杉原千畝と私
2014.6.9 林 文夫
<初出: 平成26年度岐阜高校同窓会会報>
いうまでもなく,杉原千畝は,第二次世界大戦中,「命のビザ」を発行し続け,数千人といわれる数のユダヤ人の命を救った郷里の偉人である。私も彼の存在は1980年代が終わるまで知らなかった。知った当初は,彼の出身地(加茂郡八百津町)が私の本籍地の隣町であることぐらいしか彼との接点はないと思っていた。
「フミオ,今夜キャンパスで無料の映画会があるから一緒に行かないか」。また彼が誘ってくれた。私は1976年にハーバード大学の経済学部博士課程に入学したが,英語で本当に苦労した。日本の高校(つまり岐高)の英語教育を恨んだ。ハーバードでの授業は当然英語で,試験の場所と日時は,先生が黒板に書いてくれるまではわからなかった。大学院生の生活は,朝から晩まで毎日勉強漬けで,ただ一つの息抜きは同級生が金曜日の晩に開くパーティーだが,そのパーティーに行っても,私のような英語の下手な外国人は壁の花となる。住んでいた寮の食堂でも,ポツンと一人で食べることが多かった。そんな私に話しかけたり,映画などの娯楽に誘ってくれたのが,一年上級で寮が同じメキシコ人だった。
どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。留学一年目の寒い冬,彼と一緒に映画を観たあと,感想を話し合いながら寮に向かって歩いていた。話が途切れた時にポロリと彼が,自分の両親はソ連と日本を経由してメキシコに渡ったんだと言った。彼のこの世の存在が,杉原千畝の勇気なしにはあり得なかったことを知る由も,当時はなかった。
二年目になって,彼は多分ドロップアウトしたと思う。ほとんど姿を見かけなくなった。私はなんとか四年間で博士号を取得後,アメリカの大学の助教になった。前よりもうまくなったとはいえ,まだまだ聞きづらい英語だったと思う。そういう私を,アメリカの各地の大学の先生は研究会(セミナー)の講師として招いてくれた。英語が少々下手でも,またどんな人種であろうと,内容が良ければ良い,ダメなものはダメとはっきり言ってくれる。これがアメリカの学会だが,ヨーロッパでは必ずしもそうではなかった。イギリスで行ったセミナーでは,極東の未開人に何がわかるか,という態度で私に質問をする研究者がいた。
大戦中の迫害を逃れてユダヤ人の学者はアメリカに渡り,ヒットラーのおかげで学問の中心はヨーロッパからアメリカに移った。経済学の世界では,アメリカが圧倒的な主戦場だ。世界のノーベル賞級経済学者の,私の感覚では9割以上が,ユダヤ系アメリカ人だ。彼らの多くは親から,スギハラという日本人が民族の恩人だと聞かされて育ったと推察する。
留学一年目の一番苦しい時に,友人を与えてくれた。日本人にむしろ好意的な知的空間を用意してくれた。杉原千畝は,私にとっても恩人である。