コルセット
正面から見れば、ただのベストだった。白いシャツの上に重ねられたそれは、細かい花の刺繍が入っていて華やかなものだ。眩しいほど白いシャツにライトグレーのベスト、ベストと同色のズボン。ぱちりと軽い音がしたから、体の正面で留め具を留めたのだと思う。留めてから、キバナは何度か感触を確かめるように腕を上げたり降ろしたりして体を動かしていたが、どうも落ち着かないようで、もぞもぞと動きながら何やら調整しようとしていた。数分の奮闘の後、ついに諦めてくるりと向きを変えた。
「悪い、ちょっと後ろやって」
晒された背面は、腰から首の根元まで編み上げにされている。腰のあたりで小さく結わえられたリボン。コルセットだ。正面から見ればただのベストにしか見えなかったのに、後ろから見れば間違えようもなかった。姿勢が悪いわけでもないのに、どうしてこんなものを身に着けようと思ったのだろう。ましてやこの美貌のひとに補正したい箇所があるわけでもなし。ただ細い腰と美しい背筋のラインが強調されているだけだ。それが狙いだろうか。
「どうなってるんだ、これ」
「スニーカーとかと同じ要領でやってくれれば良いから。ここの紐で調整できるようになってるからそれ一回解いて、上から順番に少し緩めて、最後にちょっときつめに腰で結んで」
キバナがとんとん、と細い腰を飾る結び目を示した。これを解けと。なんだか良く分からないがちょっとエロイな、としょうもないことを思う。口に出せばきっと怒られるので、賢明なダンデは黙っておいた。レクチャーを受けながら、ダンデは言われたとおりに無心で紐の結び目を解く。コルセットが緩んだ瞬間、キバナがほうと息を吐きだした。
何とか紐を引っ張り出すと、言われたとおりに上から緩めていく。
「ちょっと緩めすぎ。締めて」
「わかった」
少し緩めて。次からどんどん締めて。ふ、あ。もう一回、もうちょっと上から締め直して。ふ。そうそう。ん、んん。う、ん、そこから、またもうちょっと力入れて。あ。ん。だいじょうぶ。もっときていいから。……最後思いっきり。良いから。ふ、うあ。
「……君、それわざとだろ」
「なにが?」
普通に衣服を整えているだけなのに、何とも居心地が悪い思いをした。ダンデのやり方が悪いのか、キバナは時折苦しげな息を漏らした。苦しげというよりももっと艶めいているように感じるのは自分の方に問題があるからだろうかとダンデは考える。キバナが息を整えるたびに悶々としながらも、ダンデは作業を進めていく。無心無心無心。流石に致している時間はないのだ。後回し。そう、後でたっぷり時間を取ればいいのだと自分に言い聞かせる。
「どこで買ったんだ、これ」
仕上げに紐を結んで、とん、と腰を叩いてやる。終わったぞと声を掛けるとキバナは椅子に掛けていたジャケットを羽織り、あっちにこっちにと姿見の前で体を返したりしながら細かいところをチェックし始める。
「行きつけのテーラー。普通に売ってたぜ、ダンデも興味ある?」
「遠慮しておく。苦しそうだし、一人じゃ着れないだろ」
「一回脱げば一人でも調整できるんだよ。でももう時間ないし」
「待たせておけば良いじゃないか。どうせ俺たちが行かなきゃ始まらないんだ」
そうかも知れないけどさあと言いながら、キバナはダンデに向き合う。どうやら満足する出来栄えになったらしい。ダンデの前に仁王立ちをすると、自信ありげに顎を上げた。
「どうよ」
どう、と問われても、ダンデの答えは決まっている。頭の先からつま先まで、惚れていない所を探す方が難しい。そんな男の感想など分かり切っているというのに、キバナはその言葉を待っている。ようやく彼の左手の薬指を独占する権利を得て、ダンデはシンプルな金の指輪を贈った。ダンデは、もうすぐ伴侶となる男を見上げて目を細める。
「君は美しいよ」
「お前のそれ、聞き飽きたぜ。もっとないのかよ」
聞き飽きただなんて言いながら、キバナは嬉しそうに笑う。今回のように華やかに装ったキバナも美しいが、彼の美しさが最も引き出されるのはシンプルな装いのときだとダンデは思っている。だが、そういう一等美しい彼を衆目に晒すのは本意ではないのだ。だから懇願して、少し違う方向の恰好をしてもらうことにした。
「ダンデはその恰好で良いのか?」
ダンデの装いはいつもの仕事着だった。チャンピオン時代のユニフォームを脱いでから、ようやく世間に馴染んできたオーナー業の服。
「別に良いだろ。俺だって一目で分かるし、スーツは肩がこるし」
「オレさまはこんなに気合い入れてんのに。そういうところ何時まで経っても野暮なんだよなあ」
笑いながら、鼻の頭にキスが贈られる。聞き分けのない小さな子供にするようなそれに少しムッとした顔をすれば、キバナは機嫌よく笑った。仕返しに、唇に軽く噛みついてやる。じゃれつくワンパチのように食んでやれば、キバナはくすくすと笑った。もう何をしてもこの調子だろう。口を一度離して鮮やかなブルーの瞳を見つめる。もう一度キスしたくなって、軽くキスをした。
「さあ、そろそろ行こうか」
腰を抱いて笑えば、最愛の人も微笑みを返してくれる。
「なんか、ちょっと怖いな」
言いながらも、キバナは笑みを絶やすことがない。この顔の、どこが怖がっているというのだろう。むしろ、試合を待ちわびて胸をときめかせている時の顔に近かった。
「緊張してる?」
「そりゃそうだろ」
「じゃあ今からでも会場をスタジアムに変更しようか。バトルタワーでも良いぜ。とにかく、君が気負いできない場所にしよう」
「職権乱用だろ、それ」
「特権と言ってほしいな」
冗談を言い合いながら、二人で連れ立って会見会場へと歩を進めていく。今日は、大事なことを全世界に宣言しなければいけないのだ。キバナとダンデの、これからのことを。