あの頃、ハロンの実家には固定電話があった。その頃のダンデにとって、遠方の人間との連絡手段と言えば電話しかなかった。玄関近くに設置されている固定電話。これを使うのは少しばかりの勇気が必要だった。置いてある場所が場所だったから、使えばどうしても家族に知れる。それが少しばかり嫌だった。母親が自分名義のスマホで電話をしているのを横目に見ていると、玄関の固定電話と言う存在がひどく煩わしく思えた。なので、ダンデが積極的に固定電話を使うことはなかった。せいぜい学校の連絡網くらいだ。しかし、今回はその固定電話を使う用事ができてしまった。
皺くちゃになった手の中の紙を優しく指で伸ばし、そこに書かれている文字を確認する。明日の日付と、スマホの電話番号。それから「キバナ」。小さなメモだったが、なんとか今日まで無くさずに済んだ。ダンデはずっとこの日を待っていた。
ダンデはぎゅっとメモを掌に握り込むと、リビングで紅茶を飲んでいる母の前に進み出た。テレビはニュースを流している。深刻な話題を離れて、少し明るい話題に移っている頃合いだった。シュートシティのスタジアムで行われているポケモンバトルの速報が手早く紹介されている。ローズと言うひとが、チャンピオン相手に大健闘中だという。ニュースの内容に心惹かれるものはあったが、今はそれどころではない。ダンデは真剣な面持ちで母親の前に立った。
そんな息子に、母親は何事だろう、と顔を上げてカップを少し下げる。ダンデは大きく息を吸った。鼓動がいつもより強く感じる。
「かあちゃん、明日友達に電話してもいい?」
「良いけど。誰に電話するの?」
母親は少し首を傾げながらも反対はしなかった。そのことにダンデはほっと息を吐く。
「ナックルにいる友達」
テレビではちょうど、ナックルシティの名前が出てきたところだった。アナウンサーの女性が『ナックルシティの竜の寵児が、明日ついに交代します』と次の話題のテロップを読み上げる。そして画面はナックルシティの様子を映したVTRに切り替わった。それにどきりと胸が跳ねる。
「ナックルに? どこで会ったの?」
母親はますます首を傾げて問う。けれど、ダンデはそれどころではない。テレビの映像から目が離せなかった。
一人の少年が、ジジーロンの背に乗って大きな口を開けて笑っている。褐色の肌。青い瞳。つやつや光る黒い靴。襟の付いた真っ白な服。どれもこれも、田舎のハロンタウンでは普段着にしないような上等なものだ。
『今代の竜の寵児は、一歳になる前からジジーロンのお気に入りとして認識されています。毎日のようにジジーロンとナックル上空やワイルドエリア奥地で遊んでいるので有名で、彼らは今までナックルシティの日常的な光景として愛されていました』
子供は服や靴が汚れるのも気にせずに、ジジーロンの背中で転げまわっている。ジジーロンも機嫌よく鳴きながら、子供を好きにさせていた。
『今代は特にジジーロンたちから愛され、同時に三頭のジジーロンの相手をするなど、記録から見ても際立った愛され方をしています』
アナウンサーのナレーションが続く。けれど、ダンデの耳にはあまり入ってこなかった。それよりも、もっとジジーロンに乗っている子供の様子をしっかり見たかった。久しぶりに見るキバナは、少し背が伸びたように感じる。服の袖や裾からすらりと伸びる手足が健康的で眩しい。
キバナ。ダンデはこのテレビに映されている子供のことを知っている。
「……ダンデ?」
母がテレビに釘付けになっているダンデにそっと声を掛けた。はっと我に返る。
「ええっと……、」
何を聞かれていたんだったか。そう、キバナとどこで知り合ったか。
一瞬、反射的に真実そのままを伝えそうになって、慌てて口を噤む。キバナとはじめて出会ったのは、ワイルドエリアまで迷い込んだときだった。一人でポケモンを避けながらうろうろしているところを、ジジーロンといっしょに遊んでいたキバナに助けてもらったのだ。でも、そんな大冒険を母親に言えるはずがない。心配をかけるし、何よりも今ここから怒られるのは面倒だ。機嫌を損ねて、やっぱり電話をしちゃダメ、と言われても困る。
「……ヒミツ」
ダンデが誤魔化すように笑うと、母親はダンデの目をじっと覗き込んだ。
