熱帯夜
『今夜は日付が変わっても28度前後までしか気温が下がらず、熱帯夜になりそうです。クーラーをつけた涼しいお部屋でお休みください』
天気予報士の女性が朗らかな笑顔で言っていたのを思い出しながら、キバナは寝室で寝苦しさに悩んでいた。寝返りを打って、シーツがまだキバナの体温を移していない箇所に移動する。寝室の空調は死んだ。死んでしまった。今朝までは何ともなかったはずなのに、帰ってきたらもう壊れていた。先週掃除をしたばかりだったのに何の予兆もなく壊れないでほしい。熱風しか吐き出さなくなった忌々しい奴を苛々と睨んで、キバナはもう一度寝返りを打つ。どうして今日に限って壊れるんだ。暑い。扉も窓も開け放っているが、風がなくて寝苦しい。暑さに耐えかねて上半身は全て脱いだが、下半身は一応ズボンを履いている。下着だけで寝るのには抵抗があった。
せめて風があればもう少し過ごしやすいのかも知れないが、送風機の類はこの家にはなかった。じっとりとまとわりつくような湿気も相まって寝室はサウナの中のような状態だった。横になっているだけでも汗が出てくる。
リビングで寝ることも考えたが、ソファで無理に睡眠を取るのと、暑い中で寝るのを天秤にかけて、キバナは結局後者を取った。涼しいリビングは客人に譲るべきだろうと大人の判断したのだ。
今日は時間が合いそうなのでダンデと会う予定を入れていた。だがこれでは色々と無理だろうと「寝室のクーラーぶっ壊れたから今日は来るな」とメッセージを飛ばしていた。そしてそれに「了解」と返ってきたのだ。なのに、なぜかヤツは来た。なにが了解だ。どういう思考回路してやがる、と散々罵っても帰らなかった。そして今、ダンデはいつものようにキバナのベッドに潜り込んできている。
キバナが首だけを向けると、それをどう取ったのかダンデが抱き着いてくる。汗だくの体が押し付けられて思わず顔を顰めたくなった。明かりがなくとも、この濃い匂いと肌のしっとりとした感触から推察するに、ダンデはほぼ全身汗だくになっているだろう。視界の端に、白い下着が脱ぎ散らかされているのが見えた。何時の間に脱いだんだ、人の家だぞ。もう少し恥じらいとか遠慮があって然るべきだろうに、この男。
「熱い。離れろ」
溜息まじりの苦言を溢すと、ダンデの腕はますますキバナを強く抱きしめた。
「……やだ、キバナと寝る」
「あのなあ、二人とも寝ながら熱中症とか笑えねえんだけど」
「やだ」
「お前はリビング行けって」
「やだ」
子供か、と言って軽く肩を引っぱたいたところでびくともしない。振り解こうと藻掻いていると、ついには足ががっつり巻き付いてくる。なんなんだ。尻に硬いものが当たっている気がするが、正直それをどうこうしようという気にもなれない。尻が熱い。局部的に熱いそこを無遠慮に押し付けられて、何とも言えない気分になる。男のここは、ズボンを一枚脱ぎ捨てただけでこうも生々しい感触になるものだっただろうか。
それにしても暑いし、熱い。もうどうにもならない。これは自分がリビングに行った方が良かったか、なんて後悔し始める。いや、でも結果は似たようなものだろう。狭いソファに無理矢理二人で寝て、結局お互いの体温で暑くなるだけだ。
キバナはもう一度これ見よがしに溜息を吐いて、軽くダンデの腿を叩いた。
「……氷枕とってくるから離れろ」
「俺のも頼んだ。あと水」
