那珂湊のこと

那珂湊でのインタビュー

コロナによる緊急事態宣言の合間を縫うようにして2021年6月から7月に那珂湊の人々へのインタビューを行ないました。那珂湊で生まれ育った人、縁があって移転されてきた人、那珂湊で生まれて一度別の場所に生活を移されてまた那珂湊に戻ってきた人など、インタビューしたみなさんと那珂湊という場所の関係はさまざまです。

那珂湊在住のみなさんに語っていただいたのはごく個人的な経験についてです。戦後間もない時代の記憶もあれば、最近のこと、子供時代のこと、東日本大震災の体験などさまざまな時代の記憶です。語っていただいたストーリーは、過去の記憶は曖昧な部分もあり、また人それぞれで事実との向き合い方には違いがあることでしょう。

インタビューではその記憶に対する思いが加わり、その人にとっての那珂湊でのリアルな現実が見えてきます。

吉田千秋







2021/7/2

元々は地元の富山県高岡市にて、万葉線の第三セクター方式での運営を担当していました。那珂湊で働くきっかけとなったのは、平成19年に茨城県・ひたちなか市・茨城交通の間で湊線の事業運営についての議論のなかで万葉線の事例が紹介され、5月の育成同盟会にて講談を行ったことです。その後、ひたちなか市では万葉線の運営方法と同様の方針を取ることに決定したとの報告を受け、公募での社長募集に同業界の人物を推薦してほしいと頼まれました。しかし、身の回りに思い当たる人物がいなかったため、自分の名前を描いて応募したら選考に通ってしまい、社長に就任することになりました。

ひたちなか市への移住後、新鮮に感じたのは地元住民のよそものへの寛容な姿勢です。これには、江戸時代には中継港として東北からの船を受け入れたり、現代では比較的多くの会社があって外から人が来ることが多かったりすることが所以しているのかもしれません。ひたちなか市には、日本の地方にありがちな閉鎖的・対極的な特性が少なく、外部からの訪問にこちらが戸惑うほど柔軟に対応してくれました。そんな地元の鉄道応援団や行政の方々のおかげで、鉄道事業が成功したと言っても良いでしょう。

那珂湊での生活で印象に残っているのは、「自分たちの地元には良いものが割とあるが、他方のひとにはそれをなかなか分かってもらえない」という地元住民の声です。那珂湊には、今行われている宣伝内容には収まらない魅力が沢山あります。工業・農業・水産業・観光のどこを取っても一級品が揃っていて、非常にバランスの取れた良い町です。だから、もっと積極的にアピールする必要があるのではないかとも思います。

そんな一級品に比べ、沿線事業はゆっくりのんびりしていて、車両や駅も古く懐かしい雰囲気を漂わせていますが、沿線の維持にも大変な苦労が伴うものです。かつての地域住民は鉄道は「無くなっても仕方がない」という意識が強かったらしく、実際に運営を維持する話が持ち上がった際には半数が諦めていたそうです。しかし、これまで鉄道をいかにして維持するかという守りの姿勢を、沿線として鉄道をしっかり動かせるようにする攻めの姿勢に変更し、ひたちなか海浜鉄道は今現在まで維持されている。これは大袈裟かもしれないが、日本の道路交通の考え方を一変させるような大きな意義を持っている事業だと思います。今後も沿線はひたちなか市の観光支援のキャッチコピーとして今後も機能してくれるでしょう。

鉄道の社長だけではなく、地域への関わりでも名が通っています。那珂湊の鉄道事業の活性化は、那珂湊の地域の全般の活性化に繋がると考えています。このような活動を通じて、5年後10年後の那珂湊の姿を楽しみにしています。また、地域への関わりとして、高校生とも鉄道を通じて関わっています。茨城県中の高校生を、それぞれの高校に送り届け、その役割が果たす部分はやはり大きいと思います。

小さいときから、電車だけではなく乗り物全般が好きで、昔乗り物に乗った経験がきっかけに今の仕事に就いています。鉄道にかける思いは強く、自分自身の小さな頃の経験をベースに、現在も働いています。鉄道の文化は小さい頃、全盛期であったこともあり、その分気持ちも強いものになっています。昔からの夢を果たし、現在は、那珂湊から茨城県、そして全国に向けて発信している。今度は自分自身が夢や影響を発信する立場として、那珂湊を拠点に日々働いています。

鉄道の駅沿いのおすすめスポットは、終点の磯崎です。昔の名残が残っており、どこか懐かしいような、新鮮な気持ちにさせてくれます。終点ということもあり、あまり人の往来は多くはない。しかし、それが磯崎のこのような良さを生み出しています。さらに、那珂湊は海が名物で、海辺にいる人々との交流は、一つの醍醐味です。鉄道を通じて、茨城県全体の魅力を生み出しています。

伊藤敦之






2021/7/2

私は、勝田商工会議所に勤めていました。1997年、那珂湊に家を建てました。 2005年、勝田商工会議所と那珂湊商工会議所が合併した翌年ひたちなか商工会議所那珂湊支所勤務になりました。はじめはただ、いい街だなと思っていた。しかしのちに、昔は100名いた子ども会の人数も、今では8名しかいないということを知りました。そこで、湊線の応援を通してこの街をいい街にしたいという思いが生まれました。私は、元々町にある“隠れたいいもの”を磨くことによって、それを表に出して発信し、最終的には外部の人が定住してくれるきっかけになればいいと考えました。

その「隠れたいいもの」とは何か。ずばり、海門橋です。

現在あるのは五代目の海門橋。昔は水浜軌道という電車が走っている橋でした。その電車は昭和5年から13年まで8年間走っていました。昔はこの電車のおかげで水戸から那珂湊まで直通で来られて非常に便利でしたが、大雨で流されてしまいました。それから那珂湊・大洗の行き来は渡船によって20年間行われていました。そして昭和35年に新しい現在の橋ができました。橋のすぐそばには川が流れています。今は幅3mほどしかありませんが、昔は8mほどの運河がありました。地元の人が「昔は良かった」とよく言うので、「昔がよかったなら、昔のことを発信するべきじゃないか」と考えて、応援団として当時の写真をPRしています。写真は昔の観光写真を持っている人から拝借したり、那珂湊の市史から抜粋したりしています。

