執務室の扉の前で、何やら人の声がする。来客だろうか、と顔を上げた瞬間だった。勢いよく扉が開かれ、キバナが悠々と入室してくる。そして腕を高々と上げると、キバナの近くに浮いているスマホロトムが、じゃじゃーんと謎のSEを入れた。子供の頃、夕方に放送されていたカートゥーンでよく聞いた音だな、と見当違いのことを考える。ニューラとモルペコが仲良く喧嘩しているアレ。懐かしい。今思うと結構えげつない真似をしていたような気がする。まあどっちも悪タイプだし、古いカートゥーンだしな。二徹目で思考はすっかり死んでいた。
「ハーイ、ご主人様。ご機嫌麗しゅう。オレさまはランプの精。願い事をなんでも三つおっしゃってください」
「……キバナ?」
「だーかーら、オレさまはランプの精。さあ、ご主人様。願い事を」
ある日突然キバナがランプの精になっていた。
そんなわけがあるか。
何故か自信ありげに仁王立ちしているキバナを見上げながら、俺は頭を抱えた。開けっ放しの扉の向こうで、秘書やリーグスタッフがオロオロしながらうろついているのが見える。俺はちょいちょいと指で合図をして、扉を閉めるように、と秘書に指図した。秘書は心底ホッとした顔をして、音をたてないようにそろそろと扉を閉めた。きっちりと扉が閉まるのを待って、ようやくキバナに向き合う。キバナは不敵な笑みを浮かべて、目を輝かせて俺の顔を見下ろしていた。いつものキバナだ。ユニフォームのボタンを上まできっちりと閉めて、トレードマークのパーカーのポケットに手を突っ込んで、本当に、いつもどおりのキバナ。どこがランプの精なんだ。
「どう見てもキバナだろ」
「あなたの素敵な恋人、キバナではありません。ランプの精でございます」
どうあってもランプの精らしい。そして自分で俺の素敵な恋人って言うんだな。自覚があるようで何より。
それにしても、久しぶりにキバナの顔が見れたと思ったらコレだ。回らない脳ミソで、キバナに会えてない日数を数える。多分、ひと月くらいか。電話は隙間時間に小まめにしてるが、それでも深刻なキバナ不足は否めなかった。何かの会議だとかそういう拍子に顔は見たが、恋人として言葉を交わせたのは一カ月前が最後だ。その間、ポケスタにキバナの写真が上げられるたびに俺は仕事を放り出してしまいたい衝動に駆られていた。会いたい。この仕事に区切りが付いたら絶対に有給を取って、まずは恋人としてキバナに会いに行くと決めていたのに。こんな不意打ちみたいに顔を合わせることになるだなんて思ってもみなかった。
どうしてくれよう。ここが執務室じゃなくて、尚且つ勤務時間外なら恋人の可愛い戯れに応えるのもやぶさかではないんだが。なんだかいろんな事が処理できなくて頭痛がしてきた。こめかみをぐりぐり揉んで頭痛を和らげようとしてみるが無駄だった。
「……キバナ、仕事中なんだ。後にしてくれないか」
「無理でーす。ランプの精は願い事を三つ叶えるまで帰れませ~ん」
「ランプの精なら、ちゃんとランプをこすってから現れてくれよ……」
ぐんにゃりと机に突っ伏す。予想以上にぐだぐだだ。ランプの精だって言ってるのにランプは何処にもないし、かと言って何かソレっぽい恰好をしているとかでもない。どこからどう見てもただのキバナでしかない。なんなんだこれ。俺は一体今から何に付き合わされるんだ。
「で、願い事は?」
どうあっても帰ってくれないランプの精は、さっきから馬鹿の一つ覚えみたいに願いごとを言えと迫ってきて、その顔は期待に満ちた子供みたいに輝いている。まあ、久しぶりに見るキバナの顔がこういう明るい顔だって言うのは俺も嬉しい気持ちがないわけではない。でもシチュエーションがダメだ。もうちょっとあっただろ、と心の底から思う。
「……じゃあ、寝たい」
俺がぽつんと言うと、キバナは本当に嬉しそうに笑った。キバナの機嫌は上がるが俺の気分は最低だ。人にこういう弱音を言い慣れてない。特にキバナには絶対にそういうものは見せなかったのに。やってはいけないことをやってしまった罪悪感がグワーッと押し寄せてきて、頭がグラグラする。
