「フラグメント」をめぐるノート、或いはさまざまな角度からの断片

     MOTアニュアル「フラグメント」展 配布テキストより

2014年 福田尚代


煙の骨  

2007-2014  

女性の名前が刻印された色鉛筆の芯の彫刻

 

大切な人が亡くなったとき、消えてゆく煙からさえ骨をとり出したいと思いました。この世界と私のなかに余すところなくひきとめたい、という欲望だったのかもしれません。気がつけば、過去の自分の作品(今はいない女性たちの名前を色鉛筆の表面に刻印したもの)を削り、芯だけにして、彫刻をはじめていました。色鉛筆の芯はひどくもろく、思い通りの形にはなりません。どれも途中で折れてしまい、やがてほとんどが粉となり、消えてゆきます。その連続で二年が過ぎた頃、ふと、姿はもう見えなくてもいい、と思いました。芯は粒子となり、身のまわりの空中を漂っています。ここにのこされているものはその手前、束の間だけむきだしに在る、わずかな物のありさまです。

 


翼あるもの『バートルビーと仲間たち』  

2013  

頁を折り込まれた書物

 

書物の頁をすべて折り込んだときに現れる偶然の一行は、いつも私には思いがけない言葉であり、選ぶことのできない外からの声です。今までは、物語の前後から切りはなされたこの一行によって、複数の〈翼あるもの〉が互いに会話を交わし、別の物語を見せてくれていました。でももう〈翼あるもの〉は会話をしていません。ひとりのこされたバートルビー、自分自身を含めたすべてを(つまり境界を)消してゆく者の独白なのです。

 


書物の魂:霧  

2003-2014  

ほぐされた本の栞(しおり)紐

 

読み終えた書物の背から栞の紐を切りとりはじめたのは十年以上前のこと。それらを指先でほぐしはじめたのが五年前。無数の紐はふわふわとした綿に変化して、その頃はまだ色ごとの山に分類されていました。二年前、見えなくなるまで繊維を細く分解し、互いを丹念に混ぜ続けていたら、とうとう色が見分けられなくなり、淡く輝く塊になりました。これらは物であり物でなく、存在すると同時に存在しません。雲や雪や霧として、言葉の粒子をこの世界へ濾過し、消えてゆきます。この空白は、死んだ後と生まれる前に皆がいる、均質な場所のようにも思えます。

 


残像:筏  

2010-2014  

原稿用紙に彫刻

 

どの作品も、最初は作品ではなく、私的な行為の結果として現れます。ある日、私は子供の頃に書いたすべての作文と詩と読書感想文の原稿用紙の文字を、どうしてもくり抜かずにはいられませんでした。写しをとらずに言葉を混ぜてしまったので、二度と読むことはできません。その後もあらたな原稿用紙を彫り続けていたら、罫線だけとなった紙の向こう側に、切りはなされた紙片が四角い雪のように降りしきっていました。

 


ランボーの手紙  

2013-2014  

穿孔された文庫本の頁

 

どうしてかわからないまま、書物の頁に縫い針で隙間なく孔をあけてしまったのです。その頁を陽に透かしてみたとき、文字がひとしく消え去ることに気づいて、とても驚きました。いちめん無数にあけられた孔のせいでした。隅々まで穿孔されたアルチュール・ランボーの手紙も、太陽にかざした途端に文字が消え、霧散します。ランボーのように詩作を放棄した人、自ら消えてゆく人、形を手放す人、絵を描くことをやめた人、沈黙する人… いつも彼らのことを考えています。私は描いたり/書いたりしているけれど、それでも彼らは最初から私のなかに潜んでいます。彼らを否定したら私は別の者となり、作り続けることができないでしょう。見れば、穿孔された本のなかの彼らは、光と言葉の粒子となり、太陽に溶け、霧散し、〈うた〉となり、此岸と彼岸を行き来していました。〈作品〉とは、何の期待もないところへ不意に訪れる救済ではないでしょうか。

 


残像:引き潮  

2010-2014  

けしごむに彫刻

 