2011年、東日本大震災が起きて、液状化により那珂湊はズタズタにされました。それにより万衛門川の一部が割れ、私はその時初めて川底を見ました。昔を垣間見た瞬間でした。那珂湊の人口が減ったのは平成8年からです。かつてこの町は漁業の町として栄え、昭和30年から60年代まで人口約3万3000人前後を維持していましたが、遠洋漁業の衰退などで若者は働く場所や遊ぶ場所がないからといって外へ出ていってしまいました。そんな那珂湊を見てきた私は、「どうにかして街を元気にしたい。」という思いで、鉄道を活かしたまちづくりに貢献しています。

活動の一環として、半年前から茨城新聞に週一程度で投稿しています。その中で奇跡的に撮れた一枚がありました。それは白鳥と湊線の写真です。これは本当に偶然に撮れた一枚でした。私は最初、110キロ離れた栃木の男体山と湊線が同時に撮れる場所がここだったため、それを撮ろうと思っていました。はじめは11羽いた白鳥たちが、まるで湊線を見送っているかのようでした。実際は左側のあぜ道から来るおばさんを追っていただけなのかもしませんが…。湊線が来るタイミングと白鳥たちが飛び立つ瞬間が偶然にも重なり、この一枚が撮れました。2月4日に起きた奇跡的な出来事でした。

…とはいえ、私自身普段からよく写真を撮るわけではなく、応援団写真部長の船越さんが海外出張へ行っている間のみ、代わりに新聞やSNSに掲載するための撮影をするだけです。普段の応援団の活動は10人で行っています。また、沿線の自治体の様々な方にも協力してもらっています。例えば、毎月第一日曜日に行なわれる駅の清掃も自治体の協力があるからこそできていることだと思います。また、5,7,10月に咲くハマギクという花がありますが、昔殿山駅の近くにあった那珂湊二高生が、合併のために無くなる前の年に1600株のハマギクを育苗。それを応援団で400株頂いて、中野駅から阿字ヶ浦駅の間の各駅に植えました。その管理を今も各自治会の方にお願いしています。ハマギクの花言葉は「逆境に強い、立ち向かう」。震災や少子化など様々な問題に直面し、奮闘する那珂湊を体現しているかのような言葉です。さらには、那珂湊の約9000世帯に応援団団報(新聞)も各自治会を通して回覧してもらっています。清掃やハマギクの管理だけでも年間延べ1000名の人に協力してもらっています。

団長や船越さん、音楽部のみなと源太さんなど、周りにはすごい方がたくさんいらっしゃいます。私はただの案内係です。皆さんがいなければ、私一人では何もできません。また、湊線を残すという私たちの意見を聞いて下さった当時の市長さんにも感謝したいと思います。市長さんは、私たちの意見を汲みながら様々な湊線の課題解決の決断をしてくれました。また社長さんも運航ダイヤの変更などの要望や市長の決断を本当に実現してくださいました。こうして三位一体、いや四位一体となって皆で一丸となって残してきた湊線だと思います。もちろん市役所のお力沿いや、震災と14年前の廃線危機の時に県の方々が動いて下さったこともです。関わって下さった全ての人に感謝しかありません。

今は外部の人を町全体でお迎えしたいという思いから、マップや開門橋の写真などを自治会や商店街に配布し、地元の人たちに協力をお願いしています。以前よりは協力してくださる人が増えたと自負しています。

奥山晶子







2021/7/16

中村雅俊さん主演の「俺たちの旅」というドラマのロケ地が那珂湊で、駅で撮影をしていた。その時奥山さんは高校生で、この路線を利用していました。帰りの電車などで、奥山さん後に降りてきたりしました。ちらりと見ただけでしたが、人が大勢いてざわついていました。海岸線のところが物語のなかで実家という設定でしたが、そこへ中村雅俊さんが湊線に乗って戻ってきたというシーンだったと記憶しています。そのあとも「フラガール」の撮影も那珂湊線を使ったようですが、世代として中村雅俊さんの印象が強いです。

更に昔のことですが、「姥の懐」という、海の中にセメントを岩のようにして囲っただけの、プールのようなものがありました。そこは潮の満ち引きの関係で朝になると魚が泳いでおり、天然プールのようになっていました。夏になるとみんなそこで泳いで遊んでいました。夏は海以外に遊ぶ場はあまりなく、この姥の懐で遊ぶのが定番でした。冬は雪もあまり降らないので冬の遊びというのは特にありません。

この姥の懐というのは今でもありますが、40年50年前は道路も整備されていない状態だったので崖を伝ってそこまで行き、遊んだあと崖を伝って帰ってくるというようなものでした。ここから10分くらいの距離にあります。

夏と言えば八朔祭りです。男性はお祭りが好きな方が多く、昔は11時くらいに山車がなくなるまで町内に戻りません。私の家は商店街の真ん中にあるので、お店も開けている必要があり、お祭りが行われる3日間くらいは夜通しで営業していました。楽しかった子供の頃の思い出です。

私の生まれたのはこの家です。主人は伊勢の方のご出身で、東京へ出ていた時に知り合いました。その後縁あって結婚し、こちらに戻ってきました。息子はここで生まれ育知ました。私が3、4歳の頃は暖房綿の打ち直しとパチンコ屋を商売としていました。船で上がってきた人たちが、スマートボールというボールをはじく娯楽をやっていました。そのため当時は漁師さんがよく出入りしており、亡くなった祖母が、彼らが来ると息子が帰ってきたかのように漬け物をあげたり、おにぎりをあげたりしていました。その後パチンコ屋をやめて、布団屋を始めました。

