同棲初日。まだ荷物が届いていないがらんどうのリビングは、爪が床に触れる音も異常に大きく響いた。椅子もないので直接冷たい床に座り込んで、俺とキバナは対峙している。
「お前と暮らす前に、話しておきたいことがあんだけど……」
神妙な顔をして、キバナはそう切り出した。それに俺はなるべく真剣に見えるように頷いて見せる。
これから二人で暮らしていくんだ。決めることはたくさんある。家事の分担はどうするのか。部屋の使い方についての決まりごと。ごみの日の確認。それから、お互いに知って欲しくないことをどうやって保持するか。同棲するときは一番初めにそういうことをするんだと、俺は事前にメロンさんや師匠から教えてもらった。
「ああ、覚悟はきめてある」
俺がそう言うと、キバナは首を傾げた。
「なんでお前が覚悟すんの? 今からオレさまがカミングアウトするから聞けって言ってんだけど」
キバナはことりと首を傾げる。その仕草は少年時代から変わらない。
カミングアウト。俺はその言葉に少し瞬きをする。想定していたのと少し違った。と言うより、お互いのプライバシーを保持するつもりでいたから真逆の方向だ。でもまあ良いだろう。
「……失礼。で、なんだった?」
俺が聞き直すと、キバナはゆっくりと顎を引いた。それから軽く唇を舐める。それからもにょもにょと口を動かして何事かを言い淀んだ。口元だけ見てるとヌメラみたいな動きしてるな。これは躊躇しているのだろうか。こんなに歯切れの悪いキバナも珍しい。そんなにカミングアウトに勇気の必要なことなのか?
「……オレさまの蔵書のことなんだけど」
そう切り出されて、俺もはたと気付いた。蔵書。俺の蔵書もキバナに見られるわけにはいけないものが何点かある。戦術を考えるのに参考にしたり、直接メモ書きしたりしている本がある。あれを実践でキバナにぶつける前に見られるのは困るな。普段は全くと言っていいほど読書をしない俺が興味を持ったんだ。きっとキバナも表題を見たら読みたくなる。そうならないように、奥にしまい込めるタイプの本棚を買う必要があるな。
しかし蔵書か。蔵書に関してのカミングアウトってなんだ? パッと考え付くのは内容的に不道徳とか、そもそも存在的にアウト系とかだろうか。さあ、どっちだ。どっちでも嫌だが。
俺がそんなことを考えていると、キバナはスマホをスッとこちらに差し出してくる。
「オレさま、こういうの好きなんだ」
重々しく告げられて、俺も少し背筋を伸ばす。キバナのスマホを覗き込むと、柔らかい色合いのイラストが表示されていた。髪の長い少女と若い男が、お互いを見つめている。電子書籍だ。しかし、これは……。
「……少女漫画?」
どこをどう見ても少女漫画だ。それで、タイトルも少し見覚えがある気がするから、きっと有名な作品なんだろう。今度は俺が首を捻る番だった。これが、キバナのカミングアウト?
「そう。ちょっと意外だったろ」
キバナは恐る恐ると言った表情で俺の顔色を窺ってくる。けれど、俺としては拍子抜けだ。だって同棲初日だぞ。もっとヤバいカミングアウトが飛び出してくるのかと思った。いわくつきの稀覯本の蒐集と保存に命を賭けてて、給料をほぼ注ぎ込んでるとかその手のヤツだ。人皮装丁本とか。そういう方面だったら俺の手には負えないところだった。少女漫画で良かった。
俺は深々と息を吐き出した。無意識に呼吸を浅くしていたらしい。キバナは俺の反応を伺いながら、もじもじと足を動かしている。キバナが座ったり足を折りたたんでいると、膝の骨の形がしっかり分かる。それをちらちら見ながら、俺は邪念を払うために軽く咳払いをした。キバナは相当気恥ずかしいらしい。それだけでも身を竦ませた。
「……そうでもないぜ」
「え、マジ?」
今度はキバナが驚いた顔をして、瞬きを何度かした。
俺としては裏表なく、心の底からそう言った。別に悪いことをしているでもなし、咎められることは何もないと思う。キバナのことだ。ドラゴンストームの二つ名にあんまり似つかわしくないんじゃないかとか思っているんだろうな。イメージ商売の俺たちは、こういうところに結構敏感でナイーブになりがちだ。
それにしても少女漫画か。まったく触れてこなかったから、話題の広げようもない。と言うか、そもそも漫画をあまり読まないな。子供の頃はよく読んでいたけれど、今では読む暇も惜しい。
「……俺も読んでみたい。オススメはあるか?」
でも、キバナと共通の話題をつくるくらいの努力は俺だってしたいわけだ。俺の申し出に、キバナはひどく驚いた顔をした。
「ダンデも興味あるのか?」
「君が興味があることなら、少しくらいは話が聞けるようになりたいんだ」
そう言うと、キバナはますます驚いた顔をした。目玉がこぼれ落ちそうだ。
「えっ健気。ダンデからそういう言葉出てくるとびっくりするんだけど」
その率直な物言いに、俺は思わず頬が引きつるのを感じた。
「君は俺のことをなんだと思ってるんだ?」
「ポケモンバトルするために生まれてきた男」
キバナはそう真顔で言った。最高の褒め言葉だ。でも、これはきっと褒めてないな?
