【創立60周年】のタイトルを付けて始まった2025年度の歩み。その3分の1が過ぎようとしています。愛おしみながら関わってきた子どもたちを小学校へ送り出し、ぽっと穴が開いた様な心境の春先でしたがそれは束の間でした。クラスの友だちや先生が変わり、新しい組み合わせとなったことで、去年とはまた違った音色を響かせ合います。そこに新しい顔ぶれも加わるのですから、尚のことです。子どもたちも先生たちも笑ったり泣いたり、喜んだり嘆いたり・・・様々な音を奏でている毎日でした。
【毎日】の中にはこんなこともありました。そろそろ退勤しようかという時間帯に1本のお電話がかかってきました。『子どもが、学校からの帰り道にシオンの横を通ったら、フェンス越しに石を投げられ頭に当たった。大した怪我でなく済んだがしっかりと指導をしてほしい』との内容でした。何ということ!教師会でも全く話題に上がらなかったので耳を疑うような話に驚き、うろたえました。陳謝しつつ、状況を把握して再度連絡すると伝えて受話器を置きました。お話からすると、どうやら幼稚園ではお片付けの時間だったようです。遊具をしまったり、子どもたちを集めたり、着替えの手伝いをしたりと、確かに先生たちが一番忙しくしている時です。“園の欠け”をズバリと示されたように思いましたし、石を投げるような危ない行為そのものについても、指導が浸透しきれていなかったと大いに反省しました。次の日のグループ活動で各々の年齢に合わせた話し方でその出来事をみんなで共有しました。すると、思いがけないほどすぐに“石を投げた”と名乗り出る子がいました。聞けば、嫌なことを言われて怖かったから投げたとのこと。先生はその子を抱きしめるようにしながら「ちゃんと話してくれたのは偉かった。でも嫌なことや怖いことからは先生が守るから石を投げたりしないで先生に言ってね」と話していました。保育後に改めて相手様に謝罪と状況をお伝えすると“ちゃんと名乗り出たんですね~”と驚いておられました。
子どもたちが育ちゆく上では本当にいろいろなことに出くわします。嬉しいことばかりではありません。お父様やお母様は、その状況によって、時には足がすくむような思いを抱きながら深々と頭を下げたり、また時には震えながら相手先に主張したりせねばならないことがあるでしょう。ひるみたくもなろうというものです。でも、それが子どもたちの成長に繋がるのであれば、なんとか受け止めていけるのではないでしょうか。この度の相手様も、匿名ではなく名前を告げて連絡をくださいました。勇気のいることだったに違いありません。お子様と過ごす時間の長い夏休み、心に片隅にそんな覚悟を潜めつつも、お子様との時間を満喫されるよう願っています。 園長 廣田雅子
朝、幼稚園に来ると「さなぎのおうち」の中でパタパタと羽ばたいているモンシロチョウが出迎えてくれました。もう何匹、羽化したでしょうか。子どもたちの登園を待っておうちを開けます。「ばいば~い、元気でね~!」と見送る声には激励の気持ちがたっぷり込められていて、その声にグッときてしまいます。小さい頃はダンゴ虫すら先生に採ってもらっていた子が、年長になる頃にはカナヘビを狙うまでになっていて、その変わりように驚くことはしばしばです。先日も「さわりたくないけど、さわってみたい。」と言う年少さんに、お姉さんたちがダンゴ虫を持ってきて触らせてあげていました。実習生の日誌には「裏庭に言った時、ある子が“自分の夢はカナヘビを触ることなんだ”と言うと、もう一人の子が“じゃあTくんに頼めば触らせてくれるよ、そうしたら夢がかなうよ”と言って印象深かった」と記されていました。
さてそのTくん。手に入れたカナヘビと一緒に毎日登園です。そういう子は他にもいて、みんな揃って「Ⅿy カナヘビ」を手に乗せて可愛がっています。愛着を持って触れるのは良いことではあるので暫く静観してましたが、やはり限度があることを先生たちが伝え始めました。可愛がってはいるけれど、人間の手に乗せられてあちこち動き回ることは虫やカナヘビにとっては怖いこと、温かい人間の手は生き物にとっては苦しいことであると。それを聞いた子どもたちは、惜しむ気持ちがありながらも手から降ろし、見守って楽しむスタイルに変えていきました。
それから数週間たったある朝、相変わらずカナヘビ持参のTくんが机の上にケースを置いて間もなくのこと。土の上に白い物が…。「えっ、たまご??」と目を疑うような情景です。白い物はは数分も経たないうちに次々と4つに増えていきました。なんと卵を産んだのです!ミーティング直前だった先生たちも、たまたま居合わせたお母様たちもみんな集まって、命の輝きに心躍る朝の出来事でした。【思いのままに飼う】から【尊重して飼う】に変えたからこその恩恵でありました。
子どもたちと共にいる生活はなんと素晴らしいのでしょう。レイチェル・カーソンの言葉「子どもたちの世界はいつも生き生きとして新鮮で美しく驚きと感激に満ち溢れています」(「センス・オブ・ワンダー」)が浮かんできます。子どもたちと向き合って対応することの多い私たち大人ですが、向き合うばかりでなく、時には横に並んで同じものを見て同じ思いを抱く、そんな夏を過ごしてはみませんか? 園長 廣田雅子
入園して2ヶ月近くが経ち、小さな新入園児たちも思い思いの遊びを見つけ始めました。登園するとすぐに三輪車に乗る子・砂場に一直線の子・さっそく裸足になる子・虫かご・虫網を持って探しに行く子(使いこなせませんが…) まだ「お友だちと一緒に」の気持ちより「自分のしたいこと」が優先される年齢なので、それぞれの「やりたいこと」がはっきりしています。遊びの好み1つ取っても一人ひとりの違いを見出します。<みんな違って、みんないい> 何度も浮かんでくるフレーズです。各々が神様からいただいている個性ともいうべき“たまもの”(賜物)。それを愛でながら、毎日を過ごしています。“たまものを愛でながら…”は、幼稚園ではごく自然な捉え方ですが、その先の学校の世界では少し違うようです。
先日、あるお母様が「1年生の娘が『ようちえんのときは“いいとこさがし”をいっぱいしたのに、なんで学校は“わるいとこさがし”をするの?』と聞いてきて、ドキッとしました。」と話されました。そういう世界に娘が通っているのだと思うと、胸が痛むと。お母様自身がどう答えて良いかわからずに言葉が出ないでいると、その子が『でも、わたしは“いいとこさがし”するんだ~!』と切り替えたようで、その姿にほっとしたし、改めて幼稚園で心の土台が築かれていることに感謝したとの言葉もくださいました。
確かにお友だちの“良いところ探し”をしたりします。【ドレスが似合う・走るのがカッコイイ・ドロケイで何回も助けてくれた・いつも、いいよって言ってくれる・二人組の時に一緒になってくれた…】など次々に上がってくる“良いところ”は、先生たちが気づいてないエピソードもあり嬉しい驚きに包まれたりしています。そんな園生活の一コマが価値観の土台になっていると思うと身が引き締まります。
「一番大事なのは愛」というシオン幼稚園の価値観。それとはまた違う学校生活の価値観。北風も吹き、壁も立ちはだかり、なかなか厳しいこともやってきましょう。ならばこそ、ここシオンで、北風も壁も凌いでいける「愛の力」を大切にしっかりと育んでいきたいと思います。
ちなみに今は礼拝での牧師先生のお話を受けて、神様が与えてくださる素敵な恵みを見つける「素敵探し」を始めていく幼稚園です。 園長 廣田雅子
4月、珍しく桜の花の残る中で、シオン幼稚園の第60回となる入園式が行われました。
入園式は4月11日。その日は60年前にシオン幼稚園が始まった開園式と同じ日です。更に開園時の園児は52名、今年の園児もなんと52名であることを知って嬉しい驚きに包まれました。年度初めの職員礼拝で、牧師先生から「私たちは昨今の情勢を受けて、園児減少といった重苦しいものを引きずりがちですが、開園式では52名を喜びと希望の中で迎えていたはず。その思いに立ち戻り新年度を歩んでいきましょう。」と示されました。還暦は『暦が繰り返す」と言われますがその歴史に励まされて元気にスタートしていきます。
「僕が小さい時にも年長さんが優しくしてくれたんだ」と言いながらブランコを譲る子
「いいね~なかなか早いじゃん!」と小さい子を褒めながら一緒にかけっこをする子
おけがをした小さい子にぞろぞろと付いてくるお姉さんたち・・・と52名は春の陽ざしを受けて、早速【暖かな愛の連鎖】の絶えない毎日を過ごしています。朝のお別れの時はちょっと涙がこぼれる子もいますが、先生に抱っこされたりお友だちに声をかけられたりするうちに心がほぐれ、そこからはもう涙とはさようなら。笑顔も見えて遊びが始まります。リトルシオンやことり組を経験していることで、安心感を寄せてくれるのがとても早くなっているようです。たまたま園に来ていた保険屋さんまでも「入園後の光景がずいぶん変わりましたね~」と言われていました。
子どもたちに負けず、お母様たちも少しずつ繋がりが広がっているようで、インフォメーションを待っておられる時の雰囲気が和らいでいるのが伝わってきます。新入園のお母様たちが言われています。「シオンママたちが優しすぎる!」「幼稚園に入るまでは一人でいろいろと考え込んだりしていたけれど、一緒に話す人が出来て嬉しい」「私にとってもシオン幼稚園が合っていたみたいです」と。我が子を思い、喜んだり悩んだりするのはどの母親も同じです。気負うことなくおうちの方々も豊かな交わりがなされることを願っています。
今月の聖句は「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。」です。植えた覚えはないのに、園庭には色とりどりの小さな野の花が一杯です。神様は人間が考えも及ばない方法でそれぞれに力を与え生かしておられるのです。その神様が幼稚園の様々な関係性の真ん中にいてくださることに希望と信頼を寄せて、ゆっくりと互いに歩み寄っていきましょう。子どもも大人も・・・。 園長 廣田 雅子