10年前、例年8月に行う那珂湊伝統的なお祭りのために、各町は自らの頭巻きを作ることになりました。所在する四町がデザインに詳しい人がいなかったため、美大で総合的な美術教育を受けたことがあるため、そのデザインの依頼を受けました。布団屋ともう一つのお店を運営しており、店を回しながらデザインのイメージを構想したのでとても苦労しました。構想した三つのパータンから最後に出来上がったのは、花びらからできた4町をシンボルとしたものと、お祭りのイメージが連想できるツナのデザインです。ただ、当初に約束されていた10万円のデザイン依頼金が結局もらえませんでした。しかし奥山さんは小学校3年生の時に写生大会に参加し、賞に選ばれて他の人から褒められた気持ちを思い出し、自分の作品が出来上がれば十分に嬉しいと考えました。町内の人で頭巻きのデザインの作者を知っている人は少ないことにもかかわらず、奥山さんがデザインした頭巻きはいまだに使い続けられ、町の人に愛用されています。

ホビーショップ風車 店主







2021/7/30

小学生の時、那珂湊港というのはカツオ船の基地だった。なので高知からの船も那珂湊港からカツオ船の出ていくお祭りがあった。各商店がその時に花火を上げる。その花火にはパラシュートがついていて、パラシュートにはお店の名前を書いた札が付いている。カツオ船が出て行く時に、どんどん打ち上げて、風向きによって陸の方にくると子供たちはそれを拾いに行く。拾ってそのお店に持っていくとちょっとしたお菓子がもらえた。年に一度だけ、カツオ船が一斉に漁に出ていって、7丁目にある橿原神宮にお参りをする。カツオ船が沖へ出て一キロ行かないくらいのところで一回転回って、お祓いしたような感じになって漁に出かける。その時に日中の落下傘の打ち上げ花火が上がるというのが本当に楽しみだった。年に一回だったけど、それがもう30年くらい前にはなくなってしまって。

今、ひたち海浜公園ってなっているところが昔、米軍の射爆場だったんですよ。米軍の輸送機が今の海浜公園のところで旋回して降りてきて、ジープとか物資とか落下傘でおろすんですよ。 ジープを下ろす時は3つぐらいのパラシュートをつけて下ろすのが学校の窓から見えるんです。学校のあるすぐ脇が川で、その川が だいたいその旋回する ちょうどいい距離なので授業がジェット機の音で妨害されることがありました。なので小中学校は全部昭和40年代前半に全部二重窓になって。その旋回するときに後ろの荷物を下ろすところを開けて飛んでるんですよ。結構低く飛ぶんで、自分らの目線のところに米軍の飛行機の後ろに人が立って荷物を降ろす準備しているのが目の高さで 見てたんですよ。でも今は公園になっちゃって、ロック・イン・ジャパンなんかやるようなところになっちゃったけれども、米軍の時には滑走路は 旧日本軍の滑走路で、穴の開いた鉄板が引いてあったんですよ。そこはみんなが秋になるときのこ狩りに 勝手に入って見つかるとジープで追われて、キノコ採るくらいだったら適当にやらせてたんだろうけど。

阿字ヶ浦海岸。あそこっていうのは昔昭和の半ばの頃は東洋のナポリと言われて夏休みの海水浴シーズンに 上野から直通列車が来たんですよ。勝田で湊線に入れ替えてそれで午前直通が入ってきて、阿字ヶ浦で降ろして夕方また連れて帰る。7、8両 連結しているのかな。湊線なんていうのはいつも一両か二両なので、 ホームから何両もはみ出ていてっていうのもありましたからね。

自分は子供の頃からお店をやりたいっていうのがあって、喫茶店をやりたかったんですよ。 だけども喫茶店は無理で、その後趣味だった模型をやろうと思って、会社に勤めたりもあって日立の会社にいてビデオなんか作ってたんですよ。その時に ライン長をやって 20人のグループぐらいを上になってやってんだけど上のいうことと下のいうことと間に挟まって、それに耐えられなくて、これだったら自分の好きな事なんかやろうっていうことで黙ってお店を始める準備して。会社を辞めた日とお店を始めた日が同じ日なんですよ。そんな感じでお店をやりたいということで模型をやって、模型だけではダメだということで半分駄菓子やってまあその、そうやって子供らと戯れてもう25年過ぎちゃいました。

悪ガキグループっていうのがパターンがあるんですよね。 悪ガキグループがあっておとなしくなってまたまた悪ガキグループになるとか。始まって5-6年の頃かなぁ、学校行きたくないという女子が2人、中学生で もう学校行かないんで、親からも見放されて ぶらぶらしてた子が、昼間「おっちゃーん」って来て、外のテーブルで要するにみんなが授業しているときに 話し相手になってた子が2人ばかりいるね。今はどうしているのか、わからないけれども。あれから20年近く経つから。結構子供らの相談にのったり、良い事悪い事、どちらにしろ そういったことはありますね。親に言えないようなことでも話ししてくれるようなことありましたね。

一番最初欽ちゃんの仮装大賞で衝撃受けたのは 子どもが一人で「アジの開き」をやったのを見て「こういうのでいいんだ」って。どんどんどんどん 作りたくなって始まったんですけど 、一回目線香花火というのを やって。それはテレビに出られたんだけども、出るまでに3回ぐらい予選落ちしているんですよ。予選落ちてもう仮装大賞を辞めようと思って荷物整理して日テレで帰りの準備をしてエレベーターの前で椅子があるところでちょっと座ってたんですよ。そうしたらwahaha 本舗のあの一番上の喰始(たべ はじめ)さんっていう方が 審査員でいたんだけどその人話しかけてくれたんですよ。喰さんと 5分か10分お話ししてたかな「もう一回だけがんばってみたら」って最後に言われて、もう辞めようかなって思ったのを もう一回 だけ挑戦しようって思わしてくれたのが、喰始さんだったんですよ。 それから次の回の時になんとか合格になって本戦まで行ってテレビに出て。1回メダルを受け取ったら 「もう1回やりたい」って、ずっと挑戦するようなちゃって。今ではADで下っ端だった人が プロデューサーになっている。20何年予選会場通っているうちにそこに行くと仲間がいるという感じで、その人らに会って 楽しむということですね。みんな 仲間なんだけども個性があるんですよ。できたら10回までというのがあって、もう準備はしてあります。あと1回出れば10回だから。