「それが一つ目の願い事ですね。どうぞ仮眠室へ。寝て下さい」
そう言って大袈裟に、恭しく『どうぞ』とジェスチャーして見せる。そういうオーバーな仕草もカートゥーンで見たことがあるな。俺は深々と溜息を吐いて、デスクの上の書類の山を突いた。
「でも、これをあと三時間で片付けないといけないんだ」
「はいはい。そんなのはこのランプの精がちょちょいとやっておくから、ご主人様は寝てろって」
そう言ってキバナは俺の腕を取って立ち上がらせようとするが、俺はそれを振り払って拒否した。眉が跳ね上がる。さっきまでランプの精だったくせに、急に恋人を甘やかすときのキバナの言いぶりに戻る。でもランプの精は自称してるし、本当にぐだぐだだ。キバナ、君、今どの立場で物を言ってるんだ。たぶんランプの精が6割、その他のキバナが4割ってところだろうな。細かく言うなら、その他のキバナに含まれているのは恋人と友人が3:1くらい。その中途半端さがいつものキバナらしくない。付き合わされるこちらとしては対応に苦慮する。本当に、どうしろっていうんだ。
「……気安いな、君。俺はそういうのは恋人にしか許してないんだが」
キバナがランプの精で話を進めたいなら、俺も徹底してそういう体でいかせてもらおう。俺は恋人に不実と思われそうな芽はとことん潰すタイプだ。なので、ランプの精はお触り禁止。どんな些細なことであっても、気のない接触であっても、恋人以外の体に触れるのも、触れさせるのもナシだ。自分で立ち上がって、自分の足で仮眠室に向かう。キバナは一瞬面白くなさそうな顔をして、また不敵に笑った。たぶんこの不敵な顔がキバナ的には『ランプの精』っぽい表情なんだろう。何を見たのかは知らないが、俺は元ネタを知らないので全然通用していない。ただただダダ滑っている。可哀そうに。あんまりにも可哀そうだから言わないでおくが。
「おおっと、それは失礼いたしました」
「本当に、寝て良いのか?」
「万事、オレさまが良いようにしておきます」
自信満々なのは結構なんだが、それが逆に不安になる。と言うか、俺が寝ている間にキバナが仕事を片付けたらそれが二つ目の願い事ってことにはならないだろうか。ランプの精がそんなゆるゆるふわふわあれこれ世話焼いちゃダメだろ。
「どうやって」
「そりゃあ……魔法?で」
「なんで君にも分かってないんだ……。本当に任せて良いのか?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ほらほら、寝ろって」
「だから気安いんだが。ランプの精のくせに」
「ああもう!分かりました!いいから寝てください!」
「なんかもう全部不安だぞ」
わあわあ言っている間に仮眠室に着いて、靴を脱いで簡易ベッドに横になる。それだけで少し瞼が重くなる。小さな仮眠室の中でキバナの匂いがする。なんだか不思議な感じだった。薄暗い部屋のなかだと、睡眠不足の脳がバグってここが何処だったか分からなくなりそうになる。自分の家の寝室にでもいるみたいだ。体に力が入らなくなる。
「はいはい、大丈夫ですよー。おめめつぶりましょうねー。とんとんしてあげましょうかー?」
「何か違うプレイが混ざってきてるけど大丈夫か?」
「はい黙って。寝てください」
あ、照れたな。君が言い出したくせに。
すう、と大きく息を吸う。キバナの匂いをいっぱいに吸い込んで目を閉じる。それだけですぐに眠りに落ちていけた。
俺たちはとても上手に線を引いている。
少なくとも俺はそう思っていた。TPOに合わせて俺たちは何度も対峙する。ライバルの時、恋人の時、友人の時、上司と部下の時。場面によってお互いの立場を変えて、接する時の顔を変えて、綺麗に引かれた線を越えなかった。それぞれの顔で会って、それぞれの役割を演じて、そしてそのどの顔でもお互いを満たすのが上手だった。俺の諸々の都合でこうなってしまったのだが、付き合い始めの頃はキバナは何も言ってこなかった。俺の方はこんなに出来た人を独占できるので、何の不満もなかった。