幼稚園の庭に色が戻ってきました。何もないと思っていた所にチューリップやたんぽぽの花が咲いています。いろいろな生命が動き出す嬉しい時。さあ新しい1年の始まりです。
「新しい」は、ワクワクする期待感だけでなく、同時にドキドキする緊張感も運びます。大人は何度も経験している心持ちですが、幼い子どもたちはそれに慣れていません。“楽しみだけど行きたくない” “楽しいけれど帰りたい”自分でもわからない気持ちが涙となってこぼれていきます。複雑な感情に戸惑っているのです。そんな時は必ず先生が寄り添いますし、小さなお兄さんやお姉さんも放ってはおきません。これまでに自分がしてもらったことを他の子にも同じようにしていく<愛の連鎖>がいろいろな所で見られるのがシオンの春です。
今年1年を導く言葉として与えられた聖句は「私はあなたと共にいる」です。(先月の聖句でもありました。)これは神様が最も伝えたかったメッセージですし、聖書を凝縮したような御言葉です。今日から始まる1年のうちには‟なぜうちの子だけ・なぜ私だけ“と孤独を感じるような時もあることでしょう。でも神様は言われます。あなたを一人にしておかないと。神様は直接の御言葉を通して私たちを力づけるばかりでなく、いろいろな方法で助けてくださいます。
私はこれまで正門の前で朝のご挨拶をしてきましたが、数か月前から場所を移しての「おはよう」となりました。曲がり角での危険が懸念されたからです。曲がり角でのご挨拶は、子どもたちやお母様たちとのちょっとしたお話が憚られますし、園庭で遊ぶ子どもたちの様子を垣間見ることもできないので、悶々とした気持ちを引きずりながらの朝となっていました。ある朝のこと、通りの方から赤いコートを着て犬を連れたご婦人と出会いました。初対面です。あなたが園長か、とお尋ねになるのでちょっと緊張して答えると、「うちの息子たちはもう40過ぎだけれども、幼稚園の教えのおかげで優しい心に育ちましたよ。今でも“天にまします”なんて覚えてるんですよ」 何ということでしょう!思いもかけない言葉に嬉しさ100倍,勇気100倍、重苦しい気持ちが一掃されました。その後、その方とお会いすることはありません。園長らしき者の姿が見えたから散歩コースを変えてわざわざ通ってくださったのかもしれません。神様は人を用いて助けてくださる、と実感しました。輪っかを付け羽を持つ姿だけが天使なのではなく、「人」が神様に用いられその役割をなすように思うのです。角まで出ていったことで、これまでお会いしたことのない方と顔を合わせ、最初はいぶかしそうにしていた方々ともご挨拶を交わせるようになりました。今年も曲がり角でみんなが来るのを待ちたいと思います。皆様も身近な「天使」の存在に心を留めながら豊かな1年を過ごしましょう。ともに・・・。 園長 廣田 雅子
へなそうるさんとのお別れランチの際には、午前保育のご協力をありがとうございました。心を込めて用意されたスペシャルランチを前に年長さんのワクワク度は100%!「おいしい、おいしい」の言葉の中に「○○先生、ありがとう!」とたくさんの先生の名前を挙げて感謝の言葉が混じります。目の前のことが当然なのではなく、誰かの働きや努力があることに気付ける感性を持つ年長さんたちです。食事をしながら一人ひとりに小学校での楽しみをインタビューしたら「新しいお友だちをつくる」という声が多く、人と繋がる喜びを知っている年長さんたちでもあります。
食事の後は全員で“ドロケイをしよう!”となりました。さくらとゆりに分かれてそれぞれドロとケイになってひとしきり遊び、次は先生と子どもたちに分かれて~というタイミングで帰りの時間になってしまいました。“あ~ぁ”というみんなの心のため息が聞こえてきそうでした。その心を隠し切れず大泣きになってしまった子がいます。また、明日できると伝えても「へなそうるだけでやりたかったー」と。それほど楽しいひとときであったのでしょう。泣いている彼を見ながら、本当に成長したものだとこちらは感無量でありました。彼は年少の頃から好きな遊びはずっと三輪車。乗りながら自由に自分の世界を作ってそこに友だちを招き入れる、というスタイルの遊びでした。その彼がドロケイのような「ルールのある・役割のある・大勢混じる」遊びに夢中になっていたからです。更に、大泣きして一度は気持ちが崩れてしまったけれど、徐々に状況を納得し、心を切り替えてみんなの待つクラスに戻って行ったところにも成長の証を見ました。このように心と体の成長を随所に見せてくれる年長さんとの日々が終わっていきます。『こそ練』の言葉が生まれるくらい熱く取り組んだ跳び箱や、汗だくのリレー、責任感のみなぎったページェント、聖書を開いて読みあげる真面目な表情…その一つ一つを年下の子たちは心に留めているようです。ふと目をやると、ドロケイの中に、息を弾ませ一生懸命に年長さんの動きに付いていこうとするにじさんたちがいます。こうして仲間に混ぜてもらいながら、この遊びの面白さを感じ取り、きっと次は中心となって友だちを巻き込み、遊びを発展させていくのでありましょう。お庭のすべり台の横には今年も黄色い水仙の花が咲きました。春になると新しい芽を出す生命と同じような『育ち』が幼稚園の中でも見られているのです。
今年度の最後の御言葉は「私はあなたと共にいる」です。分厚い聖書に記された神様のメッセージを一言で表したような御言葉です。神様は見えないし、聞こえないし、信じがたいし…でも「あなたと共にいる」と言われているのです。その直前には「恐れるな」と記されています。新しい世界へ向かう春、神様を頼りに、恐れずに踏み出していきましょう。感謝の思いを込めて2024年度を終えていきます。 園長 廣田 雅子
“うわっ、クロッカスがつぼみをつけている。まだいいのに、ゆっくり咲いて…”黄・白・紫と花が開いていくと、いよいよ卒園だからです。 へなそうるさんたちもそれぞれの個性<神様からいただいた『たまもの』>を光らせながら伸びやかに育ちゆきました。子どもたちはもちろんですが、先生たちもおうちの方も全身全霊でこの時を過ごした感があります。
へなそうるさん(年長さん)の中には、言葉が上手に出てこない子もいます。
出会った初めの頃は「なんでおしゃべりしないの~?」とお友だちを不思議そうに見ていて、遠くから様子を伺っていました。でも毎日を共に過ごしていくうちに“お水遊びが好きなんだな・お歌を楽しそうに歌ってるな” とわかり『自分と同じ』をたくさん見出しながら徐々に距離が近くなっていきました。言葉が出ない分、たくさんのストレスがありながらも、なんとかみんなと同じ場に居て頑張っていることも仲間意識に繋がった一因でありましょう。言葉によるやり取りは相変わらずですが、表情は言葉を越えます。「〇くんがわかってくれた・〇ちゃんが笑ってくれた」というのはどの子にとっても嬉しいこと。へなそうるさんたちは、人とわかり合う喜びをしっかり獲得したのです。
今や先生が促すより、おともだちが声をかけた方がスムーズに行動できるほどの関係性が培われていることに先生たちもびっくりです。ここに至るまでにはみんなの中にもいろいろな感情があったことと思います。〇ちゃんだけおもちゃ持っていていいな、〇ちゃんは動き回っても注意されないな~と。でも誰一人「〇ちゃんだけずるい!」という子はいませんでした。ありがとう、わかってくれていたね。もし、自分が大変な状況になった時にも、先生たちがきっと同じようにしてくれると信じていてくれたのですよね。
少し前のこと、卒園ママが「違う園のホームページを見ていたら『どなたにも分け隔てをせず公平に扱います』とあって、シオンとは真逆だと思いました。」と言われました。「シオンって、どの子も特別扱いじゃないですか・・・」と。
これは99匹を置いてでも、1匹の迷っている小羊を探しに行くイエス様のまなざしそのものです。その価値観を子どもたちも保護者の方もわかってくれているからこそ、醸し出せる香りなのです。感謝! (園長 廣田雅子)
「“こわさないでマーク”くださ~い」と弾んだ声が事務所に届きます。片付けの時間だけれど遊びの続きをしたい時に<そのままにしていい>を表すマークです。ブロックや大型積み木、泥遊びなどによく持ち出されますが、それは午前の遊びに限ってのことで、午後の遊びでは使いません。壊さずに取っていても翌日はまた違う気持ちになっていることがほとんどだからです。ところが、先日の午後、しかも金曜日だというのに、砂場のブルーシートに大きな‟こわさないでマーク”が貼られ、シートが1m程の高さにこんもりと尖っていました。土日を挟んで尚、遊びの続きをするというのでしょう。少し前から年長さんが大きな砂山を作り始めているのは知っていました。砂山作りのメンバーは、クラスも違うし、これまでそんなに関わってはいない子たち同士なので、遊びを通して新しい繫がりができたことを嬉しく見守っていたところです。「僕はこっち・〇〇くんはそっち」と互いに声を掛け合い、役割を分担して協同していく様は「年長ならではの姿」です。実に根気よくコツコツと見事な砂山を造り上げていきました。先生が約束事を超えてマークを渡したのも頷けます。
その中の一人に、入園の時に『不安感が大きくて消極的』とご両親が心配されていた子がいました。確かに“やりたい”とすぐに飛びついていくことはありません。でも秘かにこっそり練習をして(コソ錬…と言ってます)諦めずに粘り強くコツコツとやり遂げる持ち味のある子です。先日の子育ての学びで、子どもの「弱み」と「強み」は表裏一体。<落ちつきのない子>は<行動力のある子>でもあり<臆病で心配性>は<用意周到>でもあったりというように…。親や保育者はその子の「弱み」に着目して何とか克服させようとなりがちだけれど、少し視点を変えて「強み」として目を向けると、受け止め、認め、時に称賛できるようになり、そのことで子どもに自信が育っていくというのです。砂山造りの彼は<じっくり取り組める>という「強み」に着目してもらえて、気が付けば、たくさんのことにチャレンジしている子になっていました。
