「本の梯子/book ladder」展のためのノート   福田尚代


《煙の骨》2007〜2013   彫刻された色鉛筆の芯

大切な人が亡くなったとき、消えてゆく煙からさえ、骨をとり出したいと思いました。  この世界と私のなかに余すところなくひきとめたい、という欲望だったのかもしれません。気がつけば、手許の色鉛筆の束(今はいない女性たちの名前を、かつてその表面にひとつずつ刻印した作品)を削り、芯だけにすると、彫刻をはじめていました。色鉛筆の芯はひどくもろく、思い通りのかたちにはなりません。どれも途中で折れてしまい、やがて灰(粉)となり、無くなります。その連続で二年が過ぎた頃、ある朝、ふと、姿はもう見えなくていい、と思いました。削り終えたほとんどの彫刻は、身のまわりの空中を漂っています。 ここにのこされているのはその手前、束の間だけむきだしに在る、わずかな物のありさまです。


《残像/雪》 2010〜2012   彫刻された原稿用紙35枚による

どの作品も最初は作品ではなく、それぞれが私的な衝動として静かにあらわれました。原稿用紙の彫刻は、子供の頃に書いた作文や詩や読書感想文の色褪せた桝目をくり抜くことからはじまった行為です。 見れば、罫線だけになった原稿用紙の向こう側に、切りはなされたそれらが降りしきっていました。 


《書物の魂 或いは雲》2003〜2013   ほぐされた栞紐

読み終えた書物の背から伸びるしおりの紐、あたかも書物のうしろ髪のようなそれを指先で丹念にほぐし続けていると、 長い長い時間の後、〈雲〉になります。あと少しこすれば宙に消えてしまうでしょう。雲は私にとって物であり物でなく、存在すると同時に存在しません。慈雨や雪としての言葉の粒子を、この世界に与えて消えてゆきます。 


《言葉の粒子》2010〜2013   素描4点と穿孔された素描8点による 

私は言葉を人が作ったものだと思えないのです。人がうまれる前からあるもの、さらに言えば人類が行ったことのない場所、たとえば宇宙の果てにもそれはあると思えます。 また言葉は、かぎりなく小さな、半分透きとおった〈粒〉に思えてなりません。 私たちはその組みあわせや作用をほんの一部だけしか知りません。


《残像/氷》2010〜2013   彫刻されたけしごむ170点 

子供の頃から迫ってくるこちら側とあちら側のこと、在/非在の両側からいつもひっぱられている感じ、その狭間に居られたら、境界線の厚みを消せたら、とこいねがう気持ち。言葉を消すことで自らも消滅してゆくけしごむに共鳴しつつ、見えない場所を夢見ることがあります。


《残像/日光写真Ⅱ》2010〜2012   刺繍された少女漫画に穿孔 

この世界はほんとうにまだあるのでしょうか、ほんとうは終わっていて、私たちはただ残像を見ているだけなのかもしれない、あの日以来、そんな錯覚に幾度おそわれたことでしょう。 たしかめるように紙を拾い、鉛筆を握り、針に糸を通しています。 《ランボーの手紙 #00》2013   穿孔された文庫本の頁 空を仰ぐと、彼らは光と言葉の粒子となり、太陽に溶け、霧散し、〈うた〉となり、此岸と彼岸を行き来していました。 


追記 

書物と言葉の関係は、肉体から声がうまれることそのものにも見えます。肉が声の片鱗であること、森羅万象が言葉であること、目の前のハサミが、ハムが、〈うた〉であること。私にとって、物質の根幹を突き詰めていく美術とは、言葉に到達する行為なのです。

※《ランボーの手紙 #00》は、光にかざして変容を見ていただく作品です。よろしければお声かけください。  


2013年