尊北山古墳
尊北山(そんぽくやま)は、上東郷の南東(上東郷霊園近く)、正確には深見町にあり、通称「ギリギリ山」と呼ばれていました。標高はかつて34.5メートル、山全体が麓から頂上にかけて渦巻状の階段型をしており、かつては樹木がなく畑地として利用されていました。明治時代に森林を切り拓いて畑にしたと言い伝えられています。
戦後、この山は宅地造成のために平らに均され、現在はアタゴの工場が建っています。周囲の圃場(ほじょう)も耕地整理されたため、今ではそこに山があったとは思えないほどです。この尊北山には古墳が存在すると考えられてきましたが、昭和30年代に故・斉藤優先生が調査を行い、その結果を発表されています。
熊野山石棺
熊野山は、上東郷から(尊北山の約200m先)南東、深見町と栃泉町の境界に位置し、標高は33メートルです。獅子が北を向いて座っているような姿をした山で頂上には熊野神社があり、大きな杉の木立に覆われています。
この熊野山については『東郷村誌』に、熊野山の石仏や「弁慶の足駄(あしだ)」の伝説、佐野鹿十郎の仇討ちの講談といった記述があります。しかし、隣接する尊北山と同様に、古墳や遺跡については詳しく記されていません、地域の方々にとっても、案外関心の薄い山でありました。
熊野神社の拝殿の後ろ(北側)の礎石には、石棺の蓋と思われる石板が立て掛けられていました。上部は長持ちの蓋のように中央部が少し高く丸みを帯びており、左側に「縄掛け突起」が一つ付いています。石材は笏谷石(しゃくだにいし)と思われます。尊北山と同様に「組合式箱形石棺」と考えられますが、縄掛け突起の位置が少し異なっているようです。組合式石棺の4例目にあたるのかもしれません。
この石棺の蓋について、地元集落の方は次のように話されています。 「昭和41年から44年の土地改良までは、山の南端から100メートルほどの場所で、田んぼの用水路の橋として利用していました。どこで出土したものかは分かりませんが、橋として使っていたのは確かです」
熊野山の石棺は小型のものですが、蓋の裏面には、石工が使う鶴嘴(つるはし)のような道具で付けたと思われる、馬蹄形の線刻が4〜5個確認できます。これがいつ、何を意味して刻まれたのかは分かっていません。熊野山は古墳の形跡が見られる山ではありますが、不明な点も多く、今後の調査の必要性と話題性を秘めた山であると言えます。
槙山(まきやま)
福井市東郷地区のシンボル的な里山・公園として親しまれ、戦国時代の緊迫感ある城郭遺構と、のどかな里山公園の二つの顔を持っています。
標高: 122m。地元では「城山(しろやま)」の名で親しまれています。
景観: 福井平野の南東端に位置し、足羽川の豊かな流れと東郷の町並みを一望できる絶好の展望スポットです。
2. 槙山公園としての整備
かつての東郷槙山城の遺構を活かす形で、山全体が「槙山公園」として整備されています。
山頂部(城台跡): 展望広場となっており、福井市街地から遠くは坂井平野まで見渡せます。「長谷川秀一公碑」や「忠魂碑」が建立されているのはこのエリアです。
二の丸跡: 現在は駐車場として利用されており、車で中腹まで上がることが可能です。
千畳敷跡: 広い芝生広場や遊具が設置された公園エリアになっており、家族連れの憩いの場となっています。巨大な土塁などの城郭遺構を間近に見ることができます。
槙山を歩くルートは大きく分けて2つあります。
車ルート(西側林道):
西側の林道入口(獣害対策ゲートあり)から、舗装された道を通り二の丸駐車場まで直接行けます。
徒歩ルート(大手口):
北側の「三社神社」裏手に大手口(登山口)があります。
ここからジグザグの遊歩道を登ると、往時の城の険しさを体感しながら主郭部へ到達できます(徒歩約15〜20分)。
一乗谷への連絡路:
千畳敷付近からは、尾根を伝って一乗谷朝倉氏遺跡へと続くハイキングコースも伸びており、歴史ファンにはたまらない縦走ルートとなっています。
槙山の麓(東郷地区)には、城下町の歴史を今に伝えるスポットが点在しています。
永昌寺: 長谷川秀一が復興した菩提寺。
霊泉寺: 秀一の墓碑(方篋印塔)があります。
東郷の町並み: 堂田川の清流沿いに古い町並みが残り、醸造業(酒蔵)などの伝統文化が息づいています。
東郷槙山城は、戦国時代から豊臣期にかけて約200年以上にわたり使用された大規模な山城です。切り岸(急峻に削り落とした斜面)を中心とした中世の面影と、石瓦を戴く近世城郭への変遷を同時に見ることができる、越前築城史上極めて貴重な遺構です。