子供の頃から迫ってくるこちら側とあちら側のこと― 存在と非在の両側からいつもひっぱられている感じ。その狭間にいられたら、境界線の厚みを消せたら、とこいねがう気持ち。言葉を消すことによって自らも消滅してゆくけしごむに惹かれ、共鳴します。線だけになったけしごむは、はじめは夢で見たのです。それから何年も彫り続けていますが、私には、〈彫刻〉とは、形作ることではなく、物を消してゆくことへ向かうひとつの方法であるように思えます。ある時、これらは波に洗われた後の姿なのだとわかりました。

 


「髪の毛も、ふたつの目も、おどおどした頭も…」Ⅱ  

2013-2014  

オイルパステル/少女漫画

 

エミリ・ディキンスンの詩の一節が目に飛び込んできました。「罪の許しを得たとき/私の姿はどんな風に見えるのだろうと 考えたりします/髪の毛も 二つの目も おどおどした頭も/天国では 見えなくなってしまうのでしょうか」。まるで「そのとき、私のからだはどうなるの?」と訊かれたような気がしました。死後のからだと魂の問題は、彼女にとって真剣な問いであったことと思います。その後、女の子の指と髪と耳と目と鼻と口が宙に浮かぶ夢を見ました。それが何でできているのか、夢のなかでなぜかすんなりと理解していました。古い少女漫画の頁がオイルパステルで厚く塗り込められているのだけれど、印刷のわずか一部分だけが塗りのこされているのです。目が覚めて、すぐにパステルを手にとりました。〈美術〉とは、浅はかな私では決して到れない場所へ、私たちを連れていく術なのだと思います。

 


手習/筆耕『仮名齧り』#01,02  

2013  

インクによる文字/方眼紙

 

小さな文字を書くことを子供の頃から続けています。方眼紙の小さな文字は、感覚だけを頼りに手をうごかしている為、書いているときには自分でも読むことができません。(読みたければ後からルーペを使います。)題名の「手習」は源氏物語の『手習』巻、「筆耕」はメルヴィルの『代書人バートルビー』から。バートルビーのように書くことも読まれることも拒絶する一方で、『手習』の浮舟の如く書くことと読むことを希求するという、矛盾する存在が私の内に同居しています。✽『仮名齧り』(自著)は館内の美術図書室とミュージアムショップでご覧になれます。

 


 

2013-2014  

彫刻された活字

 

私は言葉を人が作ったものだと思えないのです。たとえば波や灰や花の細部でもあるような、さらに言えば人類が行ったことのない場所、宇宙の果てにもそれはあると思えます。また言葉は、かぎりなく小さく細い〈粒〉や〈糸〉に思えてなりません。私たちはその組みあわせや作用をほんの断片だけしか知りません。書物と言葉の関係は、肉体から声が生じることそのものにも思えます。肉が声の片鱗であること、森羅万象が言葉であること、目の前のハサミが、ハムが、〈うた〉であること。私にとって、物質の根幹を突き詰めてゆく美術とは、言葉に到達する行為なのです。

 


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これらの一連の作品を手掛けてきたこの数年間は、次々と物を形作り増やしてゆくことや、表現や伝達を広げてゆくという方向とは異なり、むしろ消えてゆくもの、失われてしまったものに心をかさねる時間だったのではないかと思います。それは〈作ること〉と〈作らないこと〉についてであったり、言葉を〈書くこと〉と同時に〈書かないこと〉であったり、或いは〈生きること〉と〈生きないこと〉と言い換えてもいいのかもしれません。淡々と続けられた行為は、〈作ること〉そのものの意味を自分自身へ問い直すことだったのだろうと、今あらためて感じています。

 


✽この文章は「本の梯子-book ladder-」展(2013年)の為のノートと、個展「慈雨 百合 粒子」(2013年 小出由紀子事務所)及び「福田尚代作品集 2001-2013」(2014年 同事務所刊)の為に書いた原稿、個人的なノートなど、作者が書いたものに本人が加筆修正をしました。2014年2月