二子玉川井戸端会議

【第二回】二子玉川、お祭りの思い出

■かつての二子玉川の花火大会

かつての花火大会は、「ラブリバー多摩川を愛する会」と「世田谷区」の共同主催でした。灯ろう流し、盆踊りも併せて行い、参加者もそれほど多くなくて、(今にして思えば)夢のようなイベントでした。もちろん、川崎市とは日程が別で、事務局にいた私は「かけひき」で苦労いたしました。(佐々木幹雄)

■事務所から花火を見ました!自宅からは音はしても、見られないので、とても感動。窓から大きく、はっきり見えて、二子玉川にいてよかった!花火大会、これからも続いてほしい。

■我が家のお祭りは、対岸の川崎の花火である。親や兄弟の友達が多い時は100名以上集まり、一年に一回の花火を心から楽しみ旧交を温めた。今も続いているお祭りである。(温井克子)

■学生時代、池尻にあった大阪府出身者の「泉州会館」という学生寮にいました。楽しみは年に一回の「寮祭」で、終わると玉電に乗って、二子玉川へ。必ず川にとび込む奴がいて、必ずカゼを引いていました。(井上頌一)

■高島屋の向かいにある現・ドッグウッドが公園?広場?だった頃、そこで盆踊り大会が行われていて、盆踊りが終わると子ども限定で配られるお菓子の袋詰めが盆踊り以上に楽しみでした。(日比野)

■盆踊り

今年初めて見に行きました。玉川町会のまとまりのすばらしさを感じました。これからも機会があれば参加したいです。

■小学校低学年の頃の思い出!!氏神様である瀬田・玉川神社の例大祭が町・家族あげての大イベント!宵宮は学校も休日となり、母が作った重箱入りのお料理を筵を広げた所で祖父・祖母等と舞台で演じられる おどり・村芝居に興じ!!お祭りおこずかいをもらい、自由に夜店で買い喰い出来たのも、お祭りだけの特権でした。当時、家の躾がうるさく、特にやんちゃな私は祖母がお目付け役で 町の駄菓子屋へ寄っても叱られた記憶あり。(原佳子)

■私は瀬田で生まれ、瀬田玉川神社の氏子です。昭和45年、1970年12月17日(木)そば屋、大勝庵を開業。翌年から、お祭り「神輿」の担ぎ手、「山車」の引き手、さん達をお迎えし、祝って貰っています。そんな祭り衆の中で際立ってのお祭り男、江戸っ子「山ちゃんラーメンのご主人」イナセでハッピ姿の似合う色男!!正に男が惚れる。そんな良き時代の私の思い出だ。(大塚勝利)

■子どもの頃、フエやタイコの音が教室まで聞こえて来て、うれしく、楽しく、お勉強にならなかった事、なつかしく思い出されます。今は音も流れずさびしいです。(宇津原充地栄)

■今年五十才になる息子が小学校に入学し、友達と連れだってお祭りに行けることを許しました。屋台のソースセンベイ、梅などを初めて食べられました。帰宅後、嬉々として報告されましたが、私は母から、お祭りの屋台では買いぐいは絶対に禁止、アイスキャンディーも食べた事がありませんでした。息子には、友達が食べているのにと思い、許しました。太鼓、笛の音を聞くとおもいだします。(孝子)

■玉川高島屋SC 50周年記念で、高島屋建設前から開業当時の活気豊かな写真に加え、玉電や二子の昭和の風景がいっぱいの写真展が思い出深かった。

■子どもが幼い時、3人を連れて、山車を引いて毎年歩いて参加していました。神社でくじ引きをした長男がファミコンのカセットを当てました。その後、毎年お祭りでくじ引きを引きまくりました。当たりは出ませんでした。残念。(井田清美)

■子供の頃、お神輿をかつぎたかったのですが、戸越では、まだ女の子はかつがせてもらえませんでした。二子玉川に来て、いよいよ来年はお神輿をかつぎます!!(田村尚美)

■輿が川に入った!(50年前かな)