【太原日報】(1997年12月8日)
日本語訳:桜井俊彦]
10月31日夜8時30分、北京発太原着の飛行機は定刻に着陸しました。普通、日本の旅行団は荷物が多く、空港を出るのにかなり時間がかかりますが、今日は意外にも、十人とも預けた手荷物はなく、片手にバッグを持って出てきました。落ち着かないままにもお客様と話をしているうちに、この団体は観光目的ではなく玄中寺に参拝するために太原に来たので、大きな手荷物は北京に置いてきたことがわかりました。(注、荷物を置いてきたのは耳火さんと話をした岩藤さん一人だけで、全員日本から身軽な旅装であった)
団長は、日本の東京にある真々園副園主桜井俊彦氏で、今回は真々園創立五十周年を記念して、玄中寺に参拝するために来ました。玄中寺は、仏教の浄土宗に属し、北魏時代(476年)に創建され、隋・唐時代に盛んになり、(浄土教は)その後日本に伝わったので、玄中寺は日本の浄土宗、浄土真宗の根本道場(*1)と言われています。真々園は浄土真宗に属し、五十年来、玄中寺創立の称名念仏を堅持し、働きながら念仏を称え(在家仏教)、一切葬式に参加しません(葬式を行ないません)。真実の行を修めること(称名念仏)を行としています。
バスは一時間ほど走り、車窓に玄中寺の秋容塔(注、シンボルとされている白い塔)がぼんやり見えてきました。私は、もうすぐ玄中寺です、と (秋容塔を)手で示しながらお客様にお知らせしました。ある人は「とうとう来たね」と言っています。ある人は感激の涙を流しています。下車後、少し山道をのぼると、玄中寺が見えてきました。団長の引率で、一行は待ち切れず大雄宝殿に入り、まず礼拝して感動の心を表わしていました。
「ナムアミダブツ……」、単調でありながら力強く波のような声、我を忘れ一切皆空の境地に浸っています。私は、千年以上前、道綽大師が朝から晩まで「南无阿弥陀仏」と、日に八万遍(*2)称えられた姿を思い浮かべました。桜井俊彦氏は、「道綽大師のまねをしますが、まだまだおよびません」(道綽禅師にはおよびませんが、せめてまねだけでもさせていただきましょう)と、謙虚に話しました。
称名念仏は、ただ「南无阿弥陀仏」を称え、浄土に往生し、極楽世界に行くことができます。これは、仏を信じたいけれども文字が読めない人、お経の分からない人々に、最も良い方法であることを疑いません。ですから、玄中寺の信徒はたいへん増え、香と灯明の火は盛んになりました。称名念仏は小豆念仏(*3)とも言われ、伝えるところによりますと、当時の僧侶や信徒は、「南无阿弥陀仏」と一声称えるごとに籠に小豆を一粒入れました。一日に千以上あるいは一万粒になることもありました。小豆念仏の本来の意味するところは、種を蒔いたり稲を刈り入れるときなど、たとえ農繁期でも念仏を忘れてはならないと、信徒を戒めたものであります。日本の真々園はまさしくこの伝統の念仏を継承しています。
団長は、日本からラジカセを持参し、(自らひいたピアノの)伴奏を流しながら、「玄中寺和讃」を歌いました。参観に来ていた国内のお客様は(初めは)興味深そうに見ていましたが、次第に気持ちが伝わっていきました……
桜井俊彦氏一行は、玄中寺の暖かいもてなしを受けました。玄中寺監院悟証師自ら親しく出迎えられ、玄中寺の歴史と現状を紹介され、日本の真々園および来訪された皆さんに、(色紙に)記念の字を書いて贈られました。お互い仏教の交流を進め、桜井俊彦氏は、日本の真々園および日常の仏教活動を紹介しました。彼は、玄中寺が、曇鸞・道綽・善導の三祖が創立された浄土宗と称名念仏を堅持し、仏法(仏教)を広めることを継承してゆかれることを希望しました。交流を通じて、真々園と玄中寺の関係はさらに近くなりました。 団長の考えで、昼食後は、私が玄中寺の各お堂を案内しお参りしました。彼らは皆、浄土真宗の信徒でありますが、玄中寺をよく理解しています。でも大変謙虚に私の説明を聞いていました。一行の中にかなり年配の人(満80歳の下村さん)がいても、最も高い千仏閣まであがりました。桜井俊彦氏は、今回の記念行事のために、昨年一人で玄中寺に下見に来てお参りされました。いささか釈迦に説法であったにもかかわらず、こころよく説明に耳を傾けておられました。始終慈しみあふれるやさしい表情で、庶民的な人柄ですが、徳があり、非常に名声と人望があると感じました。それぞれのお堂を参拝の後、ふたたび大雄宝殿で「南无阿弥陀仏」と念仏を継続しました。十人しかいなかったのに、ハーモニー(*4)のとれた、重厚な声は玄中寺に響き渡り、まるで異国、他郷の仏の国の情景を伺わせる光景でありました。あたかもここが日本の真々園であると感じました。
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日本語翻訳者から:
この記事は、真々園創立50周年記念旅行で玄中寺を参詣したおり太原をガイドされた耳火非祥さん(中国国際旅行社)が、『太原日報』に投稿されたものです。
耳火さんは、ガイドとして玄中寺に100回以上参拝されていますから、「小豆念仏」の話は何度もされたはずです。念仏は、称える習慣がないとなかなか続けて出ないものです。道綽禅師が民衆に念仏を習慣づけようとされた「小豆念仏」の意味が、頭では理解されていたでしょうが今回初めて体感されたのではないかと思われます。
時空を超えたこの感動の心情を記録に留めておきたい、玄中寺創建当時の三祖(曇鸞、道綽、善導)の心(念仏実践)が今も日本に生き続けていることを太原市民(人口230万人)に伝えたい、との願いを込めて、耳火さんは投稿されたことと思います。それはまた、精神的な日中友好にもつながることにもなります。
私のことも過大に賞賛してあり、愚鈍の身としておもはゆく感じますが、それは耳火さんのまじめな求道心が念仏自体の徳に対して賞賛したものであろうと受け取っておきます。 ご参考までに、ドイツの雑誌にも真々園が紹介されたことがあり、日本語に翻訳しておきましたので、ご一読どうぞ。
1998.3.29 桜井 俊彦
◎翻訳上の留意点
( )内はすべて翻訳時点で補足しました。
*1.根本道場……曇鸞・道綽・善導は念仏を盛んに勧め称えたので、「祖庭」を根本とし、玄中寺 を念仏実践の根本道場と解釈した。
*2.八万遍……一般に、七万遍と伝えられている。単純計算すると、一分間に49回称えること になるから、「寝ても覚めても絶え間なく」の意味となる。善導は三万遍称えたという。
*3.小豆念仏……虫食いなどによる麻豆などの種のよしあしを選別しながら称えた「麻豆念仏」説 もある。働きながら称える念仏としては、こちらのほうが良いように思える。
*4.ハーモニー……本来なら「調和」と訳すところだが、前に和讃を歌う記述もあり、また、10 人バラバラの念仏(不協和音)が一つにまとまった念仏(和音)と聞こえるところに妙味がある ので、「不調和の調和」を示すためあえてハーモニーとした。聖徳太子の「和をもって貴しとなす」(Harmony is to be valued -中村元先生英訳)の心。