「架空の実験室」終わりました。もう2週間前のことです。
いろいろと考えを巡らせているうちに時間が経ちすぎてしまって、いまさら振り返る雰囲気でもなくなってる気がしたんですが、いつか必ずやるつもりでいるvol.2以降のためにも、まず誰よりも自分が忘れないために書いておこうと思うので、書きます。かなり長いです。
この企画が成功だったかと聞かれて率直に答えるなら、「やりたいことはできたし、見せたいものも見せられたが、見たいものは半分くらいしか見えなくて、やってもらいたかったことは一応クリアしたものの次なる課題は山積している」と、実に優柔不断な印象を与える回答になってしまいます。
そもそも、架空の実験室に限らず僕の企画はいつも「(自分が)やりたいこと」と「(俳優に)やってほしいこと」と「(自分が)見たいもの」と「(お客様に)見せたいもの」が終始乖離していて、それを自覚するところから始まります。むしろ他の人たちはどうしているんだろう。みんな普通に一致してるもんなの? 一度誰かに尋ねてみたい。
見せたかったものは、当日パンフレットに書いた通り「稽古場で動いている役者の姿」です。見たかったものは、以前ここにも書いたとおり「架空の友達の姿」です。やりたかったのは「台本も何もない状態から3時間でどこまでリアルな世界を描けるか実験」だったし、役者にやってほしかったのは「自分が役者であることを忘れてもらうこと」だったといえるかもしれません。
ここからちょっと、上記4つが入り乱れ重なり合った雑感になります。なにぶん軸が4本あるので、互いに矛盾する主張が衝突しあっている部分もあるかもしれません。要するに気が多くて欲張りなんです、僕は。
隠しても仕方ないので、まずは正直に言っておきます。「架空の実験室」の準備を進めていた10月末から11月にかけて、実は少しだけ、ほんの少しだけ演劇に疲れてきていた時期でした。
演劇に疲れたというよりは、演劇の見方に疲れたって感じでした。いや、これも違うか。自分と演劇との関係性みたいなものに対して疲れていたのかもしれません。具体的に言うと、「客観性疲れ」とか「批評疲れ」というような状態に陥っていたんだと思います。
もちろん演劇は最初から鑑賞の対象として生まれてくる芸術なので、そこに評価や考察といった反応がついて来るのは当然だし、良質な作品と的確な批評の相互作用が演劇を文化たらしめていることも、10年以上この業界に身を置いて重々理解しているつもりです。料金を取って「見世物」をする以上、見ごたえのあるもの、しっかりと構成されたものにしなくちゃいけない。そうですね、その通り、僕もそう思います。
しかし。しかしですよ。
どうも最近「作品としてよくできているか」とか「作り方が巧みかどうか」といった容れ物ばかり気にして、素直にフィクション(の中身)を受け止めることができていないんじゃないか、と思ったのです。演劇レビューサイトを見ていても、どんな作品であれ面白さ(あるいは面白くなさ)を具体的に書こうとすればするほど、最終的には技術点の高低へと収束していってしまうことに一抹の寂しさがありました。常に「作者の存在」や「作家の意図」、そんな現代文の授業みたいな概念が脳裏にちらついて、ただ料理を味わいたいだけなのにカロリーや食材の産地や盛り付けのインスタ映えばかり気にしてしまう、みたいな種類の寂しさ。
一観客としての自分が今、そうなってしまっているなと思ったのです。虚構を一段高いところから俯瞰する視点を手に入れたかわりに、まだ演劇を見慣れていなかった頃の、虚構の世界を手探りで進むように物語を追うやり方を、いつの間にか忘れてしまっている気がしたのです。
悟った顔で分析したり考察したりも大好きだけど、それしかできなくなってしまうのは違うでしょう。たまにはサンタクロースの実在を信じるくらい無邪気に、虚構の実在を信じてみたっていいじゃない。
それでも、どうしても作品を分析的に見てしまうことから逃れられないなら、分析的に見る行為自体がフィクションに耽溺する行為と直結するような仕組みを作らなければいけない。ならば、もはや作っているわれわれ自身が架空の存在になるしかない。
なにを言っているのか、よくわからなくなってきました。仕切り直し。