不思議なことに今月与えられた聖句は『私は弱い時にこそ強いからです』(コリントⅡ 12:10)
これは伝道の中で心身共に弱ってしまった使徒パウロが、助けを求めた祈りの中で確信した事柄です。弱り切ったパウロに対して神様は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される』と言われました。‟しおん‟で伝えたかったことを神様に後押ししてもらったような気持ちでいます。人生は、思いがけないことの連続ですが、弱さの中の真実に目を留め、2月を過ごしてまいりましょう。 (園長 廣田雅子)
“お正月気分が醒めないまま…”とはよく聞きますが、私は“クリスマス気分の醒めないまま”とでもいうような気持ちでいます。というのも、数々のクリスマス礼拝やお祝いの時を通して何人もの方々と触れ合い「この出会いの大もとは神様。神様繋がり!」と強く実感させていただいたからです。
24日のイヴ礼拝では、幼稚園にある1冊の絵本「くりすます」を見ながら、集まった人みんなでクリスマスキャロルを歌いました。(レゼさんの演奏にも感謝!)中でも宿さがしの場面では園児からご老人までみんなが“トントントン、宿屋さん~🎵”と歌声を合わせていてとても印象的でした。この夜、卒園してから初めてやって来たという大学生も出席していて「あの歌、僕も歌えました、覚えてました!」と興奮気味に帰られていったことも心に残る出来事でした。人間の出す案内状だけではこうは集まらないでしょう。
神様の働き(聖霊)があるからこそ100人を越える方々が集まったのだと思っています。
けれども、このクリスマス期間は喜びばかりではありませんでした。教会学校の先生が突然病いに倒れ、ICUでの懸命な治療が施されるということがありました。また、私たちも親しくしていただいた、愛する園児のお祖母様が急逝されるという、思ってもみなかったことが起きました。言葉を失う出来事です。「なぜ?」と思うようなことはクリスマスであっても生じます。「どうして?」ということはキリスト教を信じていても起こります。でもその中に、【あなたを一人にしてはおかないよ、私が一緒にいる。(インマヌエル)】と神ははっきり言われます。それこそがクリスマスの1番のメッセージなのですから。
年末に行われた研修会の中で「アジール」という新しい言葉を教えていただきました。「アジール」とは”聖域・避難所”などとも呼ばれる、特殊なエリアのことを意味するそうです。『子どもに大切なのは、それぞれのアジール――何かあった時に逃げ帰れる場所――を持っていること。アジールを持った子は明日を強く生きていける。幼稚園が子どもたちのアジールになるように努めてほしい』と示されました。その示しのとおりに幼稚園がそして教会がみんなのアジールになっていきたい、そう願いながら第3保育期を始めたいと思います。新年もどうぞよろしくお願いいたします。 (園長 廣田雅子)
時折り風が強く吹き付ける朝のこと。登園してきた子が「今日は“晴れ時々葉っぱ”だね。」と言いました。お母様とそんな話をしながらやって来たのでしょう。本当に降り続く雨のように舞い落ちる葉は、幻想的でありました。こうして木の葉を落としながら、冬が深まっていきます。その日、園庭に落ちた葉は一つの所に集められて、格好の遊び場になりました。ダッシュして飛び越したり、山のように積んで飛び込んだりして元気一杯の男の子たちは夢中です。ひとしきり遊んだ後、今度は女の子たちが散らばった葉を円形に広げました。そして真ん中に椅子を2つ置いて、ことり組の小さな男の子と先生が案内されて座り(マリアとヨセフ)すぐ脇で年長さんが天使の歌を歌い始めました。枯葉はすっかり「ベツレヘムの馬小屋」になりました。また、テラスからはクリスマスの歌声が何曲も続けて聞こえきます。歌っている子自身が「う~ん、楽しくてたまらない!くせになっちゃいそう」そう言いながら次の曲を歌うのでした。別の日にはこんなこともありました。洗面室にいる私に気付かずに、小さな妹さんとお母さんが入ってきました。どうやら妹さんは幼稚園のトイレに行きたいとべそをかいています。「あっちはお姉さんたちのだから」となだめても納得しません。するとお母様はつい“こまった、こまった、どうしよう~♪”と口ずさんだのでした。“あ~、お家の方もページェントの世界に包まれている”と思い心がほっこりしました。そのページェント。今年は思いがけずインフルエンザと重なって“無念のお休み”となる子が多くいて心が痛みました。でも、来られた子がいつもより大きな歌声でカバーしたり、二役を引き受けたり、その代役の子の動きを気遣ってそっと声をかけたりと、みんなで『欠け』を補って乗り越えました。にじさんの歌声も今までで一番力強く、羊さんもみんなちゃんと出てきて、年長さんの動きを盛り上げていて、正真正銘の「みんなで作るページェント」だったと胸を熱くしています。お休みだった子どもたちのこれまでの努力と合わせて、イエス様はちゃんと受け取ってくださったことでしょう。
書き切れないエピソードを携えてアドヴェントの時が過ぎていきます。過ぎた先に待っているのはイエス様です。すべての人はここに集結するのです。誰一人、自分の力でシオン幼稚園に来た人はなく、子どもたちもお母様もお父様も先生たちも、誰もが招かれたのです。羊飼いや博士たちのように、イエス・キリストとは特段の所縁はなかった人たちが招かれ、出会い、喜びを与えられました。毎年思います、1年の最後にクリスマスがあってよかったと…。 メリークリスマス!ご家庭の上に神さまの祝福が豊かにありますように。 (園長 廣田雅子)
12月に与えられた聖句は『さあ、ベツレヘムへ行こう』です。ベツレヘムとはイエス様がお生まれになった町です。秋の収穫感謝を経て“さあクリスマスへ心を向けましょう”とお声がかかったような思いがします。
先日、先生たちは研修会に行き一足早くクリスマスを心に留める機会を持たせていただきました。県内のキリスト教保育の園が集まるのでいつも大変励まされるのですが、今年は少々違和感を感じて帰ってきました。というのも、ほとんどの園が既にページェント(生誕劇)の練習を始めていると知ったからです。(シオンはというと、その日に感謝礼拝を捧げ、これからどのようにしてお野菜をいただこうかと考えている時期でした。) 「もう…ですか?」と驚く私に、各園の先生たちは「そうしないと間に合わないですから」と言われました。違和感を感じたのはこの“間に合わない”という言葉です。
何に間に合わないというのでしょう。どなたにお見せするというのでしょう。
私たちはページェントをイエス様への贈り物として礼拝のようにお捧げするのです。もちろん、不安なく思いを込めて役を務められるように練習は重ねますが、間違えの無い【立派な姿】をお見せするのではなく【一生懸命な姿】をイエス様に見ていただくのです。その日、緊張のあまりに台詞を間違えることや立ち位置が違ってしまうことがあっても、きっと目を細めて見てくださるに違いありません。
ある教会学校のエピソードに、宿屋を演じた子のお話があります。マリヤとヨセフが宿屋を探すのですがどこも満員で断られるというあのシーンです。その子は2件目の宿屋で、練習では「満員で泊まれません!」ときっぱりと断っていました。けれどもなんと本番では断らずに「どうぞ、どうぞ。」と案内してしまったのです。“だってかわいそうだから…”と半泣きで訴えっていたそうです。
さあ、今年のシオンのページェントではどんな姿があるでしょう。子どもたちを見守る柔らかい心持ちを携えて、先生も保護者もその中に加わえていただきましょう。
研修で感じた違和感のことをインフォメーションで伝えると、たくさんの方が頷いて聞いてくださいました。‟あぁ私たちと同じまなざしの方がこんなに大勢おられる“と実感し心強さを感じました。研修では得られなかった励ましはまさにここシオンで与えられたのです。子どもたちに導かれながら共にクリスマスへ心を整えてまいりましょう。 (園長 廣田雅子)
何ひとつお天気の心配をすることなく迎えられた今年の運動会。5年ぶりに祖父母の方もお呼びでき、幼稚園はたくさんの人に囲まれて大賑わいとなりました。この様子に更に気合いが入って張り切るのは年長さん。競技直前に自分たちで声を掛け合い、互いの手を重ね合って「がんばるぞ、おーっ!」などという光景もあり驚きました。反対に初めての雰囲気に強張ってしまうのが年少さん。「ママのところにいきたい…」と半べそだったりします。どちらも自然な子どもの姿です。改めて「幼児期の子ども」と一括りしてはいけないことを実感させられます。
シオン幼稚園の運動会は「おやこうんどうかい」と謳っています。子どもの競技を“見る”ではなく、大人も一緒に動くからです。競技に参加するのはもちろん、見ている時であっても手をたたき、歓声を上げ、心を一杯に動かすのです。時には涙をこぼしたりしながら…。保護者の方は毎日送り迎えをされているので自然と他の子の名前を覚え、いつの間にかどの子も“知っている子”になっていきます。ですから「どの子の動きも目が離せない」と言われる方が多いのです。また【運動会では撮影をしない】というお願いもしています。撮影場所の確保のために心を騒がせたりせず、目の前の子どもたちの姿をしっかり目で見て心で捉えてほしいと願ってのことです。私的なことになり恐縮ですが、今年も孫たちの運動会動画が送られてきました。どなたかの肩越しなのか不思議なアングルからの映像ですが、孫にはしっかりピントが合って大写しになっています。それはそれで良いのですが、果たして他のお友だちはどうなのか、音声で聞こえてくる笑いはなぜなのかなどは全くわかりません。我が子と数人のお友だち以外は“よその子”なのでしょうか…。
