架空の実験室は、当初「架空の公開稽古」というタイトルの企画でした。
それはちょっと、あまりにもそのまま過ぎるんじゃない?と一度冷静になった結果、紆余曲折あって現在のタイトルに落ち着いたわけです。
せっかく実験室なんて小気味いい呼び名をつけたのに、いざ内容を人に説明する段になると「あの、要は公開稽古です」とかミもフタもなく要約してしまう。
公開稽古と実験室は何が違うのか。少しだけ、説明してみようと思います。
稽古をする、と言っていますが、そこに台本はありません。ということは脚本家不在です。便宜上、いちおう私が稽古場を進行させる役割を担うことになりますが、私の本業は小道具スタッフで、演出家ではありません。だから演出家も不在です。稽古の主役はどこまでいっても俳優です。俳優は与えられた初期設定とシチュエーションを元手にして、エチュード(即興)で物語を作っていきます。
エチュードとかインプロといえば、とっさの機転や切り返しなど技術が問われるイメージもありますが、「架空の実験室」でおこなうエチュードは基本的に技術力の有無を問いません。というより私は「架空の実験室」で、技術やクオリティを問わない作品の見かたを提案したいのです。
たとえば普段の私たちの日常会話だって、台本のない即興の連続ですよね。日常を生きていて、目の前の相手が次にどんな行動を取るかなんて、想像はできても予知はできない。それと同じことを俳優にやってもらいます。
つまり、稽古や演技という建て前を使って、架空の生活を送ってもらおうと考えています。
演技というのは簡単に言ってしまえば、ここには実在しない架空の人物になることです。
たとえば20歳を過ぎた大人が高校生の役を演じたり、カメラに触ったこともない俳優が写真家の役を演じたり。演劇ではよくあることですし、見ている私たちも一々それを疑ったりはしないでしょう。
でも、俳優自身とは明らかに違う属性を持ちながらも、その身体や声は俳優自身のもので……目の前にいるこの人は、いったい誰なんだろう? と、たまに思うことがあります。
これは今までに何度か「架空のプレ稽古」をやってきての実感ですが、いつも「演技を見た」というより「人と会ってきた」感覚が強いのです。出会ったこともない(そもそも実在しない)人物なのに、終わった後にはその人の存在感と思い出が残る。
もしかしたらそれは、友達と話をする感覚に近いのかもしれません。最初は知らない同士だったのが、その生活を見聞きする時間を過ごし、彼らのことを知るうちに、よく知った友達と一緒にいるような気分になってくる。
お芝居が終わったら友達はどこかへ行ってしまうけど、そこで起きた出来事の記憶はあなたの頭に残ります。欲を言えば、何日か経って思い出したとき、本当の出来事と見分けがつかなくなっていてほしいなと思うのです。最近会っていない、昔なつかしい友達のことでも考えるみたいに。
もし「公開稽古を見る」のハードルが高いなら、せめて架空の友達に会いに来てください。それは劇場に来なければできないことです。
だって、この実験室を一歩外に出たら、彼らはもう、どこにもいなくなってしまうのですから。