TWIILIGHT
ダンデの誘いはいつだって突拍子がない。大概はバトルの誘いだが、ときどき違う機会が巡ってくる。
その日はキバナを一目見ただけでダンデにはピンと来たらしい。ダンデがキバナのことを分かるように、ダンデの目に宿った確信の色をキバナも間違えたことはない。挨拶も交わしていないうちからどこで察したんだと聞いてみたいような、でも聞くのも怖いような。キバナの顔から目を逸らさず、ダンデはゆるゆると苦く笑ってみせる。チャンピオンに相応しくない、なんともぎこちない笑顔。そんな顔するなよ、と言ってやりたい。なんでお前がそういう顔するんだと、言えたらいいのに。
「悪い、今日はあんまり時間が取れないんだ」
いつものチャンピオンのユニフォームとマントではなく、スーツ姿のダンデはそう言って、キバナの手を掴んで歩き出した。いつものことだ。いつものように、ダンデはキバナの予定も事情も何も聞かず、さも当たり前のような顔でキバナを引き摺って歩いていく。ナックルスタジアムと、宝物庫、これから行く先はほぼ唯一ダンデが案内なしでも何とか辿り着ける場所だった。それが、スパイクタウンの近くの小さな浜辺だった。
ダンデからこの海に誘われることは、別に初めてではない。
潮の匂いがついた強い風のなか、黙って二人で手を繋いで波打ち際を歩いていた。もう何往復しただろう。繋がれていない方の手には靴を持って、波しぶきを時折浴びながら黙って歩いていく。足裏に踏みしめている砂と、足の甲を撫でる波の感触が心地良い。繋がれた手と足の裏に感じる温度にほぼ差がなかった。ダンデの温かい手と、夕日に暖められた砂と波と風。キバナに触れるすべてが優しい温度をしていた。手と砂と波の感触に傷付いた心が洗われていく。海に来たのは何時ぶりだろうか。随分と久しぶりな気がする。記憶を探る。去年の夏あたりだっただろうか。あの時はまだ時期が早くて、随分と水が冷たかった覚えがある。
あの時のダンデと比べると、後ろ姿だけでもかなり変化がある。肩口に着くか着かないかくらいの長さだった髪は、そろそろ肩甲骨に届こうとしている。体付きも大きく変わった。少年独特のか細さが抜けて、しっかりとした筋肉が見え始めて大人の体になっている。たった一年と少しで男らしくなった。それをぼんやり見ながら、キバナは何も言う気になれずにただ黙って浜辺を歩いている。その背中を、大きい、と思う。広いではなく、ただ、大きいと。ダンデは大きくなった。
ダンデもジャケットを脱いで、膝までズボンの裾をたくし上げている。きっと、またどこかのスポンサーのパーティーにでも呼ばれているのだろう。分かっている。もう日が落ちかけているのだから、そろそろダンデを送り出さなければいけない。けれど、本人は何もキバナに言わなかった。ただ無言でキバナの手を引いて先を歩いていく。そして浜の端まで辿り着くとキバナを見上げ、ひとつ頷くとまた反対方向へ歩いていく。その繰り返しだった。
ダンデは、キバナが失恋すると必ず海に誘った。キバナの方は失恋したともなんとも言わない。いつものように顔を合わせるだけで、ダンデの方がすぐに察した。どんなに取り繕っても無駄だった。一度、電話越しに看過されたときもある。他の誰にも分からなくても、ダンデには隠しようがなかった。それが不思議で、ほんの少しの罪悪感と安心感がある。いつも、いつでもキバナの傷心を慰めるのはダンデだった。
失恋と言っても、キバナから告白をした訳でもなかった。ただ、何気ない会話の中で彼女に恋人がいることを知った。それだけのこと。その時に飲んでいた紅茶は途端に味をなくして、それまで軽やかに口に運んでいたスコーンがやけに胃に重たくて、彼女のはにかんだ顔が鮮やかに映って。そうして静かにキバナの恋は終わった。それだけ。別に他に語ることも、面白いこともない。ありふれた失恋のはなし。誰にも言う気になれないほど、その辺りにごまんと落ちている。そういう当たり前の失恋をした。
キバナはいつもそうだった。告白する前に恋人や婚約者の存在を知って、そっと失恋していく。何度恋をしても、失恋のバリエーションはひとつだけしか知らない。そしてその傷はどうやっても自分では癒せなかった。目を逸らすことすら難しかった。傷の生々しさに慄き、怖気付き、自分自身で立ち向かうより先に、こうしてダンデに見つかって慰められてしまう。どうして。