「風車」っていう名前の由来は昔結婚する前に葉山でヨットやってたんですよ。2年間 あの自動車会社にいてその中のヨット部にいて、土曜日曜はずーっとヨット乗ってたんですよ。

風というのが ものすごい自分の中にあって。だから子どもの名前にも長女が生まれた時にに絶対 風か帆船の帆をつけるということです。文字に入れてそれで やっぱり船とかそういう風とかが好きなので 風でいったらやっぱり風車っていう感じで。風車(ふうしゃ)っていう人と風車(かざぐるま)っていう人がいますね。ヨットを2年間やってたその風から来てるんですよ。あとバイクが好きだからね バイクの仲間も結構来るかな。

16の時高校1年でアルバイトをやって牛乳配達 新聞配達やって、中古ですけど250ccのバイク買って高校2年の時に北海道一周1人で行ってきて帰ってきたら目標を達成してたんで ポカーンとして次の日バイク乗って上野行ったんですね。 そこでバイクを売ってヘルメットだけ持って常磐線で帰ってきてしまった。北海道にバイク で行くんだっていうのが すごくあってそれでええ一周してきたら 燃え尽きちゃって次の日上野で売ってきちゃいました。

でも やっぱりその頃だって自分車好きだったから中学1年から1人で東京モーターショーに一人で常磐線に乗って晴海まで行ったんです。

ホント変わりもんで。

鹿志村吉信






2021/7/2

昭和22年4月29日、近所で大火がありました。私がまだ物心つく前の三歳半だったので、この時のことはあまり記憶に残っていません。この日を境に街並みは大きく変わっていきました。幸い梅藤米穀に大きな被害はなく、ずっと昔からここで営業を続けています。

私たちが小学生の頃は、道路は右曲がりで、突きあたりにある駐車場にぶつかるクランクの形状をしていて、砂利の上り坂でした。歴史的観点から見て、外敵に攻め込まれても待ち伏せできるようにこのようなクランクの道が多くあったそうです。これは港町の特徴でもあるらしい。しかしこれらの狭い道路は火が燃え広がる原因に認定されてしまったため、大火の後大きく改変されてしまいました。それほどまでに大火の影響は大きく、海岸沿いの広い範囲が全部燃え、街の様子を一変する出来事でした。

その後も、区画整理や道路基準の変更によって街が様々に整備されました。各地で町名変更があり、過去の人々に名付けられた町名には由緒ある歴史や昔ながらの良さがあると私は思います。これらの良さがなくなってしまったのは悲しいことです。

私は学生時代大人しい子どもでした。戦争について、はっきりとは覚えていません。今でも覚えているのは、湊公園近くの中学校からたまに富士山が見えたことで、海から近くにある学校の景観は大変素晴らしかった。小学校の頃、今では考えられないですが、授業中にも関わらずクラスで旗を持ち、船の出航(出船)を見送っていました。港をみんなで支えている仲間意識が感じられる良い思い出として、私の学生時代の中で強く印象に残っています。

私は小学生の頃、授業中に舟の出向を見送りに港へ行くことも多かった。港を支えている大事な存在として感謝の気持ちがありました。その人たち(漁師さんたち)が漁へ出る前や後に、天満宮の「御祭禮」おみこしや屋台が出るお祭りを開催していました。現在もお祭りは存続しています。8月24日頃か9月の初め頃にやることが多い。例えば9月にお祭りをやるのであれば、帰ってくる日程に合わせていて、行く前の日程に合わせるのであれば8月24日頃にやります。

私は生まれながらにして米屋になると思っていました。小学校の卒業文集では「自分は米屋になる。家業を継いで信用される商人になりたい」と書きました。そのように書いたことは覚えておらず、20歳くらいになって友人に文集を見せられて思い出しました。その頃は誰もがある程度自分の進む道というものを漠然と決めていたのだな、と思っています。

私の母親と中学校の先生が、進路相談で面談をした際「もう鹿志村は勉強しなくていい」と先生に言われました。その面談の帰り、母親は喜んで帰ってきました。

文集の中で、ただ「商人になりたい」と書いたのではなく、「商人になるには算盤が大事だから、算盤を一生懸命学んで上手くなって信用される商人になりたい」と書きました。そのため私は高校生の頃、勉強は適当にやって、算盤だけ頑張りました。算盤の競技会にも出ました。

高校卒業後は、昼間は米屋をやって、夕方は算盤塾で生徒を教えていました。港の子供たちに算盤を教えて、競技会でいい成績を取らせようと頑張っていました。そのあと街づくりに注力するようになり、忙しくなったため先生を辞めました。その後、教え子がソロなんの先生になったりもしています。高校生の頃は、算盤に熱中したり、高校一二年性の頃は柔道部で活動したり(一年生の頃、初段をもらった)、三年生の頃は弓道部の初代部長にもなりました。このように時間を無駄なく使う性だったこともあり、米屋と算盤塾の先生をするという両立は忙しかったけど苦ではありませんでした。私にとっては、両方やってちょうどいい塩梅くらいでした。

私が26歳の頃、商工会議所の青年部ができ、その翌年には青年会議所ができました(発足メンバー)。これが街づくり活動の原点となっています。40歳で青年会議所は卒業ですが、私は39歳の頃に理事長を務めました。那珂湊の人は、青年会議所を卒業した後ロータリークラブとか商工会議所の議員とかで街づくりに取り組んでいくのが流れです。