一般的な運動会風景に反して、シオンは【撮影なしのお願い】があって、それが入園の懸念材料の1つになっているとのお声も伺いました。でも、どの子にも温かいまなざしを注ぎ、声援と拍手を精一杯贈る今の運動会を出来るだけ続けたいと思いますし、そうであるなら尚のこと、ご理解とご協力をくださっている在園の皆様には心から感謝申し上げたいと思います。カメラマンとしてご奉仕くださった教会の方が「子どもがとことん愛されている幼稚園ですね。」との言葉を残されました。家族の愛・お友だちの愛・先生の愛に包まれているのがシオンです。その源である神様の確かな愛を受けて秋の日は続きます。 (園長 廣田 雅子)
朝のお迎えを終えて園庭に戻ると、もう喜々として走り回っている子どもたちの姿がありました。バトンを手に、待っているお友だちまで駆け抜けるエンドレスに近いリレーです。年齢も入り混じって走っているところに、受け入れを終えた先生たちが次々と加わって、それはそれは充実した幸せな空間が広がっていきました。子どもたちは子ども同士でも遊びを広げていきますが、大人が加わると、一味違った楽しさが加わっていくようです。
近年強く感じているのは、シオン幼稚園の特徴として「大人も一緒に楽しむ幼稚園」が加わるのではないかということです。これまで、入園説明会ではシオンの特徴を次の3点と伝えてきました。まずはキリスト教が保育の土台にある点、次に自らの選びを軸にした自由遊びが主体である点、そして多様な関係性のある縦割り保育である点、この3つです。けれども昨年からここに4点目として「大人も楽しむ幼稚園である」を明言しました。<子どもを預けて少しでも楽に>という親御さんの気持ちを否定しているような誤解を受けないかと少々懸念はありますが、園の様子をずっと見ていると、先生も保護者も、大人たちが幼稚園生活をいろいろに楽しんでいる、そのことがやっぱり印象深いのです。<子どもを預けて楽に>はもちろんですが、皆様の姿を見ているとそれだけでなく<子どもを預けつつ子育てを楽しむ>を感じ続けてきましたから。長い夏休みは3食の準備やら、一日の段取りやら、お子様のリクエストやらでご苦労があり、心中穏やかにいられないこともあったことでしょう。それでも<子どもと共に>を大切にすることを選択された皆様は、お子様を柔らかく受けとめておられることが〔なつのはなたば〕にたくさん記されていました。第2保育期は保護者の方と共に進めていく活動がいろいろあります。ご一緒のまなざしで子どもたちを見守れることに感謝しつつ10月を迎えていきます。 (園長 廣田雅子)
・・・夏休み花束より・・・
お祭りの日。朝から「ひなまつりいく~」と何回も言ってて可愛かったです。 (3才)
手を洗って満足そうに、「立派な子どもになったね~」と言う。 (4才)
「とうとうへなそうるが幼稚園に出たよ!ニュースに出るかもしれないからニュースを見よう!」(6才)
レゴブロックのカタログの人間を指さして「どれがイケメンだと思う?」 「わたしはこれ!」(6才)
出勤前の夫に、「ちょっとミニカーで遊んでいかない? たのしいよ~」 (5才)
長野の広大な景色を見て「わぁ~、これって ちきゅう?」自分も妙に納得してしまいました。(5才)
夏期保育初日、9時が近づくと、門にはもう何人もの子どもたちがやってきています“さあ、始まるぞ”と思いながら門に向かおうとしていたら、近くにいた先生が「この光景、嬉しいですね。」と声を掛けてきました。本当にその通り!こうして穏やかに再会できることは感謝なことです。夏の間に子どもたちが巻き込まれる痛ましい事故のニュースがいろいろありましたから、再会の安堵感はひとしおです。夏休みに子どもたちを無事にご家庭にお戻し出来ても“ほっ”,休みが明けてまた会えても“ほっ”といった始まりです。
さて今年の夏休み中の幼稚園は例年より賑やかでした。というのも、預かり保育が拡張して時間も期間も長くなり子どもたちの姿があったからです。酷暑の日々でしたから午前中は水遊び、午後は室内でゆっくり過ごすというのが日課のようになりました。
ある日のこと、事務所で仕事をしていますとホールから色々な声が聞こえてきました。鉄棒を出してもらって挑戦している子、積み木で遊んでいる子、思い思いの遊びが広がります。その中に2人でかくれんぼをしているのでしょう、「1.2.3・・・もういいか~い?」 「まあだだよ」の声がありました。もう一度、「1.2.3・・・もういいか~い?」「まあだだよ」 更にもう一度「1.2.3・・・もういいか~い?」・「まあだだよ」・・・その繰り返しは何度も続き、なかなか「もういいよ」と言ってもらえないやり取りに、聞いている私の心がざわざわしてきました。どうなってる?と見に行こうとした時、「もういいよー」の大きな声が! ちゃんとかくれんぼは成立していたのです。大人だったらしびれを切らしてしまうようなやり取りですが、子どもの世界は違うのだと改めて気づかされました。そういえば何度も数えているその声は明るいものでした。まるで数えることも待っていることも楽しんでいるように。子どもは大人よりずっと受容力が豊かです。言うことを聞けず、駄々をこね、時に対応に困り果てるようなこともありますが、よくよく振り返ってみますと、頭ごなしだったり一方的だったり横暴だったりした大人のことを、いつも静かに受け入れて赦してくれるのは子どもの方ではないかと思うのです。
そんな柔らかな感性を豊かに持っている子どもたちとの生活がまた始まります。どんなことが繰り広げられるのか皆様と共有しながら、楽しみに寄り添っていきたいと思います。 (園長 廣田雅子)
梅雨とは思えない晴天続きの中、プールからは元気な歓声が聞こえてきます。【子どもの成長に必要な3要素は 水・土・お陽さま 】とはよく言ったものです。一緒に水遊びをしていた先生が「プールに入ると疲れるけれど、やっぱり身体は爽やかになりますね~」と言いました。子どもと一緒に水に入っているからこそわかる感覚です。暑さが増すといろいろな危険性も増すため、外遊びはせずクーラーの効いた部屋の中で終日過ごしていて、この夏まだ一度もプールはしてないという同職の友人からの話を聞いて驚きましたが、わからなくもありません。ただ熱中症の危険からは守れても、暑さへの耐久力や汗腺の成長など、長期的な心身への影響はどうなのか気になるところです。でも改めてシオンの暑さ対策を今一度振り返り、遊びの制限はあまりかけずに、更なる対策として、一斉の給水タイム・プールでの着帽・こひつじルームの活用などが加えられました。その翌日、ひとしきり遊んだ頃に、聴いたことのないオルゴールの音楽が流れました。みんな不思議そうに立ち止まり、し~んと静かになりました。「冷たい飲み物をいただきましょう」の放送が入り、次々と子どもたちがクラスに戻ってきます。鳥のさえずりのメロディーも聞こえる中「こんなにおいしいの、飲んだことない!」と可愛い言葉を呟きながら飲み干していました。心も体もクールダウンすると“さあ!”とばかりに先生やお友だちと「お片付け」に向かって行く姿は、すっかり生活を共にする仲間たちになっていました。
出会いと緊張の第1保育期が終わります。今期も大きな事故から守られたことを感謝いたします。5月の教会総会で「園からの事故報告がほとんど無いがどういう対策をとっているのか」と質問を受けました。年1回の施設遊具点検を行っていること、学期当初に危険事項の共通確認をしていることを答えましたが、大切なことを伝えそびれていました。それは「先生たちが一緒に遊んでいること」です。一緒に遊んでいると、ベンチがグラグラしてきたことや、砂が減って土台が見え始めたことや、滑り台が熱くなっていることに気付きます。夏の暑さの激しさ具合も水の心地よさもそうです。“見守り”ではなく“共に”の大切さを思います。子どもたちと共にある保育者であり続けたいと願いつつ、園庭に目をやると、そこには大きな栗の木と広いお庭。栗の木が大きな木陰を与え、通り抜ける熱風を涼やかにし、アスファルトではない庭の土が熱波を吸収してくれている、「あぁ、神様も一緒に守ってくださっている」と身に染みて思うのです。
夏休みに入りますが皆様の上に神様のお守りがありますようにお祈りしています。 (園長 廣田雅子)
事務所前にずら~っと並んでいた虫かごの数がだいぶ少なくなりました。お世話していた青虫が蝶になって飛び立っていったからです。青虫のほとんどは薫美子先生の家の山椒の葉からやってきました。「私の趣味です」と笑いながら、毎朝葉っぱを持ってきて、子どもたちと一緒に霧を噴いたり、ふんの掃除をしたりの日々でした。その影響で、今までは虫に興味の無かった、いやむしろ虫を嫌がっていたような子どもたちも、先生と一緒に楽しんでお世話をし、虫の動きに興味を持つような姿が見られるようになりました。子どもたちの近くで生活していてよく思うことなのですが、子どもが意欲を高めたり、持続していく時には【大人の本気】が問われるな、ということです。やってごらん、こうしてみなさい…ではなく、大人自らが取り組み、心を傾けることが大事なポイントなんだと。
さて、そんな風に一生懸命育てた青虫たちは、みんなの声援を受けながら次々と空に飛び立っていきましたが、その中で1匹だけ飛び立てなかった蝶がいました。誰もいない夜の間に孵化したのですが掴まっていた枝から落ちて、孵ったばかりのまだ濡れた羽がくっついてしまったのです。片羽を閉じたまま静かに生きておりました。翌朝、9時になるといつものように元気一杯の子どもたちがやってきました。けれども、その蝶を見ると元気な様子は一変。蝶の前に釘付けです。眉をひそめながら 『どうしちゃったんだろう? 可哀そう… なおせる? 』と、思い思いの言葉を寄せて心配しています。少しでも蜜が吸えるようにお花を持ってきたりビワの実を持ってきたりしながら、その弱った体を目を凝らして見ていました。蝶々は捕まえてもひらひら飛んでいるのでよく見ることができないのが常ですが、この動けない蝶は、子どもたちに、点々模様の目や、ぐるぐる巻いたストローの口や、ギザギザの付いた脚などをしっかり見せてくれました。飛び立つことはできなかったけれど、自らの身体を子どもたちに示し、与えられた命を生き切っている姿をみせるという大きな役割を果たしていると感じました。
