2026.6.1
「なぜ支援は“つながらない”のか」
ケアマネジャー布施です。
ケアマネとして関わっていると、こんな感覚になり悶々とすることがあります。
・その場ではうまくいったのに、次の場面ではまた振り出しに戻る
・同じように関わっているはずなのに、結果が違う
・支援を“つないでいるつもり”なのに、どこかで途切れてしまう。
このもどかしさを感じることは少なくありません。
訪問介護は、生活の最前線で関わっています。
日々の暮らしの中で、その人の状態や気持ちに合わせて、その場その場で支援を調整しています。
一方で、セラピストや看護師は、限られた時間の中で、それぞれの専門性をもとに関わります。
どちらも欠かせない支援です。
ただ、ここに一つの“違い”があるとするなら、それは、「関わりの時間」と「見ている範囲」だと思います。
短時間で関わる支援は「点」になりやすく、継続して関わる支援は「線」になりやすい。
そして生活は、その積み重なりとして「面」になっていくのだと思います。
本来であれば、点は線につながり、線は面へと広がっていくはずです。
けれど実際には、そのつながりが途切れてしまうことがあります。
それは、生活そのものが同じように繰り返されるものではないから。
体調や時間帯、環境、関係性。
さまざまな要因によって、その人の状態は日々変わります。
昨日うまくいった関わりが、今日もうまくいくとは限らない。
つまり、支援は“再現されること”を前提にはできないからではないでしょうか。
もう一つは、訪問介護の実践の多くは、言葉にしきれない“感覚”や“タイミング”によって成り立っているということ。
声のかけ方、間の取り方、関わる順番。
その場の空気を読みながら調整される支援です。
これはとても重要な専門性ですが、“言葉として共有されにくい”(暗黙知)という特徴があります。
こうした背景が重なると、支援は「その場限りのもの」になりやすくなると思います。
・その場ではうまくいく
・でも次の場面では再現されない
それは、誰かの技術が足りないのではなく、そうなりやすい仕組みがあるということだと思います。
大切なのは、「同じことを再現すること」ではなく、“何を大切にしている支援なのか”を共有することなのかなあと思います。
関わり方そのものではなく、その支援が目指している“意味”を共有するとでも言うのでしょうか…
ケアマネジャーは、その“意味”を言葉にし、つなぎ続ける役割を担っているのだと思います。
点を無理にそろえるのではなく、線を固定するのでもなく、変化する生活の中で、意味を手がかりに関わりを整え続けること。
支援は、つながらないのが当たり前なのかもしれません。
だからこそケアマネジャーは、“つなぐ”のではなく、“つなぎ続ける”役割なのだと思います。
難病ケアカフェでは、こうした「つながらない感覚」や「現場の違和感」を持ち寄り、多職種それぞれの見立てを重ねながら、支援の意味を整理し直す対話を行う場になるとを目指しています。
一人で抱え込まず、是非 言葉にして発信してみる事から始めませんか?
2026.519
「それでいいんです」
ー神経難病特化型施設と、在宅難病クラブの話ー
辻輝之 脳神経内科医です。今回はアドボカシーをテーマに書きました。長いです(笑)。
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以前、ある神経難病特化型施設に初めて訪問した際、その主任看護師さんに、「この施設はどういう場所ですか」と尋ねたことがある。返ってきた答えは、「療養型から医者を抜いたものです」だった。思わず笑ってしまった。でも、実にうまい表現だと思った。日本の慢性期医療がたどってきた流れを、見事に言い表していたからである。
高度医療依存状態となった難病患者さんを、家族だけで支えることは容易ではない。一方で、療養病床は減少し、「病院でも在宅でもない場所」が必要になった。その中で生まれてきたのが、神経難病特化型施設なのだと思う。
実際、そこでは、
24時間ケア
頻回の身体介護
医療依存度の高い利用者支援
家族支援
など、かつて病院が担っていた役割の多くが引き受けられている。しかも、病院と違うのは、そこが「生活の場」であることだ。ここが実は、とても難しい。
病院であれば、
安全
管理
効率
を優先することができる。
しかし「生活の場」では、それだけでは成り立たない。
その人らしさ
家族との関係
地域とのつながり
日々の楽しみ
も、同時に支えなければならないからである。
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最近、重度PSPの患者さんが、別の神経難病特化型施設へ入居された。私はご家族に、
「なるべく施設に顔を出してください。それがスタッフの励みにもなります」とお願いした。
また私自身も2週間ごとに訪問し、
どんな人生を歩んでこられたか
どんな支援を受けてこられたか
認知症音楽療法に長年参加されていたこと
どんな人とのつながりを大切にされてきたか
を、スタッフにも自然に伝わるよう意識している。
看護師さんたちは、嬉しそうに聞いておられる。私はこれは、患者さんのためだけではないと思っている。スタッフにとっても、「この人をどう理解するか」の助けになるからである。
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訪問時、スタッフからはよく、「バイタル的には安定しています。特に報告はありません」と言われる。それでいいんです(笑)。
病棟文化では、
発熱
血圧
SpO2
など、“異常”が報告対象になる。
しかし、生活の場では、
「その人の vitality(生きる力)をどう保つか」
の方が大切になることがある。
音楽への反応
人とのつながり
社会参加感覚
「自分であり続けている」感覚
