「慈雨 百合 粒子」のためのノート  福田尚代


《無題》インクによる素描 1989 

22歳の夏休み、一日一枚、絵を描いて過ごした。幼い頃から小さな粒ばかり描いてきたけれど、この夏を境にして、絵の中のひと粒ひと粒が、微細な文字へと変化してゆく。  


《漂着物》926個の彫刻されたけしごむ  2001-2013

20代の後半は、美術からも故郷からも遠く離れた異国の森で言葉を集めて暮らしていた。やがて帰国すると、けしごむへ彫刻をはじめた。言葉を消しながら自らも消えてゆく姿に、仮の形をとどめたくなったのだろうか。あるいはむしろ、私自身がとどまるために、必要な行為だったのかもしれない。  


《翼あるもの》頁を折り込まれた書物  2003-2013 

書物の頁がすべて折り込まれるとき、思いがけない言葉が立ち現れる。〈翼あるもの〉は、私に一輪挿しの花のありさまを呼び起こさせる。彼らが差し出す言葉は、前後左右からすっぱりと切り離されて存在している。点在する彼らのあいだには、互いのたったひと言によってのみ成立可能な、この世的でない呼応が発生する。


《苔の小路から雪の窪地へ》書物に刺繍  2003-2010 

私には<それ>の名前がしばらくわからなかった。あるとき本を読んでいて、ようやく、その小説に登場する「600年前に実在した異形の生物」こそが、私の部屋の〈それ〉の正体だという奇妙な確信へと至ったのだ。以来、〈それ〉は小説にならって〈翼あるもの〉と呼ばれている。一方、その小説、アントニオ・タブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(1987年)へは、読了後、どうしても刺繍をせずにはいられなかった。頁はよみがえり、机の上でそっと羽ばたく。作品にまつわる時空は、常にとても入り組んでいる。  


《書物の銀河》《書物の陽光》《書物の雲》書物に刺繍   2009-2010 

記憶にある限り、その三冊の本はいつも私の手許にあった。鞄に隠して学校へも連れて行ったし、一緒に海も渡った。ある日、私は家族がいないことに気が付く。「私がいなくなったらこの本はどうなるのだろう?」その問いが私を刺繍へと駆りたてた。たとえ姿を変えても、いつかどこかに辿り着いてほしいと願っている。

  

《言葉の精霊》文字の写った文庫本カバー   2009 

たとえば魚が跳ねたり、花が落ちた些細な瞬間に、世界が一変して、決してもとへは戻らなくなってしまうことがある。誰の上にもそんな一瞬が一度はやってくるのではないだろうか。ある秋の日、古本屋で岩波文庫を買い求めた。家に戻り、読みはじめる前に薄いグラシン紙のカバーを外した。その時ふと、グラシン紙へ目を向けてしまった。そこには、幽霊のように透き通った文字が浮かんでいた--「戯れに 恋はすまじ」と。  


《巡礼/郵便》郵便物に刺繍   2008-2010 

私は郵便物を愛していて、これまでに二度、郵便局に勤めた。郵便局とは、あらゆる言葉がくりかえし集まっては霧散する、この宇宙そのものに思えてならない。文字の上に刺繍をはじめると、体はどんどん小さくなる。線の中にすっかり入り込んで、ゆっくりと歩きだす。風は吹き、川は流れ、空は高い。

 

《残像/日光写真Ⅱ》素描、刺繍、穿孔   2010-2012 

どうしてかはわからないが、少女漫画に、縫い針で隙間なく孔をあけてしまった。眺めるうちに、無数の孔のせいで、信じ難い現象が起きることに気付く。泣いている女の子は(そして笑っている女の子も)陽光に透かすとみな消え去ってしまうのだ。作品とは、何の期待も ないところへ、ふいに訪れる救済ではないだろうか。  


《ランボー》文庫本の頁に穿孔   2012 

隅々まで穿孔されたアルチュール・ランボーの手紙も、太陽にかざした途端、文字が消え、霧散する。自ら消えてゆく人、形を手放す人、絵を描くことをやめた人、詩作を放棄した人、沈黙する人… いつも彼らのことを考えている。私は描いたり/書いたりしているけれど、それでも全員が最初から私の中に潜んでいる。とても重要なことだ。彼らがいなければ、私は作り続けることなどできないだろう。


《髪の毛も、ふたつの目も、おどおどした頭も…》少女漫画によるコラージュ   2010-2013 

本に刺繍をしていたら、詩の一節が目に飛び込んできた「髪の毛も、ふたつの目も、おどおどした頭も…」。まるで「私の体はどこへ行くの?」と訊かれたような気がした。その後、女の子の目と髪と指と唇(どれも私には言葉そのものに思える)によるコラージュが完成した。刺繍していた本とは、エミリ・ディキンスンの『自然と愛と孤独と 第四集』。墓標には、やさしく雪が降り積もっている。 

 

《頬と余白》少女漫画によるコラージュ   2013

 夢を見た。私の作品が壁にかかっていた(初めて見るのに、なぜか私にはそれが自分の作品だとわかっている)。その作品が、〈髪の毛も、ふたつの目も、おどおどした頭も…〉というコラージュ作品の姉妹であることも、素材も題名も、何をささやいているのかも、見た瞬間  すんなりと理解していた。目が覚めて、すぐに制作をはじめた。美術とは、浅はかな私では決して到れない場所へ、私たちを連れていく術なのだと思う。  


《慈雨 百合 粒子》展覧会の題名   2013 

「展覧会の題名を回文で考えてくださいませんか?」と相談されたとき、とても無理だと思った。けれどもその夜、夢を見た。〈慈雨 百合粒子〉という文字だけが、無音の空間に浮かびあがっていた。 


2013年