6月の聖句『見よ、それは極めて良かった』(創世記1:31)は、神様が天地万物を創られた時に言われた言葉ですが、この小さな生き物を通して、生命に無駄なものはなく、すべての生命には価値があることを改めて教えられました。子どもたちの感性を豊かに育ててくれるシオンの庭と、そこに住む命あるものに感謝しつつ夏を迎えていきます。 (園長 廣田雅子)
幼稚園にいるたくさんの腹ペコ青虫たちが食べるのをやめ、ジッとし始めました。蛹へと姿を変えていきます。葉っぱの準備のお仕事もそろそろ終わりです。お世話は大変だけれど何だか可愛い青虫だったのに、奇妙でちょっと不気味な形の蛹になってじっと動かなくなりました。その一連の様子に子育てを思い起こします。毎日のお世話は大変だけれど愛くるしい子ども時代を経てやってくるのは、無口で不愛想で殻に籠る思春期。けれども心配には及びません。やがて蛹は蝶に、不愛想な中高生は個性光る成人になっていくのですから。この後、幼稚園では孵ったばかりの蝶を広い世界に送り出す、嬉しくもちょっぴり淋しい光景が見られることでしょう。
子どもたちは青虫たちに負けないくらいパクパクとお弁当をいただいています。お弁当の時間は楽しみの一つです。この時期は何よりも“みんなで食べるとおいしいね”の思いを十分に味わってほしいと考えます。個食・孤食となりがちな社会であれば尚のこと、この感覚を土台に据えたいものです。そのためには、慣れている味で安心してもりもり頂ける「手作りお弁当」が一番と思い、全食お弁当をお願いしてきました。そこに、数年前から“おにぎりデイ”が加わりました。子どもたちを見ていて、年少さんも体力が1週間続き、遊ぶエネルギーに満ちていると感じたので水曜日の園生活を長くすることにしたのです。けれども同時に懸念されたのがお弁当作りのご負担です。負担のないよう給食を導入する?とも考えましたが、理念に合う給食の手立てが見つからず、ひとまずおにぎりのみを持参してもらい、園がお味噌汁を提供する形でスタートしました。【おにぎりをパクっと食べてまた遊ぶ】がねらいでしたが、このお味噌汁が思わぬ反響で、おかわりが多くてお鍋が空っぽになることはしばしば、子どもたちから「世界一おいしい!」と言われたり、おうちの方から「家では食べないのに」と驚かれたりしました。野菜嫌いにも配慮して、野菜には申し訳ないくらいクタクタに煮たりしますが、それ以外は普通のお味噌汁です。やはり大勢で同じ物を頂くことが美味しさの秘訣のようです。そこで再浮上したのが、味噌汁だけでなく食事として出せないかということでした。手作り弁当を基本に据えつつ、新しい食材や味覚を広げていけるのではないかと。そう考えていた時、食材はもちろん、食べる喜び・感謝・人との繋がりなど様々な面で『食』を捉えている方々と出会いました。お子様を通してシオンをよ~く理解し、幼稚園を愛してくださっている方々です。今回、その力をお借りしてシオンの昼食の新しい歩みを始めようと思います。新しいことを始めるのは勇気の要ることですが、この事が“子どもたちにとって良いこと”に繋がるよう願いつつ、また皆様の声を一つの音色に奏でられるよう願いつつ、6月の試食会を皮切りに一歩踏み出していきます。 (園長 廣田雅子)
新しいお友だち12名を迎えて始まった幼稚園はやっぱり賑やかになりました。子どもたちに負けじと、お庭の生き物たちも賑やかで、事務所にある虫かごや虫網は空っぽになってしまいます。草花もさっそくお母様へのプレゼントです。小さな手に握られたお花には〈喜んでくれるかな・楽しいよ・会いたいな…〉とそれぞれの心が込められています。お家への持ち帰りには、花束だけでなく、作品だったりお手紙だったり色水だったりと、たくさんあります。花束の持ち帰りにはお母様の顔もほころびますが、作品は時に大量だったり大きすぎたりして困り顔。更には、泥水の入ったビニール袋やダンゴ虫がぎっしり入った虫かごを差し出された時には困惑の極致で、“持って帰る・帰らない”などの押し問答がなされている光景を見かけることもあります。一日を一緒に過ごしている先生たちは、その過程を見ているので
「試行錯誤を繰り返した末の作品」であること
「やっと手に入れた空き箱」であること
「ちょうどよい、とろけ具合になったチョコレート(泥水)」であること
「友だちに協力してもらって集めたダンゴ虫」であること などを知っていますからその尊さがわかっています。ですから、子どもが最も喜んでもらいたい人であるお母様に、それが伝わるよう橋渡しをするのが大事な役割の一つとなりましょう。さあ、これからどんなおみやげを持って帰ってくることでしょう。どうぞエピソードと共にこの時期ならではのおみやげを楽しみにしていてください。
息子の友人のことです。忙しなくお子さんを保育園に送って飛び乗った電車。ふと目にした広
告の言葉に胸がギュッとなり、毎日を大切にしなきゃと思ったと伝えてくれました。
『 最終回は気付かないうちに終わっていく
「今日からシャンプーは自分でやる」と子どもが言う。私は「いいよ」と言った。
(そっか)昨日のが最後のお手伝いだったんだ。
二度と戻れない瞬間が、そうとは知らずに過ぎていく。 (続) 』
子育ての中にはたくさんの初めてがあります。そしてそれと同じだけの「最終回」があることを想うと、一日一日が、一つひとつが、愛おしくてたまらなくなります。子どもたちとの日々を一層大切に過ごしたいと思う5月です。 (園長 廣田 雅子)
今年の桜はゆっくり開花しそうで、子どもたちの新しい出発の時まで待てるかな?と期待していたのに、秋の長雨ならぬ、春の長雨。“菜種梅雨”の言葉を知ってはいましたが、身をもって感じるのは珍しいことです。花の薄桃色が曇り空の中に消えていきそうです。それでも近づいていくと「私はわたし」と言わんばかりにそれぞれの花をしっかりと咲かせています。4月のご挨拶は毎年のように桜の話になってしまうのですが、誰に見られようと見られまいと、自らの「時」に従って花を咲かせる姿にはいつも“生きることの基本”を教えられ、勇気づけられます。私たちも誰かの目や自分のいびつな物差しに囚われず、神様の与えてくださる生命をしっかり生きていきたいものです。園庭の桜に背中を押されて、新しい年を歩みだします。
さて、春休み…。昼間の町中を歩いていますと、先生と一緒にお散歩をする幼い子どもたちの集団をいろいろな所で見かけました。私自身が保育から離れているので余計に目に留まるのかもしれません。大きなカートに乗っていることもあれば、1本のロープを大勢が握って歩いていることもあれば、先生の右手、左手、そして背中におんぶで歩いていることもありました。本当にたくさん見かけたので、改めて保育園へのニーズの高まりを実感したところです。
大雨が降った翌日のこと、公園には早速、遊びに来た保育園の子どもたちがいました。濡れている所に入らないように先生たちが立ち、その見守りの中で乾いた所だけで静かに(私にはそのように映りました)遊んでいました。同じ日、別の公園を通るとそれはそれは大きな水たまり。これではさすがに遊べないので誰もいません。ところが程なくして、長靴を履いた男の子がお母さんと一緒にやってきました。そして、そっと水たまりに一歩入りました。初めはゆっくり、そっと。それからお母さんの方をちらっと見て、一気に水たまりの中を走り出しました。お母さんの表情から“いいよ”を読み取ったのでしょう。バシャバシャ、ジャブジャブ…満面の笑顔で。心の底から“いいなぁ~”と思いました。幼な子の柔らかい心に必要なのは安心感。それがあるからこそ冒険にも似たワクワクドキドキ感を携えつつ「やってみたい!」という意欲が湧き、「できた!」という自己肯定感に繋がります。社会のニーズがどのようであっても、シオンは子どものニーズをしっかり捉え、最大限に尊重していく保育を貫きたいと思いました。見えないものに目を注ぎ、聞こえない声に耳を傾けつつ、保護者の方々と共に最高の環境を創り出していきたいと願います。新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。 (園長 廣田 雅子)
「はなたばにしてくださ~い」の声が事務所に響きました。久しぶりの言葉です。見ると白いぺんぺん草とお日様のような黄色いたんぽぽが握られていて、春がやって来たことがしっかり伝わってきました。それでも嬉しさばかりに浸れないのが幼稚園の春。この1ヶ月近く
最後の〇〇、お別れ〇〇、と続いているからです。どれも心に沁みるような思いの残る活動でしたが、中でも思い出深いのは<お別れ遠足>です。
4年ぶりにJRとモノレールを使っての遠足にしました。コロナ禍でしたから電車に乗るのは初めてという子もいます。幼稚園にとっても久しぶりですが、世間の方々にとっても、“幼児の集団での遠足姿”は珍しい光景となっているはずですから、どの様な反応を受けることになるのか緊張感で一杯でした。
