(2)本多利実師と梅路見鸞師
竹林坊如成師、本多利実師、梅路見鸞師の射法射技は変わる事なく一つの理論が流れ来て、各師の時代と文化に則して実践され、次の時代を見据えた射の理念とその時代に向けた警鐘がのべられています。
「射法射技の本は一つ」と本多利実師が云い、梅路見鸞師が「微塵の差も無い」と云われる示唆は、むしろ”射の正路”を逸脱する射の病を指摘する共通の言葉によって理解する事になりました。
尾州竹林派弓術書には「草菅穀に勝つ」の記述で、本多利実師も「射の修行と精神上の迷い」、梅路見鸞師は「武禅」に同様の文言を用いて記述しています。この言葉は竹林坊如成師と同時期の高穎師「射学正宗」にも出てきます。竹林坊師と高穎師の関係はどのように考えたらよいのでしょうか。ここでは究明しませんが、骨法とその病に係る射の精神性の課題は同じと思えます。
しかし、射の正路 竹林坊師も本多師も梅路師も骨法が唯一無二の射法とはしていないと理解すべきでしょう。骨法を無視することなく骨法など捉われない、もとよりすべてものに型が定まっている分けも無く、無法の射法がある事を示唆されていると学べます。高穎師の記述には見られない処と考えて居ります。三師に共通するところは射の本質に明確に記されている、と学べます
教本を通じて阿波師と本多師の関係を知り、いくつかの弓術を読み阿波師と梅路師の関係を知りました。池田先生からは梅路師の見鸞、阿波師の見鳳は本多利実師より賜ったとうかがいました。しかし、本多利実師と梅路見鸞師の関係はなかなか書籍には現れて来ませんので吟味する事にしました。
池田先生は梅路老師の紹介状を持って阿波師を訪ね教えを受けたとうかがいました。梅路師と阿波師が兄弟弟子である事は武市義雄師の記述からもうかがえます。東北大學出版会「弓聖 阿波研造」池沢幹彦氏著作からは時代の背景も含め吟味する事が出来ます。
武禅第三巻「弓道の危機」梅路見鸞師著など戦前の流派が動かす射の世界の本質課題に痛烈な警鐘を鳴らしています。
(1) 本多利実師と梅路見鸞師
明治の黎明期、大正の文化の揺籃期、昭和の初めに通じて、維新前後の射の負の形式が席巻しその病根が射の世界を動かして逝く時代にあって、両師がその世界の姿勢には対峙て警鐘をならし実行していく姿に深い関係を感じます。
阿波師は本多師に師事していたことは教本や他の書物から知ることができます。阿波師と梅路師も射を通じて深い親交があったことが知れています。阿波師は阿波見鳳の「号」を持っています。私はこの「見鸞」と「見鳳」は本多利実師より戴いたとうかがったことがあります。しかし、本多師と梅路師の関係を直接示す書物は見つかりません。
武禅第三巻昭和十一年6月号に「本多師より皆伝印可免状(注:本多流弓術書)を戴いた「石原七蔵氏」と思われる「石原範士」が梅路師と武禅道場で対談・射礼をされる記述のある次の投稿があります。
武禅第三巻昭和十一年6月号 「虎洞に参じて」 田邊 流雲 氏の記述 ヨリ抜粋します。 全文は後で記載します。
「…十日には早朝より九州の石原範士が門下の三宅教士、五代錬士を従えて来三山せられた。老師と石原範士とは二人きりで正午過ぎまで対談せられた。午後は武禅道場の稽古日なので樫野南陽先生はじめ四五名の門下も来場せられ十数名の多数となったが、場内は静粛そのもので一言の無駄口をきくものもない。老師が師範臺に着かれて門下生一同の挨拶を受けられた後、石原範士、三宅教士の射礼あり、終って一同交交習射、夕刻まで引く。石原範士はその夜虎洞に一泊せられた。翌朝再び道場に入られ、真法の開示あったことを後で老師より承った。私は惜しくもその席に列席するを得なかったが、昼食の際、石原範士は『自分はもう七十歳にならんとして居り、是まで随分苦労もして来たが、死ぬ迄に真道を求め、もう一と修行を積み度いと常に心掛けている、今度も随分と下げ難い頭であるが、正しい道の前には止むを得ず自然と頭を下げなくちゃならん』と云われた。石原先生は本多流の承継者で、現範士中の第一人者と称しても何人も異論はあるまい。今回の演武祭に於いても実に立派な射を出して居られる。その先生 が見栄も誇も一切の事情もかなぐり捨てて真道を求めて真修せんとせらる、正に凡を越えたる修行底の人にあらざればよく為し得ざる所で、流石がに名大家なる哉と唯々讃歎せしめられた。…」
石原七蔵が70歳とするとおおよそ梅路師は50歳、阿波師は56歳ちなみに、教本執筆範士はおおよそ 教本一巻二巻執筆範士 40歳から55歳、教本三巻執筆範士40歳から60歳、教本四巻執筆範士 30歳から40歳
石原氏が本多師より皆伝印可免許を受けた明治44年の時、本多師75歳、石原氏45歳、梅路師25歳、阿波師31歳梅路師が20歳前後から本多師没(大正6年10月13日)までに本多師に師事される 期間は推定10年程あります。梅路師と東大との関係の話を伺ったこともあり、 本多師が東京帝国大學運動会弓術師範(明治35年)、明治41年東京帝国大学弓術部編「日置流竹林派弓術書」の刊行などから、本多師と梅路師は東京帝国大学弓術の関係も検討の余地があると思います。
以上の事から、「阿波師と梅路師の親交」「武禅に見る記述」と「本多師と梅路師の両師の理念、哲学、 実践活動内容」等から本多師と梅路師の両師に深い関係性を感じます。
(2)梅路見鸞師と阿波見鳳師
(3)梅路見鸞師と池田正一郎先生
池田先生は「弓道を学ぶには」にて
「弓道を習得するには、先ず一切の心の囚われを離れて小児の様な純真さに返って「射」を行う事、肝要である。かくすれば自然と「弓を引き矢を放つ」と云う射その事についてよく納得できるようになり、自然と弓道の本質を体得するに至るものである。このように心を純真にするには
一 心の底に自問自答して真実の心の叫びを聞くこと
一 射法理論と肉体の合理的使用に忠実に徹して、向上の一路を無限にたどろうと欲すること
であろう。この二点の中の一つを己のものとして追及していけば、必ず純真となる。純となるか不純なるかこれ弓の道を無限に追及しようと心がけるには、この純真以外にはない。…(以下略)」
弓を手にすれば、必ず射法射技の理論と実践の仕方を学び、理念等も目にします。常に心に純真さを問えばよい事でしょう。他人と比べたり、言葉に捉われたり、名誉や権威に自己を預け他力にすがるなど形に捉われていないかを自己チェックする事になります。
流派流派などといい、組織の中で免許で内外を比較差別して自己認識しては争いの本になること必然です。現代のスポーツ組織の課題にも通じます。この「純真」に向き合う事で、初めて、初心に帰り、実践学ぶ時の自己を見出せると思います。ましてや教導する時にこれを失えば射は成り立ちません。