思うに僕は、演劇から作為というものの痕跡を、できる限り削りたかったのかもしれません。なにを言ってるんだ、稽古なんて作為の塊みたいなもんじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、稽古でも個人の作為だけなら消すことができる、と信じています。演劇は否応なしに集団創作なのだから、誰か1人の強い作為によってディレクションされるのではなく、集合的無意識のおもむくままに半自動描画で創作していく「こっくりさん方式」だって可能に違いないと。自分の役割を「進行」と呼び、頑なに演出家と名乗らなかったのはそのためです。
だからこれは、僕にとって血清のような試みだったんだと思います。じっさい「架空の実験室」が終わった後にも数本の演劇を見ましたが、憑き物が落ちたみたいに純粋に楽しむことができるようになっていました。他の「演劇に疲れていた人たち」にとっても、同様にそうであったならうれしいのですが。
これはちょっと前説で言っておくべきだったなという反省はしてるんですけど、基本的には役者の即興に任せっぱなしで何してもOKの場で、僕は3つだけ禁止事項を作っていました。
1に関しては僕のわがままです。役者だった経験が過去にない(エキストラ的に出演したことはあるけどわずか数秒の出番でケコミを壊したり目が泳ぎすぎとダメ出しを受けたりした)ので憶測に過ぎませんが、「正しくない演技」はあっても「正しい演技」なんて存在しないと思うんですよ。でも演技「論」になると、お互い正しいと信じているものをぶつけ合うことになるわけじゃないですか。そうすると最終的にはどちらかが正しい(もっともらしい)というジャッジを下さざるをえなくなります。同じ座組の中でそれをやられてしまうと、「正しい人」と「間違ってる人」が共演していることになってしまう。その状態は僕はあまり好きじゃないなと思ったので禁止にしていました。
2の予知能力に目覚めないというのは、エチュードでゴールがない状態でやるので、この話はこの先こういう風に展開するはずだから、そのためにこう動く、みたいな先回りをなるべくしないでほしかったのです。自然に出てくるものを繋ぎ合わせれば、それは後からいくらでも伏線になり得るんですよ。「育つ光」ラストのサボテンなんかが好例で、あれは会場でも言ったようにプロット段階では別にサボテンである必然性はなくて、単に一年を通してあまり大きくなりすぎない・世話するのに手間のかからない植物なら何でもよかったんですが、最終的に他の植物では代替不可能な行動(サボテンアタック!)が発生しました。ああいう「スパークする偶然」みたいなものが見たかったんです。それは誰の作為にも依存しない現実の面白さ、「事実は小説よりも奇なり」の事実の面白さだから。
あと、3の大事件を持ち込まないっていうのも、エチュードって目先の面白さを重視するあまり「やりすぎてしまう」ことが多いイメージがあって、その防止策でした。もちろん、お客さんが見ている状態で何かやるわけですから、役者は客席を意識せざるをえない。だから客席を楽しませるために「盛り上がる」言動をとってしまう、ってのは気持ちとしてはすごくわかるし実際あったらあったで見世物としては盛り上がるんですが、今回はちょっと「この世界の外側」を意識しないでみてください、とお願いしていました。あなたがたはフィクションの中の住人として日々を過ごしているだけなので、それを観察しているカメラの存在には気づかないでほしい、と。
役者に対して「自分が役者であることを忘れてもらいたかった」と言ったのはまさにこの点で、架空の実験室という企画、とくにvol.1で選んだ2作品に顕著なんですが、僕にとってこの物語の登場人物たちは何らかの伝えたいテーマやメッセージ性に従属する語り部ではなく、「~したい人生だった」のバリエーションでしかないのです。だから役者には、事前にこんな感じで伝えていました。
「エチュードなんだけど面白くしなくていいです。与えられた設定だけ、素の自分に追加インストールする気分でやってください。たとえば今の自分が演劇をやっていなくて、その生活(与えられた設定)をしていたら、どんなふうに生きていくか、それだけ考えて演じてください」
架空のプレ稽古に参加してくれた、エチュードが苦手だという人たちに理由を聞くと「面白いことをしなきゃという強迫観念がある」との答えが返ってきました。ならば逆に面白くしないでいいよと伝えてみたんですが、これはこれで大変だったようです。