そうしたものは、数値には表れにくい。でも、難病支援では、とても重要である。
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その中で、私は改めて “advocacy” という言葉を考えるようになった。日本語では「権利擁護」と訳されることが多い。もちろん、それも大切である。しかし現場感覚としては、それだけでは少し足りない。
神経難病では、
発話困難
全介助化
長期依存
によって、人が簡単に「身体状態」へ還元されてしまう。
一方、認知症では、
記憶
判断
社会性
の揺らぎによって、「人格そのもの」が失われたように扱われやすい。両者は違う。しかし共通しているのは、
「その人が、“この人”として見えにくくなる」ということなのだと思う。だから advocacy とは、単なる代弁ではなく、「この人を、この人として支え続けること」なのではないだろうか。
そのことで、印象にのこることがある。大昔、私が研修医としてはじめて入院報告をしたとき、さいごに「入院となりました」と言ったら、「となりました」だと、一巻の終わりみたいですね。「入院されました」と言いなさい、と主任教授から指摘された。その時はその違いにぴんと来なかったのだが、今考えると、そのさりげない一言が、アドボカシーへの配慮だということがわかる。
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ただ、ここでさらに難しいのは、ALS の前頭葉症状や、DLB・PSP・MSA・CBD などのパーキンソン関連疾患である。かつて「皮質下性痴呆」と呼ばれていた病態群だ。
ここでは、
身体障害
意思表出困難
だけでなく、
判断変化
衝動性
共感性低下
人格変化
も重なる。つまり、「身体」と「意思」の両方が揺らぐ。ここでは、単純な意思決定支援だけでは支えきれない。必要になるのは、「その人を知っている人たちの記憶の総力戦」である。家族、かかりつけ医、訪問看護、リハ、ケアマネ、ヘルパー、地域…。それまで積み重ねてきた関係性そのものが、最後のアドボカシーになる。
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私は、京都難病ケアSG の難病ケアカフェを続けながら、最近思う。あの場は単なる情報交換ではない。
むしろ、
関係性
地域性
外部性
透明性
アドボカシー
を保つための、小さな文化実践なのではないか。
制度会議だけでは、
正解
効率
適正化
ばかりが前に出る。
しかし難病ケアは本来、
揺れる
悩む
迷う
支え合う
ものだと思う。
ケアカフェでは、
「それ、本当にこの人らしい?」
「家族、大丈夫?」
「他のやり方ないかな?」
という会話が自然に生まれる。そこでは、医療者も、介護職も、家族も、地域も、完全な正解を持っているわけではない。だからこそ、「一緒に考え続ける」こと自体が大切なのだと思う。
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在宅という言葉を、私たちは時に狭く考えすぎているのかもしれない。
「家で暮らすこと」だけを在宅と考えると、施設入所を、
在宅の終わり
当事者主体支援の終わり
“敗北”
のように感じてしまうことがある。
しかし、本来大切なのは場所ではなく、「その人が、その人として生き続けられるか」なのではないだろうか。その意味では、神経難病特化型施設もまた、「在宅」の延長線上にあるのだと思う。もちろん、簡単ではない。医療安全を守りながら、同時に「生活の場」でもあり続けなければならない。
だからこそ、
施設スタッフ
家族
地域
在宅支援者
かかりつけ医
が、「この人をどう支え続けるか」を共有し続ける必要がある。
私は、それこそが advocacy なのだと思っている。
しかも、それは一人で担うものではない。「共有するもの」なのだと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今、日本の在宅医療は、
法人化
24時間化
集約化
チェーン化
へ向かっている。
この流れ自体は、ある程度避けられない。
しかしその中でも、
人との関係
生活の物語
地域とのつながり
を失わないことはできるはずである。そのためには、制度だけではなく、「在宅が在宅であり続けるための文化」が必要なのだと思う。そしてその文化は、病院だけでも、在宅だけでも、施設だけでも作れない。みんなで作るものなのだと思う。いつか、こうした神経難病特化型施設にも、自然にこう言える日が来るように。
「在宅難病クラブへようこそ」
2026.4.30
『神経難病における環境調整』
理学療法士の山中です!
今回は神経難病における環境調整についてお話ししたいと思います。
左図のようにある課題を安全に行える状態を10とした場合に
8,7,6と低下していくご本人の能力に合わせて、2,3,4と過不足なく、ある程度10を維持できるような環境調整案を理想としています。現実的には個人因子や環境因子等によりそのような段階付けは難しいことの方が多いですが、残存能力を最大限引き出すコンセプトそのものといえるかと思います。
ケースによって8+4の12で落ち着く方もいれば、受け入れ不良で8というように転倒リスクが高いままの方もいます。
敢えて8という数字に拘らず、骨折が怖いなら床にクッションマットを敷くとか、骨粗鬆症治療のための整形受診等の代案も含めて検討するのも1つかと思います。
T字杖→4点杖→歩行器というように歩行補助具がイメージしやすいかもしれませんが、その他の各ADL、IADLへも応用できるのでは?と日々の訪問で模索中です。
詳しくは来月の京都府理学療法士協会主催の研修会にてお話しさせて頂く予定です。
ご興味ある方はぜひ!他職種参加も可能です!