多摩川八景「二子玉川・兵庫島」について

二子玉川の「兵庫島」は、1984(昭和59)年4月、建設省(現・国土交通省)による「多摩川八景」のひとつに選定されました。

ここでは、「八景」というものの成り立ちと「多摩川八景」の選定経過について、公表可能な範囲でまとめてみます。本稿にこれまで知られていなかったエピソード等が盛り込まれているのは、以下の事由によります。

(1)当会事務局長の佐々木幹雄が、たまたま仕事として「多摩川八景」選定業務を担当していたこと。

(2)さらに「多摩川八景」選定委員会委員長の野口達弥氏(東京工業大学名誉教授=故人)が会長を務めていた、二子玉川を拠点とする環境美化団体「ラブリバー多摩川を愛する会」の事務局に佐々木がいたこと。

1.「八景」というものの歴史

「八景」はもともと山水画の画題として選ばれてきました。北宋時代の中国で、湖南省の風光明媚な水郷地帯を描いた「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」が嚆矢と伝えられています。

以降、パターン化された「八景」は、8つの名所を選出し、その「対象地」と、そこでの季節の異なる「事象・風物」をそれぞれ2文字の漢字で表現しました。それを組み合わせて四文字熟語が八景の名称となります。「事象・風物」の方はほぼ固定され、日本に入ってもその形式は踏襲されました。江戸期に歌川広重によって描かれた「近江八景(おうみはっけい)」はその代表例です。

「瀟湘八景 」(中国) 「 近江八景」(日本)

瀟湘夜雨(しょうしょう やう) 唐崎夜雨

平沙落雁(へいさ らくがん) 堅田落雁

煙寺晩鐘(えんじ ばんしょう) 三井晩鐘

山市晴嵐(さんし せいらん) 粟津晴嵐

江天暮雪(こうてん ぼせつ) 比良暮雪

漁村夕照(ぎょそん せきしょう) 瀬田夕照

洞庭秋月(どうてい しゅうげつ) 石山秋月

遠浦帰帆 (えんぽ きはん) 矢橋帰帆

宋の末期から元の初期(13世紀)に活躍した中国の画家・牧谿(もっけい)が描いた「瀟湘八景」作品は、日本で7点が現存しています。国宝や重要文化財にしていされているものもあります。

牧谿「瀟湘八景」より「漁村夕照図」(国宝) ↓

2.かつての「多摩川(玉川)八景」について

江戸時代中期の寛政3(1791)年、現在の川崎市側から見た多摩川周辺の名所を一枚絵で描いた「武揚玉川八景之図(ぶようたまがわはっけいのず)」が刊行されています。八景に選ばれた各所は、いずれも現在でも残っている地名です。中には2文字でないものもあります。尚、ここでの「玉川」は多摩川のことで、「二子」とは、川崎市側の二子を指します。

一方、幕末の嘉永3(1850)年には、瀬田の行善寺(室町時代に創建され、現存する浄土宗の寺)に歌人たちが集まって、現在の世田谷区側から見える8つの名勝を歌にしました。これが「玉川行善寺八景(たまかわぎょうぜんじはっけい)」です。「事象・風物」に関しては、違う熟語が使われています。

武揚玉川八景」 「玉川行善寺八景

(川崎市側から) (世田谷区側から)

都筑ヶ丘夜雨 大蔵夜雨(おおくら やう)

喜多見晴嵐 瀬田黄稲(せた おうとう)

登戸夕照 川辺夕焔(かわべ ゆうえん)

向丘秋月 吉沢暁月(よしざわ ぎょうげつ)

溝口暮雪 士峰晴雪(しほう=富士山 せいせつ)

瀬田落雁 登戸宿雁(のぼりと しゅくがん)

二子帰帆 二子漁舟(ふたご りょうせん)

宿河原晩鐘 岡本紅葉(おかもと こうよう)


