LET ME DOWN
ウォークインクローゼットの照明を付ける。ふらつく足取りを何とか支えながら、エールの最後の一口を呷る。クローゼットの扉の横に空になった瓶を置いておく。その小部屋に入るときは、キバナが一人きりの時と決めていた。恋人のダンデが留守の時だけ、キバナはここに籠る。
衣装持ちのキバナは別に衣服を納めるための部屋があるので、ここは殆ど大事なものの保管場所という扱いだった。例えば、憧れの人にサインしてもらったユニフォーム、プレミア付きの靴、初めての給料で買った服。奥にある姿見を引っ張り出して、それらを一つ一つ身に宛がう。宛がうだけだ。汚したくない。時々、こうして愛でるだけでも十分に幸せだった。誰の目も気にせず、好きなものに囲まれる時間というのは、日常のストレスから解放される貴重な一時だった。
このクローゼットの中がキバナの小さな王国だった。大事なものと秘密で出来ている、誰も、恋人さえも知らないキバナの王国。次々に宝物を宛がっては、大事に仕舞い直すのを繰り返す。そして最後は、古びた帽子用の箱が二つだけになった。キバナはそれらを慎重に開ける。最近味を覚えてしまった、王国の一番の秘密。これらは宝物ではないが、誰にも知られたくないのでクローゼットの隅に置いた。一番ぞんざいに扱われ、細心の注意をもって秘される時間。
中からは薄っぺらいオレンジ色のドレスと黒いコルセットベルト、もう一方の箱からはプラチナブロンドのロングウィッグが出てくる。ぐちゃぐちゃになったウィッグをブラシで梳かすことから始めて、雑に頭に乗せる。服を脱いで、ドレスを纏う。サイズが合っておらず、尻が半分以上出ているが気にしない。そしてコルセットベルトをつけて、完成だ。鏡の中の自分は、中途半端に笑っていた。似合わない。美しくもない。さらけ出された太腿も腕も喉も、薄っぺらいオレンジの布に覆われた胸板も、なにもかもがドレスを冒涜する。こうして女を装って、自分の隠しようもない性別を実感する。その馬鹿馬鹿しさが癖になる。癖に、なってしまった。どうしようもなくみじめだ。酩酊がほんの少しずつ色を変える。
一人でくすくす笑いながら、姿見の前に座り込む。胡坐をかけば、男性用の下着が顕わになる。酷いなと呟きながら、それでも隠そうとは思わなかった。どうせ誰も見やしない。じっくりと鏡のなかの自分を観察する。目の下には隈。肌はボロボロで、ウィッグからはみ出した地毛は手入れ不足でぱさついている。酷い有様だった。泣きたくなるほどに。
不意にぼろりと涙が出る。それを契機に、際限なく涙がこぼれ続けた。何が悲しい、というわけでもない。ただ、ひどくつかれていた。嗚咽も上げず、ただ静かに鏡の中のキバナはぼたぼたと涙を流し続ける。
何もしたくない。何も感じたくない。何も聞きたくない。何も言いたくない。もっとつよく、やさしくありたいのに、それができない。
自分をどこまでも追い詰めて虐めなければやってられない。
自暴自棄な気分だった。
泣きたくなるとキバナは一人でここへ来て、こっそりとドレスを纏った。似合わないドレスを着た酷い自分を、自分自身で哂って貶めてやる。そうしてようやく泣けた。ここまでしないと、泣くタイミングが分からなくなっていた。馬鹿なキバナ、と自嘲する。またひとつ、涙がこぼれた。
ひとりぼっちで寂しいのに、こんな馬鹿な振る舞いをしているのに、どうしてか満たされるものがある。みっともない。なのに、さびしくてきもちいい。かわいそうに浸りながら泣くのはどうしようもなく疲れた心を慰めた。本当に駄目な時にする、最悪の自分の慰め方がこれだった。
いつもきちんと規則正しく回っている歯車は、どんなにメンテナンスを繰り返していても突然に噛み合わなくなる。ひとつ外れれば、何一つ普段通りには成せなかった。人前で笑うことも難しい。いつもはちゃんとできるのに。出来ていたのに出来なくなるというのはあまりにも苦しい。その苦しみからはどこへ行っても逃げきれなかった。だから一旦やらなければいけないことを全部放り投げて、とことんまで自分を駄目にする。そういう時間がキバナには必要だった。
泣きながら――――どうして歯車が狂ってしまったのだろう、とキバナはぼんやりと考えたりする。きっかけらしいきっかけはない。仕事は好きだ。職場にも恵まれている。恋人に不満はないし、キバナを損なえるものなどない。SNSに書き込まれる厳しいコメントなど、歯牙にもかけていない。誰だか知らない者からの言葉に一々傷付いてやる義理はない。言いたいことがあるならばナックルスタジアムでキバナの前に立ち、己の正しさを証明してからでなければ意味がないのだから。そう、キバナは正しい。強く正しい。
正しいのに―――――どうしても、苦しさから逃れられない。具体的に何が、と言葉に出来るものではない。日々の内に溜めていた小さな澱みが凝り固まって、一気に噴出している。今発露している苦しみは集合体であって個体ではないのだ。名称も具体性もあったものではない。ただ苦しい。それだけしか分からない。
泣きながら、そろそろ夕飯を作り始めないと、と思う。それなのに、ぐちゃぐちゃの顔はまだ泣き止む気配がない。立ち上がる気にもなれない。もう少し。もう少しだけ、と思いながら、キバナは泣き続けた。