『これほど長い間、ジジーロンの遊び相手をしている子供の記録は他にありません。ですが、七歳になるとジジーロンは子供と遊ばなくなります。七歳になると、もう子供ではないとみなされるのです』
リビングにアナウンサーのナレーションだけが響く。視界の端でコラージュのようにキバナとジジーロンの写真が切り替わっていくのが分かった。
ジジーロンの鼻面を叩いて労わってやるキバナ。口を大きく開けて笑うジジーロンとキバナ。ジジーロンの大きな手に小さな頭を添わせて笑うキバナ。まるでほんとうに血の繋がっている祖父と孫のようだ。
ダンデはテレビを見ながら背中に手を回して指先を弄んだ。母に堂々とキバナを紹介できないのがもどかしいし、なにか後ろめたいような気がした。
しばらくして、母親はふう、と溜息を吐いて持っていたカップを机に置く。そして、もう一杯紅茶を注いだ。
『今代は明日、七歳の誕生日を迎えます。今日がジジーロンと遊ぶ最後の日です』
アナウンサーが抑揚を潰して原稿を読み上げる。ダンデは、なんだかそれが嫌だった。
このニュースを、キバナは見ているだろうか。見てなければいい。自分の誕生日をこんなふうに淡々と紹介されているだなんてキバナは知らない方が良いと思うのだ。ダンデがキバナに電話をするのは、そういうことがあったからだ。
キバナとはすぐに気が合って、たびたび遊ぶようになった。ダンデはジジーロンを怖がらなかったし、ジジーロンもダンデが背中に乗るのを最初は許してくれた。キバナがジジーロンの背中に乗ってダンデを迎えに来てくれて、それから二人でジジーロンの巣で遊んだ。大人は誰も来ないし、ジジーロンを恐れて他のポケモンも寄り付かない。安全で、秘密基地みたいな遊び場だった。ダンデはすぐにこの遊び場と、キバナが大好きになった。
「……まあ、長くなりすぎないようにね」
母親がカップを上げて、紅茶を飲む直前にそう呟くように返答した。それにダンデはパッと笑う。
「うん、気を付ける。ありがとう、母ちゃん」
母はにっこりと笑うと、再びカップに口をつけた。それで話はついた。
テレビではキバナとジジーロンが戯れている映像がずっと流れている。ジジーロンたちにはどうやら決まりがあるらしい、というのは人間にも分かっていた。つまり、七歳になった子とは遊ばないということだ。七歳の誕生日。それがジジーロンにとっての『子供』とそうじゃない存在の境目であるらしかった。
ダンデがキバナよりも先に七歳になると、ジジーロンはダンデを背中に乗せることを拒否した。お気に入りのキバナがどんなに頼み込んでも無駄だった。ジジーロンは思慮深げな大きな目でじっとキバナを見て、「そんな筋の通らないことを言うのはやめなさい」とたしなめるように鼻を鳴らすだけだった。仕方なく、二人はハロンタウンの外れで遊ぶようになった。そこならジジーロンに乗せてもらわなくても会える。ダンデが迷わなければ、という条件付きだったが。
賢いキバナは、いずれ自分も七歳になること、七歳になればジジーロンは背中に乗せてくれなくなると確信した。ニュースを見る限り、周りからそういう話をされることもあったのだと思う。でも、キバナに実感はなかった。ダンデが七歳になり、背中に乗せられなくなるのを見るまでは、自分がそうなるなんてまったく考えもしなかったのだろう。でも、知ってしまった。やがて来る未来を知ったキバナは、ジジーロンの白銀の鬣にぎゅっとしがみついて泣いた。
————誕生日なんか、来なければいいのに。
————そしたら、ジジーロンともダンデともずっとずっと遊べるのに。
泣きながら言われて、ダンデは必死になってキバナを慰める言葉を考えた。
『次代の寵児はジジーロンによって選ばれ、七歳になるまでジジーロンと遊べる権利を手にします』
まるで次のお気に入りが現れることがお祝い事のようにアナウンサーが話題を結ぶ。いや、めでたいことだ。キバナは七歳になり、ナックルシティの子供の誰かはジジーロンと遊べるようになる。なにも嘆くことはない。何もかも、めでたいことしかないはずなのだ。そこにキバナとジジーロンの別れさえついてこなければ。