物理的な街並みの変化と同時に商店街の在り方が一昔前より変わっていきましたた。コンビニや大型商業店が生き残って、専門店や小さな小売店が生き残ることができなくなってしまいました。もともといた人たちが減っていって街づくりをやらなくなるから余計にこれまでの商店街のありし姿が失われてしまいます。“謎のシャッター通り”とよく言うけれど、そうなるようにできているのでは?若い人たちが後を継がなくなっていることもこれからの課題です。お店がたくさん開いている頃はお客さんも入店し易いけれど、だんだん減ってくるとそこに魅力がなくなり新しくお店を出そうとする人も少なくなって…どんどんダメになります。新聞の投稿欄で、「久しぶりに地元の駅へ降り立ってみると、あまりにも景観が変わっていて驚いた」というものを一昔前はよく見かけましたたが、最近はそういう類の投稿さえなくなっています。つまり、幼少期を過ごした地元を離れて戻ってこないことが当たり前の時代になっているのだなと思います。これからもっとこの課題に対していろんな角度から取り組んでいく必要があります。

外部から来た人に、港の人は「のんびりしている」「活気がない」と言われます。よく捉えれば、人に優しいとか思いやりがあるということでしょうか。ただ、よその街に負けまいと競い合うような人が少ないと思います。港では、昔から自給自足の街だったから「食べるのに困らないからいいや」とのんびりしている人が多いのかもしれません。稲垣ゼミやこのプロジェクトのアーティストたちに、街の人が気付かないようなアイデアを入れ込んでもらうことで大きく前進すると考えています。

深作砂稚子







2021/7/16

夫は二十歳の頃から外国航路の貨物船の船員でした。その航路で立ち寄った島で私たち2人は出会いました。夫は「出身、茨城なんですよ。」私は『茨城って東北ですよね?』で、夫は「いや関東ですよ!」私が茨城県民になる最初の会話でした。私は浜松出身で、海外よりも茨城で暮らすほうがカルチャーショックが大きかった。結婚前は休みの日は南の島でゆっくりしていましたが、結婚後は年末年始を茨城で忙しくすることになります。

戦後20年頃を思い返すと、夕飯の後は外に縁台を出して父が夕涼みをしたり、ラジオで野球を聞いたりとゆっくりとした時間が流れていました。そして静岡で社会人になってからは年末年始を海外でゆっくり過ごしていました。しかし、結婚をして一ヶ月後、夫は貨物船に乗ってアフリカで取れた鉄鉱石をフランスやベルギーに送り届けるために10ヶ月もの間家を空けることになり、私は年末年始を夫家族と茨城で過ごしました。初めて茨城で過ごす年末年始は、海外でのゆっくりとした時間はどこにもなく、大掃除や年始の支度など忙しく時間が過ぎていきました。長年年末年始の行事という物が抜けていたのもあり、20年の時を経て小学校の頃にタイムスリップした気分になりました。

二十歳の頃は勤めていた企業が日・月休みで、仕事終わりにあちこち一人旅をすることが多かった。浜松という場所がいろんな場所へアクセスが良く、仕事帰りに浜松から名古屋へ出て、夜行バスで朝焼けの善光寺へお参りしに行ったりしました。しかし、その頃は女の一人旅は自殺願望があると思われていた。そのため野沢温泉へ行った時は、心配した旅館の女将さんが夜にコタツへ来て、どんぶりいっぱいの野沢菜とお茶を淹れてくれたこともありました。

現在もクラフトイベントなどで様々な場所へ出向くことが多いため、若い頃経験した一人旅の感覚と似たような所があります。夫も様々な場所に旅をしてきたためいろいろな場所にルーツを持っており、クラフトイベントで出向いた場所でも、地元のスーパーに買い出しに行ったりとまるで昔からそこに住む地元民のような振る舞いをしていることがあります。

私達夫婦は物を作ることが好きで、家の中の小物や小家具も手作りしていました。昭和の終わり、円高の際に、勤めていた船会社が希望退職者を募っていました。退職金が多いのと、子供が2歳くらいでそろそろ腰を落ち着けようと思っていたのと、借金しなくても店を開ける状態だったことから、退職して水戸の美術館の近くお店を始めました。22年くらい働いた後、道路工事のために他の場所に移転し8年続けました。その後、展覧会が重なったり、震災が多く人が店に買いに来ることが減り、お店を閉めようかと考えました。しかしお客さんから店を続けてほしいと言われ、引っ越しという形で那珂湊に戻り、再びお店を開きました。

法事に行った際に、コロナウイルスの蔓延で悲しいことが多く、他者に対して深い思いを持てるようになってきているという話をしました。普段は忙しくてじっくり物事を考えず、水上スキーのように表面上だけをとらえて速く進もうとしてしまいますが、コロナ禍においては感謝の気持ちが増えたりと、深くゆっくり進んでいけます。今まで店に行ったり、親戚が来たりと忙しかったのですが、コロナ禍になって家族4人水入らずの時間が増えました。一緒に食卓を囲む時間を嬉しく感じます。始めはいつ終わるのか不安になることも多かったが、今はそれなりに頑張っていれば時間が過ぎていくのだと思えます。これからはクラフトイベントへの出展数も少し減らして欲を出さずに暮らしていこうかなと考えています。

田舎(那珂湊)で暮らし始めた際は、何を話しかけられても通じない、分からない、怒られているように感じまし。 (那珂湊は)漁師町で男達は漁に出ていくため、女性達は強く、例えば「そんなところにいないでお茶飲んでいきなよ!」と強く言われた時に、怒られているのかと思ってしまいました。しかし、逆に遠回しな物を言いをする都会の人たちよりも、ストレートに物を言ってくれるためとても気が楽になりました。子供が生まれた際には、母親は大切に扱われ、身の回りのことは全て親戚や周りの方がやってくれました。そこで、頼ることの大切さと、子供は社会的なものであることに気づかされました。特に義父母は働くことへの理解があり、共働きの私たちの代わりに子供を見てくれました。頼られることも幸せなことだと思うし、社会が子供を育てているのだと実感しました。また、那珂湊ではとてもせわしく毎日が過ぎてゆきます。漁師町のため「潮は待ってくれない」という気質があるのだと思います。今まで核家族で、ぼーとした暮らしを送ってきた私にとっては、親戚がたくさん来たり、年末年始を忙しく過ごすことはなく、このような田舎の暮らしは大変ですが、いろんな暮らしをしてきたことで、面白味のある、楽しくて良い人生を送れたと思います。