さあ、出発です。嬉しい高揚感一杯の子どもたちが公共の中でちゃんと過ごせるかと気を揉みながら、混雑の残る船橋駅改札口を通りました。駅員さんのいる特別ゲートに入った時です。「おはようございま~す」「電車、はじめてなの」「よろしくお願いしま~す」・・・いつもと変わらない、あの可愛い挨拶が続き、駅員さんたちの顔がほころびました。電車の中でも過ぎる景色に感動の声を挙げつつ、見知らぬ隣の人とお話を弾ませたりしながら千葉駅に到着。ちゃんと場所をわきまえて2列で歩く姿に、周りの方々は穏やかな視線を注いでくれました。モノレールでは【動物園前駅】に到着するのと同じタイミングで降りてきた運転士さんに「乗り心地よかった!」「モノレールかっこよかった」と声をかけ、運転士さんもほくほくの笑顔になりました。動物園の入口でも、動物たちにも、たくさんの声掛けは続きます。開園直後でまだシ~ンと静かだった動物園でしたが、子どもたちの声に、まずフクロテナガザルがウホ、ウホッと応えます。行く先ごとに「おしり可愛いね」「名前がすてき!」「なに、たべてるの?」と話しかけ、予定時間があっという間に過ぎ、最後は小走りに進む、そんな遠足でした。
一日を振り返った時に、心に浮かんだのは、子どもたちが行く所は、灯りが灯ったようにパッと明るくなっていったことです。駅も電車も動物園も、子どもたちは行く先々を、ポッ・ポッと明るくしていきました。『あ~、たしかに<光の子>だ』と確信です。明るさ・暖かさ・
希望・平和を周りに伝える光の子です。
イエス様は「わたしは世の光である」(ヨハネによる福音書8:12)と言われました。イエス様の基に育ったのですからまさしく「光の子」です。きっとこの先の新しい世界でも輝き続けていってくれることでしょう。シオン幼稚園の全ての子どもたちとご家族の上に神様の祝福がありますよう祈ります。 (園長 廣田 雅子)
黄色いクロッカスの花が咲き始めました。春の訪れを伝える嬉しい情景のはずなのですが「もう咲き出してしまった…」と切ない気持ちになるのは私だけではないでしょう。
過ぐる2月を振り返りますと、まず、こぶたの会のお母様たちの公演がありました。改訂版「ヘンゼルとグレーテル」のお話はもちろん、おみやげのスイーツやお菓子の家は子どもたちの心をぐっと掴むものでした。さすが、お母様たちのサークルだと実感します。また、4年ぶりのお餅つきは予想を超えるお父様たちの参加があって、お餅つきより遊びメインの形になりましたが、たくさんのお父様たちとの関わりに大喜びの一日でした。
レゼのトーンチャイムの音色に包まれ、マナのクッキーの匂いが香り、ガルチンの草花に囲まれ、ルーチェの小物を身に付ける…幸せな幸せな環境です。(元気で明るい虹の会や軽スポのお母様たちに見守られていることも、もちろん!) 園の中におうちの方の姿の見える環境は、子どもたちにこの上ない安心感を与えるからです。自分の大好きな人たちが繋がっているのは心地よく、先生たちへの信頼の基になります。また、おうちの方にとっても毎日顔を合わせていることで、小さな不安や疑問を抱いた時に気負わずに訊くことができて安心感を大きくします。ご家庭と園の心の距離の近さは【バスなし】がもたらしてくれる恩恵です。
先日もあるお母様が「ちょっと話していいですか?」と近寄って来られました。元気一杯のKくんのお母様で、これまでも何度かご相談を受けていたので、今度は何か…と身構えましたがこの日の表情は全く違いました。そしてKくんとテレビを見ていた時のことをお話しくださいました。それはある病いとの闘いのドキュメント。番組が終わった後に「ババちゃんも、これと同じ病気で死んじゃったのよ。」と伝えたそうです。「そうしたら、Kが“ぼくがおいのりしてあげるよ”と言って“しゅのいのり…”と祈りだし、『かみさま、ババちゃんがおかあさんのことをみまもってくれるようにしてください』と祈ってくれたんです」 涙を浮かべながら、そう伝えてくださいました。「普通の優しさを通り越した、(質の)違う優しさを育ててくださり・・・」とも。
神様は子どもたちを招くと共に、そのご家庭も招かれていることを知らされる出来事でした。1年の終わりとなる3月、幼稚園の生活の中で神様の愛を伝えていくというシオン幼稚園の最も大切なミッションをしっかり果たしていきたいと、身が引き締まる思いでいます。 (園長 廣田 雅子)
♪ 庭の木の枝、よく見ると 固い殻に囲まれた 小さな木の芽が見つかった。
寒い寒い冬でも 負けるな負けるなと 守ってくださる神さま・・・ ♪
今、子どもたちが歌っている讃美歌です。落とす葉っぱすら無くなった園庭でも、目を凝らしてみると確かに木々には小さな芽が付いています。冬の情景を通して神様の愛を讃える歌ですが、情景だけでなく子育てや人生の様々な時が浮かんできて、その言葉を噛みしめしまいます。我が子とはいえ別人格ゆえにどう対応してよいか悩む日々はまさに子育ての「冬」のようです。そんな時に神様は言われるのです。不安に負けるな、焦りに負けるな、私が守っているからと。そして目を凝らせば“だいすき“と書かれた紙片れやとびっきりの笑顔といった「春の息吹」が見つかるはずです。ご家庭で子どもたちが口ずさむ讃美歌は大人へのエールかもしれません。どうぞ心を止め耳を傾けてください。きっと心持ちが違ってくることでしょう。 ところで実際のシオンの冬は…といえば、北風なんかどこ吹く風。”花いちもんめ“で名前を呼ばれずに泣く子がいれば「次は呼んであげよう」と相談したり、泥団子が壊れてがっかりしている子の傍らでそっと寄り添ったりと、たくさんのほっこり空気に包まれています。
外にお出かけした時も、他園のお友だちに「こんにちは~!」と次々に声をかけ「わたしたち、チーボをさがしてるの」と伝えるその屈託のない心が嬉しくなりました。大事にされて育った心がこの先も続いていくといいなとの思いが募ります。そんな時に思いがけず、あるエピソードに出会いました。
小学校の1年生の授業参観に招かれた時のことです。授業は国語で「絵を見て文を作りましょう」という課題でした。絵は公園の風景で、そこにはベンチや猫・木・男の子・ボール…いろいろな物が描かれています。「ねこがベンチにいます。」「さかながおよいでます。」と、作った文が次々と発表され、卒園生のH君の番になりました。 「木が生きてます。」
木が生きてます・・・その文が胸にズシリと響きました。彼は絵に描かれた”見えるもの”でなく、生きているという”見えないもの”を表現したのです。幼稚園がとても大事にしている聖句「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。」(コリントⅡ4:18)が自然と捉えられていたことを感じ、熱い思いがこみ上げてきました。園でも外でも卒園してからも、見えないところに目を注ぐまなざしを持つこの子どもたちを「光の子」というのだと確信しました。 (園長 廣田 雅子)
新しい年になりました。一月一日は大人になっても凛とした気持ちが湧いてきます。“今年は…”と「希望」に似た思いが込み上げてきたりもします。そんな矢先に私たちは立て続けに震撼とさせられる大きな出来事に見舞われました。どうなってしまった?なぜ?どうすれば?の動揺に絶句するばかりです。遠くにいる者でさえそうですから、当地の方やゆかりのある方々の心中たるや、察するに余り有るというものです。改めて、子どもたち初め皆様と祈りを合わせていき、できる支援をしていきたいと願うものです。
北陸にあるキリスト教の園では、4日から、来られる先生たちだけで開園したそうです。その日、登園した子は0人でしたが、0人であっても園を開けて待っていることが大切と考えられたのでしょう。子どもたちの心が安まる場として開けておきたいという同労の先生たちの想いが痛いほどわかります。私たちも、ここまでの一連の痛ましい報道に触れている子どもたちの心を思うと、早く園を開けて強張った心をほぐしていきたいと思いますから。
先の日曜礼拝の中で“希望するすべもないところにも尚、希望を抱くことができるのが信仰”と示されました。人間には一縷の望みすら感じられないような状況であっても、神は希望を備えておられるというのです。このメッセージをもう一度胸に抱き「真の希望」を持って新年の一歩を踏み出したいと願います。 (園長 廣田 雅子)
<災害の中にいる友だちのために>
神さま、テレビで大きな地震が起きたのを知りました。
おうちが倒れたり、道路がひび割れたり、大変なことがおこっていました。
おうちに帰れない人たちがいっぱいいました。 みんなこわいかな。さびしいかな。
おうちの人と離れ離れになったお友だちはいないかな。
とても心配で、見ているだけで悲しくなります。
・・・ (中略) ・・・
どうか、神様、みんなをお守りください。
悲しい気持ちやさびしい気持ち、つらい気持ちを吹き飛ばしてください。
みんなに大丈夫だよって、伝えてください。
わたしも一生懸命お祈りします。 アーメン
【 <保育者の祈り> ―子どもと祈る―より 】
自由にお遊びをしている時のことです。少々重たい気持ちを引きずりながら事務所の机に向かっておりますと、隣のさくら組から歌が聞こえてきました。♪かみさまはあいしてくださる~♪ 伸びやかに朗々と口ずさんでいます。遊びながらの、いわゆる鼻歌なのですが、聞いている私には神様からのメッセージが届けられているようで、重い気持ちが薄れ力が湧いてきました。また、風の強い日にお子様を自転車の後ろに乗せて登園されたお母様が息をハァハァさせながら「後ろの子どもから♪イエスさまの愛が~♪と聞こえてきて、ペダルを踏む足に力が入りました!」と言われたことも思い出します。きっと皆様のご家庭でも同じようなことがおありだろうと思います。日常の何気ないところで讃美歌が聞こえ神様のメッセージに触れる、なんと恵み深いことでしょう。シオン幼稚園とそこに繋がるご家庭では自然な情景ですが、1年に1度だけ、街の中でも同じことが起きるのは、今、クリスマスまでの期間です。街を歩いていると“あ、これは讃美歌。あっ、これも!”と気付いて嬉しくなります。
