「武禅」自然合法の射:梅路見鸞師
「武禅」自然合法の射:梅路見鸞師
梅路見鸞師は禅の導師であり、実践して人を道びく方と私は受け取っています。その見地で以下記載します。
先ず、射術弓術を教える事が主目的では無く、人を道びく道程に「弓箭が在る」と学べます。随って「弓箭の技を自得しても尚射脱せよ」と道びいており、その道を歩むのに「独学を以ては道は成ら無いと独学不成道」と断じています。
禅の道は全く書物でしか知りませんが、ここにあげました不動智神妙録の沢庵禅師にしても多くのの禅師が言われている事と思います。禅道にはいろいろな芸がかかわっていますので、利休のお茶、世阿弥の能楽など歴史に知られたものから名もなき草の根の活動にあると思えます。
その様な観点から「技即道」を唱えて「弓道」を為すなら、人を導くことが第一で、そこに禅師が実践で示し行動した具体的道法を示す事が必要で、射で云えば本多師竹林坊師が言われるように射に内在する精神性を現す射の実践の総て、射る前に中り外れの理を知る射形姿勢の真実である的前の的中と、矢の速さ、飛び、貫通力の矢の質を定める矢業の真実にかかわる弓の強弱と離れの総合的な修行を経て初めて射を自得しその過程とその先がまだあることがわかります。
鈴木大拙博士は梅路見鸞師より年上でありますが円覚寺派の禅師で同時代に釈宗円師に師事していたのではと愚視しています。当時、西田幾太郎博士と共に近代哲学の巨頭が集まってる風景を勝手に思い描いています。当然、独自にそれぞれの分野でその実践し活躍されていた事実を見ますと名目など全くありません。いま、ITの時代にあって意識と無意識の世界の実在感の認識論からも一筋の技である射にもその入り口が400年もまえから開かれているきがします。
鈴木大拙博士の認識論には後科学的又は前科学的とい禅の認識論がありそれが射のおける「射ぬ前に中り外れの理を知る」と本多師が言われる射の認識論に通ずると想い、「技即道」には弓道に無限の可能性があること思い描けます。特に意識に世界と無意識のその狭間の世界に射を実践を通して導きます。現代指導者や弓術書にでる「弓道」の「道」を言われ指導される方の「技即道」の精神論に対比させて検証していますが、明確な応えはないか、言葉だけの「虚言」も想起されます。
梅路見鸞師の提唱と実践と行動には射に無限の可能性がある事をしります。しかし、独学不成道とあります事を心にして弓の精神論、道に素直にして謙虚に学びたいと思います。