キバナはいろいろな作品を紹介してくれた。まず俺が驚いたのは、少女漫画と一口に言ってもいろいろあるってことだ。オススメされた作品のなかにはSFやファンタジーな世界観のものもあった。古典文学をモチーフにした名作もあった。俺が読んでいた漫画は幼年向けで、おもちゃの宣伝みたいな漫画ばかりだったことを思うと少女漫画の幅の広さに驚くばかりだった。
キバナとの話題作りに読んでみたが、奥深いものだということは分かった。でも正直に言おう。俺にはさっぱり分からなかった。あまりにもレトリックが高度で、俺が読んできた漫画とはまったく別の文明で生まれた作品ジャンルだった。なんというか、まずテンポに躓いた。恋愛を主軸にした話になると繊細な心理描写が多くなる傾向がある。というか、ナイーブな独白調のシーンが多用される。俺はその繊細さに共感できなかった。自慢じゃないが、俺は昔からソニアには散々『女心が分かってない!』と言われてきた男だ。そんな男が、そんな繊細なポエジーの発露に共感できるだろうか? 答えはノーだ。現実の女性も少女漫画の登場人物も、言葉にしてくれない部分が大きすぎるんじゃないかと俺なんかは思う。やはり人間同士、対話でのコミュニケーションを常に心がけていくべきだと思う。迅速な対話こそが平和の第一歩だと俺は少女漫画を通じて学んだ。そうすれば不幸なすれ違いも誤解も生まれなかったのにと思わされるシーンが何度もあった。俺はキバナにこんな独白はさせない。そんな暇なくしてやる。
それから、相手の男がイマイチ魅力的に見えなかったのも良くなかったと思う。キバナを見ろ。こんなに完璧なんだぞ。顔が良くてスタイルが抜群で性格が良くてバトルだって強い。頭だって良い。運動神経も良い。しかもオシャレで料理だって出来る。恋人としても優しさに溢れている。それでいて最強のライバルとして俺に立ち塞がってくれるんだぞ。最高だろ。でも少女漫画の男たちはそこまでしてくれないんだ。当たり前ながら。そんなキバナに漫画の男たちが敵うわけがない。
一番不可解だったのは、同型のシチュエーションが多用されたことだ。別作品でもシチュエーションに限っては似たものが多い。それが俺には分からなかった。特に壁際追い詰めシーン。現代ものでもファンタジーでもSF系でも、なんなら古典文学系でも見るんだが、なんなんだアレは。なんでこんなに結構な頻度で男は壁に主人公を追い詰めるんだ。主人公も『きゃ……っ』とか言ってないで抵抗したり反撃したりしても良いんじゃないか。画面に花とかが舞うせいでかなり柔らかいニュアンスになってるけど、相当に危ないからな。防犯ブザーを鳴らすと良いと思う。それで、その警報音で駆け付けた人間と恋に落ちて欲しい。きっと、そいつの方がまっとうに主人公を大切にしてくれると思う。
でもキバナに言わせてみればそれこそが少女漫画の楽しみだという。こういうのは『お約束』とかそういうものらしい。その『お約束』を頂点としたカタルシスが少女漫画の醍醐味であるとかなんとか。つまりこの一連の壁追い詰めシーンは高度で重層的なレトリックの結晶なわけだ。初心者の俺がピンとこないのも仕方がない……と思いたい。
キバナはスマホから少し目線を外して、俺に向かって鼻にぎゅっと皺を寄せていやな顔をして見せた。
「壁際追い詰めシーンって言うな。壁ドンな、壁ドン」
「壁ドン……。通称まであるのか」
新たな知見だ。あのお決まりの壁際に主人公を追い詰めるシチュエーションは壁ドンと言うらしい。ポケモン技みたいな響きだ。壁ドン。
「胸キュンの代名詞的なところあるよなー」