容易くパッと手が離される。自分の都合の良いときだけあっさり離しやがって。キバナは盛大に舌打ちすると、のろのろとベッドを出た。そして寝室から出る直前にダンデの方を振り向き、ザ・フィンガーと呼ばれる下品なサインを披露してキッチンへ向かった。ダンデが何かベッドの上で叫んでいるが、無視した。
冷蔵庫からペットボトル。冷凍庫から氷枕二つ。ついでに製氷機から氷を一つ取り上げて口に放り込む。口の中がひやりとして気持ちがいい。ほどほどの大きさがあったはずなのに、舌の上ですぐに溶けていく。それと同時に、沸騰しそうだった頭の熱がほんの少しだが下げられていく。心地いい。がりがりと行儀悪く氷を噛み砕きながら寝室に戻っていくと、ダンデはキバナが何かを食べているのを見て上半身を起こした。
「なに食べてるんだ?」
「氷」
「キバナだけズルい。俺も欲しい」
「じゃ、お前も食いに行ったら?冷凍庫開けて良いぜ」
答えながらもキバナはテキパキと氷枕をベッドに並べ、水を押し付ける。キバナの淡白な物言いに、ダンデはムッと顔を顰めた。それにキバナはほんの少しばかり留飲を下げる。これ見よがしに悪い顔で笑ってやった。
「……いい。キバナからもらう」
もう完全に子供の駄々だ。言っている意味が分からない。ないものは出せない。笑ってやりながら、キバナは大きく口を開けてみせた。吐く息もまだ冷たい。
「残念。もう食ったあとだぜ」
口の中を確認するためかがしりと顎を掴まれて、引き寄せられる。と、ダンデが目を閉じながらキバナの口に食いついた。睫毛の影の隙間から漏れる瞳の光が、やけにぎらついている。慌てて口を閉じようとしたが、馬鹿みたいに強い力で下顎を抑えられて口を閉じることすらままならなかった。そうこうしているうちに、唇が覆いかぶさってくる。吸ったりする暇もなくダンデの熱い舌が侵入し、頬の内側をべろりと舐め上げた。冷たかった口のなかが、熱に蹂躙される。
「ふ…っは、」
ダンデの舌を押し戻そうとキバナの舌も必死に暴れるが、ダンデの舌は嬉々としてキバナの舌にも絡みついた。舌も冷えていたのだろう。ダンデの舌はキバナの咥内の冷たい場所を探して縦横無尽に暴れまわり、好き勝手に熱をばらまいた。せっかく氷で冷やされた咥内に、たちまち熱が戻ってくる。必死に抵抗しようとするキバナを力任せに押さえ込んで、ダンデはキバナに深く口付けたまま笑った。
「んんーッ!」
好い加減にしろ、というメッセージを込めて胸を叩くと、ようやくダンデは離れた。ダンデはキバナの顔を見下ろして、顎から手を離した。開きっぱなしで固定されていた顎が怠い。顎の関節に手を当てて、開閉を何度か繰り返した。
「口のなか、まだ冷たかったな」
満足げに笑う男に、キバナは口の端をぬぐった。熱くて、べとべとしていて、自分勝手で、なんて不快なキスだ。キバナが顔を顰めたが、ダンデは気にした様子もない。
「さいあく。お前の舌熱くて気持ち悪いんだけど」
「俺はきもちよかった」
「あっそう」
ダンデの満足そうな声に、心がささくれ立つ。好き勝手してくれる。もう口のなかが熱くて、頭がぼんやりする。どうしてくれるんだ。熱を振り払いたくて頭を振ってみるが、どうも駄目だ。ダンデの手がキバナの腰に回されて、耳元に口が寄せられる。
「な、もう一回」
耳元で熱っぽく囁かれて、ゆっくりとベッドに押し倒される。
「やめ、」
制止の言葉が塞がれて、また無遠慮に舌が咥内に侵入する。まだ微かに残っていた冷たさが、熱の塊にどんどん奪い取られていく。んぐ、と色気など微塵もないような音が漏れ出た。不意にダンデの瞼が開き、目が合う。金色の目が愉しげに弧を描くと、もっと、と言うように力任せに体重を乗せられた。