平和のむかし
〜この地に生きた人々の物語〜
文:遠山 武
文:遠山 武
私たちが暮らす「平和」という地名には、どのような歴史が刻まれているのでしょうか。
「平和のむかし1〜7」は、2015年から2016年にかけて発行された「平和第二町内会だより」に、7回にわたり連載されたものです。執筆されたのは、当時の町内会長・遠山武さん。手稲町誌などの資料をもとに、開拓の始まりから「平和」という地名の由来まで、丹念に調べ上げてくださいました。
暴れ川と呼ばれた琴似発寒川、明治期に山口・福井から入植した人々の苦労、クマやオオカミと隣り合わせの暮らし、水田開発と「西野米」、そして知られざる金鉱の歴史——。今の穏やかな町並みからは想像もつかない、先人たちの歩みがここにあります。
ぜひご一読いただき、私たちが暮らすこの土地への理解を深めていただければ幸いです。
1. 暴れ川「琴似発寒川」(2015年7月1日号)
2. 平和の開祖 福玉仙吉〜右股のサクラを神宮に移植〜(2015年9月1日号)
3.右股開拓の始まり〜山口・福井県人が最初〜(2015年11月1日号)
平和第二町内会は来年で五〇周年を迎えます。これを機に、当地域の歴史を振り返ってみます。
私たちが毎日振り仰ぐ手稲山は、三七〇万年前に形成された太古の火山です。それが約五万年前の最終氷河期に巨大な山体崩壊が起き、現在の形になりました。平和の方向から見ると山頂から下が大きな崖になって見えるところです。
崩壊の原因は巨大な地震か豪雨によるものと考えられ、この山を源とする琴似発寒川が長年にわたって運んだ土砂が平和から西野、さらに西区一帯に広がり堆積した地形が「琴似発寒川扇状地」です。この付近の土地を掘り返すと、大きな丸い石がたくさん出てきます。川によって運ばれた岩石が埋まっているのです。
琴似発寒川は、過去に何度も洪水を繰り返してきました。昭和二十五年十一月の豪雨では、前日までに積もっていた雪を急速に融かして激流となり現在の霊園よりも上流にあった阿部沢橋、平和の滝に至る錦水橋が流出し、その橋脚などが下流の中洲橋、右股橋、左股橋をはじめ下流のほとんどの橋を流すという、記録に残る最大の災害でした。
このため、昭和二十九年に平和ダムが着工され、以来「流路工」と呼ばれる階段状の砂防事業が続けられ、現在では大きな災害が起きていませんが、私たちはそのような危険な川と隣り合わせに住んでいることを知っておく必要があります。
昭和二十五年・・・1950年
昭和二十九年・・・1954年
この平和の地に最初に移住してきたのは誰だろうか。以前創立四〇周年記念誌には、手稲町誌等の記述をもとに「明治十九年頃に最初の入植者」としたが、その後「福玉仙吉がもっと早いのでは」との指摘を受け、その事績を調べてみた。福玉仙吉とはあまり聞きなれないが、札幌の開祖とされる開拓判官・島義勇(しま・よしたけ)の従者で、江戸深川の呉服商の次男である。
明治二年蝦夷地が北海道となり、東京に開拓使が置かれる。初代長官となった佐賀藩主・鍋島直正の命で同藩士だった島は判官として仙吉らを伴って北海道に渡り、札幌を開拓の中心地と決め、札幌神社(現北海道神宮)も創設する。 間もなく島は、二代目東久世長官に罷免され、曲折の後、佐賀の乱に加わって刑死するが、仙吉は島の離道後も札幌に残り、当時の上手稲村に入植し開墾に成功する。島の横死を聞いた仙吉は、その供養のために近在の山から集めたヤマザクラ一五〇本を明治八年春札幌神社に植えた。これらの樹の多くは右股の山から掘り出され、今も神宮の春を彩っている。
その後、仙吉も右股に移り住み、石ころの多いこの土地で人馬とも呻吟しながら、開墾に従事し、明治二十二年には長官から表彰されている。右股への移住時期は不明だが、自費で道路開削に当たったほどに財力を蓄え、二十二年に表彰されたからには、少なくとも三〜五年は遡るのではないかと思われる。仙吉はこの後も、さらに上川の風連に移り、ここでも新たな開墾に汗を流した。
明治二年・・・1869年
明治二十二年・・・1889年
現在の西区・手稲区の地域に、林業や農業を目的とした移住者が入り、本格的な開拓が始められたのは明治初期になってからです。開墾の際に畑の中から多くの土器や石器が発見されており、古くからアイヌなど先住民族の狩猟や生活の場であったことが分かります。
手稲町誌などによると、明治四年に新潟県から森三吉ら五戸がベッカウス(現在の手稲東小学校付近)に移住したのが最初とされ、さらに、明治八年には道内初の屯田兵約二百戸が琴似に入植しました。 しかし、明治十五年には左股(福井)地区、同十七年には西野地区の大部分が「学田用地」として指定されました。これはこの土地から得られる小作料を円山・琴似小学校の運営費に充てるためのもので、「自分の土地」に望みを抱いてきた人たちはここを敬遠し、学田用地から外れた西野の山沿い(広島通り)や発寒川を渡った右股(平和)地域へ続々と入植してきました。
明治十八年に広島県から前鼻村七らが現在の西野に入ったのに続いて、右股地区には明治十九年春に山口県から春木屋孝造ら三戸、同年秋に福井県から安井茂右衛門ら十七戸が移住し、右股全域で山林の伐採や開墾が進められました。
