう。何れにしても、春が全ての植物から息吹を感じさせる季節であることに変わりはない。土手の木々の枝先には葉や花も芽吹いている季節である。しかし、草田男が着目したのはその根元である。まだまだ寒き季節を引きずっているのであろう。この帰郷28句は「長子」という句集に収められていた。土手の木々のように、しっかり地元に根の張った、長く続いた家を継ぐべき長男として、その重責を感じていた草田男ならではの憂鬱を表現しているように思われる。「根元に遠き」が素晴らしい。
=========================================
中村草田男全集第1巻(みすず書房、1989年)「帰郷28句」より②
2017年11月8日、由斉
11月6日に紹介した句は、帰郷28句の最初の句である。全集の中でこの28句は独特の構成になっている。
1ページに2句づつの普通の体裁であるが、ページを繰ると俳句が謳われた場所が書かれている句がある。「東野にて」が5句、「松山中学校にて」が3句、「松山高等学校にて」が2句、「松山城北高石崖にて」が1句、「石手寺にて」が1句、「松山赤十字病院にて」が3句、さらに松山市とは別の「明治初年上野山花時の写真遺れるあり」が1句、「大垂水にて」が2句、「琵琶湖にて」が1句、「大学構内にて」が1句、「試験場委員をつとむ」が1句、その他は記載がない。これらは全集第1巻では「春」と題して、23頁から58頁まで収められた句であり、28句をはるかに越えて、71句ある。
実は、全集第1巻の36頁の末尾に小さく「以上」と記されている。つまりここまでが帰郷の28句であった。上記の「松山赤十字病院」までが含まれていることになる。
場所が記載されている句は全部で15句あり、残りの13句には場所の記載はない。東野は松山の東野であろう。つまり、場所が記載されている句で、全集第1巻の帰郷の句についての場所は全て松山市内である。
もしかすると遠くある故郷に帰れない心境を描いたのが「貝寄風」の句ではないかという推察は、確信は持てないがやはり正しかったのかもしれない。さて、ここからまずこれらの「貝寄風」の句を含めた28句の残り27句の中で,特に場所の記載のある句はまとめて見ていこう。帰郷と題されたこれらの句は草田男のどのような心境を反映しているのであろうか。
==================================
中村草田男全集第1巻(みすず書房、1989年)「帰郷28句」より①
2017年11月6日、由斉
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し (かひよせに のりてききょうの ふねはやし)
貝寄風:大辞林の「かいよせ」の説明は以下の通りである。
大阪四天王寺の精霊会 (もと陰暦2月20日) 前後に吹く西風 (精霊会に供える造花の材料の具を竜神が難波の浜に捧げるものと言い伝える)
ウィキペディア(2017年11月6日閲覧)では、
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年 (明治34年) 7月24日 - 1983年 (昭和58年) 8月5日) は、愛媛県出身の俳人。本名清一郎 (せいいちろう) 。東京大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。
と紹介されている。彼の故郷は愛媛県ということになるが、東京帝国大学が東京大学に改称されたのは1947年 (昭和22年) 9月のことであり、東京大学国文科卒というのは正確ではない。第二次世界大戦以前の帝国大学と戦後の新制大学とを混同することはできない。通常、大学史では一貫してその起源が辿られるが同じ大学と見ることは間違った理解の基になる。
帰郷28句は、句集「長子」に収められており、昭和11年11月20日に刊行されている。この年までの彼の足跡をやはりウィキペディアで追うと以下のようである。間違いもあるかもしれない。
清国 (現中国) 福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。母方の祖父は松山藩久松家の重臣。1904年、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後松山市に転居。1908年、一家で東京に移り赤坂区青南尋常小学校 (のち港区立青南小学校) に通学する。1912年、再び松山に戻り松山第四小学校に転入。1914年、松山中学に入学。先輩に伊丹万作がおり兄事する存在となる。1916年、伊丹らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。1918年、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会い生涯の愛読書となる。