武揚玉川八景之図

また、歌川広重は「江戸近郊八景 (天保9・1838年頃)で、玉川秋月を描いています。

3.「あなたが選ぶ多摩川八景」キャンペーン

多摩川八景」は、建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)が、「多摩川への関心を高め、河川環境整備の方向性を探ること」を目的に、昭和59(1984)年4月に発表したものです。実質的に業務を担当したのは、京浜工事事務所(現・京浜河川事務所)。

「多摩川八景」は、従来の、特定の場所を拠点として選んだ「〇〇八景」とは発想が異なります。むしろ葛飾北斎が描いた「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」や、歌川広重が描いた「東海道五十三次」のように、ひとつのテーマ(この場合は多摩川)に沿って広域で「名所」を選定する作業でした。

そして、この「多摩川八景」の中に「二子玉川 兵庫島」が選ばれました。

「多摩川八景」は、『あなたが選ぶ多摩川八景』キャンペーンの中で選定されたものです。その選定作業は、前年の昭和58(1983)年から、以下の手順によって行われました。

(1)多摩川の源流である山梨県塩山市から、河口の大田区、川崎市に至る流域全市区町村から「多摩川50景」の候補地を推薦を受付ました。推薦された場所に統一的な名称をつけ、約150の候補地に整理しました。

[流域自治体:山梨県塩山市・丹波山村・小菅村、東京都奥多摩町・青梅市・瑞穂町・檜原村・日の出町・秋川市・五日市町・羽村町・福生市・昭島市・武蔵村山市・小平市・立川市・国立市・国分寺市・小金井市・八王子市・稲城市・多摩市・三鷹市・日野市・府中市・調布市・狛江市・世田谷区・大田区、神奈川県川崎市(名称は当時のもの)]

(2)「多摩川八景選定委員会」のメンバーが集まり、映像や文献資料をもとに、「多摩川50景」を選定しました。選定委員会の委員長は、東京工業大学名誉教授で、二子玉川地域で環境美化活動を行っていた「ラブリバー多摩川を愛する会」会長の野口達弥氏(野口先生は高分子化学の世界的権威でありながら、愛知芸術大学で油絵を指導する芸術家でした)。他の委員は、三浦朱門氏(作家、後の文化庁長官)、戸塚文子氏(紀行文作家)、師岡宏次氏(写真家)、中村良夫氏(東京工業大学教授、景観工学)、進士五十八(東京農業大学助教授、のち学長、公園デザイナー)など。

(3)決定した「多摩川50景」をもとに「多摩川八景」を選定する一般投票を、昭和59(1984)年1月に開始しました。B全版のポスター制作し、流域の鉄道各社(旧国鉄、東急、小田急、西武、京王、京浜急行)の駅に掲示を依頼しました。また、各自治体の役場や関係施設、大型商業施設などでは投票所を設置したほか、当時開催されていた青梅マラソン出発点などでも臨時投票所を開設しました。各自治体とも「八景」を「誘致」しようと、熱心な投票促進活動を展開していたようです。二子玉川地区では、玉川髙島屋ショッピングセンター内に投票場が設置されました。

尚、二子玉川周辺では、「兵庫島」のほか、「二子緑地」も「多摩川50景」に選ばれました。

4.「多摩川八景」の選定

3月末の締め切りまでに、一般からの投票は412,126票に及びました。1位は、秋川渓谷の25,079票。

得票上位20位までの中から、再度招集された「多摩川八景選定委員会」メンバーによって「多摩川八景」が決定しました。昭和59(1984)年4月20日発表。選定にあたっては、単に眺望だけではなく、地域バランス、歴史的背景なども考慮されました。

[多摩川八景]

多摩川の河口(東京都大田区、神奈川県川崎市)

多摩川台公園(東京都大田区)

二子玉川 兵庫島(東京都世田谷区)

多摩大橋付近の河原(東京都昭島市・八王子市・日野市)

玉川上水(東京都羽村町・福生市・昭島市・立川市・小平市)