これらの入植者は、当初は豊富な山林を伐採して薪や炭などを作って生活し、その後、伐採跡地を畑や水田として開墾していきました。
明治十五年・・・1882年
現在もときたまクマが出没して大騒ぎをしていますが、開拓当初はクマやオオカミ(今は絶滅しましたが)の出没は日常のことでした。
手稲町誌によると、明治十九年の記録として「猛獣駆除の懸賞金、クマ十八頭、オオカミ三一頭、この手当五三四円」とあります。クマは五円、オオカミは七円でした。若い役人の月給が七〜八円のころの金額で、クマの方が安いのは、肉や毛皮、肝などが売れたためだと言います。
入植した当時は、背負えるだけの荷物を背負い、小樽から山坂道を歩いてたどり着きました。 あるおばあさんの回顧では「布団を二人前背負い、その上に二歳の子どもを乗せ、両手に持てるだけのものを下げ、九里(約三四キロ)の道を歩いてたどり着いた」といいます。
飲み水に便利な場所を探して拝み小屋を作って開墾や炭焼きをはじめ、その合間に丸太や木の皮で掘立小屋を建て、入口にはむしろを下げる程度。クマやオオカミにおびえ、僅かに育て作物もシカに食い荒らされる日々でした。
日用品を買うにも、二股か手稲東まで出なければならず、病気になっても置き薬程度、重病人が出ると、戸板に乗せて琴似の病院まで運んだといいます。
明治十九年・・・1886年
平和地区の開墾が進むとともに、発寒川からの取水が容易だった右股(平和)地区では、他の地区に先駆けて明治二十年頃から水田の試作が行われました。
結果が良好なため、新たに水田を作る機運がみなぎり、安井茂右衛門、前原兼太郎らの熱心な努力によって、明治二八年に西野右股用水組合が設立され、用水路の自費開削を出願し、翌二九年に完成しています。平和第二会館の前にある石碑はこれを記念したものです。
用水路は最終的に三ルートが作られ、最も南側のものは、平和霊園よりも上流から取水され、高い位置を保ったまま、今の平和小学校から西陵高校の付近を通り左股(福井)まで達していました。 一方各農家の水田造成も大仕事で、川に沿った場所では一丈 (三・五 m) あまりも埋め立てたとされます。大きな河原石の埋まった土地を水田にするには大変な労力と資金を要しましたが、明治三五年ころには良質なコメがとれるようになり、「西野米」のブランドで寿司米にも使われたといいます。盆地状の地形のため夏は比較的暖かく、さらに粘土質の肥沃な土壌だったことが功を奏したものと思われます。
農家ごとに"もみすり"などのための水車が回り、のどかな農村風景を呈していました。
明治二八年・・・1895年
明治二八年ころから、右股(平和)の奥で金銀が採掘され、一時は五百人を超える鉱員が働いていました。
手稲町誌によりますと、現在の平和霊園の奥、平和の滝の方から流れてくる発寒川の支流、宮城の沢川をさかのぼったところ、阿部山 (七〇三m)の南側で採掘し、製錬所もそこにありました。金・銀・銅を採掘し、含有量は少なかっ たものの、鉱量は豊富で、精錬場の能力は年に 七〜八千トンの採掘に応じるものでしたが、昭和十一〜二年頃には閉山しています。
五百人の鉱員というと、開拓者の数を上回り、売店もありました。古老の話では、子どものこ 鉱山のお祭りの相撲大会に出て優勝したことがあるとか、閉山後も鉱山関係者の住宅があり、そこから学校に通っていた同級生がいたなどといいます。戦時中には、鉄材不足のため古い鉄材を運び出すために、西野の馬車追いが総動員され、大きなボイラーを運び出す時には、馬を三頭も連らねて運んだといいます。
また、鉱石などを運んだトロッコは線路とともに戦後も残り、それを転がして遊んで叱られたという思い出を語るお年寄りもいます。
この地区は、かつて上手稲村や手稲村・町に 属していましたが、現在の札幌市西区の一部になるにはいく度かの変遷がありました。
明治五年に発寒村から分離して上手稲村が出来、戸長役場が宮の沢附近に置かれましたが、現在の手稲区全体が範囲のため、戸長役場が軽川(がるがわ〜現在の手稲本町の旧名)に移り、手稲村となりました。今の手稲東小学校は、手稲村の東端に位置するために名付けられたもの。
昭和十七年には、新たに十二の字区(あざく) が定められ、それまで右股と言われていたこの 地区は「平和」と改められました。そのいきさつについて古老は「当時は右股・左股を一括し て『南西野』と称していたが、左股地区が入植者の多くの出身県の名「福井」とした。 右股にも同県出身者が多かったが先を越されたため『これまで事故もなく平和に過ごしてきた。後も平和な村を子孫に』ということで「平和」と決まった」といいます。昭和十七年三月、太平洋戦争が始まったばかりのときに「平和」の地名が付けられたのは歴史の皮肉かも知れません。
その後昭和二六年に手稲町となり、同四二年に札幌市と合併、同四七年の政令都市指定とともに札幌市西区となりました。
明治五年・・・1872年
昭和十七年・・・1942年
昭和二六年・・・1951年
昭和年四二・・・1967年