那珂湊在住の方

(匿名希望)






2021/7/10

私は、那珂湊第一小学校、那珂湊中学、そして高校は大洗の方で学生時代を過ごしました。那珂湊中学は、みなとメディアミュージアム参加アーティストの君嶋海裕さんと同じ中学ですが、少し代が違っているので建物も違うと思います。東京でサラリーマンとして寮に住み、那珂湊を離れていた時期もあったが、現在は那珂湊で家業を継いでいます。

小学生の頃は近所の同級生とよく遊んでましたが、中学に上がるとテニス部の同期などと遊ぶことが多かったと思います。部活では、木の枝を集めてゴルフをするなどあまり真面目に取り組んでいませんでした。しかし、那珂湊中学は、15年ほど前にサッカー部が好成績を残したことがあり、その時はそのサッカー部員のたまり場である駄菓子屋に町の外部からの女子も殺到し、駄菓子屋が儲かったこともありました。また、小さいころからよく知っている那珂湊の町の様子は、基本的にはあまり変わっていませんが、商店街のお店は少なくなってしまいました。文房具屋さんや八百屋さんもなくなってしまったり、本屋さんもなくなってしまっています。現在では多くの人が本をネットで購入することが増えているからででしょう。東日本大震災以降、人々は暮らしの安心安全を求め高台の方に住む人が増えました。

みなとメディアミュージアムに関わるようになったきっかけは、10年ほど前、那珂湊地区のブロック長をやった時に後輩に教えてもらったことからです。縁もゆかりもない人が那珂湊の地に訪れて作品を作ってくれることはありがたいことだと感じています。現代の人は、自分に年の近い人との関わり合いが多いせいか、ほかの人とのコミュニケーションに慣れていないと感じることがあるが、このような作品制作を通して関わっていきたいと思います。

那珂湊公園には、みなと公園を中心に3回足を運んでいます。7.8年前にみなとメディアミュージアムに参加した、映像を撮る坂さんとともに『那珂湊夏物語』という映像を撮ってつながりを感じることが出来ました。夏の妖精さんとかが出てくるような映像だでした。本来なら公園で映像を流したかったが叶いませんでした。隣の神社の松で後輩が妖精になって、川崎クリーニングでもロケを行いました。その映像はYoutubeには載っています。群馬の芸術祭にも提出しました。

今ではもうお祭りは自然消滅してしまいましたが、当時は沖縄県人会におねがいして、沖縄の人に踊りに来てもらったことがあり良い経験になりました。その際に那珂湊の校長先生と作品制作の話が進み、子どもたちに絵をかかせて町中に飾りました。イベントをやっている建物の横に子どもの絵を展示して終わり次第町中に展示しました。残念なことに建物が一軒火事で燃えてしまい、家の人がお詫びをしたいということだったので、商店街の人と学校にお詫びをしました。

大里千恵子







2021/7/15

私は今年(2021年)からみなとメディアミュージアムに関わり、現在実行委員としても活動しています。実行委員の傍ら、小学校4年生の息子と1年生の娘を育てる二児の母です。北茨城出身で、2010年に結婚を機に那珂湊に移住しました。しかし移住するまでは訪れたことはありませんでした。その後、二人の子どもが生まれたため那珂湊は私たち家族にとって大切な土地となりました。私にとって那珂湊は「コンパクトな町」です。徒歩圏内に生活必需品が揃い、車がなくても暮らしやすい町だからです。商店街や港も栄えており、同時に「面白い町」という印象でとても快適に楽しく過ごしています。また、以前住んでいた実家は駅まで徒歩30分と車がないと生活しづらかった為、徒歩圏内で生活が事足りる那珂湊の暮らしやすさがとても心地よいのです。

東日本大震災時は看護師として那珂湊の精神科病院に勤務しており、職場で被災しました。震災の4カ月前に那珂湊に移住し、まだ近所との繋がりが浅い状態だった為、震災後は不安な日々を過ごしました。水道や電気などのライフラインも止まっている中でも何とか生活をしていました。那珂湊は震災による津波の被害はなかったものの、海が近い為、被災後暫くは恐怖を感じていました。震災を想起させる津波の写真を見られるようになったのは少し先のことでした。移住して10年が経ち、地元の繋がりも出来て安心しています。

那珂湊での思い出深いエピソードは、ある年のみなとメディアミュージアムで出展されていた青いTシャツの展示である。開催期間中、強風や雨が降っても那珂湊の駅前で展示されていたのが印象深かった。当時は作品だとは気づかず、後からあれは展示されていたアートだったと気づきました。毎年、夏といえばその青いTシャツが思い出されます。イベント開催中、アーティストと実行委員の滞在する場所の必要性を感じ、初めは「ミナトハウス」としてアパートなど場所の提供をしていましたが、後に実行委員としてみなとメディアミュージアムの中心で活動するようになった。2008年から現在までの13年間携わっています。

みなと八朔祭りについて、伝統的で盛大なお祭りを見たのははじめてで、衝撃を受けた。那珂湊に移住してよかったことの一つです。商店街の出店でビールと焼き鳥、子どもたちはかき氷などを買ってお祭りを見ることが毎年の楽しみで、おさかな市場の十字路が定位置です。お祭りの音や暑さを体が覚えているせいか、印象的な思い出です。掛け声、しきたり、毎年再発見するので飽きることもありません。また子どもたちが小学校に上がってからは参加する側としても楽しんでいます。