1922年、松山高等学校入学。直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く。1925年、一家で東京に移転、4月に東京帝国大学文学部独文科に入学。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが、1927年にふたたび神経衰弱に罹り翌年休学。このころに斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』 (自選歌集、改造社、1925年) を読んで詩歌に目を開き、「ホトトギス」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始め、俳号「草田男」を使い始める。1929年、母の叔母の紹介で高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。
1931年、国文科に転じ、1933年卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後成蹊学園に教師として奉職。1934年、「ホトトギス」同人。1936年、縁談を経て福田直子と結婚。1938年より下北沢に住む。1939年、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。また『俳句研究』座談会に出席したことをきっかけに、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。1945年、学徒動員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい、同地にて終戦を迎える。
全集の解説では、「昭和4年9月から昭和11年4月までの338句」が四季別に収録され、沙羅書店から刊行されたとしている。刊行年は昭和11年つまり1936年である。ここでは間違いなく、東京帝国大学と記されているが、最初は文学部独文科に入り、俳句を親しむようになって国文科に転じたのが1931年、30歳になろうとしていた時であろう。この句集の俳句は1929年から1936年の間に作成されたものであるから、まさにこの国文科に転じた頃ということになる。
さて、本題の「貝寄風」に戻ろう。
ヨットに乗って海上で風を感じている人はいざ知らず、風はただ吹いているものであり、台風や暴風雨の際の強い風に恐怖を覚えたとしても、草田男の句に見られるような風への愛着をどれほど日頃から感じるであろうか。いや、実際は、夏の暑さの中、木陰で感じる風、暖かい家から出て急に冷気を感じさせる風、実際は多くの風を実感している。しかしそれでも、船の航行が風任せであった時代をまだ知っている草田男ならではの俳句なのである。
この季語自身は、西風が吹き、大阪の難波に貝を寄せる。ふと不思議に想うであろう。草田男は帰郷しているのである。おそらく松山であろう。大阪から松山へとなれば、東風が必要なのではないだろうか。もしかすると東京にいる草田男は、帰郷できない淋しさを詠んでいたのであろうか。
==================================
2017年8月の投句より(由斉)
お喋りに割り込みきたるはたた神
「はたた神」とは何でしょう。「はたたがみ」と呼ぶようです。これは夏の季語で、霹靂神という漢字が対応しており、「霹靂」は「鳴りとどろく雷 (いかずち) 」を意味します。「霹靂」はキレキと読みます。「引き裂くように激しく連なって鳴る雷」を意味します (大辞林より) 。「霹」の雨かんむりの下の文字は辟 (へき) ですが、これは横にさく、引き裂くという意味です。では、「靂」はどうでしょう。雨 (あめかんむり) の下の文字は「歴」です。歴史の「歴」です。これは連なるを意味します。次第にこの雷の様子が目に浮かんできます。「晴天の霹靂」は「へきれき」と呼ぶことも多いと思います。晴れた日に突然起きる雷を意味し、転じて、突然の大事件、人を驚かす変動を意味します (大辞林より) 。それでは、それがなぜ「神」とつながり、また、「はたた」と呼ぶのでしょうか。雷神の話は奥が深いので、またの機会にしたいと思いますが、和語である「はたた」は「はたたく」から来ているようで、この言葉自体が、雷など、とどろき鳴ることを意味します。「はためく」とも使われ、鳴り響く、響き渡るを意味します。つまり、天と地、神と地上を繋ぐのが雷ということになると思います。雷そのものを神として神格化した時代があったということでしょうか。続きはまた別の機会に。
==================================
はじめに (由斉)
俳句には独特の用語がたくさんあります。季語も豊富ですし、新しく加わるものもあります。古語もあれば現代語もあります。それに送り仮名もかなり色々です。言葉を実に自由に扱っている世界です。文法上の間違いは避ける必要がありますが、あまり文法にこだわると自由な発想が消えるかもしれません。このサイトでは、句会などで投句された俳句の用語の解説などをしています。初めて聞いた言葉も多くあると思います。新しい言葉との出会いや、その言葉を使いこなす喜び、そして、17文字 (時には字数が多い場合もあります) には、漢字とひらがなそしてカタカナあるいは擬音語も混じり、一つの言葉の絵が描かれています。ひらがなにするのか、どの漢字を選ぶのか、送り仮名はどうするのか、結構悩むと思います。それも俳句の魅力の一つだと思います。ここではタペストリーの月例句会等への投句あるいは中村草田男の俳句の句評を通して、言葉の楽しさをお伝えできればと思っています。