どうして、と聞いてみたかった。どうして―――――の先の言葉を、キバナはここにくるたびに考える。何度も考えるが、ダンデにとって一番やさしくあれる言葉はどうしても分からなかった。何も言わないダンデを傷付けたくない。こうして静かに労わってくれる人をそんなに残酷に踏み躙ってはいけないと思うのに、それを問えばどうやっても後戻りは出来ないような気がした。だから、ずっとキバナはこの疑問を自分の胸の奥深くに留めるだけにしている。
でも今日は、と思った。強い風が吹いている。耳元でごうごう風が鳴っている。きっと、今なら普通の声量で話したところで聞こえはしないだろう。だから、キバナはずっと疑問に思っていたことをそっと風に紛れさせて言うことが出来た。
「――――なあ、なんで分かるんだよ」
瞬間、ダンデが振り返る。なんて言ったんだ、風が強くて聞こえなかったからもう一回言ってくれと言われたら、なんでもない、もう帰ろうと返すつもりだった。お前も忙しいんだろ、もう良いよ。もう大丈夫だ。そう笑って言って、今日は別れるつもりだったのだ。それなのに、ダンデは明るく笑ってみせた。
「顔見たら分かるぜ。君、分かりやすいから」
その言葉に、顔に、虚を突かれて歩みが止まる。胸が詰まる。分かりやすい。その言葉を反復してみても実感はない。現に、様子が変だと指摘する者は今日一日誰もいなかった。いつも通りに過ごしたはずだ。仕事もSNSも、通常通りにこなしてみせた。特別に気を遣われていたとも思わない。特別なこともなく、傷心の自分を磨り潰して日常のなかに溶け込んでいたはずだ。それなのに、どうしてよりにもよってダンデだけがキバナのこれに気付いてしまうのだろう。
空と海が夕暮れに染まっている。その中にあってダンデの髪と瞳の色がいやに鮮やかに映えて、泣きそうになった。
「嘘だろ。だって、お前の他は誰も分かってないんだぞ」
絞り出すように返す。笑おうとしたが、明らかに失敗した。口の端から引きつって、顔全体がひしゃげて歪む。ダンデは朗らかに笑って、そんなキバナをいなした。
「じゃあ、君の方から教えてくれたんじゃないか。俺が会いに来たから、君は俺にだけ分かるような顔したんだ」
言われて、また言葉に詰まる。それはつまり、キバナがダンデにだけ弱味を見せている、甘えていると言いたいのだろうか。こうして慰められているのに身を任せている現状、それも否定しきれなかった。カッと頬に血が上る。
「してない。絶対してないからな」
「分かった、分かった。そういうことにしておこうな」
「してないって言ってるだろ!」
「はいはい」
笑いながら、ダンデは強くキバナの手を握ってまたゆっくりと歩きだす。キバナが何を言っても、ダンデはまともに取り合うつもりはないようだった。そういう態度が腹立たしい。ただ、その腹立ちまぎれに傷ついた心から目を逸らすことが出来た。いつもこうだ。いつもこうやって、ダンデはキバナの傷を労わってくれる。そして傷から目を逸らせないキバナを無理にでも終わらせてくれる。どうしたって、この時だけはダンデには敵わないと思わされた。
どうにも足が重くて、ずるずると引きずるような歩みになる。それに気付いたのか、ダンデはもう一度振り向いて、キバナの顔を見た。そしてまた出合い頭に見せた苦笑をまたゆるゆる描いて、無言でまたゆっくりと歩き始める。そして、鼻歌を歌い始めた。風で途切れがちになるそのメロディには聞き覚えがあった。調子っぱずれの菓子の定番CMソングだ。それにつけてもおやつはカルル。なんで今それなんだ、と笑ってやろうとして、その拍子に涙がぼろりと転げ落ちた。あ、と思ってももう遅い。ぼろぼろぼろぼろ、次々に溢れて止まらなくなる。
ダンデは後ろで泣いているキバナのことなど気にせずに、ぐいぐい手を引いて歩いていく。きっと泣いていることはバレている。そうだとしても、声を上げて泣くことは憚られた。唇を噛みしめて、俯きがちに歩く。夕日に赤く染められた波とダンデと繋いだ手が揺れているのが視界に入る。ダンデは馬鹿みたいにCMソングの一節を繰り返しながら、それでも絶対に振り返らずに歩いていく。牧歌的な冒頭を繰り返して、いきなり最後に飛ぶ。きっと、ダンデはこの節しか知らないのだろう。キバナもよく覚えていない。それでも、そのやけに明るくて耳から離れない節が、今はなんとなく心地よかった。