・息子と乗った電車

結婚間もないころは電車通勤だったので、湊線を利用する機会が多かった。駅同士が近いので寝過ごしそうになったことも多かったです。電車に関する思い出深い出来事は娘が生まれる前に息子と乗ったことです。娘が生まれる前日、普段そこまでわがままではない息子がどうしても電車に乗りたいと言って駅まで歩いて行ってしまいました。手をつないで乗り、一往復だけ付き合いました。その翌日に娘が生まれたので、息子はしばらく自分との時間は取れないだろうと感づいていたのではないかと感じました。出産後しばらく電車に乗れなかったので、とても思い出深い出来事です。

子どもたちがおばあちゃんや夫と過ごす時は、駅の自販機でアイスを買い駅内で話して帰ってくることも未だにあります。子どもたちにもずっと那珂湊を好きでいてほしいと思います。

小山田幹男







2021/7/16

私は精肉店を営む前は 修行で一時期川崎に行っていましたたが生まれも育ちも那珂湊です。 那珂湊は昔に比べて大きく変わりました。 この街には面白い場所がたくさんあり 歴史も深く大好きですが 世間にあまり知られていないのが残念です。 那珂湊も茨城県もそうだが、いいところを他にPRせず自分たちだけで楽しむのがよくないと思います。

歴史を遡ると那珂湊は昔、西の大阪、東の那珂湊と呼ばれるほど栄えたところでした。 東京への水運の拠点であり漁師町でもありました。しかし、蒸気による汚染を恐れて開発が少し遅れてしまいました。 それによって残ったものが海浜公園として現在にも存在しています。やがてロックインジャパンの開催、水族館の建設、磯場遊びの名所として人がたくさん訪れるところとなりました。しかしゴミ問題、 廃棄ガスの問題もあり 結局物流だけの流れにとどまってしまって那珂湊の良さが生かされていないのが現状です。昔はあったはずの井戸端会議などもなくなっていき、コミュニティーが崩壊してきています。

この状況を変えるべく、世代交流のために ナイトマーケットという夜市を月1で企画しました。雨が降ってもその分サービスするなどとして人と人との繋がりを大切にしました。 この人との繋がりを見て感動した人もいました。この試みは23年間続いており成功と言えるでしょう。このように何でも責任転嫁で周りのせいにせず、自分でまず行動してみるというのが私の信条です。10年前には震災もあったが、逆にみんなで団結しようといういい転換期になったと思います。 しかしみなとメディアミュージアムなどの大きなイベントがたくさんあるにもかかわらず、リンクできないのがとても惜しいと感じます。

私はこの精肉店を営みながら店づくりというものにはとても力を入れています。 特に表にある看板をどうするかということには常に頭を悩ませています。 私は営業計画に基づいてお店の仕掛けを作っている。それにお客さんが反応してくれます。こういった街づくりで 学んだことがこの肉屋を営む上でも役に立っています。作業過程が省かれ、市場に直接行かなくなったりと肉屋も先代の時代に比べて大きく変化しました 。そういった変化もあり、様々な大型量販店、スーパーマーケットが増えていく中、ショーケースの中の商品をいかに綺麗に見せ、どのように商品を売るかという専門店独自の工夫はとても求められていると感じています。私は企業には導入期、成長期、成熟期、衰退期という企業ライフサイクルがあると考えています。衰退してきた時になんとかしなくてはというのはとても力を要するので、成長しているうちに次の一手を打つ、 いい時こそ次のことを考えることが大切です。/そういった意味ではコロナ禍において卸部門がまるっきりダメになってしまっています。

しかし一方で、おうち時間が増えたことによって、週末に少し外に出た分いいお肉を買おうとするお客さんも増えました。また東京で緊急事態宣言が再び発令され、宅配業が多くなりました。長年経験してきた信頼とお客さんに認めてもらっている部分を、そういったところで感じることができています。商売事だけでなく町のことも考えて汗を流しているからこそ、「どうせ買うなら鳥惣で買おうじゃないか」となってくれます。昨今はいろんな形でコロナ関連のニュースが報じられていますが、頭も使いながら生活していかなければならないと思います。

昔は「ちょっと出かけてくるね」と鍵を閉めないでも外出できました。地域のコミュニティが届いているから、防犯もある意味では繋がるような形でした。近所のベンチでもよくおじちゃんの井戸端会議がみられたが、みんななくなってしまいました。 今は家を作るにしてもプライバシーを守るために建築しなければなりません。泥棒が入っても、周りから見えないから全然わかりません。犯罪や火事など、いざ何かあったときに「あそこの部屋に誰々ちゃんがいる」と知っていれば助けることができます。しかし今の世の中ではそういうところがわかりません。そのため地域のコミュニティがだんだん少なっていると感じます。

自分のことだけで精一杯になってしまう人が多くなりました。だから自分の悩みを人に相談できないし、自分1人で悩むしかありません。一番はこの年間通じての自殺者が非常に多いことです。 昔はそんなことなかったため、コミュニティの崩壊というものは様々なところに影響しているのではないでしょうか。

子育てに関してはよくできたのではないかと思っています。子どもは娘が1人の3人、 たまたま私の家内が保母さんだったこともあってか、子どもの小さい頃は任せきりだった。今は実際のところ忙しくて休みもあまりとれませんが、 長期休暇には無理をしてでも休みの日をとり、家族の時間をとるようにしています。家族のコミュニケーションは大事にしています。

今時珍しいかもしれないが、当時の家内は子どもをおんぶしながら仕事をしていました。なかなかそういった姿は今見られません。子供というのは親の背中見て育つものです。年末なんかは特に忙しかったため、そういう姿見ているとそれなりに子どもは育つのだなと思いました。休みが多く頻繁に出かけているから幸せなのではなく、しっかりと仕事している姿を見せることが大事だと思います。

