雲のしらせ   

福田尚代個展 山のあなたの雲と幽霊  

配布テキストより


そのときだ。あっというまにわたしは消えた。飛び散った。やっぱりそうなのだ。今度こそ、はっきりとわかった。みんな言葉だった。わたしも言葉だったのだ。ほら、数えきれない光に吸いこまれてゆく。水しぶき、水蒸気、氷の山、いちめんのまっしろな雪のまぼろし。何も見えない。なんてすずしいの。どんどん霧が濃くなってくる。わたしはだんだん小さくなってゆく。もう一度、ページをめくるあなたの目のなかへ染み込んでゆく。

 

 

山のあなたの雲と幽霊

2015年から続く《袖の涙》シリーズは、古くから和歌に詠まれてきたような、涙が沁み込み、ときに朽ちてゆく〈袖〉という媒体への共鳴から生まれました。

拡張した身体であり、此岸と彼岸の境界でもある袖に触れつづける行為は、死者と遺された者との関わりに知覚をはたらかせる時間であったとも思われます。

新作では、幽霊という領域に一歩踏み込みました。衣類の袖を綿状にほぐすなかで、袖の涙から雲へ、雲から幽霊へと、修辞上の飛躍を彫刻的な手法で一息に体感することとなり、身体感覚に潜む無意識のゆくえに驚いています。

日々の生活では幽霊を信じていないにもかかわらず、制作に没頭する別の空間では圧倒的に存在してしまう、そんな美術の術についても、あらためて考えさせられます。

展覧会タイトルにも含まれる〈山のあなた〉は、カール・ブッセの詩から引いています。幼い頃、この言葉を誤読したことにより〈彼方〉と〈貴方〉が混ざりあい、山のように遠く巨大でありながらも実体のつかめない、謎めいた存在と出逢ったのです。言葉の不思議さを味わわせてくれたこの響きには、あなたとわたしとなにものかが互いに乗り移り、遠大と極小が入れ子となった幽谷が見えないでしょうか。

同シリーズには、袖に見立てたハンカチにオイルパステルを塗り込めた《袖の涙、あるいは塵をふりつもらせるための場所》、古いハンカチを用いて小さな袖を縫う《袖の涙》等があり、「Reflection:返礼—榎倉康二へ」展(2015年)にて、展示されました。

 


小豆(アズキ)と幽霊

子供の頃、「あーぶくたった煮えたった」と歌いながら、鍋に見立てた子の周りをグルグルと回る遊戯があった。鍋が煮えたら、みんなで戸棚に隠す真似をする。鍋の子は、「トントントン」と扉をたたく口真似をする。「何の音? 」と訊いて「おばけの音! 」と返事が返ってきたら、一斉に叫んで逃げるという遊びだった。

ところで、あの鍋には、いったい何が入っていたのだろう? わたしは長いあいだ、ずっとお萩を作る小豆だと思っていた。

「豆を煮る際、前日の夜から水に浸しておくこと」。いまや、料理の本にも、こんなふうにさらりと書かれているだけだが、本来、豆を水に浸す過程は、豆のなかに棲む小さな人々のための儀式だったのではないか。料理人は、水に浸すことで、小さな人々に翌日の行為を予告して、居を移す時間を用意してきたのだ。真夜中に台所を覗けば、水底の豆のなかから出てゆく、極小の行列を目撃することができるだろう。豆のなかの人々の不幸が、いかに大きな災いを招くことになるのか熟知していた昔の人々は、その回避方法を、代々受け継がれる料理の本に記すことによって、ひそかに伝えてきたのであった。

ただし、いつの時代にも、小豆の項目には、前夜から水に浸す旨はけっして記されることがない。ゆえに古くから、小豆を煮て戸棚にしまっておくと、トントントンという音とともに「おばけ」が出現するのである。

 

 

蚕豆(ソラマメ)と虚構

ソラマメが話をするたびに、たとえそれが本人にとってかけがえのない言葉であっても、なぜかことごとく周囲から嘘と見做され、人々の怒りを買い、しまいには、ソラマメの口は黒い糸で縫われてしまう。ソラマメの皮の黒い部分は、針と糸で綴じられた口であった。

幼い頃は、そんな伝聞に怯えつつ、皿の上のひと粒の豆を見つめていた。わたしにとってソラマメは恐怖と畏怖の象徴であり、また、ひそかな憧れの対象でもあった。それほどの仕打ちを受ける嘘とは、いったいどれほどすばらしい嘘なのだろう!

古代ギリシアでは、ソラマメを食すと、死者の魂が乗り移ると言われていた。ピタゴラスの最期には、ソラマメが大きく関与していたと聞く。

 

 

毛布の底の豆粒

山のようにかさねた敷布団のいちばん下に、たったひと粒の豆が忍んでいるだけで、背中に違和感を覚えて眠れない、そんなお姫様のお話を幼少期に読んだことがあった。お姫様ばかりではないだろう。世界はひと粒の豆でみちていて、子供たちが小さな居心地の悪さを覚えるたびに、その違和感から思いがけない遊戯が生まれてゆく。戸棚のなかに百枚の着物があると夢想した、ひとりぼっちの少女の物語をふいに思いだす。

わたしはハンカチを豆で染めた。アズキの幽霊とソラマメの虚構を、交互に一枚ずつかさねてゆく。何か小さなもの、たとえばお菓子のなかのフェーヴ人形、妖精の軟膏のふた、ライフセーバー・キャンディー、大人にならないエンドウ豆の丸薬。あるいは、袖口の貝ボタンでもいい。ひとつだけ、毛布に見立てたハンカチに潜らせてみる。きっと眠れない。くり返し真夜中に目を覚ます。そのたびに幽霊に出逢い、あたらしい嘘を思いつくだろう。


2018年 福田尚代



作品一覧


《氷山》

2018年 ほぐされた衣類の袖、軟膏のふた


《Dear Fairy & Fiction:Life Saver》

2018年 ハンカチに刺繍、毛糸の編物


《山のあなたの雲と幽霊》

2018年 ほぐされた衣類の袖


《精霊》

2018年 編み棒に彫刻


《100枚の毛布》

2018年 アズキとソラマメで染めたハンカチ、貝ボタン


《世界をつなぎとめる糸》

2018年 脱色されたハンカチに刺繍


《わたしたち、言葉になって帰ってくる》

2018年 コラージュ