秋川渓谷(東京都五日市町・檜原村)

御岳渓谷(東京都青梅市)

奥多摩湖(東京都奥多摩町、山梨県丹波山村)

この八景のうち、玉川上水秋川渓谷は、多摩川本流ではなく、いわゆる支流に位置づけられるものです。

「多摩川八景」への一般投票者へは、抽選で、(1)「多摩川八景」巡りバスツアーご招待、(2)後藤伸之氏の描いた「切り絵による多摩川八景~現代の多摩川を代表する八つの顔」(8枚組)、がプレゼントされました。バスツアーには、特別ゲストとして若き日の林家こぶ平さん(現・林家正蔵師匠/先代・三平師匠の長男/落語協会副会長)が同乗し、参加者を楽しませてくれました。


「切り絵による多摩川八景」の絵はがきと案内図 ↓

5.「多摩川八景」に選出された二子玉川 兵庫島

無事「多摩川八景」に選ばれた二子玉川 兵庫島ですが、一般投票の伸びはあまり良くなく(20位以内に入らないと「八景」選出は難しいため)、関係者は少しハラハラしたものでした。多摩川本流ではない秋川渓谷が投票1位となったように、自治体や地元の各種団体の投票促進活動も熱心に行われたようです。

3月末の締切直前、玉川高島屋ショッピングセンター内に設けられた投票箱を開けたところ、大きな段ボール2箱分の投票用紙が入っていました。結果的に、二子玉川 兵庫島は、秋川渓谷にわずかに及びませんでしたが、2万通を超える得票で第2位となりました。

選定委員会では、二子玉川 兵庫島は多くの人たちが川辺に集って憩う、「親水」の場として評価されました。

行政の川への取り組みは、「親水」のほか、「治水」と「利水」という面があります。治水は水害や土砂災害から国民を守ること、利水は発電や飲料水・農業水などの水の利用を促進することを意味します。親水という考えは、これら2つに比べると、新しい概念であり、建設省(現・国土交通省)としても、親水公園のモデルとして期待する地点として位置付けられていました。

明治以降、兵庫島は多数の地権者が所有権を分割する土地でしたが、河川氾濫による被害が頻発したこともあり、国が全て買上げました。そして、「多摩川八景」の選定から4年後の1988(昭和63)年3月31日、世田谷区が管理する形で「兵庫島河川公園」として開園しました。隣接する「二子玉川緑地」と合わせ、広大な親水公園が誕生しました。

ターミナル駅にほど近く、大型商業施設が複数存在する地区で、これほど自然に恵まれた地域は、全国でも極めて珍しい存在であると言うことができます。私達の街・二子玉川と兵庫島は、まさに「多摩川八景」に選ばれるにふさわしい街なのです。

令和元(2019)年10月の「台風19号」によって兵庫島は浸水し、樹木等に大きな被害が出ました。二子玉川郷土史会が建立した若山牧水碑も、泥にまみれてしまいました。当会でも「二子玉川2019水害の記録」をまとめましたが、「治水」が今後の地元にとって大きな課題であるのは、言うまでもありません。

6.新しい時代の「たまがわ八景」を選定します

私たち二子玉川郷土史会では、数年前から、新しい時代にふさわしい「たまがわ八景」を選定する作業を進めています。

玉川多摩川ではなく、あえてひらがなの「たまがわ」としたのは、地元である玉川と、私たちの誇りとする自然・多摩川の両方の意味を持たせただけでなく、その「」を大切にしたかったからです。

河川の多摩川が、多摩川、多磨川、玉川、丹波川などと様々に表記されてきたのは、まず音としての言葉があり、それに漢字をあてはめてきたからです。日本は、言霊(ことだま)の国とも言われてきました。音としての言葉は、多様なイメージを喚起してくれます。

ですから私たちは、現代において「たまがわ」という音にふさわしい場所を8か所、選んでみたいと考えています。

その経過は、また改めて発表させていただきます。