ダンデはキバナに、キバナが七歳になったことを嘆いて欲しくなかった。七歳になったら、ジジーロンとは遊べなくなるかもしれない。ダンデにもなかなか会えなくなるかもしれない。でも、もっと明るく、自分が生まれた日を楽しんで欲しかった。この先も、七歳になっても楽しいことがあると信じてほしかった。
そのために、ダンデは約束したのだ。
————キバナの誕生日に、俺、電話する。お祝いするから。泣かないでくれ。
◇◆◇◆
毎年のことながら、律儀にダンデは日付が変わる十分前に寝室を出る。それからリビングへ行って、コーヒーでも淹れてその瞬間を待っているんだろう。かちゃかちゃと食器を用意する音がする。それに聞き耳を立てながら、キバナはごろりとベッドに転がった。目を閉じる。もう少しで日付が変わる。
『三十秒前!』
ダンデのスマホロトムがけたたましく鳴くのが寝室まで聞こえてきた。それに合わせて体を起こして、自分のスマホを引き寄せる。ダンデのロトムは元気よくカウントダウンを続けている。
ばたばたとリビングから慌ただしい足音が響く。のんびりしすぎてたか。慌てふためく恋人を想像して、思わず口元が緩む。
『…三! 二! 一!』
スマホの上部の表示が、日付が変わったことを示す。ゼロ、と聞こえる前にキバナのスマホが鳴った。名前は見なくても分かる。ダンデだ。何も考えずにすぐに応答ボタンを押す。
『ッキバナ!』
ダンデの声はいつもより少し上ずっていた。そのうえ寝室までダンデの肉声が聞こえてきている。どれだけ張り切っているんだか。キバナはくすくす笑いながら、スピーカーに切り替えて枕元にスマホを放り出した。
「ダンデ。どうした?」
一旦は知らないふりをするのもお決まりだ。ダンデが大きく息を吸って呼吸を整える。
『ハッピーバースデー、キバナ。誕生日おめでとう!』
ダンデがそう叫ぶと、ぱん、と軽やかな音がした。かなり大きな音————破裂音だ。思ってもみなかった音に、思わず一瞬肩が跳ねる。
「え、なに? 今マジでクラッカー鳴らした?」
『ああ。今年は少し、お祝い感を出そうと思って』
言いながら、ごそごそと音がする。きっとクラッカーの後片付けをしているのだろう。その姿を想像すると、なにか胸の奥がくすぐったくなるような感じがある。微笑ましくて愛しい。
「出たかあ?」
キバナが笑うと、ダンデも電話の向こうで小さく笑った。その小さな笑い方も、いつものダンデだ。
「ま、ありがとう。でもなんでいつもまず電話なんだよ」
『そりゃ、毎年恒例だからな。約束もしたし』
「いつの話だよ。そんで、これで何回目だよ」
『ちょうどニ十回目だ』
「飽きねえなあ」
キバナが大笑いすると、電話向こうのダンデも声を上げて笑った。電話越しの掠れぎみの笑い声が、いつもと違って聞こえるのが少しどきどきする。きっと、ダンデも同じ気持ちなのだろう。すう、と大きく息を吐く音がして、一拍の沈黙があった。
『……君とポケモンに関することで飽きるっていうのが、俺にはちょっと想像できないな』
ダンデの口調は軽かったが、どこかに熱を感じさせた。本気で言ってる。瞬間、貫いていくような熱が全身に走った。嬉しい。けれどどう返答すべきか、一瞬迷う。
「……言うじゃん」
結局軽く流すようにして返す。ベッドから飛び起きて、寝室の小さな冷蔵庫に手を伸ばす。寝酒のお供にしていたワインを引っ張り出した。
『ん、何か飲むのか?』
「ワイン。そっち行くから待ってなよ」
右手にボトル、左手にスマホを持って寝室を出る。通話は切らなかった。別に話すこともない。けれど、リビングまでたった数秒でも、なんとなく切りたくなかった。リビングのドアが勝手に開く。ダンデが開けたのだ。
「あんがと。ナイスタイミング」
キバナがにっかり笑うと、ダンデもにかっと笑い返した。その手にはやはりスマホが通話状態のまま握られている。キバナの声がやや遅れ気味にダンデのスマホから漏れた。
「聞いてたからな。通話どうする?」
「ん、そろそろ切る」
キバナが左手ですいすいと通話を切ると、ダンデもそれに倣った。
机を見ると、クラッカーの残骸の紙吹雪が散乱している。カラフルで、いかにもお祝いらしい。
スマホを机の上に置き、ボトルを横に添えた。ダンデはボトルのラベルをちらりと見ると、少し残念そうな顔をした。どうやら良いのを期待していたらしい。
