歴史

ここで表記される年号は明示されているもの以外旭歴である。

概要

現在(2086年時点)は比較的安定した時代で大きな戦争もしばらくの間起きていない。世界をリードするのは主にレティア州と大東州の国々で、それぞれ適正な力関係を保っている。この二州の国々は大航海時代以降に大きく発展し植民地を巡って争い合っていたが、約80年前に集結した世界大戦以降は冷戦に突入し、各国が高度経済成長を遂げて現在に至る。

古代~中世

雰国は旭暦0年に初代旭天である暁旭が即位したことにより建国され、周辺の国々との戦争に打ち勝ち領土を拡大し8世紀頃(西暦:紀元頃)には現在の東半分に当たるほどの領地を所有していた。

度々遊牧民族の侵攻を受け、時には国が乗っ取られ軍のトップが処刑されることもあったが、旭天は国民の反感を買わないようにするために政治利用され、殆どの場合において処刑されることは少なかった。

そのため最初こそ旭天が実質的な権力を持っていたが、次第に政治は旭天に役職を与えられた者が取り仕切るようになった。

南大東進出

17世紀半ば(西暦:14世紀)ごろ、雰国や陽早国は絹織物や美術品、貴金属、穀物などを陸路で西方に輸出していた。また雰国は列州からワインを輸入しており、高額だったため貴族の権力誇示として晩餐会などで大量に振る舞われた。

しかし17世紀後半、大陸中央部の騎馬民族により巨大なタスバル帝国が建国され、通行する商人に対して高い関税を掛けたために陸路での貿易が厳しくなり雰国や陽早国は海路での貿易ルートを探索し始めた。

しかしこのとき雰国は島々で蓋をされたような状態になっており、外洋への進出は難しかった。

そこで雰国が目をつけたのが南方への進出である。そして未開の地であったスダロ大陸や、政治腐敗で力を失ったモーゴ王国への進出を開始した。

モーゴ王国は街道があったため比較的簡単に進軍・制圧できたが、スダロ大陸は海を隔てており兵の輸送が困難だった上に、ジャングルが広がり進軍が困難で兵士が熱帯病に苦しみ命を落とすものも多かったため、海岸部のみ制圧して引き上げた。これにより雰国は外洋へ出る港を獲得した。

外洋進出

18世紀初頭(西暦:15世紀半ば)ごろから雰国は列州への航路の探索を開始した。1718年には雰国の探検家である日万長がオルスワ海諸島に到達したが、嵐に見舞われ進むことができず帰還した。

そして1732年、雰国の探検家の青大倫が西内海を経由して大東人として初めて海路でヒパチア王国のブールに到達し、ワインを本国に持ち帰った。

また同じ頃、列州でも大航海時代が始まり、メラヌス大陸やオルスワ州の探査を開始していた。

一方陽早国は航路開拓において雰国に遅れを取っていた。そこで西廻りルートではなく反対から永球を一周して列州に到達しようとする東廻りルートの計画が出され、1735年に陽早国の探検家である田永宗三が豊東洋を横断し、新大陸に到達した。しかし田永はこれを列州の一部と勘違いし、西列亜岬と命名して本国に帰還した。後にこの大陸は田永の名から一文字取って洋田大陸と命名された。

この情報はすぐに雰国にも伝わり、二国は先住民族の国々を滅ぼし競い合うように洋田大陸の植民地化を進めた。18世紀後半(西暦:16世紀半ば)には陽早国は広万列島から北田西部、洋田海峡などに領土を拡大した。一方、雰国は南沃大陸や南田西部などを支配下に置いた。

新大陸に渡った人々が巨万の富を手にしたことで本国の人々は刺激され、大東人は続々と洋田大陸に渡航していき植民地化が進んだ。

陽由戦争

同じ頃、雰国が新大陸に到達したという噂を聞いた列州諸国が新大陸を目指して航海していた。1748年にはユダール王国の探検家が洋田大陸の東海岸に到達し、ミカント大陸と命名した。

ユダール王国は北ミカント(北田)大陸の東側から侵略し、先住民族の国々を滅ぼし順調に領土を拡大していった。

また少し後に新大陸に到達したテルス帝国は南田大陸の東側を征服した。

そして1787年、陽早国とユダール王国の支配領域が重なり領有権争いが起こった。翌年には陽由戦争に発展し、陽早国が辛勝した。これにより新慶条約が締結され、富原川の河口から750丘(1丘≒3.45km、およそ2587km)東に進んだところを境界線とすることが確定した。