ただ、キバナの方はそういうのが嫌な部分もあったんだろう。不満を表出させるようになったのは、つい最近のことだった。具体的に言えば、俺がチャンピオンじゃなくなった辺りから。
「痛ッ」
「どうした?大丈夫か?」
最後に会った日の夕飯。ガリ、と鈍い音がして下唇に鈍い痛みが走る。べろりと唇を舐めてみると、鉄の味がした。やらかした。考え事をしていてぼんやりしていた。
「下唇食べた……」
「はあ!?どうやったらそんな器用な真似出来るんだよ。生きるのヘタクソか?」
あんまりな言いようだな。俺は気にせずに再びバケットに手を伸ばそうとしたが、キバナが俺の手を掴んで睨み付けてくる。俺は諦めてバケットを皿に置いた。これから一カ月会えなくなるから、ゆっくり食事を楽しみたかったのに。完全にしくじった。
キバナは薬箱を取り出してきて、色々な薬を出しては戻しを繰り返している。結局適切な薬が見つからず、水ですすいで血が止まるまでガーゼを押し当てることになった。
「で、どうしたんだよ」
「ちょっと考え事してただけだぜ」
「なに、仕事関係?」
「まあ、そんなところだな」
ガーゼを食べないように気を付けながら、もごもご話し続ける。カッコ悪い。これから一カ月、これが最後に会った俺の姿としてキバナに刻まれると思うと滅茶苦茶へこむ。血が止まるまで、挽回の余地もないこの間抜けさを晒さなければいけない。自分の体のことながら、早く止まれと心底願った。
「お前さあ……。たまには愚痴とか吐けって。ちょっとで良いから」
「嫌だ。そんなカッコ悪いところ、キバナに見せたくない」
「下唇バケットと一緒に食べてる時点で大分カッコ悪いと思うけど」
それを言われるとぐうの音も出ない。でも、恋人に愚痴は言いたくなかった。それは弱音みたいで曝せない。俺は自分の弱さを恋人にあまり見せたくない人間なのだ。理想は『あまり』ではなく、『全く』見せたくないんだが。そういうバランスで今までキバナと付き合ってきた。でもそれはお互いさまのはずだ。キバナも、俺に見せたくないものを多く抱えている。例えば、地道な努力だとか、工夫だとかその手のものを。だから、気付いても触れてほしくない。俺だって触れないようにしているんだから、お互いさまと割り切ってほしい。
「それでも嫌だ」
キバナは俺の目をじっと見つめて、それから諦めたような溜息を深々と吐いた。ガーゼを押さえていた俺の手をそっと退けさせて、傷を確認する。流石にそんなに深く傷を作ったわけでもなさそうで、血も止まっていたのだろう。キバナが俺の下唇に優しく触れた。
「………そう言えばさあ、前も下唇食ってたな。ダイマックス騒動の時とか、ローズさんとこそこそ会ってた時とか。ストレス溜めると自分食う癖でもあんの?」
「さあ、どうだろう。あんまり自覚がないな」
本当に自覚がなかった。けれど俺の返答はキバナに不審を抱かせたらしい。キバナは少しだけ俺を伺うように見て、そしてベッドの中でしか使わないような、少し鼻にかかった甘えた声で問うた。
「なあ。……ダンデはオレさまを頼ってくれねえの?」
キバナは俺がこういうのに弱いのを知っている。素直に甘えられると、ぐずぐずに甘やかしてやりたくなる。可愛い恋人にしおらしくお願いされて喜ばない男はいない。俺だってそうだ。何でも望むようにしてやりたい。尽くしたい。
でも、今回は計算だと分かっているので威力は半減だ。ハバンの実を持ってなくても余裕で耐えきれる。残念だったな。
キバナの額にキスをして頬を撫でる。これで我慢してくれと願いながら。
「頼りにしてるさ。誰よりも、俺自身よりも信頼してるって断言できる」
「あっそう。じゃあ良いや」
ケロッと何時もの調子に戻って、キバナはシチューを温め直すために立ち上がった。それが恋人らしい、最後の接触の記憶だった。
目が覚めて執務室に戻ると、机の上は綺麗に片付いていた。キバナは俺に気付くと、上機嫌にニコニコ笑いながら俺の椅子から立ち上がった。処理した書類をスタッフに渡しながら退室させる。パッと見る限りではどうしても俺のサインが必要な書類だけ選り分けられて、デスクの隅の箱に入れられていた。あちこち付箋が挟まっていて、あっちを参照だのこっちの資料に詳細だのと書かれて整理されている。普通に有能だな。魔法で処理されたようには見えないが。でもまあ、結果が出てるんだから見逃そう。