名称: 江戸時代の文書では「東郷城」と記されてきましたが、明治期以降は山名にちなみ「槙山城(または槇山城)」とも呼ばれるようになりました。現在は後者が愛称として定着しています。
所在地: 福井県福井市東郷。福井市街から南東へ約8km、一乗谷朝倉氏遺跡から西へ約4kmの地点に位置します。
立地: 足羽川左岸に位置する標高120m(比高約100m)の槙山に築かれ、東郷の町を一望できる戦略的要衝でした。
考古学的調査(福井市史等)により、主要な遺構の規模が判明しています。
郭(くるわ)の名称 推定規模(東西×南北) 備考
城台(本丸)約45m × 約30m 笏谷石の瓦が出土。「天守」的な建物が存在した可能性が高い。
二之丸 約27m × 約25m 城台の南側に位置する。
千畳敷 約57m × 約40m 城内最大の曲輪。建物の礎石が確認されている。
城跡からは、福井特産の笏谷石(しゃくだにいし)で作られた「石瓦」や「鉄砲瓦」が多数出土しています。
意義: 当時の山城に石瓦葺きの豪華な建物(天守等)が存在したことを裏付けています。
特徴: 出土した鉄砲瓦の止め穴は「二穴」であり、丸岡城(一穴)とは異なる特徴を持つとする説があります。これは当時の瓦葺技術の変遷や独自性を示す貴重な資料です。
東郷槙山城は世襲制ではなく、時代ごとの有力者が城主を務めました。
築城: 元中5年(1388年)、朝倉氏景の次男・朝倉正景(東郷下総守)が築いた城砦が始まりとされます。
役割: 一乗谷朝倉氏の重要拠点として機能。歴代城主には、鳥井兵庫助景近や虎牧弥六左衛門路知など、朝倉氏の有力家臣が名を連ねました。
天正12年(1584年)、織田信長の側近であった長谷川藤五郎秀一が入城しました。
石高: 秀一の所領については、1万石から15万石まで諸説あります(与力領や越前国内の支配権を含むかにより数字が変動)。一般的には10万石前後とする史料が多いですが、当時の越前における重要人物であったことは間違いありません。
城下町の整備: 秀一により本格的な近世城郭へと改修され、「蔵屋敷」「五郎右衛門館」「惣堀」「札町」といった城下町区画が形成されました。
地名の由来: 現在も残る「山竹」は秀一の幼名(竹)、「与三次」は父(与次)の名に由来すると伝えられています。
長谷川秀一の死後(または転封後)、丹羽長秀の次男・丹羽長昌(資料により長員)が5万石で入城しました。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため除封となり、東郷槙山城は廃城となりました。
秀一の最期については、複数の記録と伝承が存在します。
朝鮮陣没説(通説): 文禄3年(1594年)、朝鮮出兵中に現地で病没したとする説。多くの公的史料がこれを採用しています。
国内生還説: 朝鮮から帰国後、国内(伏見城普請への参加など)で活動したのちに没したとする説。
自害説(子孫伝承): 敗北を恥じて滋賀県米原市の多和田で自害したという説。平成7年に菩提寺・永昌寺に建立された方篋印塔はこの伝承に基づきますが、史料的な裏付けについては研究の余地を残しています。
東郷槙山城の歴史的価値
東郷槙山城は、単なる防御施設ではなく、織田・豊臣政権による越前支配の要として、最新の技術(石瓦)と大規模な城下町を備えた先進的な城郭でした。現在も残る広大な空堀や切岸、そして「地名」として生き続ける城下町の記憶は、この城がかつて持っていた栄華を今に伝えています。
城台の頂上にある長谷川秀一の公碑
・1584年(天正12年):柴田勝家の死後、北の庄の城主に丹羽長秀が任命されると、秀一公は東郷横山城に入城。所領は11万石であった。
1585年(天正13年):8月に「丹羽長重」は越中攻めに出陣。替わって「堀秀政」が越前“北の庄”城の城主となる。
1588年(天正16年):「長谷川藤五郎秀一」は、後陽成天皇の聚楽第行幸において、「豊臣秀吉」の“輿”に供奉する。
1590年(天正18年):「長谷川藤五郎秀一」は、「豊臣秀吉」の“小田原城攻め”に参陣する。
1592年(文禄元年):「長谷川藤五郎秀一」は、“朝鮮の役”に自軍5,000人を率いて加軍する。
1594年(文禄3年):「長谷川藤五郎秀一」は、朝鮮の役において病没し除封となる。
1596年(慶長元年):「丹羽長秀」の次男「長昌」が、五万石で『東郷城主』となる。
1600年(慶長5年):「丹羽長昌」は、“関ヶ原の合戦”で西軍加担のため除封される。ここにおいて、越前国『東郷城』は廃城となる。
―引用文献― 福井県史、福井市史、東郷村誌、足羽山古墳―斉藤優、会誌―鯖江市郷土史懇談会、福井考古学会会誌―第七号