遠くで、ばたん、と重たい扉の閉まる音がする。それと同時に、ただいま、といつも通りに掛けられる声。ザっと全身から血の気が引いた。酔いが冷め、体中から冷や汗が出る。どうして。なんで。いつもはもっと遅い時間になるはずなのに。電話も、連絡もなかったのに。だから一人で泣ける時間にしようとしたのに。
「……キバナ?」
暗い家の中で、不審がるダンデの声がする。キバナ、キバナ、と呼びかけながら、ばたばたと扉を開閉する音がする。
「ここでもないのか……どこにいるんだ?キバナ」
ダンデがキバナを探している。心臓が早鐘のように鳴ってうるさかった。もうすぐこっちへ来る。隠れないと。咄嗟にキバナは扉から手を伸ばして照明を落とし、音をたてないようにゆっくりと扉を閉めた。そしてそろそろと後退りでクローゼットの奥で膝を抱える。大丈夫。ダンデが行ってしまってから、出ていけば良い。それまで少し息を殺していれば良い。この格好は誰にも見られたくない。泣いているところなど、絶対に見られたくはない。なるべく隅の方で身を縮こまらせてから、ハッとした。エールの瓶を置いていたのを忘れていた。回収しないと、ダンデに此処にいることが分かってしまう。どうする。今なら間に合うだろうか。
「キバナ?」
バタン、と一際大きな扉の開く音がする。ぱちりと部屋の電気が灯る音がして、クローゼットの下から明かりが漏れる。ああ、もうこんなに近くにいる。逃げ場がない。どうしよう。どうすればいい。どうか気付かずに行ってくれ、と祈りながら、キバナは震える体をどうにか小さくしようと無駄な足掻きをしていた。かつん、ごろ、と瓶が足に当たって転がる音がする。ああ。もう、ダメだ。
「ああ、ここにいるのか」
安堵したようなダンデの声と共に、扉が無遠慮に開かれる。ドレスを纏った、みっともないキバナがダンデの前に引き出される。金の目が見開かれ、驚いたような顔をした。今度は羞恥で体が燃えるように熱くなる。
「み、見る、な」
キバナは言いながら顔を腕で隠す。見せたくない。見たくない。こんな格好で泣いていたなんて絶対に知られたくなかった。そして自分のこんな姿を見て、驚きの後にダンデがどんな顔をするかも見たくない。軽蔑されるだろうか。それとも笑われるだろうか。心配されても癪だし、どんな反応が返ってきてもキバナが傷付く事だけは確かだった。
クローゼットの扉が閉まる音がする。クローゼットの中が再び薄闇に閉ざされた。行ってしまったのだろうか。恐る恐る顔を上げてみると、ごそりと大きな影の塊がうごめく。ダンデが、音もなくキバナのすぐ傍まで来ていた。キバナの前に膝をつくと、柔らかに笑っている顔がうすぼんやりと見えた。
「どうして?せっかく君を見つけたのに」
その不可思議なほど穏やかな表情に、瞬きをする。ぽろりと涙がこぼれた。まだ泣き足りていないらしい。慌てて顔を乱雑にぬぐうと、ダンデはやんわりと、しかし力を込めてキバナの腕を取った。ダンデの掌が、信じられないほど熱く感じる。ダンデはずいっとキバナに顔を近付けて、ほぼのしかかるような状態になる。その視線から逃げたくて身を引くと、バランスを崩して床に寝転ぶ形になった。ごつん、と鈍い音がしたが、二人とも気にしなかった。寝転ぶ拍子に頭に乗せていただけのウィッグがほぼ取れたらしく、首筋に細かに肌を刺すような感覚がある。
そのまま数秒、たっぷりと沈黙が下りた。その間、キバナはダンデに片腕を取られたまま寝転び続け、ダンデはキバナの上でじっとキバナを見ていた。
「……オレさまは、見つけてほしくなかった」
最後は声が震えた。ライバルに、恋人に、弱った自分を曝け出すのはキバナの美学に反した。
「そうなのか?」
「みっともないだろ」
ダンデは心底不思議そうな顔をした。その顔でまた泣きそうになる。そっとダンデの胸を押したが、びくともしない。
「一人にしてくれ。頼むから」
言葉にすると、また一段気持ちが落ち込んだ。一人になりたいのは本当だった。それでもこの体温がどこかで離れがたく思ってしまう。だがダンデはぬいぐるみではないのだ。キバナのこれに、付き合わせて良いとは思えなかった。もう歴とした大人なのだから、きちんと一人で処理をして見せなければいけないと頭では分かっているのに。相反する思考と願望でぐちゃぐちゃになりながら、キバナはまた少し涙が出る。女々しくって、滑稽で、自分勝手で。こんな最悪の自分をダンデには見てほしくなかった。
「……俺はみっともないと思わないぜ。それでも駄目なのか?」
「お前が良くても、オレさまがダメなんだよ」
「そんな。ぜんぜん大丈夫なのに」
優しく額を撫でられて、取れかけのウィッグとキバナの地毛が払われる。そしてちゅ、と軽い音がして顔中にキスが降ってきた。そのままダンデはキバナの体に自分の体を密着させた。熱いほどの体温が、キバナの体を暖める。
「キバナ。大丈夫だ。大丈夫だから」
何か根拠がある訳でもない。それでも、言われた言葉に何かが胸にせり上がってくる。目の周りが熱を持ち、視界が歪む。また泣いてしまう。ダンデの前で泣くだなんて――――そう思う自分と、それでもダンデがいてくれる温かさに縋ろうとする自分がいる。いやだ。だめなのに。こんなに女々しいのは、違うのに。
気付けば、ダンデの首に腕を回して抱き着いていた。