でも、今年は手放しで嬉しさに浸れない気持ちもあります。御子イエス様はイスラエルにお生まれになりました。その地がこの世界でオアシスのような楽園であればよいのですがオアシスどころか戦いの代名詞のような場所になっています。まさに今戦火の中にありますが、今に始まったことではなく、途切れることなく紛争の起きている場所なのです。【イエス様の国イスラエル】と知る子どもたちに示しのつかない有様に心苦しさを憶えます。旧約聖書にはイスラエルの人々が、それこそ何度も何度も神様を裏切ってきたことが記されています。悔い改めて神に許しを請いつつも、また罪を犯す…人間の弱さ丸出しの人間の姿です。けれどもそのイスラエルの只中に、イエス様が自らイスラエルの民の一員としてお生まれになりました。めちゃめちゃなイスラエルは、汚く醜く騒々しい<家畜小屋>でありましょう。イエス様はこの<家畜小屋>にお生まれになり光を放ちました。今年はいつにも増して<家畜小屋>にお生まれくださった意味がズシリと胸に刺さります。闇のようなイスラエルに、そしていろいろな争い事の中に、イエス様のお生まれの光が届くことを願ってやみません。
イエス様は私たちの心の闇の中にも生まれてくださり光を与えてくださいます。そのことを心に留めてクリスマスの備えをしていきたいと思います。 (園長 廣田 雅子)
今年は「たんたのたんてい」のお話を携え、その世界は幼稚園生活のいろいろな場面に表れます。たんたからのお手紙に誘われて、興奮したり夢を膨らませたりしている子どもたちです。運動会では競技の中にたんたもギックもコンキチもいて、お話の情景が浮かんで来るようでした。中でも、ギックの耳と尻尾を付けるとすぐにピョンピョン飛び跳ねてしまう年中さんたちは、可愛らしかったです。続くパレード。こちらは今年から先生と子どもたちだけの取り組みとなりました。またまた仮装をして、歌やダンスを楽しむのですが、その途中でチンパンジーのチーボの友だち「チーニャ」が現れて、みんな釘付けになりました。チーニャと一人ずつご挨拶する時は、年長さんはさすがに慣れている感じでニヤニヤ見つめたり「たんたくんも連れてきて」と話しかけていました。年少さんも、初めこそ先生の背中に隠れている子もいましたが“チーニャはおとなしい”とわかってからは大丈夫、近くでちゃんと握手していました。面白いのはパレードの後のことです。年長さんが真剣な顔で「事件は本当にあったんだね」と言ってきたり、あるクラスでは「みんなでチーボをさがそう」となったり、翌日は「中央公園に黄色い服を着たチーボがいた」「そうそう、僕も見たよ」という話も出てきて、ファンタジーの世界を愉しむやり取りがしばらく続いたのでした。
そのファンタジーの代表格といえばそろそろ出番となる「サンタクロース」の存在です。皆様のご家庭ではどのように受け止めていかれますか? 我が家ではかなり長いことサンタさんが来続けていました。ところが、そんな環境に育ったはずの息子から数年前にこんなメール文が送られてきたのです。『二人の子どもに、‟実はサンタはいない。パパとママがやっていた” と伝えたから、そこのところ、今年からよろしく』とありました。愕然としました。二人の子どもはまだ6歳と8歳でしたから。震える思いで訳を尋ねると、クリスマスにはいろいろな人からプレゼントを貰って過剰になるからとのことでした。それなら“いろいろな人”を断って“サンタさん”を残すべきだと言いたかったですが、ぐっと飲み込みました。今でも残念に思う出来事です。
ファンタジーや空想には(時として嘘にも)自分の心を解放してくれる魅力が一杯あります。そしてそこには、相手のことを思い巡らす力も存在しているのです。
「あ~お母さんとパレードしたかったな」とのつぶやきが胸に響いています。パレードのご一緒はなくなりましたが、子どもたちが日々持ち帰る「今」をどうぞお楽しみください。そして忘れかけているものを子どもたちによって呼び戻され、大切にされますようにと願っています。 (園長 廣田 雅子)
園庭を抜けていく風に涼しさが戻り、ほっとして過ごせる日が多くなってきました。厳しい暑さの夏でしたがそのような中でもお子様とちゃんと向き合って過ごされていたおうちの方々の姿を【はなたば】から知り、胸を熱くしています。穏やかな時ばかりでなく「まったく!」と思う時も含めて、その一喜一憂ぶりに「しっかり向き合う」姿勢を感じました。子どもはしっかり向き合う大人がいるからこそ、安心して伸びやかに育つのだと常々思っています。
今、シオン幼稚園は連続しての園児減少に「幼稚園」という形での在り方そのものが問われています。社会全体が働く人口を増やして税収を確保し、尚且つ少子化を防ぐことへ注力しています。【子どもを生んでくれる働くお母さん】を求めているのです。育てるのは何とかするから、産んでほしいと。でも少子化対策はうまく進んでいません。それは“働くお母さん”は忙しすぎて、子育てが楽しいと思えるような余裕がないからでは、と私は考えています。【子育ての楽しさと喜び】の実感がなければ、どれほど条件を整えようと出生率が継続的に上がってくることは無いでしょう。もちろん出生にはいろいろなご事情があるので、出生率での比較は少々乱暴なのですが、因みに、全国の出生率1.26に対して、シオンは2.23。子育ての喜びを知るご家庭だと確信するところです。
もう1つ、社会の対策に大きく欠落しているのは「子どもの思い」です。子どもはほとんど全ての事が生まれて初めてですから、比較が出来ません。日中お母さんがいない生活も当たり前として受け入れます。寂しいなと思っても何とか消化します。でも本当は一番大好きな人に、見てほしい、聞いてほしい、知ってほしいのです。私的な話になりますが、お熱を出した孫をママに代わって迎えに行った時、自分も具合が悪いのに「あした、ママがおしごと、やすまなきゃいけない」と心配するのを聞いて、胸が締め付けられそうになったことがあります。病気の時くらい自分を出していいのに…と。また、ある講演会で「動物愛護法でも“生後8週までは親元”となっている。人間年齢にすると2歳。動物でもそのように守るのに、人間社会はなんと無頓着なのだろう。」との話があり心底、共感しました。【子育ての喜び】と【子どもの思い】にもっと着目した政策がとられることを切望します。
さて、それを受けてのシオンの在り方です。変革すべきところは見直しながらも、譲れない所は守り、やっぱり「子どもにとって良いことは何か」を最優先にする歩みを続けたいと願うものです。 (園長 廣田 雅子)
猛暑続きの夏休みでしたが、子どもたちはお出かけしたことや初めて経験したことなど次々と話してくれています。その背景にはご両親の様々なご苦労がおありだったことと思います。40日の間、工夫して子どもたちに楽しさをプレゼントしてくださりありがとうございました。
夏期保育の初日、9時にはもうたくさんの子どもたちが門が開くのを今か今かと待っていました。そして帰り際には「また、ながいおやすみになっちゃう?」と聞きに来る子もいて、幼稚園を心待ちにしてくれることが伝わってきました。久しぶりの再会は,賑やかな中にも穏やかな空気が流れていて、友だちや先生との関係性がしっかり築かれていることを感じた一日でした。
夏期保育の中ではお誕生会もありました。誕生会は1年に1度ですから、1年前の様子との違いがよく分かります。8月の誕生会もそんな光景が見受けられました。昨年はホールに一歩入るのが精一杯だった子、“今年はどうかな?”とは思っていましたが敢えて触れずに入場の列に誘うと、すんなりと友だちと一緒に並び、入場して前まで進んでいくではありませんか。(おっ、1年経つとこうなる?!)と静かな感動を憶えていました。ところが、誕生者の紹介や祝祷が終わりご家族の席に戻った時、彼の心の様子が変わりました。「甘え上手の末っ子の自分」だったことを思い出したようです。インタビューの番になっても前に出てこようとしません。仲良しの友だちから「なにやってんだよ~」の声がかかりますが動きません。無理せずその場でのインタビューとなりました。終わりまでこの形になるのかな…いつもの彼の様子を知っているだけに少々残念な気持ちでいた時、担任の先生が彼に歩み寄り、一言二言、言葉をかけました。すると、ゆっくりとではありますがご家族の席を離れ、再び前に出てきてみんなからのHappyBirthday♪の歌に包まれたのでした。先生がどんな言葉かけをしたのかはわかりませんでしたが、それによって彼の中の「幼稚園の自分」が呼び起こされたのだと思います。
人は、仕事の中、家族の中、友人の中…と状況に応じたいろいろな自分を持っています。幼い人たちは初めはそのように分化してはいませんが、年齢を重ね過ごす社会を広げていくうちに、その場に相応しい自分を持つようになっていきます。それが「社会性の芽生え」です。先程の彼も先生の言葉がきっかけで、身につけてきた社会性が呼び戻されました。誕生会が終わってほっとしたように友だちの中に入っていく姿を見て、本当に1つ大きくなったなと思いましたし、担任の声に応えようとする姿に、先生との絆を感じました。社会性も絆も、毎日の泣き笑いの生活を共にすることでこそ培われていきます。これから始まる第2保育期が、心の力を生み出す日々でありたいと願い歩みだしていきます。 (園長 廣田 雅子)
出会いの第1保育期が終わりました。ドキドキした気持ちから始まり、子どもたちはたくさんの心を動かし、それに呼応するようにおうちの方も心を寄せ、思いを共有してくださり、本当に恵み豊かな日々であったことを心から感謝いたします。
その中でも印象深いのは、生き物に触れることが例年になく多かったことです。飼育や捕獲のためにたくさんあった幼稚園の虫かごは、先日ついに1つもなくなりました。青虫たちの見事な食べっぷりに毎日葉っぱを取って来て、さなぎに変身したらそ~っとして、蝶になって空に戻す時は「元気でね~」と手を振る…もう何匹を見送ったことでしょう。カブトムシの幼虫もたくさんいただいて、どのクラスも毎日飼育カゴとにらめっこ。ある朝、全く姿の違う蛹になった時は「あ~!」と感嘆の声が上がりました。無事に成虫になってからはお世話に余念がありません。積み木迷路で遊ばせたり、スプーンでゼリーを食べさせたり…。初めは遠くから見ていた子も、いつの間にか掴めるようになっていました。