また新出単語だ。胸キュン。あとでネットで調べよう。俺がメモ帳を開いている間にキバナの視線はスマホに戻っていき、再びものすごいスピードでスワイプを始めた。キバナは日曜日の二十一時から一時間、ベッドの上でゆったりと少女漫画を読むことに決めている。俺も一緒に読むが、いつ見てもキバナの読書スピードは異常だ。俺の三倍以上の速さで読んでいく。あまりの速さに、本当に読めてるのか?って思う。
胸キュンと検索バーに入れてみる。人間の感情。とくに恋愛感情が云々。胸が高鳴るさま。ときめき。
なるほど、胸キュン。覚えた。つまり俺がキバナに対して抱いている感情とほぼ同義ってことだな。それならあとは実践だ。
俺はメモ帳を閉じて、大きく咳払いをした。するとキバナはなんだなんだという顔でもう一度俺を見る。
「キバナ」
俺は手を伸ばして、キバナの頭をぽんぽんと軽く叩いた。これも少女漫画でよく見るやつだ。なんか、上司とか教師とか年上の男がやりがちなやつ。
「……で、キバナはこういうのに胸キュン? するのか?」
キバナは一瞬だけ呆けた顔をして、それから俺の手を払い除けた。そしてキッと鋭く睨み付けてくる。
「あのな、こういうのはプロセスなの!」
「そうなのか……」
どうやら俺は何か踏んだらしく、キバナはぷりぷり怒っている。
難しい。プロセスと言われて、俺は少し困った。たしかにお決まりのシーンに至るまでに、いろいろとあったような気がする。『気がする』程度の認識しかないのは、俺の興味関心のせいなんだろう。
でも胸キュンの使い方が違うとは言われなかったので、恐らく胸キュンの概念は習得できているんだろう。まあそれが分かっただけでも収穫だ。前向きにいこう。
俺があまり堪えてないのが分かってるんだろう。キバナは大袈裟に溜息を吐いて、それから肩を竦めた。
「大体、リアルと漫画は違うだろ」
「……違うのか」
俺が聞き返すと、キバナは笑った。その笑い方は、子供にするような笑い方だ。とんちんかんなことを言っている幼児を嗜めるような笑い。
「違うなあ」
やっぱり難しい。俺はだんだん自分がおそろしく見当違いな努力をしているんじゃないかと言う気になってきた。こういうのは初めてだ。ポケモンバトルは楽だった。やっただけ成果は出たし、パートナーたちは強くなっていく。でも、こんなにいろんな作品を見聞きしていても少女漫画のことは少しも分からないし、少女漫画のシチュエーションを再現してもキバナは胸キュンしない。小手先だっていうのは分かってるんだが、ここまで手ごたえがないとさすがに自信がなくなってくる。
「……俺には胸キュンしないのか?」
思わずそんな弱音を吐いてしまった。するとキバナは目を輝かせて飛び起きて、スマホを放り出して俺に抱き着いて来た。
「おまえ、可愛いな!」
急で驚いたが、ここでよろけるような柔な鍛え方はしていない。余裕で受け止めた。キバナは上機嫌に笑って俺の頭をぐりぐり撫でる。いたいぜ。
「でもお前、全然普段通りだし」
「ぜんぜん普段どおり……?」
また絶妙に崩壊した文章で俺を揶揄する。ギリギリで通じるのが少しイラっとする。思わず口を曲げて見せると、キバナは笑いながら俺の鼻を突いて俺の機嫌を取ろうとした。
「こういうシチュエーションはさ、普段は見せない一面が見えたりするのが良いんだよ」
キーワードが増えた。普段は見せない一面。なるほど。
でも困ったことに、俺がキバナに見せていない一面なんかない。今の俺にあるのはプライベートかチャンピオンかのどっちかだ。そして、プライベートの方もチャンピオンの方も、一番見せているのはキバナで間違いない。恐らくキバナは俺よりも俺のことを把握していると思う。そんなキバナに、『普段は見せない一面』か……。もう出せるものがない人間に『普段は見せない一面』を捻り出せって言うのは、かなり酷な話じゃないか?