「おはようございます、ご主人様。よくお眠りになれましたか?」
「……本当に大丈夫だったな」
変な夢を見た。夢と言うよりも、単純に一カ月前のことを思い出しただけだが。でも、思い出したおかげでキバナのやりたい事はうっすら分かってきた。傾向が分かれば対策も出来る。まあこれはキバナの願望で、ランプの精が考えていることはサッパリ分からないんだが。どうしてランプの精になろうだなんてトンチンカンなことを思い付いたんだか。
「な、オレさますごいよなー。もっと褒めろよ」
これは完全にキバナの方だ。キバナは自分でランプの精だのなんだの言い出したわりには、全然ランプの精を演じる気がない。このどっちつかずの存在を俺はかなり持て余していた。疲れる。なんでこんなふわふわした感じでいけると思ってるんだ。二徹してなかったら無理やりにでも家に帰していた。抵抗する体力も惜しいから流されているが、本当に酷い。
「君、やっぱり設定ブレすぎだろ。もうちょっと詰めてから来てくれ」
「え、どこが?」
「口調。戻ってる」
指摘してやると、キバナは『一々細かいこと拘りやがって、萎えるんだよな』、『こういうところ面倒臭えなコイツ』みたいな顔をした。でも俺はその顔に反応を返さない。これはキバナが始めたことなんだからちゃんとしてほしいと言っているだけで、俺は間違ったことは言っていない。
「あー。はい。申し訳ございません、ご主人様。シチュエーションに拘るタイプでございましたか」
「いや全部君が悪い。もうちょっとあるだろ……」
「はいはい。じゃあ二つ目の願い事をそろそろお聞きしても宜しゅうございますか?」
俺はちょっと考えてみる。欲しいもの。
「……キバナの手料理が食べたい……。あったかいやつ……」
「そんなこと?お安い御用でございます」
願い事を声に出してキバナに言うたびに、自分のなかの何かがガリガリ削られていく。それはチャンピオン時代に培ってきた自意識だとか、美徳だとか、矜持だとかそういった類のものだ。俺を守ってきたものがどんどん書き換わる。その瞬間の嫌悪感が酷い。吐き気がすると言っても良い。たぶん普通のひとには何でもないことなんだろうが、俺が、キバナに、というだけでこんなにもダメージが来る。
キバナはにんまりと笑うと、パッと踵を返して退室していった。その間にこっそりと深呼吸をして吐き気をやり過ごす。これでもう少しは大丈夫だ、と安堵したところでキバナが大きなバスケットと段ボールを抱えて戻ってきた。多分秘書室に預けていたんだろう。ランプの精は手際よく応接用のテーブルにバスケットの中身を並べていった。まずはプレースマット。皿。スープジャー。キャンプ用のステンレスマグ。タッパーがいくつか。食パンが丸ごと1斤。りんごに、ナイフ。まるでピクニックだ。机の隅に段ボールから出した小型のホットサンドメーカーを置いて、勝手にコンセントを使用する。
キバナは俺にスープジャーから野菜スープをマグに入れ替えて渡してきた。ほわ、と温かい湯気が立ち上る。トマト、セロリ、にんじん、ベーコン。いつものキバナのスープだ。
キバナは楽し気に笑いながら、どんどん食事の準備を整えていく。タッパーのひとつからは薄切りされたローストビーフが出てきた。中央はほんのり赤みが残っていて美味そうだ。
「これ、準備してきたのか?」
「準備ではございません。魔法です」
「魔法瓶ではなく?」
スープジャーを指さしてやると、キバナは肩を揺らして笑った。今の笑いどころはどこだったんだ。さっぱり分からない。
「んっふふ。ちょ、やめろそういうの」
「君、今とんでもなく笑いの沸点低いな」
俺が素直に願い事言ってるのがそんなに楽しいか。楽しいんだろうな。だからこんな変なテンションなんだろう。
俺が呆れていると、ごほんと一つ咳ばらいをする。もう諦めてこの不毛なランプの精ごっこを終わりにしてくれても良いんだが。なんでまだ立て直せると思っているんだ。不思議でならない。
