ゲノム動態から生物の多様性を理解する
ゲノムとは細胞にあるDNAという高分子の並び方(配列)にみられる情報です。その一部は遺伝子と呼ばれますが、実際に遺伝子が占めているのはほんの数パーセントにすぎません。ゲノムをもとに生物の形やその機能は決定するため、「生物の設計図」と表現されることもあります。この「生物の設計図」はDNAという分子として親から子に伝えられ、マイナーチェンジしつつも、生物の多くの形や機能を遺伝させています。
生物の驚くべき能力をみると、私たちはその設計図が非常に精緻にデザインされたものだと想像しがちですが、実際にしらべると理解しがたいほど偶然的な産物であることがわかります。ゲノムの中から「重要」と考えられる要素、例えば遺伝子だけを見れば、生物の機能や形がどのような分子の反応でできているのかをシンプルに理解することはできますが、それだけでは「どうやってそれができたのか」を理解することはできません。例えば、どんな重要な遺伝子も生物の進化史のどこかではじめて生まれており、ゲノムの動態を多角的に調べなければそれが生まれた原因を知ることはできません。世界に存在する多くの生物、その多様な形や機能は、もともと共通の祖先がもっていたゲノムが複製されつつも変化していった結果として生じたものなので、生物の多様性を理解するためにはゲノムの動態を理解することが大切なのです。
私はゲノムの中の特に自律的な要素に着目しています。それは、ゲノムの中のいわゆる「重要」な要素が協調的に働いて生物の形や機能を形作るのとは対照的に、生物の見かけには全く影響を与えなかったり、ときにはその協調を裏切ったりする要素で、生物学の中でも見過ごされがちなものです。しかしそれらは、ゲノムの動態の制限やルールを作り出し、最終的には生物の進化の可能性を決定していると考えられます。
具体的な研究テーマ
線虫でせまる生物の「種」を作り出すゲノム動態
生物の多様性を理解をする上で避けては通れないのが一つの生物の種から複数の種が生じてくる現象、「種分化」です。ゲノムは交雑(有性生殖)により能動的に混ぜ合わされますが、それが可能である生物個体のグループを「種」といい、一つの種が二つ以上にわかれる現象を種分化といいます。種分化により、わかれた種はもはや交わることがなく、それぞれちがったゲノム進化の道をあゆむことで全く違った生物へと進化します。生物の多様性は種分化の産物だともいえます。
ここで大きな研究のテーマとしてあらわれるのが「種を作り出す原因となるゲノム要素の同定とその一般的法則の探求」です。このテーマは長い間ショウジョウバエやマウスなどのモデル生物で研究されてきました。近年になって多様な生物種でゲノム配列の解読や遺伝学的操作が容易になったことにより、その研究は広がりを見せています。私は博士過程から長い間二種類の魚について研究してきました。以下の項目にあるようにそれぞれの魚には進化生物学的に面白い背景があり、そこで多くの発見がありました。しかしながら、ゲノム動態の影響をより直接的に調べるためには、ゲノムを実験的に操作し、その影響を世代をこえて解析していく必要があります。一方で、実際にその生物種がどのような種分化をしてきたのかを理解するため、多くの種のサンプルが必要になります。
そこで私が目をつけたのがプリスティオンクス線虫(Pristionchus nematodes)でした。線虫(nematodes)というのは通常1mm以下の小さな動物で、ギョウチュウやアニサキスなどの寄生性の線虫が有名です。プリスティオンクス線虫は広く土壌に生息している線虫で寄生性ではありません。プリスティオンクス線虫は甲虫を代表とした節足動物によくくっついていて、動物が死んだときに湧いてくる細菌を食料にして暮らしています。実はこの特徴により、昆虫などを採集することで、簡単に違う種を見つけることができるのです。この方法で、マックスプランク生物学研究所のSommer研究室では過去10年間に50種以上のプリスティオンクス線虫の新種を発見、記載してきました[学術論文17, 19, 20]。その中にはとても近く、交雑して子供をのこすことができる種のペアもあります(しかし、雑種は子供をのこせない)。これは種分化の研究にうってつけというわけです。実験的にもこの線虫は特に優れています。プリスティオンクス線虫は短い世代時間、凍結保存、多様な遺伝的操作の手法など多くの実験的な利点をもっています。特に短い世代時間により、実験的に世代を越えて何が起こるのかを調べる実験進化を行うこともできます。
私はシニアスタッフサイエンティストとして、プリスティオンクス線虫を使った発生生物学の権威であるラルフ・ゾマー先生(マックスプランク研究所、ドイツ)のもとで、「プリスティオンクス線虫を使った種分化研究」を一から立ち上げ、プリスティオンクス線虫の近縁種間の生殖的隔離とその原因となるゲノム変異の研究を2016年よりはじめました。その結果、驚くべきことに私が魚で研究していた「染色体進化による種分化」を線虫においても再発見し、その進化メカニズムを解明しました[学術論文25]。これにより、ゲノム進化と種分化の関係性を理解するための強力な実験系が完成し、その研究は現在、波及的に展開しています。
