街路樹は泣いている

庭171号の街路樹は泣いているパート6で紹介されまし

なぜ街路樹はあるのか。

街路樹の運不運


『田舎の広い公園で伸び伸び育つ仲間が羨ましい』と街路樹は言うだろう。

暑い夏の照り返しに葉を焼かれながらも必死で蒸散活動を続け、枝葉は排気ガスに汚され、根元は油混じりの汚れた水を掛けられ、時には正面から車にぶつけられることもある。夜は街灯やネオンに照らされて熟睡することもできず、やれ電線の邪魔だ、標識が見えない、信号が見難い、虫が付くなどと言われ剪定という言い方で、息もできないほど枝葉を一気に伐採される。

それでも必死に葉を繁らせようとするが、新たな肥料も与えてもらえない。

秋になれば次々落ちる葉が嫌われ「今掃いたのに」と、下からにらみつけられる。

植えられた植栽桝の場所が隣どおしでも、一つずれれば街路樹の運命は天と地の差がでる。

使命と恩恵

出来上がった路盤を再び掘り返してまで植える街路樹は、多くの使命を持っていたはずなのに、人はそれらの役割も充分に認識できず、その恩恵も受けないまま不幸なことに敵対視する人さえいる。

地球上の生き物はとにかく子孫を残し、繁栄することを第一の目標にしているから、人間を使って堂々と並木を作るしたたかな植物、との捉え方もできる。

では人も街路樹に本来の役割を果たさせ、植えた見返りを充分に受けるべきではないか。

私は集計できないが、日本全国の街路樹の維持管理費を聞けば、きっと腰を抜かす人も多いはずだ。

管理費以上の受益感を持てるように私達が努力しなければならない。

これがケヤキの姿かと言いたくなるが、一度強剪定をすると次も同様に切らざるを得なくなり、結果的に経費がかさみ、効果の薄い街路樹。

必要性を説く熱意

高い経費を使って街路樹を植え、赤字の自治体会計から維持管理費を捻出している訳を、一般市民にもっと理解してもらう努力をしなければならない。

造園関係者までもが『切ってしまえ』と口走るのは真に情けなく、こちらがその程度だと周辺の住民も、造園業者の儲けた後始末をなぜ町内に押し付けるのか?とまで言わせることとなる。

街路樹の重要性は直接管理する造園関係者が、住民と役所の双方へ訴えなければ、現実には誰もできる者はいないと思う。

先に述べた12の役割を納得して頂ければ、おのずと管理の程度も解るし、特に緑化の仕事に携わる者ならば技術的にも対応が可能なはずだ。

更に熱意を持って周囲の人々を説得し続ければ、街路樹の存在が文化として定着するだろう。

街路樹の立場。

街路樹が立っている1平方米ほどの枠を見て「木って強いんだな~」感心する人「狭くて可哀想」と言うは多い、しかし「もう少し何とかしてやれないのか?」と口に出して言う人は希である。

山砂にわずかの土壌改良剤が混ざった1立米余りの部屋で、街路樹と呼ばれるケヤキやアメリカフウやハナミズキ等はその一生を送らねばならない。

3m前後の成長盛りに移植された木々は、そのうち周囲の縁石を必死で持ち上げて、砕石に混ざった僅かの目潰しの山砂を頼りに、歩道のアスファルトを自力で持ち上げて生きて行かなければならない。

歩道の縁石とアスファルトを上手に持ち上げた表面的には美しい例、しかし付近にマンホールがあり地中の様子が心配です

上の状況が極端な場所で舗装の修理に併せて、植栽桝を3倍に広げた箇所が7~8箇所あります。(南砺市アメリカフウ)

芯だけを止めるとこの形になります。

全体の枝を均等に止めるとこのように。

そうしてでも成長のできる木々はまだ幸運なほうで、初期の熱風や潅水不足や移植時の荒療治がたたって枯れたり、又枯れないまでも本来の成長ができないまま周囲とバランスの取れない街路樹も多い。

それよりもっと悲しいのは、『落ち葉は誰が掃除するのだ』と言う周辺住民の罵声と、『元から切れないなら、極力小さくしてくれ』と横暴な訴えを起こす、例えば町内会長であったりする。

こうなると街路樹の立場は無いに等しいが、今こそ私達直接管理に携わる者がこうした窮状から抜け出す努力をしなければならない。

伐採同然の街路樹はそれ自身も悲惨だが、私達が役割を知らず恩恵も感じずでは、人の方がより悲惨と言わざるを得ない。

役所の責任だと罵っても事態は変らない。狭い歩道の端で頑張っている街路樹を救ってやるのは今は私達の熱意意外に無い。