「なんだ。せっかくだから、もっと良いのを開ければ良いのに」
その顔に思わず笑ってしまう。インスタントコーヒーを飲んだ後で名酒が呑みたいなんて、世界広しと言えどもダンデくらいのものだろう。食に一切の頓着がないから、順番もなにもあったものじゃない。
「そういうのはもっと素敵なお料理があるときにな」
キバナが窘めると、ダンデは少々不服の顔をしながらも黙った。そしてワイングラスをふたつ持ってくる。
キバナが一々あれこれ指図をしなくても、食器棚からきちんと必要なものが出てくるようになった。一緒に暮らしはじめたときは、ダンデはすべての料理をカレー皿に盛ろうとする男だった。ちなみに飲料はすべてステンレスマグで済ませようとしていた。何度ここはキャンプ地ではないと怒っただろう。それを思うと、大進歩だ。
「そうそう。お祝いありがとう」
ダンデがボトルを取り上げて、グラスにワインを注ぎ始める。キバナはそれを見ながら、気紛れに紙吹雪を一片摘まみとってみる。レモンイエロー。ダンデの目の色を思い出して、少し笑った。
ダンデはキバナの機嫌が良いのを見てとって、自分もにこにこと笑っていた。注ぎ終えたグラスをすっとキバナの方に滑らせ、自分はキバナの真向いの席に座す。
「改めて、お誕生日おめでとう。君は歳を重ねるごとに魅力的になるな」
言いながら、ダンデはスーツの内側から小さなカードを一枚取り出した。白銀のそれは、これまた毎年恒例になっているグリーティングカードだ。今年は薔薇の花束の絵が描いてあるシンプルなものだった。はじめて貰ったグリーティングカードを思えば、なんて大人びたチョイスだろう。
「んふふ。そうだろ」
「いや、キバナは最初から魅力的なんだが……」
ダンデがグラスを掲げる。グリーティングカードを丁寧に机に置くと、キバナもそれに合わせて掲げた。口をつけると昨日と同じ、若いワインの味がした。軽やかで後味もすっきりとしている。寝酒には丁度いいので愛飲していた。
ダンデも一口だけ口をつけると、すぐにグラスを置いて少し遠いところに退けた。なにか改まって話したいことがあるときのダンデの癖だ。集中したいとき、目の前に注意を引きそうなものを置かないようにする。
ダンデはいそいそと姿勢を正すと、まっすぐにキバナを見た。ダンデは胸いっぱいに息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出すように話し始めた。
「大人の君が好きだ。いっしょに歳を重ねていってくれて、嬉しいと思う」
ひとつひとつの言葉を丁寧に紡いでいく。キバナはそれを、ワインを舐めながら聞いていたが、ダンデがあまりにも真剣なので笑ってしまった。茶化しているのではなく、その正直さがかわいい。
「なんだそりゃ」
ダンデはキバナが笑うばかりで本気で取り合っていないと思ったのか、少し眉を下げて困ったような顔をした。それからあたふたと身振り手振りを交えて弁明のようなものを続けていく。
「俺はジジーロンとは違うって話だ。俺は子供の頃から……大人になっても君をずっと好きだし、ずっと君といっしょにいたいってことだ」
思わず、ワインを呑んでいた手が止まった。久しぶりに二人の間にジジーロンと言う単語が出て、思い出したのだ。ダンデの前で、大泣きしたことがあったことを。子供の時代が終わって、ジジーロンと遊べなくなるのが嫌だった。誕生日なんかこなければいいと大泣きして、ダンデを困らせたのだ。今思い出しても顔から火が出そうになる。なんて理不尽で傲慢な泣き方を七歳直前の子供がしているのだ。
「……ウワ、はずかしー」
キバナは顔を覆っておどけて見せる。するとダンデは少し腹を立てたようで、口を尖らせた。
「誤魔化すなよ」
「いや、違くて。昔のオレさまがね」
あの頃の自分は、竜の寵児だなんだとちやほやされていて、世間知らずで傲慢な子供だったと思う。ナックルではちょっとばかり有名だったかもしれない。道を歩けば知らない人も皆がキバナくん、キバナくんと呼んでくれた。それで、キバナは世界中のみんなが自分のことを知っていると思い込んでいた。————それも、ダンデに否定されて違うと知れた事実のひとつだ。