染色体転座と性染色体進化、その原因と影響
染色体というのはゲノムの構造的な機能単位で、ヒトの細胞の核であれば46本の染色体でゲノムを構成しています。生物種によってその数は数本から百本と大きく数を変えることがよくありますが、実はどうしてそんな違いがあるのかはよくわかっていないのです。通常は染色体が融合したり分裂したりして数が変わりますが、この融合や分裂(または、その部分的な交換)などを染色体転座といいます。
染色体転座自体は生物の形や機能に大きく影響を与えないことも多々あります。遺伝子の並びが変わるだけでその機能は保持されることが多いからです。しかし、私はその変化のもつ波及的なゲノム動態への影響について着目し、その生物進化への影響を研究しています。染色体は遺伝子の箱舟であり、その変化は多くの遺伝子の進化に影響し、生物の進化の可能性を大きく左右しているのではないか、と予想しています。実際に、近年、染色体進化の理論的モデルの確立に成功し、それをもとに硬骨魚全体の染色体進化を調べた結果、染色体進化と絶滅率に関係があることが示されました。[学術論文23]
特に興味深い場合が、性染色体と常染色体の融合の場合です。性染色体というのは遺伝的なメスとオスを決める染色体ですが、実は多くの点で常染色体と違っています。それに常染色体が融合すると、これまで常染色体だった部分が、ネオ性染色体(ネオ=新しいという意味)となります。ネオ性染色体は常染色体から通常の性染色体へ進化する過渡期にあり、まさに大きなゲノム動態がそこに観察されます。私はこれまでネオ性染色体をもつ日本海型イトヨを中心に、ネオ性染色体の生じる原因[学術論文3]やそれがどのようにゲノムを変動させているのか[学術論文13]、その結果生じた種の間でのゲノムの分化[学術論文7]について報告してきました。プリスティオンクス線虫でも今後この点について特に研究していく予定です。ちなみに、この性染色体と常染色体の融合は私たちの祖先でもおこっている現象です。性染色体のこのような進化は通常は遠い祖先での現象で、そこで何がおこったのかを確かめるのは難しいのですが、私の着目している生物種ではそれが非常に最近に生じていて、ゲノム動態の過渡期を覗きみることができるのです。
生命の歴史38億年の中で16,000年前というのは極めて最近のことです。この極最近から極短期間の間にアフリカのヴィクトリア湖に生息するシクリッドという魚は爆発的な種分化をしました。現在500種をこえる固有な種が生息していると推定されています。なぜこのシクリッドという魚が急速に種分化したのかは生物学の中でも有名な謎です。そこに生物の種分化を加速させる大きな要因を見つけることができるに違いありません。私は染色体の進化に着目し、染色体の数と形を調べてみると、驚くべきことに数が魚によってバラバラ。実はこのシクリッドは過剰染色体(B染色体)というあってもなくてもいい染色体をほとんどの個体が保有していて、その数が個体によって違っているのでした。菌類、植物、動物などに共通して見られるB染色体なのですが、通常、生物の見かけには影響を与えないのに一定の割合で存在する不思議なものです。より詳細に調べた結果、シクリッドの一種ではこのB染色体が性染色体の機能をもつことがわかりました。この研究はB染色体のもつ生物学的な役割を提示した画期的な報告でした。一方で、その性染色体の進化というゲノム変動が種分化において役割をもつ可能性も示唆していました。[学術論文2]
イトヨは北半球の淡水域から沖合まで広い水圏に生息する小さな魚で、動物行動学などで古くから研究されてきました。世界中で多様な環境へ適応し、それによる種分化の初期のような現象が見られるため、進化生物学でも特に注目されている生物種です。国立遺伝学研究所の北野潤博士は日本近海に生息するイトヨに着目し、日本海型のイトヨは祖先型である太平洋型のイトヨと異なり、常染色体と性染色体の融合がおこり、そのゲノム領域が二種のイトヨの種分化において大きな役割をもつことを遺伝学的に示されました。
私は二種のイトヨのゲノム解析を進め、具体的にどのようなゲノム変動が生じたのか[学術論文13]、その結果どのように種間のゲノムが分化したのか[学術論文7]を報告しました。さらには、その性染色体上にある雑種の稔性にかかわるゲノム領域で急速に進化したTRIM24Bというタンパク質を見つけ、そのタンパク質が太平洋型でヘテロクロマチンに結合すること、種間でその結合性を完全に変化させていることを実験的に示しました[学術論文21]。この遺伝子はゲノムを不安定性にさせる因子を抑制することが知られているため、おそらく種間で機能を分化したこの遺伝子が雑種において機能不全に陥り、ゲノムの不安定性を生んでいると考えられます。
他にも、太平洋型のイトヨが日本の多様な淡水環境に適応する過程でどのようなゲノム進化が起こったのかを明らかにしてきました[学術論文11, 22]。