「真面目な話、ランプの魔神には不可能はそんなにございませんので」
「また設定ブレたな」
「え?あ。うそうそ。オレさまとってもランプの精です。ね?」
「とってもランプの精ってなんだ?」
キバナはまだまだとってもランプの精らしいので、俺は諦めてローストビーフを1枚摘まんで口に放り込む。こら、と咎める声がしたが無視した。ランプの精の小言は聞きたくない。それならキバナが叱ってくれ。どのキバナでも良いんだが、ランプの精だけはナシだ。ランプの精以外なら全然、まったく問題ないのに。
「たまにはさあ、オレさまのこと好きに扱ってくれて良いんだぜ?」
ベッドに寝そべるキバナの全身を蒸しタオルで丁寧に拭き終わったところだった。裸で俯せになったキバナを見下ろす。美しい。歪むことなく、まっすぐに伸びた背骨など何度見ても惚れ惚れする。情事の後のこの時間が俺は好きだ。キバナの体のすべてを愛したあとに、こうして優しく慈しんでやれる時間が愛おしい。指の先や股、細かいところまで余すところなく汗を拭ってやると、キバナは最中よりも余程恥ずかし気に顔を逸らす。そういう仕草も愛しい。それで、俺に抱かれてくれたことに愛しさが止まらなくなる。
頭に巻いていた蒸しタオルを取って、今度は濡れたタオルで髪を拭いていく。キバナが億劫そうに身じろぎをして、俺がやりやすいように少し体勢を変えた。こうしてキバナが身を任せてくれているのが嬉しい。鼻歌でも歌いたい気分だ。
「今まさに好きにしてると思うぜ」
「いやそうじゃなくて。お前、オレさまを大事にしすぎなんだよ」
「……?当たり前のことじゃないか?」
俺としては、キバナを抱くときは優しくしているつもりだった。そして、俺のやり方は間違っていなかったらしい。キバナに大事にしているということが伝わっているのだから、世間一般的なことはともかく、俺とキバナの間では大正解だ。でも優しくして抗議を受けるなんて思ってもいなかった。
「オレさまとしてはもっと雑に扱ってくれても良いんだよ。結構尽くすタイプだから、こんなに甘やかされると調子狂う」
これまでも、そんなに傅かなくっても良いだろ、と何度も言われて笑われたが全然止める気にはなれなかった。何よりもキバナを大事にしたい。尽くしたい。こうしていても、俺がどれだけのものを返せていると言うんだろう。キバナは俺を受け入れてくれている。そういうキバナを大事にするのは、傅くのは当然のことだ。キバナのくれたものに対してこれだけじゃ全然足りてないのに、キバナは十分だと言う。いじらしいけれど、もっと俺に尽くされてくれなければ困る。
「俺だって君に尽くしたいし、キバナを雑に扱うなんてできない」
「それはオレさまもなんだよなー。でも、お前ってば全然隙見せてくれないし。尽くし甲斐がないんだよ。もっと我儘言えって」
「我儘言ってるだろ。君の手料理が食べたいとか、バトルしたいとか、抱かせてくれとか」
「オレさまが言いたいのはそうじゃなくてだなあ……」
キバナはごろりと寝返りを打って、俺の膝の上に頭を乗せた。キバナはどこもかしこも理想的で美しいかたちをしているが、鮮やかな色の瞳が一等綺麗だと思う。お互いにたっぷりと数秒間見つめ合う。そうしていると、じわじわとキバナの顔がほんのりと色付いていくのが楽しい。俺の方も大概だが、キバナも俺の顔が好きだよな。
「うん。そうじゃなくて?」
先を促してみるが、キバナは口を閉ざして視線を外した。
頭を拭いていたタオルを丸めてベッドの外に放り出す。そして自由になった手でキバナの顔に触れた。熱い。耳の後ろを撫でて首元に触れる。脈が早い。キバナは恨めし気にじとりと俺を睨んできた。
「……オレさまと会話する気ないな。お前」
「うん?そんなことないと思うぜ」
「都合が悪くなるといつもそういう調子になるの、自覚ないのか?」
ああ、とかうん、とか適当に返事をして、俺はベッドサイドに置いてあったキバナ愛用の爪やすりに手を伸ばす。さあ、今度は爪だ。キバナは諦めたような溜息を吐いて体を起こした。のろのろと俺の方に寄ってきて、胸にもたれかかってきた。恋人を腕の中に閉じ込めて抱きしめる。くるしい、と本気でない抗議の声は無視した。かわいい。いとしい俺の恋人。まだ尽くしきれてないのに、雑にしろだなんてひどいことを言わないでほしい。