物語に先回りせず、観客にサービスもせず、面白い台詞も言ってはいけないという縛りに苦労しながら「キャラに従って即興で話す」のが序盤。そこから、自分が何を言って何を言わないかの「キャラが固まってくる」中盤を経て、飛行機が滑走路から離陸するようにフィクションは少しずつ自走をはじめます。そして蓄積してきた役の記憶を頼りに「キャラを従えて自在に話す」ことができるようになる終盤。架空エチュードの過程が、この三段階の淡いグラデーションによって構成されていることに、恥ずかしながら今回の実験室でようやく気づきました。
だからこそ、反省点があるとすれば「スタートアップが遅かった」の一点につきる気がします。これは役者ではなく僕の反省。「フィクションの中に住んでいる、あの子の話を聞きに行こう。」だなんてキャッチコピーをつけたのだから、序盤はもっと質問責めにするくらい色々と聞き出すべきでした。町での暮らしはどうですか、そこから何が見えますか、あの人のことをどう思いますか等々。
すでに結構な分量をしゃべってしまったのですが(ここまでで8000字以上ある!)、最後に各作品について軽く振り返っておきたいと思います。
作品の雰囲気が企画意図と合っていないのでは、という意見をいただきました。エチュードで組み立てていくには笑いを挟む余地が少なく、繊細なパワーバランスと緻密なコントラストの調整が必要不可欠、うん、それは確かですね。確かな筆力を持った脚本家の手で書かれるべき作品で、とてもじゃないが即興で作れるようなシロモノではない。
そんなことはわかっているし、だからこそ実験する価値があったのです。と反射的に言いたくなってしまったけど、これでは単なる負け惜しみ。もっとうまくやる方法はあったな…という反省はありますが、合っていなかったとは思いません。
でも本当の敗因は(敗因、とあえて言ってしまうなら)、サオリに感情移入させるならシーンの中で積み立てるべきポイントが「約束されたハッピーエンド感」よりも「かつての町並みの愛おしさ」のほうだったことに気づけなかった点だと思います。客席からの視点が最後まで町を中立の立場で見つめるものになってしまっていて、退屈さに原因があったとすれば多分そこ。
ショッピングモールなんて影も形もなかった時代の話、不便だけど不便なりに楽しかった頃の話なんかを(場合によっては回想も交えて)優先的にやれていれば、結果はもっと違うものになった気がしています。
なのでまあ、この作品はもう少し僕が進行の実力をつけてから是非とも再挑戦したいですね。vol.5くらいのタイミングで再チャレンジできたらいいなと思っているので、それまで続けられるよう見守っていてください。
昼の部が終わったあと、進行のしかたとかバランスとかを急ピッチで修正して臨んだ夜の部は会場の反応もよく、「ああ、恐れずにやってよかったな」という気持ちになりました。
特にラスト前、みんなで記念写真を撮るシーン。もしこれがエチュードではなく、用意された脚本でああなっていたら、おそらく多くのお客さんがウゲーってなったんじゃないかと思います。「ベタすぎてつまらない」「今時そんな使い古された展開を」云々。しかし、ベタであるとか表現として使い古されるということは、裏を返せば「かつては」それだけ多用される鉄板ネタであったはずで、そこに何かしらの感動が伴っていたからこそ古されるまで使われたに違いないはずで。
繰り返されるエチュードの果てに、ある種の必然性をもって立ち現れた「あのシーン」は、初めてそれが描かれた頃の鮮度を再獲得できていたような気がしたのです。
それと最後の分岐シーン。封筒を用意することと、それを座組の誰にも教えない(唯一、そのあとに流す曲の都合があるので音響さんにだけは話しましたが)というのは計算の上だったものの、その反応は予想した演算結果のはるか上をゆくものとなりました。受験生を演じた すこやかくわな さんのお友達が見に来ていたのですが、本当に涙ぐんでしまったと言っていて、それはきっと「友達が受験生の役を演じているだけ」という俯瞰の状態じゃなくなれた、俳優本人と作中人物の境界があいまいになる瞬間に立ち会えたってことだと思うので、実験としてはこれ以上ない満足な結果で終わりました。