もちろんカナヘビたちも大人気で子どもたちの仲間入りです。生きた餌を獲るために大忙し。特にYくんの熱心さはみんなの知るところで、毎日カナヘビと登園です。ところがそんな日々に思いがけないアクシデントが起きました。走ってきた子の足が、蓋の開いていた飼育箱にたまたまスポッと入ってしまい、一匹が命を落としたのです。降園時の一瞬の出来事でした。号泣するYくんとそこに集まる何人もの子どもたち。みんな、彼が大事にしていたことを知っているからこそ、事の重みがわかります。涙が止まらないYくんにお母さんがしっかりと寄り添いお友だちと一緒に土に埋めてお祈りしました。一方、この場から少し離れた所で、神妙な顔をして小さくなっているKくんがいました。踏んでしまったからです。“ごめんね”がすぐには届かないのを感じています。やっと口にできたのは「僕のカブトムシあげるから・・・」でした。もちろん代用は出来ないのですが、幼いながらに「命の代わりは命しかない」と感じたのでしょう。精一杯の償いと慰めの言葉だったと思います。それから数日後、いつもは早く登園するKくん親子が時間ぎりぎりにやって来ました。見ると、お母様の荷物の中にカナヘビがいます。「姿を見たので、これは捕まえなくちゃと…必死で・・・時間かかっちゃいました・・・」と。Yくんに渡すためです。汗を拭きながら、そう話されるお母様の目は潤んでいました。
子どもたちの経験に寄り添う大人の心の持ち様で、経験の重みが変わっていきます。命を前に「かけがえのないもの」として大人も向き合うと、「命の尊厳」という、とてつもなく大切なことの根が張っていくのだと思いました。夏休みにはたくさんの生き物に触れることがあるでしょう。お盆にご先祖様を想う機会もあることでしょう。終戦・原爆を振り返る時もあります。大人が大切にしているところに、子どもたちの心も動くことを憶えて、それぞれの夏を豊かに過ごされますよう、そして神様の祝福が臨みますようお祈りいたします。 (園長 廣田 雅子)
季節の移り変わりの通りに雨降りの多い6月を過ごしました。そんな日は限られた場所での遊びとなりますが、必然的に友だちとの距離がぐっと近くなり、刺激や影響を受け合い、交じり合いの多い生活となって、それはそれで良いものです。更なる新しい友だちとの出会いも次々と生まれていました。雨は潤いと恵みをもたらしてくれ、この時期に歌う讃美歌♪ぱらぱら落ちる♪は本当に子どもたちの生活にぴったりだなぁと毎年のように感じています。
6月には園生活を広げるたくさんのことが行われました。まずは1日に行われた親子遠足。前日まで降り続く雨にどのクラスも“てるてる坊主”が一杯に飾られていました。てるてる坊主を作りつつも、祈りの先は神様にしっかりと照準を合わせていて、幼いながらも「遊び心」と「信仰」を使い分けているのはさすが教会幼稚園の子どもたちです。その心に応えるかのようにぴたりと止んだ雨。穏やかな天気の中、4年ぶりとなる親子遠足に出かけました。バスの中では、お礼拝を初め手遊びや歌をおうちの方に聞いていただき、着いた先の公園では、お友だち・先生・お母様・お父様…と大好きな人に囲まれて、どの子も嬉しそうでした。ことのほか印象的だったのは、保護者の方々の柔らかな空気です。子どもたちを見守る暖かなまなざしはもちろんですが、お母様同士の会話も和やかで、日常の園生活で顔を合わせ見知っている間柄だからこそのものでしょう。少し離れた所にいた私には、シオン幼稚園の集団全体が『愛』に包まれているように映り、つくづく、この中で育ちゆく子は幸せだと感じていました。
本格的な活動が始まったリトルシオンでは、初めての集団や活動に、幼い人たちの心持ちはいろいろです。気持ちが乗って目を輝かせて臨む時もあれば、反対に全く乗らずにお母様の背中に隠れたり、中にはホールの外に出ていく子もいます。でも嬉しいのは、我が子の反応がどのようであってもお母様たちご自身がリトルの時間を楽しんでくださっていることです。先日、しばらくぶりにリトルの場に入ったのですが、何とも言えないふわぁ~とした暖かさがあり、それは遠足の日に感じた空気と同じでした。また、「ひよこプレイデイ」では初参加の2歳のAくんが、聞こえてきたピアノの音に「なんのおと??」と立ち上がることがありました。“児童ホームや保育園ではピアノの音は聞かないですから”とお母様たちが話されていましたが、シオンでは当たり前のようになっていることの中に、特別な魅力が潜んでいるのかもしれません。ピアノの音、トーンチャイムの音色、マナのクッキーの香り、ガルチンの実り…五感を通して「ほっとするシオンの空気感」を7月も奏でていきたいものです。 (園長 廣田 雅子)
園庭の栗の木が花を付け、幼稚園は今、独特な匂いに包まれています。陽ざしが急に強くなる日もありますが、そんな日はこの栗の木が優しく影を落としてくれます。先生に見守られるだけでなく自然にも守られて、子どもたちは生き生きと遊びを広げ出しました。
ある日、ホールで数名の子どもたちがそれぞれのイメージを合わせながら‟おうちごっこ”を始めました。そこに男の子が「入りたい」とやってきました。が、どうやら午前のお遊びの時に邪魔をしてしまったようで不評を買って入れてもらえません。押し問答の末「変なことは絶対しない」という彼に「じゃあ猫だったら入れてあげる」という許可が下りて、にっこり。すぐにニャーニャー言ってお家の中に入っていきました。そこから片付けまでの20分間、彼は可愛いペットとなって無事に仲間入りを果たしていました。入れる側も、入れてもらう側もそれぞれが許容範囲を広げながら折り合いをつけて遊びを成立させていく姿がそこにありました。 更にこのお家ごっこにはお母さんが不在で、お姉さんばかりが住んでいて、設定のやり取りを耳にしていた先生によると、1番目と2番目のお姉さんはいるものの、なぜか3番4番はいなく、5番目のお姉さんから再登場とのこと。子どもたちのイメージの不思議さと面白さを感じてインフォメーションでも共有させていただきました。
後日、その遊びに加わっていた子のお母様から更なる真相(?)を伺いました。おうちにおかあさんがいないのは〔戦争で死んでしまったから〕で、お母様が思わずそれは悲しいわね、と言うと「ううん、悲しくないよ!だって、天国の神様の所にいるんだよ。3食付いているんだよ。」と明るく話したとのことです。その我が子を見て、神様が安心できる存在としてしっかり捉えられていることに驚いたとお話しくださいました。私は私で、嬉しそうにお伝えになるお母様と向き合いながら、価値を共有していける喜びを胸一杯に感じていました。
ある1日の1つの“おうちごっこ”ですがその中に実にたくさんの心や思いが込められていることがわかり、「遊び」を通してどれほど大切な経験しているのかを確認しました。6月も子どもたちがたくさんの遊びを繰り広げていける幼稚園でありたいと思います。 (園長 廣田 雅子)
新年度が始まって園のお庭が一気に賑わいました。色とりどりの花はさっそく「はなたばにしてくださ~い」とお母様へのプレゼントになります。束にはできないような短い茎に苦心しながら先生が可愛いブーケにしています。自分のリクエストに応えてもらえる心地よさは信頼感の始まりです。「虫あみとカゴをかしてくださ~い」の元気な声も途絶えることがありません。春休みの間のんびりしていたカナヘビたちも大慌て。パッと捕まえて得意そうに見せる年長さんは、去年まではつかめずにいた子です。見つけてもやっぱりちょっと怖くて、先生に捕ってもらっていたのです。自分で捕まえられるようになりました。【その時】を待っていてもらえるのは自信につながります。シオンの庭の豊かな自然に囲まれて、子どもたちは心も体も伸び伸びと育ちゆくことを感じます。嬉しいことにこの中に新しいお友だちがたくさん加わりました。16名の新入園、そして5名の転入園、合わせて21名の子どもたちです。ここはどんなところかな?お友だちは遊んでくれるかな? たくさんの「?」に包まれてドキドキしています。そんな心を一気に和らげるような温かい仕草が見られます。貸してあげたり、譲ってあげたり、話しかけたり…。「二人ともお姉ちゃんがいるね」などとお互いの共通点を探ろうとしている姿もありました。新入園の子たちにはお世話の手が次々届きます。「自分でやりたい」と「世話をしたい」の気持ちがぶつかっている光景もあれば、ただ座っているだけで帽子が被せられ、コップが手渡され、いつの間にか上履きも脱がされているといった王様のような姿もあります。(やってもらうというより、やらせてあげているという表現の方が近い状況ですが。)そうやって日々を共にしながらたくさんの友だちと出会います。今、毎日先生たちの話題に上がるのは、進級児も含めた“新しい出会い”の報告で、美しさを感じるような出来事です。子どもたちだけではありません。1年前は園庭に一人でおられたお母様が、いつの間にか他の方々とのお話で盛り上がっていたり、送迎だけで帰られていた方が、サークル活動を始められたりと、お母様たちも輪を広げている様子をお見掛けするとホッとするような嬉しさがこみ上げます。子育ては一人で背負うより、人と分かち合う方が、喜びは膨らみ悩みは軽くなるからです。子育ての時期に幼稚園という場を選び、フルに働くことは先延ばしにして我が子との時を満喫する、そんな生き方を選択したお母様たちですからその時点で【同志】です。子どものもたらす世界に身を置いて、自然の恵みに気付き、季節を感じながら生きる・・・その生き方は必ずやお母様の人生に潤いを与え、豊かにしてくれることでしょう。5月、子どもたちのもたらす風の中にゆったりと浸ろうではありませんか。 (園長 廣田 雅子)