バスケットの中身が空になる頃には、キバナは給湯室から勝手にティーセットを持ってきて、食後の紅茶まで出してきた。そして空になった器からどんどん下げていって、またバスケットに戻していく。デザートのりんごをしゃりしゃり齧りながら、俺は久々の満腹感を味わっていた。
「美味かった」
「それは宜しゅうございました。それで、三つ目の願い事はお決まりですか?」
ランプの精は俺の食べっぷりに満足そうに笑っている。俺の願い事を叶えるのがそんなに楽しいんだろうか。恋人に尽くすのが楽しいのは分からないでもないんだが、でもそろそろ俺だってキバナに尽くしたいと駄々を捏ねたい。だから、三つ目の願い事はもう決まっている。
「今すぐ恋人のキバナに会いたい」
「えっ」
予想していなかったのか、ランプの精は驚いた顔のまま固まっている。
「目の前にいるのはランプの精なんだろ?俺は俺の恋人に会いたい」
重ねて願い事を言うと、キバナはしどろもどろになった。目が泳いで、右手を後ろ手に回す。焦っている時の彼の癖だ。
「ええーっと。それは、どうしても?」
「どうしても。君の顔はどうしてか俺の恋人によく似ててな、見てると彼が恋しくなる。さあ、叶えてくれるよな?」
「ええー。でも、せっかくの三つ目なんだぞ。もうちょっと考えたら?」
「もう一カ月もまともに会えてないんだぞ。今すぐ恋人にキスがしたいし、家に帰って一緒にゆっくり過ごしたい。ついでに出来るなら抱きたい」
抱きたい、の言葉に過剰にキバナは反応した。さっきまでのもじもじは何処へやら。パッと俺を見て、キラキラと目を輝かせた。
「睡眠欲、食欲と来たら性欲だもんな!うんうん、そういうのだったらオレさまもお役に立てそう。ご主人様、恋人は大事にするタイプだし、たまには好きに抱きたいだろ?このランプの精なら気兼ねなく抱けるんじゃねえ?」
「君は一体何を聞いてたんだ。だから用があるのはランプの精の君じゃなくてキバナだって言ってるだろ。好きだから抱きたいのであって、好きに抱きたいわけじゃないんだ」
だんだん苛々してきた。どうしてこんなにも物分かりが悪いふりをしているんだろう。それが俺には全然理解できない。俺も都合が悪くなるとキバナの話を聞かないが、キバナだって自分の都合の悪い部分は見なかったことにする癖に。その癖に俺に文句が言えるかと詰ってやりたい。
俺の機嫌が悪いのもどこ吹く風で、キバナは胸を押さえて前かがみになる。
「うっ。お前、そういうこと言う……」
「またブレてるぞランプの精」
俺の方はそろそろキバナに触れたいんだが、それはまだ出来ない。今この瞬間、どう触れたら線を越えたことにならないのか俺には分からないから。線を越えたら、たぶん歯止めが利かなくなる。一カ月のキバナ不足の反動と、この扱いあぐねるランプの精のせいでごちゃごちゃにしてしまう。ライバルでも友人でも恋人でもあるキバナを求めてしまう。キバナはそうしてほしいんだろうが、俺はそうしたくない。これはキバナという人間を尊重して大切にするためのボーダーラインだ。こんな中途半端な、友人でも恋人でもライバルでもないランプの精には触れられない。
「あーはいはい!分かりましたあ!では、カウントダウンお願いします」
「なんで」
「こ、心の準備とか……」
またキバナの目が泳ぐ。本当になんでだ。もしかして心の準備が必要なことを期待されているんだろうか。でもランプの精のままの君にそういうのを期待されても困る。俺はまた溜息を吐いた。
「そこは魔法でパパっと解決してくれないのか」
「無理」
「本当に君、向いてないなこういうの……」
「後で全部聞くから!ランプの魔神にそういうの言うな!」
一歩踏み出す。手を伸ばせばキバナに簡単に触れられる距離を取って、まっすぐにキバナの顔を見上げる。
「また魔神なんだな、君。ランプの精なのか魔神なのか最後にそれだけはハッキリさせてくれ」