私はサラリーマンでいえば今定年だが、40歳後半ぐらい経ってから商売の面白みがわかってきました。なにか仕掛けるとお客さんが反応してくれます。あるいはそれが、売り上げという形で跳ね返ってきたりします。それが年間数字として結果が後からついてきます。そうして周りも私がやっぱり間違いなかったというふうになります。自分が一生懸命やった分給料が上がるという一つの目に見える結果をもらうのは嬉しいものです。

コロナ禍には、全体的に売り上げが落ちましたが、営業利益が相当上がりました。父は大きな本屋さんをやっていたが、倒産してしまいました。私は男3人兄弟で、父としては男3人に継がせてもう一度それを再興させたいという気持ちがあったということですが、 母が人生のルートは他にも沢山あると、猛反対しました。結果、3人それぞれの異なる職業に就きました。兄弟2人は管理職について、私のお店のバックアップを行ってくれています。一時は苦労もしたが、兄弟や家内、娘の協力もあって、今は非常に上手く回っていると感じています。

君嶋海裕







2021/7/10

生まれ育ったのは、那珂湊駅の坂の上の南神敷台というところで那珂湊の商店街とは少し離れた場所です。

何年か前に那珂湊駅から10分ほど歩いたところに「まがみ」というおもちゃ屋さんがありました。今はシャッターがおりたままで、営業していないようです。そこには子供の好きなクマやビー玉などのおもちゃ、ゲームのカセットなどが売られていました。小学一年生の頃から兄弟などと通っていました。そこで、150円くらいのお小遣いでカードやアイス駄菓子などを買っていました。

兄弟は3人です。兄が2個上で弟は3つ下。弟はまだ小さかったため兄と兄の友達にくっついてよく行っていました。兄弟と遊んでいたのは小学一年生の頃の話です。小学3-4年の頃は同級生と遊ぶようになりました。買ったものの中で大事にしていたものはビー玉のおもちゃです。初めて買ったおもちゃで、予約して買ったのにも関わらず装備だけで本体がなくては遊べないと気づき、ショックを受けた思い出があります。本体の方はトイザらスでのちに買いました。カードゲームや男の子もののおもちゃが好きでした。おもちゃ屋さんは4、5年前までは開いていたと思います。お店を経営されていたおばあさんが亡くなってしまったという噂を聞きました。そして続ける人がいなかったのではないでしょうか。

家の近くには、駄菓子屋さんがそこともう一つの「風車」というお店しかありませんでした。そっちでは父親とガンダムの雑魚キャラのプラモデル(塗装もされておらず、ボンドがないと組み立てられないようなもの)を買って、父親に助けてもらいながら組み立てた思い出があります。中学生の頃はお金がなく、どうしても儲けたいという思いから、「風車」に売っていた型抜きをよくやりました。やって成功すると200円や500円などのお金がもらえたので、それでお金を増やそうと型抜きに熱中していました。とても湿気ていてすぐ型が折れてしまったので。今考えたらマイナスでした。プラモデルやおもちゃなどをあまり買うお金がなかったから、なるべく安価に済まそうとしていた経験は、ものごとを考えて工夫するというときに活かされている気がします。

那珂湊にずっと住んでいるわけではありません。高校は水戸の高校に行っていました。大学は埼玉へ、そして那珂湊に帰ってきました。木工や立体をつくることがすきだったが埼玉のアパートでは作れないため実家の那珂湊へ帰ってきました。大学を通っている間に実家に帰ってきた際に那珂湊には遊びに行く場所がなくて、寂しかった思い出があります。だからこそ、那珂湊が地元の人が帰ってきた際に居場所になるような環境を作りたいと考えています。現状は自分だけの居場所。周りの友達が帰ってきてくれるようなものにはなっていません。

10年前のMMMは存在すら知リませんでした。3年前から関わってきました。実際にMMMに参加した時は、驚きました。一番驚いたのは、こんな多くの人たちが那珂湊に来ていることです。このことを知らなかったことに後悔も感じました。それと同時に、那珂湊は何もないと思っていたけれど、可能性のある街なのだと気づくことができました。

【具体的にどこに可能性を感じたか】

やる気のある人たちが集まっているところに。田島さんを初めとした、芸術が好きな人たちといれば那珂湊を変えられると思いました。

【将来那珂湊でやりたいことはあるか】

毎年商店街で働いている人の中から1人を油絵で描いているため、肖像画個展を開きたい。個展で那珂湊の商店街を再現してみたい。半年に一枚描き上げているから、10年後には開けるかなあ…。実現するのが楽しみです。

【元々絵は描いていたのか】

小学生の頃、美術で描いたもので賞をとったり普段から落書きをしたりしていた。中学生の時は本当は美術部に入りたかったけど、美術部の男子はなよなよしているイメージがあるから、周りの目を気にして野球部に入った(笑)

本格的に絵を習い始めたのは大学生の頃からだった。大学には美術の授業がないため、大学の近くにある怪しげな絵画教室に通っていた。半年ほどデッサンをしていたが先生と喧嘩してその絵画教室も辞めることになった…(笑)

【絵を教えたりはしないのか】

ゆくゆくはやりたいが、まだ教えられるほどではない。現在は、油絵を公募展に出したり、水彩画を描いたりしている。

【那珂湊で他に絵を描いている人は?】

同級生では知らないが、身近ではおもちゃ屋を経営していた三好さんという70歳近くの方が、毎年牛の絵を描いているとのこと。

【中学生の頃は皆どこに出かけるのか】

男の子は風車に行く子が結構いた。

女の子は風車ではなく、少し離れたところにあるスーパーのゲームセンターにいた覚えがある。また、夏は八朔祭りや海に行く人が多かった。

【今も中学生の頃の友達と繋がりはあるか】

上京していたり、仕事で忙しかったりとなかなか会えていない。

【野球部とは?】

野球部は那珂湊に残っている人が多いから、草野球チームを作って活動している。月一度練習があったり試合があったりして、人手不足だから呼ばれるが、自分が行っても足手まといになってしまうのであまり行っていない。