どうやら俺は、少女漫画とはとことん相性が悪い男らしい。
キバナのオススメをある程度読み終えてしまってからは、俺は少女漫画を読むことから離れることにした。日曜日の二十一時は同じ寝室に居ながら完全に別行動だ。キバナは読書を、俺は筋トレをすることにしている。マットを敷いて無心で腕立て伏せなんかをしていると、一週間で溜まったストレスが解消されるのを感じる。やっぱり筋トレは良い。雑念から解放される。しかも大胸筋がなかなかの仕上がりになってきて、俺としてはかなりの満足感が得られている。
少女漫画の良さや胸キュンをキバナと共有できないというのは、かなり残念だ。でもこればっかりは仕方がない。俺に適性がなさすぎた。だからせめて、キバナが好きなことをしているところを見守ろうと決めた。まあ、ちょっとばかりその時間は苦手だけれども。傍にいるのに触れ合えないのは、少し寂しい。
キバナはベッドを一人で占有して悠々と少女漫画を楽しんでいる。ときおり、「んふふ……」と謎の声が漏れ聞こえるのはご愛敬だ。折り目正しく聞かなかったことにしている。足をバタバタさせて暴れているだろう音も聞こえてくるが、まあ何も言わないでおく。そういうときに視界の端に俺がいると鬱陶しいかもしれないので、そういうときは床を使う筋トレを中心に行うようにしている。いつもはこのくらいで済んでいるんだけれども、今日は違った。なかなか興奮が収まらないらしく、ばしんばしんと枕を叩く音がしたり、押し殺してくぐもった声が漏れ聞こえてきたりする。……少し心配になってきたな。
俺はベッドの上をひょいと覗き込んでみた。するとキバナが枕に顔を押し付けて手足をばたつかせて暴れている。ベッドの上で溺れてるのかと思うくらいに、手足を無茶苦茶に振り回している。
「大丈夫か?」
俺が思わず声を掛けると、キバナは瞬時に枕から起き上がり、喜色満面を俺に向けて叫んだ。
「うん、最高!」
目が生気に満ち溢れてぎらついている。大型の肉食獣のような獰猛な叫声だった。こんなキバナを見るのはスタジアムの外ではほとんどない。これが少女漫画を読んでいる人間の反応だろうか。
「……楽しそうだな」
「楽しい!」
キバナは即答しながらまたスマホを取り出してベッドに仰向けに寝転んだ。続きを読もうとしている。それに俺は少しもやっとした。時計はあと5分で一時間が経とうとしている。いつもならそろそろ区切りをつけるはずなのに。
「……キバナ、もうすぐ時間だぜ」
「ん~」
そっと声を掛けても上の空だ。今日は高速スワイプではなく、じっくりとページをめくっている。時間がかかりそうだ。視線がこちらに向きもしなかった。そのことが、とんでもなく寂しさを煽る。
気付けば俺は無意識にベッドに乗り上げていた。それから、キバナの腕を取ってスマホをどけさせると、縫い留めるようにしてベッドに押し付ける。そしてそのまま覆いかぶさるようにして、キバナの上に乗り上げた。掴んだキバナの腕はひんやりとしていた。もしくは、俺の手が異様に熱いか。
髪が落ちる。檻の鉄格子みたいに、キバナを閉じ込めた。ブルーの目が、きょとんと不思議そうに俺を見上げている。
「そろそろ構ってくれないと……、さび」
寂しい、と言いかけて、はたと気付いた。キバナが驚いている。目をまん丸にして、俺を見上げていた。その瞳に映る俺は、なんというか、本当に情けない顔をしていた。それを見ていたら、ザーッと頭から血の気が引いていくのを感じた。成人した男が、恋人に構ってもらえなくて寂しさに耐えかねるってどうなんだ。駄目だろう。それで、その結果がこの体勢。
これは、まずい。
キバナを追い詰めてしまった。壁際じゃなくてベッドだし、追い詰めたというよりも覆いかぶさっただけだが。これは何て言うんだ? 壁ドンは壁に追い詰めるから壁ドンだろ。ベッドだったらベッドンか? ゴロが悪いな。
キバナは強いので俺が追い詰めても押しのけるくらいは余裕なはずだが。いやそれでも気分が良くない。
悪いことをしてしまった!
俺はすぐにキバナの上から飛び退いて、くるりと背を向けた。罪悪感でキバナの顔が見れない。
「…………なんでもない、忘れてくれ」
俺がそう言うと、キバナはがばりと起き上がって俺の腕を掴んだ。驚いて振り向くと、怒ったキバナの顔が目の前にあった。頬が真っ赤だ。
「なんでだよ! もっと押して来いよ!」
予想外の言葉に思わずきょとんとしてしまった。押して来いって、なんでだ? ああいう、強引なかんじは駄目だろう。俺はキバナを大切にしたいし、尊重したいんだ。怖がらせたり、強要したりするのは本意じゃない。少女漫画とは違うんだ。リアルと漫画は違うと言ったのはキバナだしな。俺は頭を振る。
「こういうのは良くなかった。反省する」
「良いから! な、もう一回! もう一回やって!」
さあ! と勢い込んでキバナは寝転んだ。そしてバンバンとベッドを叩く。いや、さあと言われても。
「……防犯ブザー持ってるか?」
「持ってないけど」
「じゃあ駄目だ」
「なんでだよ!」
なんでと言われても。キバナは俺の腕を取って何とかもう一度あの体勢にしようと引っ張っているが、俺が全力で抵抗しているので腕にじゃれついているようにしか見えない。そもそも、キバナは相当に危ない目に遭ったという自覚があるんだろうか。
キバナは顔を真っ赤にしながら、もう一回、もう一回とコールを続けている。俺はそれを曖昧に笑うことで誤魔化した。
やっぱり、少女漫画のシチュエーションはリアルでは無理があるとつくづく思う。プロセスだって踏めないし、そこで止める自信もないしな。
終.
(ダンキバ髪カーテンアンソロジー「the masic hour」寄稿)