ジジーロンにも甘やかされていた。どこへ行くにも飛んできてくれて、遊んでくれた。そしていじわるな子供からは庇ってもくれた。キバナはその影で小さくなっていれば良かった。傲慢な卑怯者でいることが許された。そのひとつひとつを今ここで思い出そうとは。黒歴史だ。
ただ、そんな胸中を悟られるわけにもいかない。キバナは内心で大いに悶えながらも、ダンデには華やかに笑いかけていた。ダンデはキバナが明るく笑っているのを見て、機嫌を直してにこにこ笑っている。
とは言え、ダンデには感謝しているのだ。ジジーロンがキバナの傍からいなくなるとき、真っ先にまごころを示してくれた友達はダンデだった。彼がいたから、あのつらい七歳の誕生日を乗り越えられた。キバナもダンデのことが好きだったからだ。ダンデが電話をしてくれると約束をしたのなら、それが明日への支えになった。そうやって今日まで———二十年が経ったのだと思う。
「オレさまもずっとお前を愛してるよ、ダンデ」
テーブルの中央に手を伸ばす。ダンデの手が伸びてきて、包み込むようにキバナの手を握り込んだ。
◇◆◇◆
自分の誕生日であってもブルーな日はどうしてもある。例えばそれは、友達とのつらいお別れの日になってしまったときだ。
キバナはずっと自分の七歳の誕生日が来るのが嫌だった。七歳になるとジジーロンの背中に乗れなくなるからだ。ジジーロンに乗せてもらえなければ、ハロンタウンに住んでいるダンデとも滅多に会えなくなる。一番たのしく遊んだひとたちとの別れは何よりも辛かった。
昨日のうちにジジーロンたちとはお別れをしてきた。ジジーロンたちも分かってくれて、その日は逆鱗に触れても唸らなかった。ただじっと耐えて、そしてじっとキバナを見つめた。最後だから、と無言で言われているようで、それすらもキバナには辛かった。
ダンデとは一ヶ月近く会えていなかった。家の手伝いをしなければいけないから、と言っていた。それに弟も生まれたと言っていた。何度かダンデとの秘密の遊び場で待ってみたけれど、無駄だった。
最後に会ったとき、ダンデは小さな紙きれをキバナに渡して、電話番号を教えてくれ、と言った。誕生日には必ず電話するからと慰められて———それっきりになってしまった。
今日がその誕生日。ベッドの上にスマホを放り出して、キバナはずっとダンデから電話が来るのを待っていた。何度か母親がケーキを食べようと誘いに来たが、ダンデの電話の方がずっと重要だった。
時計が十時をすぎた頃。ようやくスマホが着信を知らせるために鳴った。知らない番号だ。ほとんど反射神経で通話ボタンを押して、体を起こす。
「ハイ?」
『ハイ。キバナ? 俺だ、ダンデだ』
スピーカーから聞こえているのは確かにダンデの声だった。電話を通すと、ダンデの声が若干ざらついたような感じがする。それが普段と違う大人みたいな声に聞こえて、キバナの鼓動が早くなる。ダンデの静かな話し方と相まって、ダンデが自分よりもずっと大人になったような感じがした。
「うん。キバナさまだぜ」
答えると、自分で思ったよりも上ずった声が出た。なんだろう。変に緊張している。あ、と思ってももう遅い。
キバナの恥ずかしさを知ってか知らずか、電話向こうでほうと息を吐く気配がした。
『昨日、ニュース見たぜ』
誰何したときよりも少しだけ声が柔らかくなった。それでダンデも少し緊張していたのだと分かる。自分だけではないのだとキバナも少し肩の力が抜けた。
「……そっか」
ナックルのローカルニュースでは、昨日はずっとキバナとジジーロンのことをやっていたらしい。キバナは帰宅後に母親から聞かされた。今朝のニュースは見ていない。けれど、新しい竜の寵児が選ばれたという話題で持ちきりになっていることだろう。それがナックルの伝統だ。
『ジジーロンたちとはお別れできたか?』
「まあな」
変な沈黙が落ちた。背中がぞわぞわするような、不自然な静けさだ。ダンデと顔を突き合わせているとき、こんなに居心地の悪い思いはしたことがなかった。いつもの間合いが崩れて、急に不安になる。それを破ったのはダンデの方だった。
『……泣かなかったか?』
その声音は少しばかり揶揄いの色が濃くなっていた。安堵半分、むかっ腹も立つ。
「っ泣くかバーカ! 泣いたとしてもダンデに言うわけないだろ」