「それは四つ目の願い事になっちゃうんで駄目です」
「ここはブレるところだったろ」
「良いから!カウントダウン!」
「分かった分かった。3、2、1」
ぜろ。
カウントダウンが終わる瞬間、キバナがぎゅっと目を瞑った。パチン、と指を鳴らしてみるが、目を開けてくれない。
「キバナ」
なるべくやさしく声をかけたつもりだ。キバナは恐る恐る目を開いて、俺を見下ろした。その顔はこっぴどく怒られるのを覚悟したポケモンのような、悲壮な空気があった。ほんの少し涙目に揺れているシアンブルーの瞳。
「……はい。キバナだ」
なぜか神妙な自己申告だった。キバナ。一カ月ぶりの俺の恋人。ランプの精でもなんでもない。キバナの襟元に思いっきり引っ張って、こちらに顔を近付けさせる。そのまま唇にむしゃぶりついた。口内まで丹念に舐めまわして、最後に軽いリップ音をさせて離す。キバナは目をぱちぱち瞬かせて、顔を真っ赤にして困っている。かわいい。かわいいは可愛いんだがそれより何より、言っておかなければいけないことがある。ぎゅうぎゅう色気なく力任せに抱き着きながら、キバナの肩に顔を埋める。
「……今後一切、君とシチュエーション系のプレイはしない……」
疲れた。本当に、ただただ疲れた。もう一刻も早く帰りたい。帰って今目の前のキバナが恋人のキバナだと確認したい。ブレブレのランプの精の相手はもう懲り懲りだ。二度としない。キバナがまたランプの精になっても、絶対に乗ってやらない。
キバナは顔を真っ赤にさせて至近距離でギャンギャン喚く。
「なんだその宣言!」
「いやだってもう、最初からぐだぐだだったじゃないか……」
「オレさま魔法で急にココに現れて驚いてるところなんだよ!ぐだぐだとか言われても、何のことかぜんっぜん分かんないからな!」
「まだ続けるのか?君、自分で墓穴掘るタイプだから本当にやめといた方いいぜ」
本当にぐだぐだだった。ランプの精の設定はふわふわしてるし、キバナ自身のランプの精になってやりたい事だってふわふわしてるし、俺は寝不足だしキバナが全体的に不足しているし、仕事はまだまだ残っていたし、願い事言わされてダメージ受けたし。目も当てられないほどぐだぐだだった。秘書やスタッフには今日のことは忘れるように言っておかなければ。別にキバナとの関係を隠している訳じゃないんだが、その程度の弁えがないと思われては堪らない。正直手遅れだとは思うんだが、それでも何もしなかったら弁明の余地もない。
「……キバナ。今日はたくさん話し合おう」
「うん?」
必死に記憶の中のこの後の予定を確認する。それから明日のスケジュールも。取材や会議の類はないので、たぶん休みを取っても大丈夫なはずだ。溜まる仕事については明後日の俺がなんとかする。
「どうして君がランプの精になろうと思ったのか、君の言葉で教えてほしい。あと、君が俺に何を望んでいるかも。俺は察するのが下手だから、ちゃんと事細かに言ってくれないと分からない」
なるべく優しい口調になるように、ゆっくりと言葉を選んでいく。
「……教えるだけ?」
「勿論、君の望みを叶える努力はする。俺はランプの精にはなれないから、努力するとしか言えないんだ。でも、君がちゃんと言ってくれたなら、キバナの願い事を叶えるために全力を出すぜ」
キバナと俺のことを話し合うのに、こんな風に茶化しながらなんてナンセンスだ。
「……分かった。ちゃんと言う。お前の方こそ自分に都合が悪いからって逃げるなよ」
「ありがとう。すぐに上がるから、先に家に行って待っててくれ」
上着の内ポケットから鍵を取り出して、キバナに手渡す。ちゃり、と軽い音がしてキバナのパーカーに消えていく。
「……二時間待って帰って来なかったら、オレさま帰るからな」
それは嫌だ。折角の一カ月ぶりのキバナを堪能したい。バトルもしたいし、夕食も一緒に取りたい。キスもしたいし、それ以上のことだってしたい。
でも一先ずは、話し合いだ。これからの俺たちがどんな風にお互いに触れていくのかちゃんと決めて。そしてキバナが二度とランプの精にならないようにしなければならない。