『そうか』
くつくつと笑う声がする。キバナは行儀悪く舌打ちし、腹いせに枕を叩いた。それにダンデは大きく笑った。聞こえたらしい。
「……そんで、本題は?」
ダンデと話して少しは気が紛れた。ジジーロンとの別れの辛さも一時慰められた気がする。けれど、一番待ちわびている言葉をまだもらっていなかった。
『……ああ、そうだったな』
催促されてもダンデは気を悪くしたようでもなく、マイペースを崩さなかった。それにホッとする。電話で表情が見えない分、小さなことでも変化がないか注視してしまう。す、と息を息を吸う音がした。
『ハッピーバースデー、キバナ。七歳のお誕生日おめでとう』
いつも通りの静かな言い方だった。ダンデの静かな言い方は、冷たいわけでも熱がないわけでもない。むしろ聞いているこちらの胸が熱くなるような真心がこもっている。不思議なやつだ。ダンデの言葉ひとつで、あれだけブルーに沈んでいた今日もマシになる。
胸がじわりと熱を持って、それから目頭がぐっと熱くなった。嬉しい。親に祝われても拭えなかった暗澹たる気持ちが、ダンデの一言だけで取り払われていく。
キバナは涙をざっと拭うと、無理矢理口の端を上げた。
「———ありがとう。でも、それ最初に言えよな」
不格好に声が震えたが、軽口で誤魔化した。直接会いたい気持ちがないと言ったら嘘になる。それでも今、電話で良かったと思う。ダンデにそれが伝わっているかどうかは分からないが、それでも良かった。
『そうだったな。うっかりしてた』
ゆったりと笑う気配がして、キバナも微笑む。
「ダンデが約束してくれたから、思ったより悪くない誕生日だったよ」
『それなら良かった』
「ほんとに。ホントだからな」
軽く流されそうになって、慌てて言い募る。
『分かってるよ。ちゃんと伝わってる』
少し笑いながら、宥めるような調子だった。確かにダンデの方が数カ月ほど年上だが、電話越しだとその差が顕著に出る気がする。どうも調子が狂う。
「なら良いけどさあ」
そうして少しの間だけ、会話が途切れる。先程とは違って、背筋がぞわぞわするような居心地の悪さは感じなかった。無理にずっと話していなくても大丈夫だと思えた。少しの間だけ、目を閉じて耳をそばだてる。電話の奥で、赤ちゃんが機嫌よくしている声が聞こえてきた。
そろそろ切らなければ。用件は終わったのだ。けれど惜しい。もう少しダンデの声を聴いていたい。
「……なあ、来年も電話してよ」
終わりを先延ばししたくて、そんな他愛もないことを言ってしまった。言ってから、少し後悔する。そんな先のことを言いだすなんて、なんて子供っぽいんだろう。それでもダンデは約束してくれるような気がした。それで、律儀に約束を守ってくれるとも思うのだ。
『いいぜ』
ダンデは気楽にキバナの提案を受けてくれた。拒否されることがなくて良かったと安心したのと同時、少し後ろめたくもある。ダンデに一方的に課すのはなんだか違うような気がしたのだ。その不体裁をどう言い表せば良いのか、そのときのキバナはまだ知らなかった。
ベッドから立ち上がると、机に向かう。通話をスピーカー設定にして置いておいて、適当な紙とペンを探した。
「ついでだから、住所も教えてよ。オレさま、誕生日にカード贈るから」
『本当に? 楽しみだな』
ダンデの声がにわかに弾んだ。その事実にキバナは思わず微笑んでしまう。
「でも、ダンデも贈れよ。オレさまばっかりって言うのはナシ。フェアじゃねえもん」
『俺も? ……ううーん、そういうのを作るのってあんまり得意じゃないんだ』
ほとほと困り果てたような気配がしたが、キバナは気にせずに笑い飛ばした。
「グリーティングカードが不得意とか、そんなことある?」
要は、ダンデが心をこめてくれればキバナはなんだって良いのだ。電話一本だって良い。それでも、カードが届いたらきっと小躍りするほど嬉しいだろう。
『……まあ、笑わないでおいてくれ』
「分かった。どんな出来でも一生大事にしてやるから」
『やめてくれ、プレッシャーだ』
少年たちは笑い合いながら、しばらく他愛もない話を続けた。
よもや、その他愛もない約束が生涯続くとは思いもしなかった。
END.
(ダンキバ幼馴染アンソロジー『初恋のあの子』寄稿)